ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

椿山荘の石

2011-10-29 | Weblog
 東京の椿山荘(ちんざんそう)庭園に若冲の五百羅漢石像が十九体、いまもあります。なぜ江戸・東京に若冲下絵の像があるのか。このことは当ブログで書いたことがあります。「若冲五百羅漢№6」2008年12月14日<若冲連載25>
 結論をいえば、若冲五百羅漢で知られ、彼の墓がある伏見深草の石峰寺から流出した一部です。明治初期、国内の多数の寺は廃仏毀釈の大混乱のなか、たくさんの寺宝を手放したのです。若冲が晩年、精魂をつくした石峰寺も同様でした。寺の収入が絶え、上知令で寺所有地も大半が新政府に没収されてしまいました。
 石峰寺観音堂は解体され、格天井を飾ったたくさんの若冲画、そして千個をこえた石造物も過半が流出してしまったのです。現在では想像するのが困難ですが、それほど日本国中の寺を襲った廃仏毀釈の嵐はすさまじかったのです。

 石峰寺から出た若冲羅漢は明治期にその一部、十九体が藤田財閥の藤田伝三郎に渡ります。彼はまず大阪網島の屋敷庭に据えました。そして後に東京の藤田邸、椿山荘に移る。
 伝三郎の長子、藤田平太郎の妻・富子はつぎのように記しています。椿山荘には一休禅師建立という開山堂があったが、「堂のまはりは熊笹の丘で、石の羅漢佛十数体を點點と配置してある。この石の石佛は若冲の下畫と稱し、古くより大阪網島の庭園にあったのを移したのである」。富子が結婚したのは明治34年である。それよりだいぶ前から網島にあったのであろう。
 深草石峰寺を出た羅漢たちは、大阪網島を経由して東京椿山荘に安住の地をみつけたのです。若冲は未来にまさか江戸に羅漢たちが移住するとは、おそらく考えもしなかったことでしょう。ちなみに広大な椿山荘は、山縣有朋が藤田に譲った自慢の屋敷庭園です。

 京都新聞10月26日朝刊が椿山荘のことを伝えました。特集記事は車石・車道(くるまいし・くるまみち)の紹介ですが、椿山荘に鎮座する大石鉢のことも記しています。石造大水鉢「量救水」(りょうぐすい)です。この鉢はもともと旧東海道、日ノ岡峠にあったのです。旧街道の車石車道のすぐ脇、峠の南面です。
 この石鉢は、東山から湧き出るささやかな水を溜めるための水鉢だったのです。直径99センチ、高さ56センチ。かなりの重さでしょうね。そして大鉢を日ノ岡に据えたのは、木食正禅上人でした。それがいつのころからか、椿山荘の庭に四個の車石とともに並んで置かれているのです。
 かつて大津港から三条大橋まで、荷牛車通行のため旧東海道には車石がわだち幅で敷き詰められていました。距離は約12キロ、全路敷設完成は1805年。車石の総数は6万個ともいいます。しかし鉄道の開通のため車道は不用となり、明治期に車石は道路から撤去されてしまいました。
 新聞記事によると、木食上人は1736年に難所だった旧東海道、三条大橋の東方、都ホテルに近い日ノ岡峠の改修に取り組んだ。また峠にあった不衛生な井戸を改良し、快適に使えるように設置した水鉢と伝わる。上部に木食正禅の刻字がある。東京に移った係累は明らかでないが、現在の藤田観光が所有する椿山荘(東京都文京区)の庭園に、旧東海道に敷かれた車石4個とともに保存されている。
 京都の「車石・車道研究会」の調査によると、大石鉢の内側には28文字の梵字が彫られていることが判明した。研究会は「水鉢の内側に梵字を施すのは珍しく、街道関連の史跡としてさらに研究したい」
 久保孝同会副会長は「旅人が手を洗い、のどを潤した時、水面に梵字を見て真言を唱えたのであろう。今後の調査で木食上人の信仰の在り方や井戸水の浄化に苦慮したことが明らかになりそうだ」
 なおこの真言は、光明真言、正確には不空大潅頂真言だそうです。大日如来や阿弥陀如来などの五智如来に光明の放ちを祈る真言。潅頂と光に感じるものが何かある気がします。それと光明真言は全24梵字ともいいます。少し気になる字数です。

 明治上半期、廃仏毀釈の嵐のなか、寺からはたくさんの仏像、美術品や石造物などが流失しました。東京だけではありません。海外にも舶来ならず舶行しました。
 それにしても椿山荘に、このようにさまざまな石造物が集まるとは驚きです。藤田伝三郎の嗜好が選ばせたのでしょうか。こんど東京に行けば、椿山荘の庭園を散策してみよう。何か新しい発見が待っている予感がします。
<2011年10月29日 南浦>
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宝島社、マッカーサー写真の謎 5

2011-10-24 | Weblog
 マッカーサーが座右の銘として額に入れ、どこに任地が移ろうが常に持ち歩いた詩がある。デスクに置いたり、また執務室の壁にもかけた。タイトル邦訳「老いについてーマッカーサーの座右の銘―」、袖井林二郎訳を紹介します。
 <人はただ年を重ねるだけで老いていくのではない。人は理想を捨てたとき老いるのだ。歳月は肌にしわを生むが、関心を失うと魂にしわがよる。苦悩、疑惑、自己不信、恐怖、絶望……こうしたものが長い年月のように人に頭を垂れさせ、伸びる魂を塵に変えるのだ。
 何歳になろうと、生きとし生けるもののすべての心には、好奇心への愛と、出来事に対するたゆまぬ挑戦と、「次は何か」と、喜びと人生のゲームとを求めてやまぬ子供のような欲望がひそんでいる。
 信念はその人の若さであり、疑惑は老いである。自信は若さであり、恐怖は老いである。希望は若さであり、絶望は老いである。人の心の只中には録音室があり、それが美と希望と喜びと勇気のメッセージを受信できる限り、人は若いのだ。アンテナが垂れ下がり、心が悲観主義の雪と皮肉の氷におおわれる、そのとき、はじめて、人は老いるのである。>

 マッカーサー記念館で「ゴールデン・エイジ」と題をつけ、マッカーサー自身の言葉として頒布している。袖井氏は記念館で手に入れたものを邦訳された。
 この文は、サムエル・ウルマン(1840~1924)の詩「Youth」“青春”からとっている。決してマッカーサー自身の言葉などではない。また題はユースであって、ゴールデン・エイジではない。

 詩「Youth」は1918年、ウルマン78歳のときに書かれた。この詩とウルマンのことは彼の死後、ほとんど忘れ去られていた。新井満氏は「消えかかっていたウルマンに再び光を当てたのは、意外な人物であった。マッカーサー将軍である」
 彼は詩「Youth」を日米開戦の年に、ジョン・W・ルイスから贈られた。それを気に入ったマッカーサーは額に入れ、デスクの上にいつも置いていた。1945年の終戦の少し前、従軍記者のフレデリック・パーマー大佐がマニラの米国極東軍総司令部を訪ねたとき、マックのデスクには3個の額が置かれていた。ひとつはワシントン大統領のポートレイト、もうひとつはリンカーン大統領のポートレイト。そして三つ目が詩「Youth」であった。
 ところでルイスがマッカーサーに贈った詩「Youth」は、ウルマンの原詩であったのか、あるいはルイスかだれかが改作した詩であったのか。不明である。しかしその後、マッカーサーと記念館などが書きかえたであろうとは思うが。
 英語版「リーダーズ・ダイジェスト」がパーマーの見たエピソードを伝えた。1945年12月号である。そしてマッカーサー愛読の詩「Youth」全文を紹介した。東京のGHQでも、マックは部屋の壁に額を掲げ、日々愛誦していたという。

 「リーダーズ・ダイジェスト」をみた羊毛業界の重鎮、岡田義夫が掲載詩を翻訳し、デスクの前の壁に貼っていた。それを友人の森平三郎が気に入り、おそらく1946年に写しとった。そして郷里の桐生の新聞で詩を紹介したところ、大反響をよび日本国中にひろまった。1958年のことである。詩を写してから12年もたっていた。なお森は山形大学学長で羽仁五郎の実弟である。
 岡田義夫訳「青春」は、特に財界人から絶賛された。電力王の松永安左エ門、松下幸之助、伊藤忠兵衛、石田達郎(フジサンケイ)、石田退三(トヨタ)など。
 1985年には「青春の会」が発足した。中心メンバーは旧制静岡高校の同窓生で、中曽根康弘、野間省一(講談社)、小山五郎(三井銀行)、持田信夫(持田製薬)、古屋徳兵衛(松屋)、宮澤次郎(トッパン・ムーア)などである。

 詩「青春」新訳を2005年に出版された新井満氏はつぎのように記している。
 「私はあることに気がついた。それはウルマンが書いた『Youth』とマッカーサーが愛誦した『Youth』とは、似て非なるものであったということである。これには驚いた。心底から驚いた。」
 改変、それは作家がもっとも嫌う。「ところが不幸なことにそれが、ウルマンの詩に起こってしまった。おそらく長い年月の間に『Youth』は、多くの人々によって手が加えられたのであろう。その人々による改変が、悪意ではなく善意から行われたと信じたい。『Youth』を読んで心を打たれた人々が、この詩をもっと感動的なものにしたいという思いから、次々に改変を重ねたのであろう。」
 「それにしても『Youth』とは、なんと運命的な詩だろう。改変されたものが、よりによってマッカーサーの手に渡ってしまったのだから。その結果、二つの『Youth』が共存し流布することになった。/一つは、ウルマンのオリジナル版/もう一つは、マッカーサーの愛誦版」

 ウルマン版全文は新井満自由訳『青春とは』をご覧ください。英文原詩も載っています。岡田義夫訳「青春」とマッカーサー版英文はネットでみることができます。
 ところで厚木に降り立つマッカーサーの写真も、改変されています。なぜでしょうか?

○参考書
『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』袖井林二郎共著 昭和57年 日本放送出版協会刊
『青春とは』新井満著 2005年 講談社
<2011年10月24日>
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犬も猫も、やっぱり家族 <ワンコの物語6話>

2011-10-21 | Weblog
 ずいぶん前に、「犬も猫も、やっぱり家族」と題して京都新聞に寄稿したことがあります。1999年3月9日号です。当時、愛犬チョコと暮らしていましたが、副題「共生できる社会をーー処分される膨大な命を救おう」。「提言 オピニオン解説」シリーズ欄に寄せた文章です。再録します。

 人間と、犬とのつきあいは古い。数万年前、洞窟や岩陰を住居として移動生活をおくっていた当時のひとたちは毎夜、猛獣の脅威におびえ、不安な日々を過ごしていた。そんな彼らに安らかな睡眠を与えてくれたのが、犬である。深夜、熟睡していても犬が外敵を察知してほえ、起こしてくれる。安眠の確保のために犬の家畜化は始まったのであろう。
 まず番犬となった犬はその後、猟犬として豊かな食生活をひとにもたらす。2100年ほど前には、盲導犬も誕生している。
 犬はさまざまな分野で活躍する。軍用犬、警察犬、荷役犬、そり犬、牧羊犬、水中作業犬、レース犬、闘犬、聴導犬、麻薬捜査犬、遭難救助犬、災害救助犬、介護犬…。
 ちかごろ注目されている療法に、アニマルセラピーがある。犬や猫などを介在に、老人ホームや小児病院、精神科病棟などでの治癒にいかすというあたらしい試みである。横浜の特別養護老人ホーム「さくら苑」では、犬を飼ったところ当初四割いた寝たきりの老人がゼロになった。犬や猫を飼うひとは、概して健康で長寿である。
 なぜこのように大きな成果を犬や猫がもたらすのか?
 原因のひとつは、リラックス効果だと思われる。ヒトとイヌの最初の出会いで触れたように、われわれの祖先は犬を得ることによって、はじめて安眠や安らぎを手にした。現代社会では無用のストレスが増え、こころの触れ合いが不足する。孤独な人間に愛情や安らぎを思い出させるのが、犬や猫などの家庭動物たちである。
 しかし、こころない飼い主も多い。保険所に持ち込まれ処分される犬猫たちは膨大な数にのぼる。西京区老ノ坂にある京都府動物管理センターで話を聞いた。府内の保険所に収容された犬猫(京都市を除く)は、最後にはこのセンターに集結し処分される。1997年度、犬二千六百匹、猫八千六百匹ほどが、二酸化炭素で安楽死処分され、直後に焼却されている。
 当時の所長、井上羲章氏は「猫は生まれたばかりの乳飲み子が九割ほど。飼い主の安易な意識に反省を求めます。外飼いをするなら避妊や去勢も必要。自由繁殖に注意し、飼い主は責任と愛情をつねに考えてほしい」。犬も同様で、「引っ越しで飼えなくなったから処分してくれ」「ハスキー犬がこんなに大きくなってしまい、力が強すぎて困っている」「病気で助かりそうもないから引きとってくれ」など、身勝手な主人が多すぎる。
 府内にはもう1カ所、南区上鳥羽に京都市家庭動物相談所がある。京都市内の保険所に収容された犬猫を、ここでは年間に犬九百匹、猫五千匹以上を殺処分している。ふたつの施設で年間に犬と猫、合わせて二万匹近くのいのちが奪われている。反面、両施設では子犬のあっせんも行っている。利用を望む。
 犬猫の去勢や避妊に対する抵抗感はあろう。生殖機能を奪うことについて、特に日本人の反発心は独特のものがある。しかし、生まれる子どもの生命に責任が持てないのであれば、手術は受けるべきだ。
 府内では京都市民にのみ、手術補助金を受ける制度がある。他の市町村にも同制度の制定を期待するが、何よりも大切なことは、家庭動物と人との共生を当然のこととしたうえでの、社会ルールの確立ではなかろうか。

 ずい分生意気な文章を書いたものです。殺処分数の全国統計データをネットで調べてみたので記します。
 <1997年度> 犬36万匹、猫29万匹。計65万匹。ただ京都府市データは上記の通り、猫が犬の4倍ほどです。府市センターには当時、直接問い合わせましたので正確であろうと思っています。この全国の数字がどれくらいの確度であるのか、いつか確認したいと思っています。
 <2009年度> 犬6万6千匹、猫17万3千匹。計239,256匹。やはり猫が犬の3倍に近い。合計数は12年間で40万匹ほど減ったわけですが、24万匹はたいへんな数です。人間でいえばほぼ同じ人口の市は、広島県呉市、大阪府寝屋川市、佐賀県佐賀市、青森県八戸市、埼玉県春日部市など。このような市の人間全員の生命が消えてしまうのと同じなのです。
<2011年10月21日 南浦邦仁>

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宝島社、マッカーサー写真の謎 4

2011-10-17 | Weblog
 GHQ最高司令官のマッカーサーを支えた幕僚は数多いが、なかでもふたりの将軍が特筆されます。日本の民主改革を推進したニューディール政策派、民政局GSのホイットニー准将。もうひとりは参謀第2部G2、反共のウィロビー少将です。
 ウィロビーとマッカーサーが行動をともにした期間は実に長い。太平洋戦争のはじまる1941年に、ウィロビーはマッカーサー将軍の情報参謀として配属されました。その後、マックの「I shall return.」の言葉とともにオーストラリアに脱出し、激しい反撃でついにフィリピン奪還。1945年8月30日、バターン号で厚木に到着しました。そしてGHQでは剛腕を恐れられ、朝鮮戦争にいたるまでの10年間、ふたりは常に行動をともにしました。
『ウィロビー回顧録』から、厚木飛行場に到着したときの模様を追ってみます。

 正式な降伏の日、9月2日が近づくにつれて、占領軍の先遣隊を輸送するためすべての空輸機関が沖縄に集められた。
 マッカーサーは自ら敵地に乗り込むことに決定した。それは大きな、だが計算された軍事上のバクチだった。米軍は相手側が何千人というのに、こちら側は一人という、つまり千対一の劣勢で敵地に進駐しようとしていたものである。相手は多数の兵士がまだ完全武装で待ち構える“敵国”であり、関東平野には日本軍二十二個師団、三十万人以上の優秀な戦闘部隊がいる。そのただなかにマッカーサーは丸腰で、しかもひと握りの部下以外にはろくな護衛もなしに飛び込もうというのである。
 米軍が実際に到着する前の数日間、日本軍の間では降伏に反対する勢力と、賛成する勢力との間に、武力衝突が何回か起きていた。東京に司令部を置く近衛師団の兵士たちが皇居を占拠し、これを孤立せしめて、天皇の降伏詔書が放送されるのを妨害しようとしたのである。暴動は未遂に終わり、幾人かの反乱参加者たちは自殺したが、それでも首相官邸および枢密院議長の公邸は襲撃されてしまった。
 マッカーサーの乗るバターン号の着陸地である厚木飛行場もまた、五日間というもの無秩序状態に置かれていた。その間、カミカゼ飛行士たちは天皇の重臣たちを非難するチラシを東京中にばらまいた。隊員や住民たちは、戦争に負けたことは仕方ないにしても、米軍を迎える準備に励むとは何事かという気持ちだったらしい。反乱集団が鎮圧され、すべてが平穏になったかにみえたのは、米先遣隊が厚木に到着するわずか二日前だったのである。
 米軍の第一陣が厚木に到着したのは八月二十八日だったが、実際には八月二十五日から偵察機を飛ばしていた。この第一陣の先遣隊長テンチ大佐に、マッカーサーは「日本人とのトラブルは極力避けるように」と命令してあった。
 その日、八月二十八日――まもなく第一八空輸部隊が送り込むであろう大変な数の四発輸送機の到着準備のため、まず通信係と技師たちの小規模な分遣隊が飛行場に降り立った。次いでガソリンおよび重油を積んだ三十八機の輸送機が着陸した。
 そしていよいよ本格的空輸作戦が開始された。作戦は八月三十日の夜明けとともに一日中続けられた。米機は三分おきに沖縄を飛び立って厚木に向かい、暗くなるまでに四千二百名の兵士を厚木に吐き出した。アイケルバーガー将軍も現場の直接指揮を執り、マッカーサー司令官の到着を準備するため、この日の早朝、敵地・厚木に飛んだ。結局、三十日には第一〇空挺師団長スウィング少将、アイケルバーガー中将、最後にマッカーサー元帥の順で日本の地を踏んだのである。
 八月三十日早朝、マッカーサーは厚木に向かってマニラを出発した(注:正確には8月28日にマニラを出発し、29日は沖縄に一泊。30日朝に沖縄を出発した)。……
 午後二時、鼻面に「バターン」と書かれた、あの有名なマッカーサー専用機が厚木上空に姿を現し、旋回を始めた。富士山が見えた。鎌倉の青銅の大仏が見えた。富士は美しかった。とりわけ戦勝側の最高司令官として敵地に乗り込むマッカーサーの目には、眼下の富士は征服された日本を象徴しているかのように映ったであろう。……
 マッカーサーがバターン号のドアから姿を現すと、第一一空輸部隊の軍楽隊が勇壮な音楽を奏で始めた。襟の開いたシャツを着て、トウモロコシの穂軸で作った例のコーン・パイプをふかしながら、ゆっくりと地上に降り立った。迎えのアイケルバーガー中将が近寄ると、マッカーサーは微笑を浮かべていった。
 「メルボルンから東京までは長い長い道程だったが、これでどうやら旅も終わりらしい。ボブ、これがクライマックスさ」
 マッカーサーの乗った飛行機が厚木に到着したとき、全世界は息をこらしていた。だが、マッカーサーは東洋を完全に理解していた。四十年にわたる外地勤務のせいで、彼は極東の事情に通じていたのである。しかも特筆すべきは、彼が統治することになったこの日本について、詳しかったのである。……
 のちにイギリス首相チャーチルは、オードリッチ駐英大使に、こう語っている。
 「戦時中におけるすべての驚嘆に値する行為のうちでも、私はマッカーサーの厚木到着を最高のものだと思っている」

○参考書 C.A.ウィロビー著『GHQ知られざる諜報戦――新版 ウィロビー回顧録』2011年 山川出版社 ※この本に掲載された写真をみても、厚木に到着したバターン号の向こうには兵舎あるいは格納庫が並び、宝島社広告のような広漠とした草原はありません。
<2011年1月17日>
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放射能リテラシー 2

2011-10-15 | Weblog
 このブログで前に「京五山送り火と放射能リテラシー」(8月16日付)を記したことがあります。陸前高田市の名勝、2キロにわたって続く高田松原。江戸時代にすでに7万本もの松が植えられたそうです。ほとんどが津波でなぎ倒され、奇跡の松1本だけが残っている。復興のシンボルになったその木は、「希望の1本松」「ど根性松」ともよばれています。このブログタイトル、右上の1本も「ど根性松」を意識して選びました。

 京都に届いた高田の松について、まず京都新聞10月1日付けの記事解説から引用します。
 解説タイトル「五山送り火の被災マツ使用問題」。若干書き直していますが、解説文は以下の通りです。
 <左京区の大文字保存会が高田松原の被災マツを燃やそうとしたところ、放射能汚染を心配する声に配慮し、放射能を検出しなかったが中止した。「風評被害を助長する」と全国から批判が殺到。薪はすべて陸前高田市に送り返していたが、市はあらたに別の薪を取り寄せ、五山で燃やす計画を立てた。しかし今度は放射性セシウムが検出され断念した。二転三転した対応に批判が高まった。>

 しかし1回目の辞退に関しては、陸前高田市で活躍する県外のボランティアが、京都の保存会や市役所に意向も確認せずに、勝手一方的に計画を進めたためにこのようなトラブルを招いたという声もある。京では送り火の数ヶ月前から、古来から決められた山の松を準備し、天日で乾燥させる。毎年の決まりである。突然に水分を含んだ木をつかってくれ、といわれても戸惑うばかりだったともいう。マスコミはそのあたりの事情を一切、残念だが伝えない。送り火行事は、仕来り踏襲主義だから数百年も続く伝統たり得るという京都市民の意見もあります。

 京都新聞同日の本文記事では、長い見出しがついています。「五山送り火使用断念 被災マツ処分 暗礁」、「文科省『管轄外』、焼却も住民理解が」そして「西京で保管『風評被害が心配』」
 <京都市は薪500本のその後の処分方法を探っているが、文科省からは管轄外と見放され、引き取りを打診した東京都の民間研究機関からも拒否された。市施設での焼却や埋め立てにも環境省の基準がないため見送り、1ヶ月以上も西京区老ノ坂の市倉庫に保管されたままになっている。
 市は京都大原子炉実験所(大阪府熊取町)に相談したが、副所長の高橋千太郎教授(放射線管理)は「科学的には燃やしても安全だが、送り火で使用を断念した薪を基準がないまま処分すれば、住民の安心は得られない。国や自治体の動きを見て議論すべき」と慎重な姿勢だ。
 保管地の西京区選出の府市議5人は市に早期処分を要求。市議のひとりは「住民から風評被害を心配する声も寄せられている」。倉庫が市境の近くにある亀岡市からも安全性の問い合わせがあった。
 市文化市民局は「薪はビニール袋とシートをかけて保管しており、放射線量は自然界と同じ数値であることを確認している。早急に安全な方法で処分したい」と説明するが、処分方法は見つからず頭を抱えている。>以上が京都新聞記事抄です。

 保管されている薪は護摩木です。亡くした家族や縁者への鎮魂の思いが記され、また復興の願いが刻むがごとく書き込まれているのです。ただし地元に逆送された第1次の薪の字を写真に撮り、京都市民がそれを代筆で書き改めた第2次薪ですが。
 送り火問題発生時から安斎育郎先生(放射線防護学)は「木に触っても、燃やして拡散した灰を吸い込んだりしても、影響は計算する気にもならないほど低レベル。京都市は風評被害を広めないよう、健康に問題がないレベルであることを、正しく情報発信するべきだ」読売新聞8月13日付け。
 京都大の高橋教授も上記の通り「科学的には燃やしても大丈夫」。それなら積極的に燃やすことをすすめられるべきだと思います。あるいは大至急で、文科省なり環境省に働きかけ、処分方法の基準を作成すべきではないでしょうか。

 高レベル放射線汚染物質についてはどうでしょう。高橋教授と同じ熊取原子炉実験所の小出裕章助教は「福島原発の敷地に持ち込むことは必要。核の墓場にしたらいいのです。適切な処置を東電の金でやらせ、倒産するまですべての力を出し尽くさせるべきなのです」。毎日放送ラジオ「たね蒔きジャーナル」10月10日。

 門外漢のわたしなど、核や放射能をさっぱり理解できません。同類の方は多いのではないでしょうか。やはり安斎先生が提唱されている「放射能リテラシー」をどのように広め高めるか、信頼できる専門家たちの行動を応援することから門外漢ははじめるべきではないか。取りあえずのわたしなりの結論です。
<2011年10月15日>

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流行犬あれこれ 後編 <ワンコの物語 5話>

2011-10-12 | Weblog
 「名犬ラッシ―」を覚えておられる方は多いと思います。原作小説は1940年、イギリス人作家のエリック・ナイトが書いたものです。父親の失業のため売り飛ばされたラッシーは、1600キロほどの道のりを歩いて元の飼い主、ジョー少年のもとに帰ってきます。まるで宇宙のハヤブサの犬版のようですね。なおハヤブサのことはこのブログで「宇宙の虎の子」と題して記したことがあります。虎の子はハヤブサの幼名です。
 この小説は「家路」や「名犬ラッシ―」と題して映画化されました。またアメリカ製テレビドラマは延々17年間も続く、大人気シリーズになりました。
 ドラマの影響で、日本人の子どもたちはコリーにあこがれました。しかし純血コリーなど高嶺の花。テレビをみながら子どもたちは、わが家の駄犬とラッシ―を見比べたものです。愛犬にいとおしさを感じながらも、賢さに天地ほどの差のある名犬にほれぼれしました。
なおジャーマン・シェパードもあこがれの的でしたが、TVドラマ「名犬リンチンチン」の影響です。子どもたちはすぐに動物に感情移入するようです。

 「名犬ラッシ―」は、70年ほど前にナイトが書いたフィクションですが、ヒントになった実話があります。1924年のこと、アメリカで3300キロもの距離を半月がかりで歩いて家まで帰ったコリー犬「ボビー」が出現しました。自動車旅行の途中で、飼い主と離れ離れになった後、大陸の3分の2を歩いて帰ったのです。犬の帰家本能はよく知られていますが、これだけの距離は記録にありません。愛犬ココはまだ帰って来ませんが、第2のボビーになることでしょう、きっと。
 ボビーは一躍、アメリカの大スターになりました。彼をモデルに小説『名犬ラッシ―』が誕生し、MGM映画「帰郷――ラッシ―故郷に帰る」が大ヒットすることになります。そして世界中の子どもたちを釘づけにしたテレビ映画「名犬ラッシ―」へとつながって行きました。映画「帰郷」にはエリザベス・テーラーが子役で出演しています。
 この映画とテレビで、コリーは最も頭のいい犬という評価を世界的に得ました。しかし広大な土地で犬を飼えるアメリカと違って、日本では大型で毛の長い牧羊犬のコリーは飼育が困難です。コリーに姿はよく似ていますが、小型のシェルティが代用犬としてブームになりました。残念ながら、最近はあまり見かけませんが。

 ハスキーもそうですが、日本の風土にはなじみにくい犬種があります。放し飼いの可能な田舎は別ですけれど、まず運動量が不足します。シベリアン・ハスキーが一時ブームになったきっかけは、佐々木倫子作のマンガ『動物のお医者さん』(白泉社)、そしてきたやま・ようこ作『ゆうたくんちのいばりいぬ』あかね書房。コリー同様、本や映画、テレビから大流行犬が誕生します。チワワはTVコマーシャルからでした。
 本来ハスキーはシベリアでソリをひく作業犬です。かつてある週刊誌で「ハスキーは馬鹿だ」と書かれ、愛好家のひんしゅくを買ったことがあります。集団行動をとるハスキーにはリーダー、飼い家では家長の強い統率力が不可欠です。また広大な雪の原野を走りぬくように改良された犬種です。現地ではオオカミと交配して、能力の維持向上に努めているくらいです。生半可なペット好きが飼える犬ではない。近ごろ、見かけることも少なくなってしまいました。残念です。

 さて日本初の純血種のペット犬は、小型の狆(ちん)です。天平4年(732)、大仏建立で有名な聖武天皇に新羅(しらぎ)からこの犬が献上されました。室町時代には将軍足利義満も愛好した高貴な犬です。江戸時代の大奥では女性たちにもてはやされ、犬公方の徳川綱吉は狆の病気を治した町医者の林宗久に禄を与えています。幕末に来日したドイツ人医師シーボルトの記録では、豪商の妾宅で飼われています。明治時代も上流階級の婦人たちがお気に入りの「箱入り犬」でした。
 血統書のついた名犬は、戦後の高度経済成長期まで、ごく一部の富裕層のみが飼いました。庶民は自分たちが生きて行くので精一杯。せいぜい雑種の放し飼いか玄関番犬が関の山でした。しかしその後、大型犬のラブラドールやゴールデンレトリーバーが流行り、そして最近では小型犬が主流になったようです。わが家も同様、トイプードルでした。小型の室内犬は、マンションなどの集合住宅でも飼育が黙認されることが多いからでしょうか。

 ところで狆はスパニエル(ペキニーズ)とよばれる本来スペインの犬が、日本で定着したものです。シルクロードをこえて来たこの犬は、中国歴代皇帝の宮廷以外で飼うことが禁じられていました。門外不出の貴種だったのです。この貴重な犬は中国皇帝から外国の王にプレゼントとして、外交の道具として利用されたのです。新羅に贈られたペキニーズの子孫が、奈良時代に聖武天皇に戦略的意図も込めて贈られたのです。
 たかが犬などと軽くはいえません。宮廷では犬を虐待しようものなら、おそらく死刑でしょう。

○犬好きにおすすめの本 沼田陽一著『イヌはなぜ飼い主に似てしまうのか』1994年 PHP研究所
<2011年10月12日 南浦邦仁>
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流行犬あれこれ 前編 <ワンコの物語 4話>

2011-10-09 | Weblog
こま犬は適当な距離を置いてこそ収まりもしますが、近所の石材店では2匹が鼻付き合わせています。決して広くはない店の展示スペースの加減のためのようです。店入り口の両サイドでなく、店先の片側に鼻をくっつけて置いておられる。いまにも相手に噛みつきそうな勢いで、おおいに迫力がある。
 狛犬にも流行があります。古い時代、ライオンなどみたこともないころに造られたコマイヌは、自由に発想した獅子の姿を描いている。ところが戦後、個性に乏しい「こまやん」タイプとよばれる金太郎飴のごとき姿の連中が激増しました。

 わが家では、京都に移住してから2匹の犬を飼いました。二代目が問題の、失踪中のココ。初代がチョコ。このブログを書きはじめたのは4年前のチョコのお葬式の夜でした。15歳の誕生日の少し前です。そしてブログタイトルを本日変更したのは、ココ失踪のショックのためです。

 初代のチョコは中型犬で散歩が大好きでした。休日の朝夕にはいつも、近所の小畑川沿いをいっしょに歩くのが日課でした。自動車の走らない小道なので、いつもともに、伸び伸びと歩いたものです。
 半時間ほどかけてお決まりのコースを一周するのですが、毎日たくさんの犬たちとその飼い主にお会いする。「チョコちゃんのお父さんですか。いつもお世話になってます」とよく声をかけられました。愛犬の友人たち、友犬もほぼ覚えましたが、ほとんど全員が純血種です。チョコは雑種。新京極サカエの向いにあったペット屋さんで、貰い手もなくさびしそうに最後まで残っていた無料の子犬でした。しかし近所のどの犬よりも、敏捷で賢い。子煩悩の類いでしょうが、本当に賢い犬でした。ココも同様です。

 日本で純血種が庶民に注目され出したのは、昭和30年代以降のことでした。スピッツやコリー、そしてシェパードなどが子どもたちの憧れの的でした。なかでもスピッツは一時、大流行しました。庶民の生活に余裕がうまれたころ、ハーフやクォーターのスピッツが町や村のあちこちにいました。彼らはよく吠えた。番犬としてはたいへん優秀な犬でしょう。しかしうるさいなき声が嫌われ、スピッツは幻の名犬とまでいわれるほどに激減します。ところがずいぶん後になって、吠えないスピッツがつくられました。静かなスピッツとは少し悲しいですが、1万年以上もの長い年月をかけて、さまざまの犬を品種改良して来た人間のあくなき欲望や商売根性はすごい。
<2011年10月9日 続く>
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マッカーサーの厚木到着、宝島社 写真の謎 3

2011-10-04 | Weblog
1941年12月8日、日米英開戦とともに日本軍は破竹の進撃を開始した。そのときマッカーサーは、フィリピン駐在のアメリカ極東軍司令官であった。
 米極東軍は10万人にも満たない兵力であった。米国フィリピン軍は圧倒的多数の日本軍に押され続け、コレヒドール島バターン半島に籠城を余儀なくされる。米本土では、徹底抗戦のマッカーサーを希代の英雄として、たいへんな人気であった。しかしヨーロッパ戦線でも闘う米軍には、彼らを救援する余力がなかった。
 ルーズベルト大統領は、マッカーサーが戦死したり、日本軍の捕虜になることを恐れた。もしそうなれば、大統領は国民からたいへんな非難を浴び、また国民と全軍の士気も低下してしまうであろう。
 大統領はマッカーサーに命令を下した。「オーストラリアのメルボルンに脱出せよ」。将兵たちと踏みとどまる決意を交わしていたマッカーサーだが、命令には従わざるを得なかった。たくさんの将兵を残したまま、制海権を失った海を魚雷艇で脱出した。
 しかし彼は「わたしは必ず戻る」<I shall return.>と約束した。捕虜になる何万もの部下たち、そしてフィリピン国民への誓いであった。

 1944年10月23日、約束通りマッカーサーはフィリピンに帰って来た。レイテ湾に再度、戻って来た。大統領命令とはいえ、全軍を見捨てた敵前逃亡ともいえる屈辱の脱出から、3年近くがたっていた。
 上陸用舟艇を着地の直前に降り、幕僚たちとともに膝まで海水につかりながら、レイテの地に向かって堂々と踏みしめて歩く。そのときだれかがカメラマンに叫んだ。「下から撮れ!」。ローアングルで見上げるように将軍を写せという命令である。仰角から撮った人物写真は確かに、被写体に威厳を感じさせる。
 彼を高所から撮った写真は、東京湾に停泊する米戦艦ミズーリー号の艦上での降伏文書調印式だけのように思う。このとき、カメラマンには上方のデッキにしか撮影のための立ち位置がなかったはずだ。世界中が見守ったこの日、9月2日は第2次大戦が終結した「VJデー」。アメリカは「対日戦勝利の日」とよぶ。

 マッカーサーの写真について、工藤美代子氏の指摘が鋭い。ダイジェストで紹介します。
 厚木飛行場への無防備で大胆不敵ともいえる着陸。8月30日午後2時5分、タラップを降りるときに「マッカーサー伝説」ができあがった。
 伝説をつくるため、マッカーサー自身が周到に計算し準備した。彼は何をも恐れぬ勇敢な人間であり、そのうえ近寄りがたい存在であるという認識を、占領地の人々に植えつけなければならなかった。そのためには日本のみならず、世界中に自分の人物像を披露する必要があった。彼は連合国軍の総司令官である。
 厚木到着はマッカーサーにとって最高の舞台だった。これから先、占領軍の最高司令官として、自分がどのように振舞ったらよいか、その綿密な設計図はすでにしっかり頭のなかに描かれていた。
 彼が優秀な役者であることを示す証拠としては、天皇以外に、占領中の2000日ほどの間に、日本人と一緒に写した写真が一枚も残されていない事実があげられる。マッカーサーは意図的に、日本人とともに写真に撮られるのを避けた。アメリカ人、イギリス人、カナダ人、オーストラリア人などと撮った写真は数多く現存している。ところが日本人とは、あの吉田茂とさえ一緒に写した写真はない。
 これは何を意味しているのだろう。自分と同格で写真におさまることができるのは、日本人のなかでは天皇だけなのだという強烈なメッセージが含まれているのであろう。かつて日本人が天皇を直視するのを許されなかったように、マッカーサーもまた同じほどの高所に立って、肉体的に自分を日本国民から隔離させた。
 グレーの瞳を持つこの最高権力者、大君すなわちショーグンはまず占領の手始めの仕事として、自分のイメージを定着させる作業を開始したのだった。厚木のタラップから始まるその作業は、大成功をおさめ見事なほどのマッカーサー伝説が生み出されたのである。

○参考書:『マッカーサー伝説』工藤美代子著 恒文社 2001年刊
<2011年10月4日 わたしたちはそろそろマッカーサーの呪縛と決別すべきではないか? 南浦邦仁記>

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マッカーサーの厚木到着、宝島社 写真の謎 <第2話>

2011-10-01 | Weblog

 66年前の8月30日、マッカーサーが厚木海軍飛行場に降り立った。このときの写真や映像は数多い。しかしなぜか1枚だけが合成写真である。9月2日に宝島社が新聞掲載した見開き2ページの写真である。
 わたしが調べた範囲だが、これのみが史実とは異なるモンタージュである。なぜ? ほかには見当たらない。
 今回は、マッカーサーの日本占領開始を追ってみましょう。

 1945年8月28日朝。武装した先遣隊が厚木飛行場に到着した。アイケルバーガー中将指揮下、第8軍の146名である。彼らが日本を占領した最初の部隊である。
 指揮官チャールズ・テンチ大佐の1号機がまず8時28分に着陸する。そして双発の小型輸送機C46とC47、合計16機が相次いで着陸した。小型機をまず先遣したのは、滑走路が大量の物資を積む大型機の重量に耐えられないかもしれないという危惧があったからである。厚木飛行場の滑走路は本来、軽量の戦闘機用につくられていた。
 その後、9時半からは第2編隊のC47、4発大型のC54、あわせて15機。11時からは第3編隊のC54が15機。戦闘機も含め、計48機が着陸した。ジープをはじめ、武器弾薬、食料、天幕、毛布…、大量の物資が積み込まれていた。日本本土ではジープなぞ、この日がお披露目であった。日本人は戦地以外で見た者がいない。

 8月15日の玉音放送があったとはいえ、日本本土には260万人もの完全武装した兵がいる。関東地方だけでも30万人の日本軍がおり、近衛師団や厚木の日本海軍航空隊などは、本土決戦徹底抗戦を唱えていた。敗戦のまだ2週間ののちである。
 先遣隊到着時の様子を翌日の朝刊は伝えた。「聖旨に副ひ奉り、一糸乱れず冷静沈着、毅然としてこの世紀の大激動に身を処する皇国の姿」。厚木基地周辺では一発の銃声も響かず、日本軍兵士全員は冷静であった。

 翌29日、マッカーサーは愛機バターンⅡ号でマニラを立ち、沖縄の読谷(よみたん)飛行場に到着した。ダグラスC54型機は航続距離が短いため、フィリピンから厚木まで、一気に飛ぶことはできない。給油が必要である。29日夜は読谷に一泊した。
 マッカーサーの日本乗り込みは、時期尚早で危険である、というのが軍トップの見解であった。元帥の側近も、いま関東に乗り込むのは危険極まりないと注進していた。
 彼は回顧録に記している。「幕僚たちも、私がこのような着陸をおこなうことに、真正面から反対していた。それはバクチだというのだ。最高司令官が丸腰で、ひとにぎりほどの幕僚とわずかな先遣隊以外にはろくな護衛もなく、相手は大勢の敵兵がまだ完全武装で待ちかまえている敵国であり、関東平野だけでも日本軍二十二個師団、三十万人以上の優秀な戦闘部隊がいる、というのが彼らのいい分だった。」

 厚木に前日に到着した先遣隊からの報告を沖縄で聞き、日本軍の抵抗や攻撃はないと、マッカーサーはあらためて確信した。「天皇の命令によって降伏した日本軍兵士が、新しい支配者に反抗の刃を向けるはずがない」。マッカーサーはこの判断が正しいことを再度、読谷で確信したのである。日本人にとって天皇とは何か、また日本国民とは、彼はどの米国人よりも見抜いているという自負があった。彼の訪日は、この日が6度目である。
 また米国の、また世界中のひとたちが「危険だ」と注目するなかを、平然と丸腰で降り立つことは、マッカーサーのスタイルであった。彼は軍人であるとともに、役者でもある。

 そして8月30日。午後2時5分、マッカーサーは厚木飛行場に到着した。第8軍司令官のアイケルバーガーは早朝に沖縄から飛来している。彼の専用機であるB17爆撃機に機乗したと思われる。
 この日早朝から、米軍は膨大な物資を厚木に送り込んだ。兵員は総数わずか1200名。朝早くから夕方までにC54輸送機を中心に、約150機が3分ごとに到着した。当然、元帥到着の午後2時前後は離着陸が中断されている。早朝の第1便から最終便まで、9時間以上がかかった。
 日本政府は正式の出迎えを申し出たが、マッカーサーは断った。厚木取材には世界中の報道陣120人に限定され、全員が沖縄から飛来した。日本人は新聞記者10名と合同撮影のカメラマン8名だけが認められた。

 世紀の瞬間に取材で立ち会った同盟通信の明峰嘉夫記者は、つぎのように語っている。「白銀色に輝いた大きな飛行機がピタリととまる。普通の輸送機だと最初に扉がパッと開いて中から梯子がするすると降りて来るのだが、バターン号は飛行機が止まり、プロペラが止まるとオートマチックに梯子(タラップ)が長く伸びて地上にちやんと着くのです。すると胴体の星のマークのついたところが中からポカツと開くのです。銀色の胴体にそこだけが戸の形に黒い空間が出来た。そこにマッカーサー元帥がぐつと出てきた。その様子がなんといいますか、よくいえば威風堂々というのですが……『コーンパイプ』というのをくわえて、濃い緑色の金縁眼鏡をかけて、丁度風呂から上がって髭を剃りクリームを顔に塗りつけたというような、お化粧したばかりのような顔でずつと出て来て、下を見ないのですね。下を見ないで遥か日本の地平線をずつと見渡すように顔を右から左の方へ一と通り百八十度に廻すのです。廻した後から今度はちらつと下を見るのですね。パイプをくわえたままでいかにも菊五郎が花道に現れ、まづ大見得を切つて舞台に出るというような感じなんですね。大見得を切つてから静々と梯子を降りて行く……」(1945年10月談)
 同盟通信からはふたりのカメラマンが向った。そのひとりの武田明は後日に語っている。「昼の光でマッカーサー元帥の顔はピカピカと照り輝いていた。『化粧をしているな』と直感的に思った」
 タラップを降り切り、大地に左足が付いた瞬間の写真がある。同じ同盟通信のもうひとりのカメラマン、宮谷長吉が撮影したものだが彼は「マッカーサーが日本の地に足を着ける瞬間を狙ってシャッターを押した」。宮谷の写真では、バターン号後方の地面には、トラック数台と荷台に立ってマッカーサーの後ろ姿を見つめる数十人の兵たちがみえる。

 マッカーサーに常に同行し30日はC54型機バターン号に同乗し、厚木に降り立ったコートニー・ホイットニーも記している。ホイットニー准将はマッカーサーの軍事秘書官だった。またGHQでは民政局長をつとめ、日本国憲法の草案作成を指揮した人物である。
 「機は飛行場にすべり込み、マッカーサーはコーン・パイプを口にくわえて、機から降り立った。彼はちょっと立ちどまって、あたりを見回した。空は青く輝き、羊毛のようなちぎれ雲が点々と浮かんでいた。飛行場に照りつける日でコンクリートの滑走路とエプロン(格納庫前の舗装場所)にはかげろうがゆらいでいた。飛行場には他に数機の米機があったが、そこらにいるわずかな数の武装した連合軍兵士はおそろしく心細い兵力にみえた。/最先任者はアイケルバーガー将軍(愛称ボブ)で、進み出て、マッカーサーを迎えた。二人は握手をかわし、マッカーサーはおだやかな声で『ボブ、メルボルンから東京までは長い道だったが、どうやらこれで行き着いたようだね。これが映画でいう“結末”だよ』といった。」

 厚木に到着し、戦友たちと握手をかわしたマッカーサーは記者発表をおこなった。ボブに語った一節からはじまる一文である。「メルボルンから東京までは長い道だった。長い長いそして困難な道程だった。(略)日本側は非常に誠意を以てことに当つてゐるやうで、降伏は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する」。短い第一声であった。
 そして到着のわずか15分後、2時20分には数十台の車列を連ねて、横浜に向かった。マッカーサーとアイケルバーガーが乗り込んだ高級車のリンカーンは、かつて陸軍大臣の専用車だった。
 一面焼け野原の横浜市街で、奇跡的に焼け残っていたホテル、ニューグランドに彼は入った。最初のGHQ本部はこのホテルに置かれた。かつて昭和12年(1937)、マッカーサーはここに泊ったことがある。ふたり目の夫人、ジーンとの新婚旅行の途次である。占領の8年前であった。

○参考書
『マッカーサーの二千日』袖井林二郎著 2004年改版 中公文庫
『マッカーサー大戦回顧録』下巻 ダグラス・マッカーサー著 中公文庫 2003年
『図説マッカーサー』袖井林二郎・福島壽郎著 河出書房新社 2003年(「壽」には「金」ヘンがつきます)
『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』袖井林二郎・福島壽郎著 日本放送出版協会 昭和57年
『マッカーサーが来た日』河原匡喜著 新人物往来社 1995年
<2011年10月1日 ココは未だに見つかりません 南浦邦仁>

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