ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

天狗談義 №8 小休止

2011-02-27 | Weblog
 1月19日の新聞記事「天狗のミイラ、実はトンビだった」にショックを受けて開始した連載「天狗談義」です。しかし準備作業もせずに、前知識なしで書き続けるというのは、つらいものです。週1回ほどのペースですが、調査や読書が追いつきません。
 次から次へと、史料や文献、そして現代の著作が出現します。正直なところ、疲れます。たくさんの先達たちが考究された「天狗」というテーマです。にわか天狗愛好家のわたしが、いかほどの貢献ができるのかしら。そのような自虐や反省の念が湧いてきます。鼻高々の天狗には、微塵もなれません。

 天狗から狐に興味が広がり、先日は図書館で『古事類苑』や、中国の『太平御覧』と『太平廣記』の狐記事をすべてコピーしました。全部で100枚ほどかと思いますが、これを読むだけでも難題です。あまりにも文字記述が難解だからです。特に後二者は中国ですから漢文です。知らない漢字ばかりが行列しています。ため息が出ます。

 天狗本しかり。『天狗はどこから来たか』という本は、たいへんすぐれた天狗本のようですが、この書を読むのは、実は今日からの予定なのです。いかにわたしが横着な書き手であるのか…。反省しきりです。なお同書は、杉原たく哉著、あじあブックス・大修館書店2007年刊。

 しばらく天狗談義はおとなしく軽く流し、またまったく別の話題を取り上げたりしながら、おおらかな時の流れのなかで進めようかな、と思っています。本邦でも天狗の歴史は、おおよそ1400年近いのですから。

 ところで、天狗の仲間だった狐ですが、中国の狐を考究したすばらしい論文に出合いました。西岡晴彦「狐妖考―唐代小説における狐―」です。「東京支那學報 第14號」昭和43年・東京支那學會刊。京都では岡崎の府立図書館が所蔵しておられます。興味ある方はぜひ閲覧ください。『日本書紀』に記されている通り、遣隋唐使について中国で学んだ僧旻が、「あれは天狗、あるいは天狐だ」と言った、その時代の狐の考究です。
<2011年2月27日>

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天狗談義 №7 「天狗への憧れと期待」

2011-02-20 | Weblog
馬場あき子「天狗への憧れと期待」※は大好きな文です。ダイジェストで紹介しましょう。
 天狗が雷鳴の音をもっていたということは、古代中国の雷神観からすれば、天狗とは天帝に近侍するものの一種と考えられていたのかも知れない。「天鼓」(てんこ)とか「天狐」(てんこ)と考えられ、「天狗」が「あまぎつね」と読まれるという筋道から、狐の通力などが想像されるようになったのかもしれないが、その原型に「大流星」という不可解な非生物的現象があったことは確かである。…古い時代の、流星を天狗とする説がずっと意識の底流にあったことをものがたるものである。
 そしてまた、天狗が宇宙空間とかかわり、飛行(ひぎょう)をその性能のひとつにせざるを得ない発想も、ここにひとつの根があるといえる。
 ※『鬼の研究』三一書房1971年刊・ちくま文庫版1988年刊 所収

 古代の中国では、またその影響を受けた古代日本でも、「天狗」は常に天の星や雷そして鼓や狐…、それらと関係づけて考えられたようです。しかし中世に近づくと、日本ではなじみの鳥天狗<とりてんぐ>が中心になります。そして後世の鼻高天狗はだいぶ遅れて室町時代あたりにはじめて登場し、江戸時代は鳥天狗から首席の座を奪う。以降は彼ら鼻高族が主流になるようです。

 『源氏物語』に天狗が1カ所だけですが、登場します。「夢浮橋」です。
「天狗、木霊などやうなものの」
 そして「手習」には
「狐、木霊やうの物の」とあります。
<天狗―木霊―狐>は密接な関係で捉えられていたようです。
 木霊(こたま)は、樹神、樹木の精霊。「和名抄」古太万(こたま)。古い木に宿って人気(ひとけ)の少ないときに形をあらわし、害をすることがあると信じられた。「やまびこ」は木霊・樹神の応答と考えられました。流星から山中の精霊への変身がみられます。鳥天狗誕生の直前、『源氏物語』が書かれた約千年前、どうも天狗は森の精霊であった。狐も同類のようです。
 
 平安時代末期、九百年近く前に書かれた『今昔物語集』。鳥天狗の話しを満載して登場するのですが、それまでの日本古代の天狗たちは、流星状であったり、雷や天の狐と近い天空の関係物のようにみられていました。ところが今昔の少し前、西暦1000年あたりから、徐々に「木霊」に接近しています。そして平安末期に今昔「鳥天狗」(とりてんぐ)が確立します。
 日本古代中世の「天狗史」はざっと言って、天―流星・彗星・雷―狗・鼓・狐―木霊―鳥天狗―鼻高天狗…。このように進化変身して来たようです。
 紫式部の言う「木霊」の登場で、天狗はやっと「山」の物か者の位置を得たのかもしれません。次回は『今昔物語集』の天狗たちが登場するまでの、平安時代の「天狗研究」を、おさらいしようかと思っています。
 しかし問題がふたつあります。力量の不足はさて置いて、近ごろ時間が不足しています。欲張ってあれもこれもと鼠のように齧ることが一因ですが、深酒も大きな原因です。困ったひとです。わたしは…。けれど本来の天狗たちの雄姿を明示し、彼らの復権を遂げ、名誉や失地の回復のために尽くさねば、と思ったりしています。

 ところで昨日、岸根卓郎先生の出版記念パーティで七条東山のハイアットリージェンシーホテルに行きました。国立京都博物館の南向かいです。少し早めに出かけ、西隣の三十三間堂を拝観しました。千一体の観音像は壮観ですが、目当ては「迦楼羅王」。カルラは双翼で鉤状嘴の仏像です。わたしは、鋭い眼で諸仏を守護するカルラの英姿に圧倒されました。また彼はピーヒョロロと、横笛を吹いていました。
 なお出版記念会は岸根卓郎著『見えない世界を科学するー科学が解き明かす人類究極の謎―』のお祝いでした。彩流社からの刊行ですが、この本の誕生には実は3年近く前から、わたしも関わりました。やっとの発刊ですが、すばらしい本です。一読をおすすめします。
<2011年2月20日 南浦邦仁>

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天狗談義 №6 「天狗の鼻は低かった」

2011-02-13 | Weblog
天狗の鼻は高いに決まっています。しかし果たしてそうでしょうか? 鎌倉時代に描かれた絵巻『天狗草子』をみても同『是害房繪』でも、天狗はすべて双翼を背にもち、口ばしは鳥そのものです。また口先はワシやタカ、トビのごとく、鉤状です。ですから当時の天狗の鼻は、鳥同様に口ばし・嘴の根元に穴があいているだけのはずです。すなわち「天狗の鼻は低かった」

 日本の天狗の姿なりイメージは古代から現代まで、どのように想像されたか? 天狗変遷史を振り返ってみます。
 恒星・雷・流星状・天狗 飛鳥・奈良時代
 恒星・雷・流星状・天狐 平安時代前半(飛鳥・奈良時代?)
 鳥天狗         平安時代中期・鎌倉・室町(江戸以降)
 鼻高天狗        室町以降現代まで

 ざっとですが、だいたいこのように判断して間違いはないように思います。なお天狐のことや、鳥型や鼻高天狗の登場時期については、これから調べてみることにします。あと古代中国には『山海経』に記された「山猫天狗」もいます。時代や地域によって、天狗の祖先はさまざまに想像されたようですね。
 これからは、烏カラス天狗ではなく「鳥天狗」<トリテング>、そして赤ら顔で鼻が高い仲間を「鼻高天狗」<ハナタカテング>と呼びます。カラスの口ばしはほぼ尖っています。ワタリガラス・ハシブトカラス・ハシボソカラス・ミヤマカラスなど、どれをみても鳥天狗ほどには嘴が曲がっていません。何よりその羽毛です。トリ天狗の羽は、トビに近い。カラスとはおおいに異なります。カラス天狗という呼称は、トリ型天狗にはそぐいません。
 
 稲垣足穂「天狗考」(『稲垣足穂大全Ⅴ』現代思潮社1973年)を、現代語意訳でみてみましょう。
 漢代の書にみえる天狗は別名「天狐」である。天狐は星の名であるから、「星が墜ちて獣となる」など言いだされ、その辺から翼嘴を備えたシナの雷相が生まれたのであろう。この雷相の上に、仏教の八部衆に属する迦楼羅および飛天夜叉が結合されて、いまから五、六百年前の坊様のあいだに日本天狗が誕生した。日本天狗は『保元物語』(註:成立時期不明)にはじめて登場するが、これは僧服鳥嘴のきわめて高貴な存在である。次に山伏姿の天狗がある。これは室町時代に入って、修験道の繁栄をきっかけにポストが与えられたので、やはりクチバシを持っていた。
 ところが江戸期になって品威を失墜することになった。祭礼行列のガイドをつとめる猿田彦のイメージがくっつけられたためで、ここに大衆好みの猥雑無類の鼻高氏ができあがったわけである。
 遮那王丸(牛若丸)が源氏の大将として都入りしたとき、鞍馬山では歓迎会が催された。大僧正ケ谷には幔幕が張り巡らされ、上座にひかえた義経公の前に、一山の大天狗小天狗が横列を敷いて座った。「掘りかた始め!」の号令の下に、めいめいが右肩に担いでいた短いシャベルを取って土をうがち、敬礼! の合図にその孔へ鼻を差し入れてお辞儀をしたとか。しかしこの必要はまったくなかったのである。なぜなら、みなはまだ烏天狗であって、鼻高天狗ではなかったのだから。
 ※この楽しい一文は、昭和44年初出「鼻高天狗はニセ天狗」からの抜粋引用です。
<2011年2月13日 南浦邦仁> 

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天狗談義 №5 天鼓<テンコ>

2011-02-08 | Weblog
前回の「天狐」に続き、今日は「天鼓」テンコをみてみましょう。
 2100年ほど前に記された司馬遷『史記』では「天鼓、有音如雷非雷、音在地而下及地」「天狗ノ状ハ大奔星ノ如ク、声アリ下リテ地ニ止レバ狗ニ類ス。堕ツル所ヲ望メバ火光ノ如ク、炎々トシテ天ヲ衝ク」」
 その100年ほど後の『漢書』には「天鼓有音、如雷非雷、天狗、状如大流星」。唐代の『雲仙雑記』では「雷曰天鼓、雷神曰雷公」とあります。
 古代中国では、天狗は流星のごとくであり、地に墜ちれば天を衝くように燃え上がる。また雷に似た大音、天鼓を響かせる。
 そして天狐テンコと同音の天鼓テンコは、雷に近いものとみなされた。天鼓の鳴り響く音は、雷鳴に似てはいるが同じではないともいう。

 奈良時代の『日本書紀』に記された「音有リテ雷ニ似タリ。…僧旻曰ク。流星ニ非ズ。是レ天狗ナリ。其ノ吠ユル声、雷ニ似レルノミ」。
 なお天狗は、平安時代中期に記された『聖徳太子伝歴』には「天狐」と記され、<テンコ><あまぎつね><あまつきつね>とも読まれたようです。
 おそらく僧旻法師は30年近い隋唐での滞在で、『史記』や『漢書』などを十二分に読み解いたであろう。<流星―雷神―天狗―天鼓―天狐>、それぞれはイコールではないが、そのような関連性で彼は天空を理解していたのであろうか。

 わたしの勝手な推論で言えば、7世紀の倭国においては、天の流星のごとき大音響を発する得体の知れない物体は、中国の伝承をもとに「天狗」テンコウとよばれたのではないか? 『日本書紀』にあきらかな通り、やはり「天狗」であろう。
 ところが平安時代の中期、狐を妖しい獣とする観念が発達し出し、また古代中国の「天狐」記述と習合した。そのため、「天狗」と書くべきところを、伝歴は誤って、あるいは意図的に「天狐」と表記したのではないか?
 大化の改新の前、僧旻法師が言った日本書紀637年の「天狗」は天狗<テンコウ>であり、天狐<テンコ・あまつきつね>ではなかった。平安時代のなかば『聖徳太子伝歴』の著者が、天狗と記すべきところを故意か誤りか、「天狐」と書いてしまったのではなかろうか。ただ古代中国に「天狐」<テンコ>は存在する。

 平安時代の初期、天狗の記載がみえない。書紀以降、天狗が忘れられた空白期に、天狐という中国古典の一片の知識がにわかに浮上してしまった。その結果が『聖徳太子伝歴』917年の<天狐>記載であろうというのが、独断の私見です。国内古典にはその前にも後にも、天狐はあらわれないように思います。天狐の古い記述をご存じの方があれば、ご教示いただきたいと思います。
<2011年2月8日 南浦邦仁>
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天狗談義 №4 天狐<テンコ>

2011-02-06 | Weblog
「天狗のミイラ」と題して駄文を書き連ねてきましたが、話しが段々とミイラから離れて来ました。今回から改題「天狗談義」に変更します。
 天狗の読みは「てんく」「てんぐ」または漢音「テンコウ」でしょうが、この国では古代中国の天狗を天狐と記し、「あまつきつね」「あまきつね」あるいは本来の漢音「テンコ」とも読んだようです。そのようなことを前回、記しました。今日は「古代中国の天狗」掲載の予定でしたが、どうも「天狐」が気になってしまいました。急きょ、「天狐と天鼓」いずれも「テンコ」ですが、テーマを変更します。予定改変はよくあることですね。

 まず天狐テンコですが、ひとつには古代中国では星の名とされています。「天狐發射」「天狐射法」「天狐、虚上二星」など。そしてもうひとつの意味は「天上に住む霊狐」、「狐千歳即興天通、為天狐」「天狐、九尾金色、役於日月宮、洞達陰陽」どうもキツネは千歳の老人になると、天に通じ宇宙の「天狐」テンコ、和名アマギツネ(アマツキツネ)となる。九尾は金色であったようです。


 古くは『抱朴子』(283年)に、狐の寿命は八百歳であるという。三百歳を過ぎると変化して人の形となる。夜、尾を撃ちて火を出す。髑髏を頭に戴きて北斗を拝し、頭から落ちなければその狐は人に変ず。
 中国明代(1368~1644)『本草綱目』では、狐は百歳になると北斗を礼拝し、人間の男や女に化けて人を惑わす。またよく尾を撃って火を出す。狐火です。千年を経た老狐は、千年を経た古い枯木を燃やし、それで照らせば正体を現す。
 また狐魅(狐憑き)は犬をおそれる。これに関連して日本では、犬に追われたキツネは逃げるとき、必ず屁をひる。その臭いは強烈で、犬も追うことを止めてしまうと言う。
 天狗の「狗」が気になります。狗は犬ですから狐とは相性が悪いはずです。天狗、すなわち天狐とは、これいかに?

 明代の『玄中記』や『五雑組』によれば、狐は50歳になるとよく化けるようになる。百歳では美女に化け、人間の男を欺きそして交接する。千歳にもなると千里の外のことを知り、天と通じ人を化かすようなこともしなくなり、天狐と称される。天狐は変幻万端という。千歳狐こそ、本来の天狗かもしれませんね。

 キツネの呼称をみると古名は、きつ、きつね、くつ、くつね、けつ、けつね、やかん、とうか、いがたうめ、よるのとの、ひめまちぎみ、まよはしとり…。狐、射干、野干、岐都禰、来つ寝、稲荷(とうか)、命婦、伊賀專など。
 『万葉集』には一匹だけキツネが登場します。「さし鍋に 湯沸(わかせ)子ども 櫟津(いちひつ)の 檜橋(ひばし)より来む 狐に浴(あ)むさむ」<16-3824>
 皆で火箸(檜橋)を使いながら湯をわかせ、橋を渡ってコン(来む)と鳴いて来る狐を、歓待して湯浴びをさせよう。あるいは湯をぶっかけよう。そのような意味でしょうか。
 万葉の時代、狐はまだ邪悪な妖獣視されることはなかったようです。里のふつうの獣として、身近な動物のひとつであったようです。

 『日本霊異記』(822年ころ)には、狐が化けた妻が犬におびえて本性をあらわし去って行くが、夫は「子がいるのだから時々は逢いに来てほしい」と懇願する。民話「狐女房」の原型ですが、異類婚姻譚「鶴女房」などと同類と思えば、人をだます話しとはとりにくい。狐は決して妖魔や悪者ではないようです。
 同書には殺された狐の怨の報復話があります。しかし「怨をもちて怨に報ゆれば、怨なほ滅せず。車輪の転ぶが如し」。この話しは、決して後代に言う「狐憑き」とはみられない。

 おそらく、狐が邪悪で妖しい悪獣とされるのは、だいぶ時代が下がってからのことではないか? 狐を祀る京伏見の稲荷信仰などは、古来のなごりではなかろうか。狐は豊穣の稲神、田の神の使いがもとの姿であったのではないでしょうか。稲妻すなわち雷光と、稲・米は密接とも言います。稲荷は稲成り、稲生りすなわち豊作豊穣の言葉です。キツネは害獣のノネズミやウサギ、昆虫などを食す、稲作の益獣です。狐は田や稲の神、その使いであったはずです。

 ただ『源氏物語』には、「狐、木霊(こだま)やうのものの人をあざむきて」とあります。どうも狐観は平安中期ころから変化し出し、平安末期1120年代の『今昔物語集』では、中世から近現代にみられる狐観が完成に近づいているようです。
 いつかは「狐」観の変遷史を書きたいとは思うのですが、たぶん思うだけでしょうね。とりあえずは天狗をやらねば。
 今回の文「天狐」は長くなってしまいました。もうひとつのテーマ「天鼓」は次回に廻します。
<2011年2月6日 南浦邦仁>

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天狗のミイラ №3 <日本最古の天狗>

2011-02-01 | Weblog
天狗がはじめて文献にあらわれるのは『日本書紀』(720年)です。舒明天皇9年2月23日(637年)に天狗が出現しました。現代語にあらため引用します。

 大きな星が東から西に流れた。大音が響いたが雷に似ている。人々が言うに、流星(ながれぼし)の音だと。また別の人が言うのに、土雷(つちのいかづち)であろうと。しかし僧旻(そうみん)法師は「流星ではない。あれは[ 天狗 ]である。その吠え声が雷に似ているだけだ」

 「書紀」より後に記された『聖徳太子伝歴』(917年)でも、この天変について「大星東ヨリ西ニ流ル。声有リ雷ノ如シ、時ニ僧旻法師曰ク、是レ[ 天狐 ]ト謂フ也」
 天狗の読みは、書紀でも天狐「アマツキツネ」であろうというのが定説になっているようです。しかしわたしは、「キツネ」には無理があるように思います。狐は音<コ>です。天鼓<コ>ではないかしら?
 しかしなぜ天の「狗」が「狐」キツネなのか? 狗<ク・コウ>は犬であり、子犬や小さな犬をふつう言います。鳶と糞鴟、そして狐…。天狗の正体はわかりにくい。

 ところで僧旻ですが、もとの名は日文(にちもん)です。渡来人の子で、在日2世か3世だったと言われています。推古16年(608年)の第2次遣隋使、国書「日出処の天使…」を持参した使節の小野妹子とともに、留学生の高向玄理や南淵請安などと隋に向かいました。日文は2字を上下にくっつけ「旻」とし、「僧旻」と名乗る。隋そしてあたらしく建国なった唐に24年間留まり、学業に励んだ。そして舒明4年632年に帰国。その5年後に彼が語った「天狗」あるいは「天狐」は、隋や唐の時代に、大陸の人たちが信じていた「天狗」観からの解釈だったはずです。
 僧旻法師は、大陸帰りの文人僧として、朝廷で重きをなします。蘇我入鹿や藤原鎌足たちにも講義をしています。中大兄皇子も話しを聞いたことでしょう。もしかしたら皇子は、天狗の正体を聞きただしたかもしれませんね。そのように考えると、実に楽しい。僧旻と皇子の天狗談義を喜んでいるのは、おそらくわたしだけでしょうが…。
 大化元年645年には、国博士に任じられています。653年没ですが、享年は不詳です。

 僧旻法師が隋唐で学んだであろう『史記』『漢書』、そして『山海経』などに天狗が登場します。ミイラからは離れてしまいましたが、天狗連載の次回は「世界最古の天狗」、すなわち「古代中国の天狗」の予定です。
<2011年2月1日 南浦邦仁>
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