この店の社長・西村泰治(やすじ)さんは、俳優なのです。健さんとは、東映ヤクザ映画の時代から共演してきた、ふたりは古くからの親友です。最近の大作では、映画「男たちの大和」にも出演されている。店で西村さんとお会いするのが少ないのは、なるほど兼業俳優だから。
高倉健ファンにはお薦めのスタンドです。京都で給油するときには、訪れてみてください。店の従業員は全員、きびきびと元気で、何よりもさわやかな連中ばかりです。京都でいちばん混み合うスタンドがここ。
百万遍とは百万回の意味ですが、何ともけったいな名なので調べてみました。交差点のすぐ東北は、浄土宗の知恩寺。寺の俗称が「百万遍」です。京都人は親しみを込めて「百万遍さん」とよぶ。この交差点は、「知恩寺・百万遍さんのすぐ横の交差点」ということになります。
かつて織田信長の時代、イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスが『日本史』に書いています。京の町中でもっとも参詣者が多いのが、百万遍という阿弥陀の寺である。ここは一日中、ことに晩になって、職人や商人たちが仕事を終えると、たくさんが寺に集まってくる。そして喜捨を行ない、大きな声で佛像に祈る。驚くほどの人波が、数珠を手にかけて「南弥阿弥陀仏」と叫びながら、男も女も一列になって、足早に堂のまわりを回って歩く。その際、彼らは堂の正面入口の前を通り過ぎるごとに、両手をあげて佛像の前に頭を下げた、と記しています。
手を挙げ、頭を下げるとは、五体倒地モドキを立ったままやる、簡略三体倒傾の行為でしょうか。いずれにしろ、当時の百万遍さんは、京都でいちばんの名所寺だったのです。
ところで寺名の由来は、元弘元年(1331)秋、後醍醐天皇の命で疫病をしずめる祈祷「七日念仏百万遍」を修したことから、天皇が与えた寺号「百万遍」なのです。
後醍醐天皇は不運な天皇でした。都を落ち、吉野の地で病没したときの遺言は、「朝敵討滅と京都奪回」だったのです。怨念怨霊の天皇でした。
天皇による命名と、一応の幸先こそはよかったのですが、この寺も実に不運な歴史をたどります。まず寺の位置はいまと異なり、御所のすぐ北だったのです。ところが、後醍醐天皇の敵であった足利幕府、将軍義満があらたに相國寺を造営するために、百万遍さんを強制的に所替えさせます。相國寺は後に、画家・若冲の親友だった大典和尚が住職をつとめた寺です。和尚には何の責任もないのですが、相國寺が、百万遍を追い出した。
京都市中には、「百万遍町」という町名がふたつあります。まずひとつは、一条通油小路の「元百万遍町」。百万遍寺の強制移住先がこの地だったのです。ところがたびたびの火難にあい、寺は何度も炎上してしまいます。まず応仁元年(1467)の応仁の乱。その後も三度、寺は燃え尽きました。フロイスが寺を訪れた翌1566年にも全焼しています。しかし百万遍を愛し信心する民衆たちの寺に対する情熱・エネルギーはすごかった。燃えるたびに再興されました。
そして不運はまだ続きます。天正十九年(1591)には、豊臣秀吉の京都改造計画により、上京区荒神口、京都府立大学のすぐ西、御所の東隣に強制移動。この地の先住民は住居を追い出され、千本通上長者町上ルに集団で引越しを余儀なくされた。なんと、このひとたちが住む町の名が、「百万遍町」なのです。すごい町名を付けたものです。自分たちを追い出した寺や、時の権力者に対するウラミツラミからの命名でしょうか。それとも寺のご威徳を信じて、素直な気持ちで付けた名でしょうか。わたしなら前者の怨念で命名します。
江戸時代、ついにこの寺は、御所の東から東山のいまの地に、やって来ます。寛文二年(1662)のこと。将軍徳川家綱が移動させました。そして三百五十年ほどが過ぎます。この間には火災にもあっていません。やっと安住することができたのです。これだけ度々の火難と強制退去を経験した寺は、京都でも珍しいことでしょう。百万遍の交差点も、各地を転々としたわけです。
近ごろ百万遍交差点のまわりには、熱気を感じます。まず京都大学医学部は、世界中から注目される、iPS細胞の山中伸弥先生が大活躍されている。シェルの店も、貝のようには口を閉じてはいません。
みなさん、血気盛ん。やはりこれらは、知恩寺・百万遍さんのご威光のたまものでしょうか。高倉健さんもスタンドの写真額にこう記しています。「泰治君 頑張れよ 高倉健」
熱烈な熱い想いや応援と友情、世界人類の救済を願うこころが、活気や活力を生むのでしょうか。百万遍はいま、京都いちばんのオーラスポットです。
<2008年1月27日 百万遍融雪の日>