ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

京都・百万遍の高倉健

2008-01-27 | Weblog
 百万遍と呼ばれる交差点があります。左京区の今出川通と東大路通が交差するところ、京都大学本部キャンパスの北西角です。この交差点のすぐ西に、シェルのガソリンスタンドがあります。たいへん繁盛している店ですが、待ち合わせ室の事務所が実にユニーク。なかに入ると、高倉健さんの額装写真が、二十枚ほども壁にかかっています。
 この店の社長・西村泰治(やすじ)さんは、俳優なのです。健さんとは、東映ヤクザ映画の時代から共演してきた、ふたりは古くからの親友です。最近の大作では、映画「男たちの大和」にも出演されている。店で西村さんとお会いするのが少ないのは、なるほど兼業俳優だから。
 高倉健ファンにはお薦めのスタンドです。京都で給油するときには、訪れてみてください。店の従業員は全員、きびきびと元気で、何よりもさわやかな連中ばかりです。京都でいちばん混み合うスタンドがここ。

 百万遍とは百万回の意味ですが、何ともけったいな名なので調べてみました。交差点のすぐ東北は、浄土宗の知恩寺。寺の俗称が「百万遍」です。京都人は親しみを込めて「百万遍さん」とよぶ。この交差点は、「知恩寺・百万遍さんのすぐ横の交差点」ということになります。
 かつて織田信長の時代、イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスが『日本史』に書いています。京の町中でもっとも参詣者が多いのが、百万遍という阿弥陀の寺である。ここは一日中、ことに晩になって、職人や商人たちが仕事を終えると、たくさんが寺に集まってくる。そして喜捨を行ない、大きな声で佛像に祈る。驚くほどの人波が、数珠を手にかけて「南弥阿弥陀仏」と叫びながら、男も女も一列になって、足早に堂のまわりを回って歩く。その際、彼らは堂の正面入口の前を通り過ぎるごとに、両手をあげて佛像の前に頭を下げた、と記しています。
 手を挙げ、頭を下げるとは、五体倒地モドキを立ったままやる、簡略三体倒傾の行為でしょうか。いずれにしろ、当時の百万遍さんは、京都でいちばんの名所寺だったのです。
 ところで寺名の由来は、元弘元年(1331)秋、後醍醐天皇の命で疫病をしずめる祈祷「七日念仏百万遍」を修したことから、天皇が与えた寺号「百万遍」なのです。
 後醍醐天皇は不運な天皇でした。都を落ち、吉野の地で病没したときの遺言は、「朝敵討滅と京都奪回」だったのです。怨念怨霊の天皇でした。
 天皇による命名と、一応の幸先こそはよかったのですが、この寺も実に不運な歴史をたどります。まず寺の位置はいまと異なり、御所のすぐ北だったのです。ところが、後醍醐天皇の敵であった足利幕府、将軍義満があらたに相國寺を造営するために、百万遍さんを強制的に所替えさせます。相國寺は後に、画家・若冲の親友だった大典和尚が住職をつとめた寺です。和尚には何の責任もないのですが、相國寺が、百万遍を追い出した。
 京都市中には、「百万遍町」という町名がふたつあります。まずひとつは、一条通油小路の「元百万遍町」。百万遍寺の強制移住先がこの地だったのです。ところがたびたびの火難にあい、寺は何度も炎上してしまいます。まず応仁元年(1467)の応仁の乱。その後も三度、寺は燃え尽きました。フロイスが寺を訪れた翌1566年にも全焼しています。しかし百万遍を愛し信心する民衆たちの寺に対する情熱・エネルギーはすごかった。燃えるたびに再興されました。
 そして不運はまだ続きます。天正十九年(1591)には、豊臣秀吉の京都改造計画により、上京区荒神口、京都府立大学のすぐ西、御所の東隣に強制移動。この地の先住民は住居を追い出され、千本通上長者町上ルに集団で引越しを余儀なくされた。なんと、このひとたちが住む町の名が、「百万遍町」なのです。すごい町名を付けたものです。自分たちを追い出した寺や、時の権力者に対するウラミツラミからの命名でしょうか。それとも寺のご威徳を信じて、素直な気持ちで付けた名でしょうか。わたしなら前者の怨念で命名します。
 江戸時代、ついにこの寺は、御所の東から東山のいまの地に、やって来ます。寛文二年(1662)のこと。将軍徳川家綱が移動させました。そして三百五十年ほどが過ぎます。この間には火災にもあっていません。やっと安住することができたのです。これだけ度々の火難と強制退去を経験した寺は、京都でも珍しいことでしょう。百万遍の交差点も、各地を転々としたわけです。
 近ごろ百万遍交差点のまわりには、熱気を感じます。まず京都大学医学部は、世界中から注目される、iPS細胞の山中伸弥先生が大活躍されている。シェルの店も、貝のようには口を閉じてはいません。
 みなさん、血気盛ん。やはりこれらは、知恩寺・百万遍さんのご威光のたまものでしょうか。高倉健さんもスタンドの写真額にこう記しています。「泰治君 頑張れよ 高倉健」
 熱烈な熱い想いや応援と友情、世界人類の救済を願うこころが、活気や活力を生むのでしょうか。百万遍はいま、京都いちばんのオーラスポットです。
<2008年1月27日 百万遍融雪の日>
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「若冲」という名前 第五話 <若冲連載10>

2008-01-21 | Weblog
若冲という名が決定したのは、彼が三十二歳から三十六歳の間のいつかです。相國寺の大典和尚が糺(ただす)の森で、売茶翁(ばいさおう)の茶器に「去濁抱清。縦其灑落。大盈若冲。君子所酌」と記したのが、延享4年( 1747)夏のことでした。若冲三十二歳、大典二十九歳、売茶翁七十三歳の年です。下鴨神社の糺の森は、納涼の地として有名です。いまでも真夏に涼しさを感じる森ですが、ただ蚊が多い。団扇を片手の夏しのぎの茶席であったと思います。
 この大典の書、老子の言葉「大盈若冲」がきっかけで、若冲の名が決定した、と断定してよかろうと考えます。もともと若冲には、老荘をたしなむような教養はなかった。大典ものちに記していますが、若冲は絵を描くしか興味関心がなく、字も拙い。学も皆目なかったのです。若冲が、老子を読むことは考えられません。この大典の書から、錦市場の青物問屋の若旦那は、はじめて老子の若冲を知ったのです。
 そして三十七歳の正月、錦街の自宅画室で彼は一枚の画を仕上げます。「松樹番鶏図」です。完成した画を前に彼は、署名押印をまだ暗い早朝になします。昔の京、冬の底冷えはきびしい。彼はこう記しました。「宝暦二年正月の明け方、寒いアトリエの京都錦街<独楽窩>において、凍った筆を息で吹き温めながら記す 若冲居士」と書いています。「独楽窩」とは、ひとりで楽しむ穴蔵の意味。彼の孤独癖はすごい。彼の画室は、錦市場の伊藤家土蔵のなかだったのかもしれません。
 決して上手とはいえない自分の字を、言い訳ぽく表現したのでしょうか。寒さで手が震えるなか、正月早々の款記、書初めだったわけです。
 ということは、「若冲」という名は、前年までに決定していたであろうと考えられます。款記は正月です。同月に確定したのではなく、前年三十六歳のときまでには、用いていたはずです。

 ところで驚いたことに、昨年初夏にとんでもない若冲画が一般公開されました。相國寺承天閣美術館で開催された「若冲展」(2007年5月13日~6月3日)に展示された「松樹群鶴図」一幅です。
 この展覧会のいちばんの目玉は、「動植綵絵」三十幅。美術館の入口は長蛇の列、一時間や二時間の待機は当たり前の大混雑でした。わたしの友人など、あまりの人だかりにあきれ返り、観ずに帰ってしまったそうです。
 「動植綵絵」や「鹿苑寺大書院障壁画」などは圧巻でしたが、わたしにとっていちばん興味深く、また驚かされたのが「松樹群鶴図」です。印章は「若中」。サンズイでもニスイでもない、ナカ「中」なのです。この画は真筆で、印もだれかが勝手に押したのではなく、画家若冲が捺印したに違いありません。「若冲展」図録の解説を抄録してみます。

 この作品はいまだに生硬な画風で款記「平安藤汝鈞製」とあります。字は細く頼りなげで、若冲初期作品にまま見られるこのアンバランスな款記から、若冲の作品のなかでもかなり早い時期に制作されたものと考えられます。
 どこの画を手本にしたかは不明ですが、おそらく朝鮮絵画を写したものでしょう。若冲はいつも対象物に接近して描くタイプの画家です。しかしこの画は遠くから俯瞰(ふかん)するという、彼にはない構図です。「いまだ固有の画風を確立するに至っていない、若冲の発展途上の作品として貴重な例である。また使用例がない白文方印<汝鈞字景和>と、朱文方印<若中>の二印を捺す。」

 「若中」とは……。わたしは、たいへんなショックを受けました。「老子」からは、若冲や若沖は生まれても、若中はありえない。
 ということは、彼は初期作品に「景和」「汝鈞」あるいは「女鈞」の名を用い、おそらくその後に「若中」の名をほんの一時使用。そして「若冲」「若冲居士」へと変化していったのであろうか。「中」字の驚くべき出現を眼前に、そのように考えざるを得ない。あまりにも唐突な「中」字出現に、唖然としながら、そのように考えざるを得なくなってしまったのです。
 いずれにしろ、「若中」ナカ名をほんの短期間にしろ使ったのは、やはり彼が三十二歳から三十六歳の間であったろうということは確かでしょう。次回はこの謎の解明に、チャレンジしてみます。
<2008年1月21日 凍る早朝 南浦邦仁記>
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東川と東山

2008-01-20 | Weblog
わたしの出身地は、播州の片田舎。村の東を流れる川を、東川といいます。川の向こうにも集落があり、子どものころよく石合戦をやったものです。隣村とは学区も異なり、江戸時代には農業用水の取水をめぐって、水争いが何度も起きたなごりだと、村の長老はいっていました。
 この戦い・バトルは、非常に危険です。石ツブテを子どもたちがポケットに詰め込み、本気で力いっぱいに、相手めがけて投げつける。頭や顔面に直撃されるとたいへんですが、さっぱりケガ人が出ない。敵に当たらないていどに、矛先をかわしていたのでしょうか。
 近ごろの子どもは、このような戦はやらないから立派です。ところで石合戦は、かつての神事、占いのなごりともいいます。神をおそれるわたしはいつも、川の土手にへばりつき、申し訳ていどに石を放っていたように思います。
 さて、この川ですが向こうの隣村からみれば、西川です。わたしの村はかなりの昔に、自己中心的にこの川の名を、東川と勝手に決めたのです。そして隣村の彼らは西川とはよばずに、下流の村落名を冠する河川名をいっていたように記憶しています。

 京都では、東にみえるのが東山。そして北山と西山、三方を山に囲まれた京都盆地ですが、なかでも東山への市民の思いは深いようです。
 酒席でおもしろい話しを聞きました。「山科区のどこかの学校の校歌に、♪西にみえるは東山~という文言があるらしい」。実に興味深い歌詞だと思いました。確かに京の東山の向こうは、山科区です。山科の住人は毎夕、東山に沈む夕陽をみておられる。さぞや複雑な心境であろうと、わたしは同情しています。
 山科区内の小中高等学校は全部で二十校。高校は二校だけなので両校に確認しましたら、まず洛東高校にはそのような文句はない。もう一校の一燈園高校に電話したら、たぶん校長先生だと思いますが「確かに理屈はそうですね。しかし詩情がさっぱりありませんな」。わたしはその答えに、うなってしまいました。
 確かに「西にみえるは東山」、そのような屁理屈を歌い上げるような詩人が、果たしているのだろうか。山科にはあと十八の未確認校が残っています。そもそも全校に電話して、西山のことを調べようと思っていた士気が、この返答で一気に崩れ去ってしまいました。どこの学校なのか、本当にそのような歌詞は実在するのか。ご存知の方があれば、一報くださるとありがたい。
<2008年1月20日 南浦邦仁>
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中野さん、ありがとう。

2008-01-19 | Weblog
 「若冲という名前」第五話を本来、きょう書くはずでした。楽しみにしておられた読者は数少ないと思いますが、期待に反し急に掲載を変更しました。
 理由は、五話を書く前に、どうしても読んでおきたい論文があったため。山口さんの「伊藤若冲の初期絵画考察―「牡丹・百合図」を中心にー」です。学習院大学の「哲学会誌」第29号に掲載された論文です。
 若き若冲を理解するためには、きっと読むべき文だと思い、学習院大にコピー送付をお願いしたのですが、幾日たっても梨のツブテ。きっと何かの手違いがあったのでしょう。
 困ったな、と思っていましたら、東京の中野さんからメールが届きました。「何か必要な資料がありましたら、探し出してコピーをお送りします」。彼女は一橋大学の大学院生。文化史から鳥を調べ、画の鳥から若冲研究に入ってこられた新進気鋭の研究者です。
 これまでに、たくさんの史資料をわたしの「未見!」という望みに応えて、懲りもせずに、きっとあきれ返りながら、収集して送ってくださった。
 実は昨年、「若冲逸話」という論文?を書き、黄檗山萬福寺『黄檗文華』126号(文華殿・黄檗文化研究所発行)に掲載していただきました。
 必要な文献は京都だけでは不足です。中野さんは、国立国会図書館、東京芸大、早稲田大、宮内庁書稜部……、あらゆる研究所や図書館を巡って、複写したりあるいは筆写して、資料を郵送してくださった。頭を垂れるとは、まさに彼女に奉げるべき姿勢と言葉であろうと、感謝しています。
 数日前にメールがあり「学習院大の若冲論文、入手しましたので、コピーを郵送します」。涙が出ました。わがままなわたしに対してきっと、困ったなあ、好きなタイプのひとではないのに、と思っておられるはずなのです。
 この貴重な論文を一読したうえで、構想をあらたに、若き若冲を再考したいと思っています。
 ところで東京からの郵便ですが、きょう自宅に着きました。中野さん、本当にありがとう。
<2008年1月19日>
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「若冲」という名前 第四話 <若冲連載9>

2008-01-14 | Weblog
若冲の名を、いつだれが、どのように付けたのか? 謎を追求するために、年表をつくってみました。若冲・大典・売茶翁の三人がポイントです。なかでも売茶翁が肝心と考えますので、翁を中心とした略年譜です。あまりにも退屈な羅列表ですが、これからの三話ほど、年譜をもとに話しをすすめます。興味ある方は、プリントして第五話からご覧ください。
 なお[数字並び]は、売茶翁・若冲・大典の順で、年齢を意味しています。当時の慣例にしたがい、いずれも数え歳。月日も当時のままなので、現代とはおおよそ一ヶ月半ほどずれます。

享保20年 1735[売茶翁61歳・若冲20歳・大典17歳]
□売茶翁は還暦を機に、東山に茶舗「通仙亭」を構え、ささやかな売茶生活をはじめる。東山には二年か三年住んだ。茶道具を肩に「随所に茶店を開く。一杯一銭」。旧還暦は61歳。

元文3年 1738[64・23・20]
□ 9月29日、若冲の父が没す。四代目「枡屋(ますや)」伊藤源左衛門をつぐ。

元文4年 1739[65・24・21]
□売茶翁は年末に困窮。知人を訪れ、百文銭を乞う。

寛保元年 1741[67・26・23]
□ 売茶翁は三十三間堂の前、松下竹蔭に茶舗を移す。

寛保2年 1742[68・27・24]
□8月8日、大典は梅荘と名のる。

寛保3年 1743[69・28・25]
□夏、売茶翁は洛西「双ヶ丘」東麓に住居兼の茶舗を移す。年末に困窮するが、友人の亀田窮楽が双ヶ丘まで米一斗を運んできた。

延享元年 1744[70・29・26]
□売茶翁は相國寺塔頭・林光院に居住。宝暦4年まで10年間住まう。
□大典は翁とともに、病床の宇野士新を見舞う。士新は大典の儒学の師。士新の詩文の師は、売茶翁の法弟である大潮和尚。大典もまた詩文を大潮に師事した。

延享2年 1745[71・30・27]
□6月、大典は相國寺塔頭・慈雲庵住持になる。

延享4年 1747[73・32・29]
□ 夏、翁は糺(ただす)の森に茶を煮た。翁所用の注子(ちゅうす)に大典が「大盈若冲」云々の銘を書く。

延享5年 1748[74・33・30]
□大坂の木村蒹葭堂(けんかどう・13歳)が、京都の画家・篆刻家の池大雅(26歳)に師事する。蒹葭堂は後に、文人・画家・好事家・コレクターとして著名な浪速商人。

宝暦元年 1751[77・36・33]
□ 9月29日、若冲は伊藤家の菩提寺・宝蔵寺に父母の墓を建てる。「ますや源左衛門」と刻す。母は存命。
□ この年、白隠禅師が入洛。

宝暦2年 1752[78・37・34]
□正月、若冲の名がはじめて確認される作品「松樹番鶏図」を書き上げる。款記を意訳すると「宝暦二年正月の明け方、寒いアトリエの京都錦街<独楽窩>において、凍った筆を息で吹き温めながら記す 若冲居士」と書いています。「独楽窩」とは、ひとりで楽しむ穴蔵の意味。彼の孤独癖はすごい。彼の画室は、錦市場の伊藤家土蔵のなかだったのかもしれません

宝暦4年 1754[80・39・36]
□10月1日、翁は相國寺・林光院を出て聖護院村に移居。

宝暦5年 1755[81・40・37]
□1月、売茶翁の唯一の著作『梅山種茶譜略』が刊行された。冊子のごとき小著。
□9月4日、売茶翁は高齢と健康を理由に、売茶の業をやめる。秋より約一年間、腰痛に悩む。
□若冲は家業を弟・白歳に譲り隠居。画業に専心する。茂右衛門と改名。
□この年から、若冲は鴨川の西岸縁、六条あたりの新アトリエ「心遠館」を利用開始か。大典の「心遠ければ地自ら遍なり」から名づけられた。場所は「洛西涯」と記されていますが、この洛は洛水すなわち鴨川の略。川の右岸の崖寄りです。ふつう言うところの洛西、京の町の西方地域ではありません。川沿いの西、二軒目にあったであろう、二階建ての家です。

宝暦7年 1757[83・42・39]
□若冲はこの年から大作「動植綵絵」制作に着手か。

宝暦8年 1758[84・43・40]
□ 売茶翁はこの年より、書揮毫の礼物でもって生計をたてた。
□ 翁は金龍道人をはじめて、彼の住居に訪ねた。
□ 7月、大典は祇園会で見世物にされているインコを哀れむ。
□ 儒者で文人の皆川淇園(きえん・25歳)にはじめての弟子が入門。
□ 8月、黄檗僧の聞中(もんちゅう・20歳)は大典に師事。彼は明和9年(1772)に本山・黄檗山萬福寺に呼び帰されるまで14年間も相國寺にとどまる。芦雁の画を得意としたが、画の師は若冲である。

宝暦9年 1759[85・44・41]
□2月12日、大典は師・独峰和尚の三回忌を終え、慈雲庵を去り読書著述に専念、郊外に閑居す。以降13年もの間、相國寺を離れる。
□10月、若冲は金閣寺で有名な相國寺塔頭・鹿苑寺大書院に水墨障壁画50面を制作完成。

宝暦10年 1760[86・45・42]
□ 11月冬至の日、若冲の傑作「動植綵絵」に、翁は「丹青活手妙通神」と絶賛する。丹青とは、絵画・絵具のこと。売茶翁は若冲のアトリエ「心遠館」で、制作中の画を見たと思われる。冬至の日には寺の行事が多く、大典和尚は同行できなかった。大典によれば、心遠館の「楼上から眺めると、東山の麓に高く大仏殿や清水堂が見える。」
□ 12月、寒梅に仲間が集った。顔ぶれは、大典・池大雅・黄檗僧の無住・若冲など。この日は、太陽暦の2月初旬にあたる。無住はのちに刊行される『売茶翁偈語(げご)』の編者のひとりである。

宝暦11年 1761[87・46・43]
□春、桜の花見に、昨年末に集った仲間が再会。
□9月、大典は詩集『昨非集』を浪速蒹葭堂より刊行。序文は弟子の聞中(23歳)。

宝暦12年 1762[88・47・44]
□夏、翁は愛用の茶道具・瓢杓を、大坂の木村蒹葭堂(27歳)に贈る。

宝暦13年 1763[89・48・45]
□7月に著書『売茶翁偈語』を、翁を慕う仲間たちが刊行。伝記は大典筆。翁の肖像画は若冲作。
□7月、病床の翁は岡崎から、東山・大佛と蓮華王院の南の幻々庵に移る。
□ 7月16日、売茶翁高遊外・月海元昭が示寂。荼毘にふされ、遺骨は擦葬(さっそう)された。なお臨終のとき、翁は池大雅に、長年愛用してきた茶器の寄興鑵を贈った。
<2008年1月14日 南浦邦仁>

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島耕作の皿洗い

2008-01-13 | Weblog

 職場の近くに、よく行く中国料理店があります。神戸などでは中華ですが、京都では中国料理といいます。かつて都だった京ならではのライバル意識でしょうか。中国漢民族が自称する「中華」とは、いいません。
 ところで大好きな店の名は「餃子の王将」出町店。席数はわずか十いくつで、カウンターばかりのささやかなお店です。
 仕事を早めに終えた夜など、ビール一本と餃子一人前だけを注文して、いつもカウンターで本を読みます。ご主人の井上定博さんは、そんなわたしを学者だと勘違いされていて、「京大か同志社の先生でしょう?」。職業と本名はあかしておらず、いつも「はははっ」と、わたしは笑ってごまかしています。
 店の周辺は学生街です。客の九割ほどは、食欲旺盛な大学生ばかり。そんな学生向きの大盛りご飯をはじめて見たとき、仰天してしまいました。どんぶり鉢二杯分ほどの米飯が、いまにも倒れそうな姿で盛られているのです。おそらく日本一の大盛りでしょう。しかし大中小とも値段は同じ。小盛りを注文したひとは、損をした気になるかもしれません。
 またすごいのがポスター「めし代のない人、お腹いっぱいただで食べさせてあげます。但し食後30分間お皿洗いをしていただきます。18才以上の学生さんに限ります」。これはジョークではありません。本当に貧乏学生が皿を洗っています。
 店主の井上さんは、二十歳のときにいまの奥さんと結婚しました。親の反対を押し切っての駆け落ち同然だったそうです。そして六畳一間のボロアパートで暮らし、子どもも産まれました。安月給の八百屋勤めだった彼は「家族のため、こんな貧乏生活から抜け出さねば」と決意し、ラーメン屋の開業を考えます。
 彼のアパートのすぐ前に、創業間もない「餃子の王将」支店が開店しました。井上さんは早速出かけ、技を盗もうと店員の作業を観察します。「なんや、ラーメン作るのなんか簡単やないか。やっぱりいろんな料理が作れなあかん。」
 そして王将チェーンに就職し、がむしゃらに働きました。就職の一年半後には一戸建て住宅を購入、ローンは入居の一年半後に完済したといいます。わたしなど、いまだに賃貸住宅暮らしなのですが。
 入社のころ、王将の店舗は十軒もない時代でした。彼はすぐに、全店の模範店長になります。食材の吟味や大盛りサービス、皿洗いで無料提供などなど、新しいアイデアをどんどん商売で実行していきました。三十五年前、彼が二十三歳のとき、社長賞を受けます。副賞はなんと五十万円。そのころの五十万は、いまの二百万円くらいの値打ちでしょうか。全店の全員が、また客もが認めたからです。王将チェーンは、現在五百店。

 マンガ家の弘兼憲史(ひろかねけんし)さんの作品「島耕作」シリーズに皿洗いのシーンがあります。かつて中国から京都の同志社大学に留学していた貧乏学生、出発集団総裁の孫鋭。中国人の孫が20年後、中国で大実業家になり、思い出深い京都に商用でやって来る。彼は島耕作を連れて、学生時代に世話になった飯屋に行きそして突然、ネクタイ姿で皿洗いをはじめる。
 弘兼さんは、京都出町の無料皿洗いの話をひとから聞き、島耕作の名場面に取り込んだのです。
 「週刊新潮」2006年11月9日号「とっておき 私の京都―餃子の王将出町店―弘兼憲史」に、出町店で皿を洗う弘兼さんの写真と文が載っています。いい文章です。抄録で若干書きかえていますが、記事全文と写真は王将出町店でご覧ください。

 賀茂川と高瀬川とが合流し、京の町を南北に貫く鴨川になります。そのV字地点の西岸一帯が「出町」です。住宅街が拡がる界隈を歩いていると、面妖な貼り紙が目に飛び込んできました。<めし代のないひと、お腹いっぱいただで食べさせてあげます>。要は30分間皿洗いをすれば、ただ飯を食わせてくれるというのです。ただし、学生に限る。全国に500近い店舗網を持ち、日に120万個の餃子を売り捌く「餃子の王将」チェーンのなかでも、そんな太っ腹なサービスを提供しているのはここ「出町店」だけでしょう。
 カウンターの向こうで「ぼくは、皿洗いは大の得意です」とエプロン姿も勇ましく、腕をまくるのは、漫画家の弘兼憲史さん。代表作『島耕作』シリーズの愛読者なら、皿洗いの名場面を思い出すかもしれません。
 中国の大手電気会社との業務提携に向け、島は陣頭指揮をとっていました。ある日、調印のため来日した中国人の「出発」集団総裁・孫鋭は、日本留学中にバイトしていた食堂に島を連れて行く。そして孫鋭総裁が突然、「お金を持っていないので、皿洗いします」と背広を脱いで、ネクタイ姿で皿洗いをはじめます。島も連れ立って皿を洗い、厨房の大掃除に乗り出す。功成り名を遂げた実業家の意外な貧乏学生時代。思わずほろりとする名エピソードでした。
 皿を洗う弘兼さんは、笑いながらこういいました。「ここでの皿洗いは、作画のヒントをいただいたことへの、ささやかな恩返しです。」……この店では、学生とともに、みなが泣きそして笑う。古都の暮らしのよき伝統は、いまも健在。

アクセス/「餃子の王将」出町店/075-241-3708(月曜休)
 上京区今出川通河原町西入ル二筋目上ル
 東海道新幹線・京都駅下車~「河原町今出川」バス停から徒歩5分
原作/『取締役 島耕作 第3巻』弘兼憲史著 モーニングKC881 2003年4月22日発行 講談社
<2008年1月13日>

※ 追伸です。出町王将は近くに移転。新店名は「いのうえの餃子」です。

詳しくは「だいぽんさんのコメント」をご覧ください。<2024年7月28日>

 

 

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「若冲」という名前 第三話 <若冲連載8>

2008-01-07 | Weblog
若冲におおきな影響をあたえた売茶翁(ばいさおう)は九州肥前の神崎郡蓮池に生まれました。延宝三年(1675)五月十六日のことです。地元佐賀の黄檗宗の寺で得度し、月海元昭のちに高遊外(こうゆうがい)と名のります。売茶翁と呼ばれるのは、還暦の年に京都で喫茶店・茶舗を営みだしてからのことです。
 若かりしころ、まだ佐賀にいたときのことですが、彼は病を得て一念発起します。「このように弱い肉体や精神ではいけない。釈尊におつかえ申すこともあたわぬ。」
 そして何年ものあいだ、江戸や東北など全国各地をめぐり、修行学業にはげみます。臨済宗・曹洞宗の禅二宗をきわめ、南都で鑑真和尚からはじまる律学まで修しました。さらには老荘、儒教までも。彼は当時、大秀才の若き学僧・文学僧として、将来を嘱望されたエリートだったのです。文学にもあかるく、詩でも書でも彼に比肩するひとは少なかったといわれています。
 ところが晩年、六十歳を前にして肥前を去ります。寺は弟分にゆずり、京に向かいました。だが、本山の黄檗山萬福寺にも入らず、彼はなぜかまもなく寺を、さらには佛教までを捨ててしまいます。
 当時の宗教界は、いまと同様でしょうか、堕落していました。六十一歳、当時は六十をひとつ過ぎた年が還暦です。この年に彼は京で、突然に茶舗をはじめます。それも天秤棒に茶道具一式をぶら下げ、肩にかつぐ。春は花の名所に、秋は紅葉で知られる地に、住居兼のささやかな茶舗もありはしましたが、もっぱら日々移動するのです。荷茶屋というそうです。ちなみにそのころ、煎茶を立てて売る売茶の業は、いやしい職業とされていました。
 彼の生活姿勢は、宗教家や知識人には痛烈な批判でした。いやしい職業にはげむ売茶翁は、かつて時代を代表する知識人。翁の姿は都のあちらこちらで見かけられましたが、市井で清貧の生活を送る、実はとてつもない文化人だったのです。
 売茶翁はこういっています。わずかの学業学識をひけらかして、師匠だの宗匠などとみずから称すことなど、まことに恥ずかしい。
 また僧侶にたいしては、立派な僧衣をまとい、おのれは佛につかえる身、佛弟子などと上段にかまえ、理も知らぬ庶民に高額な布施を要求して生きる。わたしには、とてもできないことです。
 「春は花によしあり、秋は紅葉にをかしき所を求めて、みずから茶具を担ひ至り、席を設けて客を待つ」
 彼の日々の収入などわずかなもの。特に客の絶える冬場、何度も喰う米にもこと欠き、生活は困窮しました。「茶なく、飯なく、竹筒は空…」。翁の餓死を憂えた友人は冬のある日、双ケ岡の彼のあばら家を、手に米を携え訪ねます。翁がいうに「我窮ヲ賑ス、斗米伝ヘ来テ生計足ル。」
 若冲の別号・斗米庵や米斗翁は、ここからとったのではないか、わたしはそのように確信しています。
 そして大典が二十九歳のとき、翁七十三歳のとき、糺の森で売茶翁の茶器・注子に「大盈若冲」云々の文字を記しました。ちなみに、この注子はいまも残っていますが、若冲三十二歳のときでした。
 大典が注子に書いた「若冲」の字が、画家若冲の名の誕生するきっかけであったことは、間違いないであろうと思います。しかし数年後に、大典が「若冲」という名をこの画家に与えたと断定することはできません。
 売茶翁は京洛のあちらこちらをうろつき、たくさんのひとたちと交わった高潔の非僧非俗、俗塵のなかの茶人です。「大盈若冲」云々の大典の書には、都人が毎日のように接していたのです。画業見習い中の若旦那もしかり。
 「貴きもいやしきも、身分はありません。茶代のあるなしも問いません。世のなかの物語など、楽しくのどやかに、みなでいたしましょう」と売茶翁はおだやかに語りかけました。そのようになごやかに庶民と話す、売茶翁は都名物のオジイサン、こころが透明で温かい、にこやかな人物だったのです。
 「茶銭は黄金百鎰(いつ)より半文銭まで、くれ次第。ただで飲むも勝手。ただよりは負け申さず」。百鎰とは、二千両のことといいます。一文は寛永通宝一枚、いまの一円つまり金銭の最小単位でしょうか。割りようがありません。
 そのころの京都の文化は売茶翁を軸の中心に、十八世紀中後半は回転しました。当時、江戸期最高の京文化が百華繚乱できたのは、自由と平等を至上とする売茶翁という温和な怪物がいたからなのです。まさに売茶翁の存在は、十八世紀江戸期京文化、いや日本文化における大事件であったのです。日文研の早川聞多先生は「売茶翁といふ事件」と称しておられます。卓見だと思います。
 売茶翁を慕うたくさんのひとたちに惜しまれつつ、彼は永眠します。宝暦十三年(1763)七月十六日、鴨川のほとりの小庵で没しました。享年八十九歳。
 遺体は荼毘にふされ、遺言によって骨はみなの手で砕かれ粉にされ、鴨の川にすべて流されました。骨の粉末を川に流す葬法は、擦骨(さっこつ)とよぶのだそうです。いかにも売茶翁らしい始末です。
 ところで、存命中の人物を画に描かなかった若冲ですが、売茶翁の絵だけはたくさん残しています。ふたりは互いに尊敬信頼しあう、別格だったのでしょう。
<2007年1月7日 早朝 南浦邦仁記>
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かぐや姫と京言葉「おおきに」 (五)

2008-01-06 | Weblog
のんびり構えていたこの年末年始ですが、いまは月に帰る直前のかぐや姫の心境です。といいますのは、わたしも別世界に戻らねばならない日が、迫っているからです。異世界の名は、おしごとの国とも呼ばれています。その国では、時間のたつのがあまりにも速く、天人はいつも目にクジラを立てています。鯨は海で泳ぐものですが、向こうの世のクジラはいつも不自然に立っています。あの体重ではきっと、しんどいだろうなといつも心配するのですが。
 わたしに残された自由時間は、あとわずか。どうしよう? 思い悩んだあげく、今日一日だけ大好きなかぐや姫にお別れをいい、明日は若冲さんに逢いに行く。そしてその後は、地球の時間にあわせ、週に一度か二度、恥をしのんで実につまらない駄文を積み重ねていこう。
 異世界に拉致される寸前に、わたしが決意したことです。どうぞ、お許しください。読者の翁嫗、娘や姫、若男のみなさんに乞う次第です。といっても、このブログを読む方はごく少数なのですが…。
 さて、かぐや姫です。しつこくストーカー行為を繰り返したあげくの結末は、「竹取物語」の仕組みといいますか、物語の構成なり成り立ちが、いくらかわかってきたことです。追いかけまわしているうちに、二冊の本に出会いました。

 ひとつは柳田國男「竹取翁」「竹刈翁」、『昔話と文学』(定本柳田國男集第六巻所収/筑摩書房)で読むことができます。柳田はこの国に残る、竹取翁物語に関連していそうな昔話をほとんどすべてといっていいほど渉猟しました。そして、かぐや姫の物語の構造は、実に複雑であるという結論を出しておられます。あまりにもたくさんのパターンの昔話を、分離抽出し蒸留合成合体した物語であることを、追及のあげくの結論としておられます。柳田國男は、なみのストーカーではない。
 そしてもう一冊は、高橋宣勝『語られざる かぐや姫―昔話と竹取物語―』(大修館書店)。この本は、後半部分の記述がとくに圧巻です。竹取物語の骨子は、印度から古代中国に入った貴人追放・天地垂直型「流謫(るたく)思想」にあるとします。日本にはなじみのない、ヒンズー教あるいはインド古来の物語パターンのひとつである流謫が取り込まれたのです。
 平安期の異才、貴公子の男性と思われますが、インテリの彼が中国から渡来した印度の漢訳文献と、日本古来の伝承を混交してつくりあげたのが『竹取翁物語』です。貴公子の名は不詳。日本の昔話はまるで象嵌の技巧のごとく、みごとに印度天竺、そして中国から渡来した漢文で記載された伝承とからみあった。すばらしい迷路のような複雑にして幾何学的な構成の美しい竹取物語を、彼は完成させたのです。
 かぐや姫の探求では、先学おふたりの卓見で、わたしもついに納得がいきました。目からうろこが落ちるとは、このことでしょうか。わたしはコンタクトレンズを入れておりませんので、よくはわかりませんが。
 『竹取物語』が昭和八年に、換骨奪胎単純化された「かぐやひめ」として国定教科書に載るまでは、インテリに好まれることはあっても、庶民には根づかなかった。広汎化しなかった原因は上下「流謫」という本来、日本になじみのない形をストーリーの根っこにすえたためというのが、高橋先生の解釈です。
 わたしは、おふたりの考察を読んで、うなってしまいました。「姫、あなたの悪戯もそこまで。仕組みは、ばれましたよ。覚悟なさい!」
 彼女がいまだに、月世界においてつらい思いをしているとは思いません。いままさに彼女はわたしたちのうちにおいて、ほぼ完全に解放されたからです。

 さてシゴトという名の世界ですが、わたしは長期の休暇を終えて、まもなくそこにドボンと浸かります。この異界は、バスと電車で自宅から一時間ほど水平に移動したところ、京都御所の近くにあります。かつて近所にお住まいだったミカドのこころも、ちょっとは理解せねばと思ったりもします。紫式部の廬山寺も徒歩圏内。『源氏物語』も今年こそ、通読してみましょう。
 これからの連載は、異界のあわただしいスピードに反比例して、実にゆったりと進みます。人間界の時間では、おおよそ七日に一度か二度です。決して、エッチの話ではありません。
 おーきに、すんまへーん。よろしゅうに。
<2008年1月6日 羽衣で旅立つ前日 南浦邦仁>

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かぐや姫と京言葉「おおきに」 (四)

2008-01-05 | Weblog
かぐや姫が父母の恩にたいする情に乏しく、薄情な女性であったことを、古典からみてみましょう。なお、引用文は現代語に筆者が勝手にあらためています。文庫本『竹取物語』も出ていますので、興味ある方はご覧じください。
 まず彼女の昇天のきざしですが、月に帰る年の春のはじめから、月をみてはもの思いにふけっているようすでした。昼間はそうでもないのですが、夕方に月が出るころになると、ため息をつきます。まわりにひとのいない時など、月をみてひどく泣き出すほどでした。
 七月十五日の満月の夜、「月をみると、世のなかがこころ細くしみじみした気分になってしまいます。もの思いにふけって嘆いているのでは、決してありません。こころ細く思うだけなのです。」
 そしてひと月後の八月十五日、当時は旧暦ですのでいまの九月下旬の満月、中秋の名月が近づくころになりますと、たいそうひどく泣き、いまはもう人目もかまわないほどになってしまいました。
 ついに姫は、己が身の秘密を打ち明けます。「わたしの身は、人間世界のものではありません。月の都のひとなのです。月でうまれる前の宿縁[不明]のために、この地球の世界に流罪[不明]になってしまったのです。しかしもう、刑期[不明]も終わりましたので、月世界に返らなければなりません。今月の十五日、中秋の名月の夜に、月の世界から国のものたちが、わたしを迎えにまいります。月の国の王に滞在ビザの延長をお願いしたのですが、許してくださいません。帰らざるを得なくなってしまいました。この世のご両親、おふたりがお嘆きになるのが悲しいゆえに、わたしはこの春からそのことを思って、嘆いていたのでございます。」
 姫が竹林のとなりの屋敷で育ったのは、地球時間ではおおよそ十年、その間、姫は両親を親しみ申し上げたといいます。「故郷の実家に帰るといっても、うれしい気持ちもいたしません。悲しい思いでいっぱいです。おふたりの愛情もわきまえもしないで、出て行ってしまうことが残念なのです。しかし月に帰ることは、わたしに定められた運命…。ここに留まる宿縁[不明]がなかったので、去らねばならぬことわりである思うと、悲しゅうございます。ご両親にたいするお世話を、すこしもせぬまま出かけてしまうのですから、当然ですが気持ちは安らかではございません。おふたりの、おこころばかりを乱して去ってしまうことが、悲しくて耐えがとうございます。」
 月世界の住人は、この地のひとほどには歳をとりません。時間は、地球ほどには進みません。しかし向こうの国ではいつまでも若いからといっても、うれしくもありませんと姫はいいます。かつて彼女を追放した国に、怨念をもっているかのようです。
 「翁さまと嫗さま、おふたりの老い衰えなさるようすを、みてさしあげないことが、何よりも慕わしゅうございますので」。しかしこの言葉にだまされてはいけません。彼女は姫なので、炊事洗濯裁縫はもとより、老人介護もひと任せ。家事の一切をいたしません。
 そして八月十五夜、迎えに来た天人の長がいいます。「翁よ、わずかばかりの善行をおまえがなしたことによって[『万葉集』巻第十六に竹取の翁が天女たちと歌をかわすシーンがあります]、おまえの助けをしてやろうと、ほんのわずかの間だと思い、かぐや姫さまを下界に下した。この国の時間ではずいぶん長い間、おまえの切ろうとする竹の節々に、いつも黄金を入れておいた。あの莫大な山ほどの黄金は、われわれ天が仕掛けた企みであったのよ。極貧であったおぬしは、そのために大富豪になったであろうが。かぐや姫さまは、天上で罪をなされたので、いやしいおまえの所にしばらくいらっしゃたのである。地球時間では十年ほどというそうじゃが、月の国ではほんのわずかの時間であったことよ。姫の罪障はいまは晴れ、刑期はめでたく満了した。それでこのようにお迎えにまいった。翁よ、泣くな。はやく姫さまを月の国にお返し申し上げよ。」
 翁は大量の黄金を天界からもらっていたのです。贈賄ではなく、姫の養育費と、あまりある子育て報奨金であった。姫はホームステイしていたようです。あるいは刑務所も驚くほどの高額補償金、あるいはとてつもない黄金持参金つきで、地球の務所入りをしていたともいえます。
 別れにさいして、かぐや姫は翁嫗にこういいます。「恋しいときごとに取り出してみてください」。遺言状を書いて渡しました。
 わたしがもともとこの人間の国にうまれたのであれば、ご両親さまを嘆かせることもなく、ずっとお仕えすることもできましたでしょう。去って別れてしまうことは、かえすがえすも不本意に思われます。脱いでおくわたしの着物を形見として、いつまでもご覧ください。月が出た夜は、わたしの住む月をそちらからみてください。それにしてもご両親さまをお見捨て申し上げるような形で出て行ってしまうのは苦しく、空から落ちそうな気がします。」
 続いて姫は、律儀にもミカドに手紙を書きます。避けることのできぬ天人の迎えがいま、まいりました。わたしを捕らえて連れて行ってしまいます。ミカドからいただきましたせっかくの求婚のお申し出を断り、裏切ってしまいましたこと、申し訳ございません。わたしは常人ではございません。異常なのです。わたしの体は、地球のひととは異なり、めんどうな体なのです。無礼な娘と、おこころに留めておられていますことが、心残りでございます。」
 そして姫は天の羽衣を使いの天女に着せられ、飛ぶ車に乗って百人ばかりの天人を引き連れて、月世界に帰ってしまいました。

 さてここで、かぐや姫の言動を分析してみましょう。月に帰ることが、こころ細い。自分を追放した月の実家に帰宅することは、うれしくもない。そして翁と嫗が、姫がいなくなることで嘆くのが、また地球を去ることが、悲しいのです。
 この地を中途半端な、気持ちの整理もできていない状態で去ることが、残念で安らかではないのです。竹取の親が慕わしいのは、「地球時間のなかで、ふたりが老化していくのをみることができない」からなのです。なんと酷情な娘でしょうか。ひとにも劣る、月の生きものであることよ。
 かぐや姫は、竹林横の翁嫗宅に、ホームステイしていたという感覚なのでしょう。衣食住のための養育代金はべらぼうで、天から自動的に竹のなかに振り込まれる。探しやすいように、その竹の節は光っています。翁と嫗は姫の教育にもノータッチで、これほどめぐまれた安易な蓄財は、聞いたことがありません。ここ掘れワンワンでも、掘ったらおしまいなのです。

 わたしの息子はいま、大学を休学しバンクーバーに留学しています。ホームステイ先は、カナダ人のパパはエンジニア、ママはマクドナルドのパートをしているそうです。月ではなく、日の国・日本からの仕送りはビビたるもの。それと違って、かぐや姫は「ほら、わたしのおかげで、いつも月から大金をもらってよかったでしょ。ホームステイ代は、十分それ以上に黄金で報いているでしょ」。そのように考えていた節があります。
 息子がかの地を去って帰国するときには、パパとママにきっとこういうでしょう。サンキューベリーマッチ、フォーユアカインドネス。シーユーアゲイン。アイル、カムバック、トゥルーリー。間違っても、カインドレスと発音しないでほしいと思うのですが。
 言葉足らずの英語を和訳すれば、本当にこころからのご親切、お世話になり、おおきにありがとうございました。一時の同居でしたが、この一年ほどはあっという間に過ぎてしまいました。時間のスピードは、やはり異なる国では異なるということが、理解できました。日の国におります父母のことなどいまでは、ほとんど忘れております。実の両親以上に、いまではおふたりのことをお慕い申し上げております。いつまでもお元気で。またいつか、必ず帰ってまいります。ご恩のほど、一生忘れることはございません。いつまでもこの国に、おりたいのはいうまでもございません。しかし仕送りがまもなく絶えます。日の国の実家には、十分な経済力がございません。残念で悲しゅうございます。
 かぐや姫と息子を比較しますに、「貴人、情薄し」ともいいます。黄金の一枚ももちあわせない、ほどほどの貧乏人でよかったと言い聞かせている今日このごろ。
 ただ輝く竹のなかにあるという黄金は、いつも頭に浮かびます。暖かくなれば竹林を散策してみよう。場所は、かぐや姫伝説のつたわる京都西山・大原野神社の近辺です。すべって転ばぬように気をつけますが、スッテンコロリだと、ネズミの穴に落ちてしまいます。今年は子・ネの年、コンビニの三角おにぎり持参で、それも楽しみです。
<2008年1月5日 長期休暇終了目前 南浦邦仁>

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かぐや姫と京言葉「おおきに」 (三)

2008-01-04 | Weblog
平安期に成立し、千百年もの長きにわたってひとびとに親しまれてきた、かぐや姫と竹取翁の物語。粗筋は少年少女の年齢以上のひとなら、ほぼだれもが知っているはずです。「だれもがみ~んな知っている♪」月光仮面以上に有名なお話です。だじゃれ、おーきにごめんやっしゃ、ですが。
 ところがなぜか古い本がほとんど残っていません。理由について諸説ありますが、わたしたちが思うほどには、この物語は日本では流布しなかった痕跡があるのです。
 少女紫式部をも感動させたすばらしい物語がなぜ、ひとびとに浸透しなかったのか。不思議です。平安期・室町期の古本はまず残っていません。天正二十年(1592)の写本が最古ですが、その数年後、慶長年間(1600年前後)二十年の間のいつの年かに、古活字版本が制作されました。これを底本にたくさんの木版本が刷られたはずですが、残存するものは、決して多いとはいえないらしい。
 ところが現代のわたしたちは、ほぼ知らぬものがないほど、かぐや姫と翁嫗(おうな)に親しみを覚えます。なぜなのでしょう。古い民間の昔話を祖父母たちから聞かされたからでしょうか。いいえ、そうではありません。
 昭和八年(1933)から日米英開戦直前の十五年までの七年間、日本の国定教科書『小学国語読本』、俗称『サクラ読本』巻四に「かぐやひめ」が登場したからです。この本によって、全国いたるところの子どもたちがまたその親たちもが、竹取物語というか、「かぐや姫」物語を知ることになります。戦前の国定教科書の影響力は、本当におおきに甚大でした。全国のすべての小学生が、同じ季節に同じ本を読むのです。若年者の文化を揺るがす大きな影響力をもっていたのです。
 長い文ですが、全文を転載します。なお平安期の原文とは、かなり異なっています。それと、小学校教科書に註もいかがかと思いますが、[わたしの註です]。

 竹取のおきなといふ[う]おぢ[じ]いさんがありました。毎日竹を切って来て、ざるやかごをこしらへ[え]てゐ[い]ました。
 ある日のこと、もとの方が大そう光ってゐる竹を、一本見つけました。それを切って、わって見ますと、中に小さな女の子がゐました。おぢいさんはよろこんで、手のひらへのせてかへりました。さ[そ]うして、おばあさんと二人でそだてました。小さいので、かごの中へ入れておきました。
 この子を見つけてから、おぢいさんの切る竹からは、いつもお金が出て来ました。そこで、おぢいさんはだんだんお金持になりました。
 この子は、ずんずん[後のずんは長いヘ]大きくなって、三月ほどたつと、十五六ぐらゐの美しい娘になりました。おぢいさんは、この子にかぐやひめといふ名をつけました。
 そのうちに、世間の人々は、かぐやひめのことを聞いて、「じぶんがむこになら[ろ]う。」「私のよめに下さい。」と申しこみましたが、かぐやひめはどうしてもしょうちしません。おぢいさんも、「じぶんのほんた[と]うの子でないから、私の思ふやう[思うよう]にはなりません。」といってゐました。のちには、とのさまから、おく方にしたいとのおことばもありましたが、かぐやひめはそれもおことわりいたしました。
 か[こ]うして何年かたちました。ある年の春のころから、かぐやひめは、月のあかるい晩には、月をながめて何かかんがへてゐるやうでした。八月の十五夜近くなると、こゑ[え]をたてて泣いてばかりゐました。おぢいさんやおばあさんが、なぜ泣くのかと聞きますと、かぐやひめは、
 「私は、もと月の都のものでございます。長い間おせわになりましたが、この十五夜には、月の世界からむかへにまゐりますので、かへらなければなりません。みなさんにお別れするのがつらくて、泣いてゐるのでございます。」
といひました。おぢいさんはおどろいて、
 「それは大へんだ。むかへに来ても、わたすものか。」
といひました。
 おぢいさんは、何とかして、かぐやひめをひき止めたいと思ひました。さ[そ]うして、このことをとのさまに申し上げますと、とのさまは、
 「それでは、その晩には、兵たいをたくさんやって、月の都の使が来たら、追ひかへしてしまほ[お]う。」
とおっしゃいました。
 いよへ[いよいよ]十五夜の晩になりました。おぢいさんの家のまは[わ]りは、兵たいがいくへにも取りかこみました。
 夜中ごろになると、急に、お月さまが十も出たかと思ふやうに、あたりがあかるくなりました。
 「さあ、来たぞ。」
と、兵たいたちは、弓に矢をつがへようとしましたが、目がくらんで、どうすることも出来ません。
 その時、たくさんの天人が、雲にのって下りて来ました。かぐやひめも、今はし方がなく、泣いてゐるおぢいさんとおばあさんに向かって、
 「今お別れ申すことは、まことにかなし[ゅ]うございますが、いたし方がありません。月夜の晩には、どうか、私のことを思ひ出して下さい。私も、お二方のごおん[恩]は、けっして忘れません。」
といって、天人のよういして来た車にのって、空へ上って行ってしまひました。
 
 実はわたしは小学四年のとき、学芸会で劇「かぐや姫」の一役を演じました。姫の役では当然ありませんが、翁でも殿さまでも、求婚者でもありません。天人に向かって弓を射ようとした兵たいさんのひとりでした。そのころ三十歳をすこし過ぎたばかりだった母が、「一平卒の役回りですか」と残念がっていました。かぐや姫のこと、なつかしく思い出されます。
 確か当時、竹取物語は教科書にはなく、講談社の絵本で読んだように記憶しています。最近のことはすぐに忘れてしまうのですが、古い残像は鮮明です。
 ところでこの文の後方、「いまお別れ申すことは、まことに悲しゅうございますが……私も、おふたかたのご恩は、決して忘れません。」
 ここに注目してみましょう。台詞には、姫の育ての親、翁と嫗への想い、これまで育ててくださって、ありがとうございますという、感謝の気持ちが感じられます。それこそ、「おおきにありがとうございました。」
 ところが古典原文には、両親にたいする感謝のカケラもない。いまの子どもたちのようです。いえ、丸で四角でわたしのようです。かぐや姫は薄情なのです。次回もう一話で、姫の酷情のこころを分析して、学芸の会も幕といたしましょう。
 そろそろ若冲さんのところへ帰らなければ……。彼もへそを曲げてしまいそうです。かぐや姫に浮気ばかりしてもおれません。
 「若冲はん。大きに、堪忍どっしゃ!」。京の女言葉では「おほきに、かんにんどすぇ」。男女でこれほどの開きがあります。
<2008年1月4日 南浦邦仁>
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かぐや姫と京言葉「おおきに」 (二)

2008-01-03 | Weblog
あけまして祝賀、申し上げます。さてこの二年間、かぐや姫を追いかけ回してしまいました。彼女は「おーきに、しつこいストーカーどすなあ」と思ったことでしょう。しかし種を明かせば、足かけ二年。年末年始の何日かのことですので、姫も未熟な筆者を、きっと許してくれることでしょう。
 『竹取物語』の記述をみます。まず竹取の翁が光る竹をみつけます。その竹の筒のなかに、身の丈三寸ばかりの、たいそうかわいらしい稚児がいる。
 三寸とは9センチほど。当時の京にはまだ太い孟宗竹ははえていません。京都に孟宗が入ったのは、たかだか二百年前のことです。『竹取物語」が書かれたのは、千年前に紫式部『源氏物語』が世に出るおおよそ百年ほど昔といわれています。千百年も前の竹林なら淡竹(はちく)でしょうか。いずれにしろ、八頭身の身長と彼女の小さいからだの幅を考えると、ハチクのひと節には9センチほどが限界だと思います。
 淡竹を辞典でみますと、たけのこを食用とする。大型のタケの一品種。幹は竹細工・ちょうちんの骨などに使う。-なるほど、翁は竹カゴに入れて育てます。「たいそう幼いので、そこはそれ、商売がらたくさんある籠(こ)のなかに入れて育てました」。籠と児、「こ」の駄洒落のようです。この物語には、ことばの遊びが多い。
 この幼児は、育てるうちに、ぐんぐんと大きく成長してゆく。そして三か月ほどになるころに、一人前の大きさの人になってしまった。この表現を、古文でみてみましょう。
 「この児(ちご)、やしなふほどに、すくすくと<大きに>なりまさる。三月ばかりになるほどに、よきほどなる人に成りぬれば」。ここに「おおきに」が出てきます。この語法は、現代のわたしたちの使う「大きく」でしょうか。
 竹の成長のスピードは驚異です。地面から少しばかり顔を出した筍は、ひと雨でも得ようものなら、あっというまに親竹ほどの背丈に育つ。幹は青々と若いが、身の丈だけは一人前になります。驚くべきタケノコの成長を、かぐや姫の「竹の子」「竹の児」にかけているのでしょう。この「驚くべき」「異常なる」「大変な」成長を「大きに」の含意と理解するのが、わかりよいと思います。
 平安時代の『今昔物語集』第三十一に、「竹取翁於篁中見付女兒養語」という、よく似た話しがあります。今昔には「其ノ児漸ク長大スルママニ」と記されています。「大きに」は「驚くほど長大」、非常なる大変異常な成長を、意味しているのでしょう。
 もっとも古い竹取物語本は、天正二十年(1592)筆写の『竹取翁物語』です。現在、天理大学図書館蔵ですが、現存最古の写本です。ところで天正二十年壬辰は十二月に文禄元年に改元されます。豊臣秀吉の文禄の役・壬辰倭乱の年でした。小西行長はまず釜山を陥落しています。四月のことでしたが、この月はまだ天正二十年です。同じころ京都では、公家のだれかがこの本を筆写していたのです。きれいな字です。戦争を憎み月世界に思いを馳せる、きっと複雑な心境であったことでしょう。
 天正本は影印・写真版でみることができます。『天理図書館善本叢書』「竹取物語」。この本の翻刻版をみますと、「すくヘとおほきになりまさる」とあります。「ヘ」とは変ですが、繰り返しの長い「ヘ」です。わたしのパソコンではでてきません。「すくすくと」です。
 影印本の写真、天正二十年に書かれた墨字ですが、「おほきに」を『くずし字解読辞典』を手に何度見つめても「於おきに」としか読めません。わたしの解字力の未熟ゆえでしょうか。いずれにしろ、「おおきに」「おーきに」は古語「おほきに」であることに違いはありません。
 紫式部は『源氏物語』に書いています。かぐや姫の物語は「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁云々」。彼女は平安文学、物語文学の最初は正式名称「竹取翁物語」(たけとりのおきなのものがたり)、通称「かぐや姫の物語」からはじまったと記しています。最古の物語文学は、翁とかぐや姫の物語だと断定しているのです。
 紫式部は少女のころ、この物語をはじめて読んで感動した。その後、彼女はまったく新しい文学を創造しようとして、文体や表現、仮名と漢字の用法、ストーリーやこころの描写などに悪戦苦闘。そしてついに竹取翁を超える、世界史に記録される超大作大傑作の金字塔を完成させたのです。
 五人の貴公子やミカドまでを打ち負かしたかぐや姫ですが、月世界に去ってわずか百年ほどの後に、彗星のごとくあらわれた紫式部には完敗したわけです。天人の姫は月の国から、地上の人間である女性に拍手喝采したことでしょう。しかしかぐや姫がまずあってこその、源氏です。源氏物語からは、彼女の才能を育むもとになった「竹取の翁の物語」に感謝し、まさに「おーきに」と頭をさげる紫式部の想いが伝わってくる心地がします。
 かぐや姫のこと、ちかごろブログの愛読者になったばかりの友人からのリクエストもあり、もう一話か二話か、続けます。若冲さんにはいましばらく、正月休みをとっていただきます。若冲はん、おおきにすんまへ~ん。
<2008年1月3日 月曜日 南浦邦仁>
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