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ふろむ京都・播州山麓

京都の西山&播州山麓から、気ままな雑話をお送りします。長期間お休みしていましたが、復活近しか?

京のカ

2009-10-31 | Weblog
 「京都の力」とは、変なタイトルをつけたものです。実は「ちから」ではなく、「カ」すなわち「蚊」の雑話です。京都には今日も、蚊がたくさん居ます。
 本日は晦日。明日は十一月朔日。晩秋どころかまもなく初冬でしょうに。日中の気温は毎日、21度から25度の間です。25度は夏日です。
 いたるところで、季節遅れの蚊たちが、ワゥ~ン、ウィ~ンと飛び交っています。何も京都市中だけでなく、西日本各地で彼らは猛威をふるっているのでしょう。
 昨日、所用で上京区の大谷大学に行ったところ、構内の駐車場でいきなり、蚊の一撃を受けてしまいました。玄関脇の守衛さんに聞きましたが、「蚊取り線香をまだ焚いています。やっぱり、地球の温暖化なのでしょうね。その内、除夜の鐘音を聞きながら、アースノーマットかベープマットに眼をやる。そんな大晦日が近いうちに来そうです。この冬、雪はほとんど降らないでしょうね」
 仕事で京滋の各地を車で走り回っているわたしですが、雪用のスタッドレスタイヤはもう無用の重物、反故同然になってしまうのでしょうか。
 雪国といえば、わたしの業務テリトリーの北限は彦根と比良。滋賀県の湖東と湖西です。どちらも京洛と比べて、平均気温は数度低い。
 ところで一昨日、彦根には蚊がいたのです。驚きました。あまりに健気に思い、叩き潰すことなどできませんでした。本来、わたしは気が弱いのです。殺人どころか殺蚊もできぬ人間です。釈尊の教えに忠実なのかもしれませんが。
 さて比良は名の通り比良山系・武奈ヶ岳山麓の地。この山は深い降雪で有名です。かつて何度か厳寒期に山頂まで登ったことがあります。春夏秋もすばらしい山ですが、冬山は魅力に富んでいます。しかし危険な岳です。尾根道は凍っており、アイゼンなしでは歩けません。また山の西斜面は豪雪の雪国。日本海を越えてきた雪雲がこの山系にぶち当たって、すごい雪を落とすのです。しかし尾根を境に、一方の東面は雪量が少ない。
 この冬は、暖冬で雪が少ないだろう。久しぶりに登ってみようかなと、脚力の落ちたいま、思ったりしています。
 ところが比良で聞いた話には驚きました。「地元の古老は、この冬には大雪が降るといっています」。意外なお声に戸惑ってしまいました。理由は「比良山麓では、近ごろカメムシが異常なほど大発生しているからです。昔から比良の麓では、屁こき虫が豪雪予報の指標です」
 確かに近くにはカメムシが群集していました。帰ってから事典でみると、この虫は別名をヘコキムシ。腹部に臭腺があり、悪臭が強く、クサカメともヘクサムシともいう。果樹や野菜などの草果汁を吸い盗る害虫とあります。
 カメムシの仲間は種類が多く、わたしがみた虫がいったい図鑑のなかのどれなのか、正確な名がわかりません。一匹持ち帰って確認すべきでしたが、オナラに辟易してしまい、拉致する勇気がわきませんでした。
 さて地元に古来より伝わる豪雪予報は、的中するのでしょうか。もしその通りなら、人間の昔からの経験則のすごさ、いやヘコキムシのすごい予知能力、人智をこえた超能力に脱帽敬礼します。
 その際には、昆虫図鑑と虫メガネを手に訪れ、敬愛のこころで越冬「屁こき虫」の種別を特定しよう。また失礼な俗虫名を「雪読み虫」とか「豪雪予兆亀虫」とかに、変更申請したいとも思う。長寿だった蚊たちを偲びつつ、愛車のスタッドレスタイヤとともに向かおう。カメムシさん、再会を楽しみにしていますよ。
<2009年10月31日> [177]

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打球戯・毬杖(ぎっちょう)と「大化の改新」 <古代球技と大化の改新 2>

2009-10-25 | Weblog
 皇極天皇3年(644)正月、中大兄皇子が法興寺で打球遊びをしたとき、球を打つとともに、皇子の靴が脱げた。それを中臣鎌足がみて急ぎ走り拾い、ひざまづいて皇子に手渡した。これを機会にふたりはたがいに親密になる。そして極秘裏に、蘇我氏滅亡の策をめぐらせるようになった。悲願なって翌645年に蘇我入鹿を倒す。大化の改新である。打球<ぎっちょう>で靴が脱げたのが、このクーデターを引き起こすきっかけになったのである。
 さてこの「打球」だが、これまでみてきたバット・杖を手にした毬杖(ぎっちょう)であるか、それとも棒を用いない公家たちのフットボールの蹴鞠(けまり)であるのか。意見はわかれる。『日本書紀』原文をみてみましょう。

中大兄於法興寺槻樹之下打毬之侶、而候皮鞋随毬脱落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄、對跪敬執。自茲、相善、倶述所懐。

 そのころ宮中で用いた遊戯の打毬・毬杖(ぎっちょう)棒は、どのような形をしていたのであろうか。「大宋屏風」に図がある。宮中に古くから伝来している屏風だそうだが、長い柄にヘラが付いたような毬杖です。
 このゲームは、大食国から吐蕃国経由で、シナ・唐に伝来したといわれている。そして朝鮮、日本にも渡来した遊戯・スポーツ。日本にたどりついたのは、おそらく7世紀早々。聖徳太子も楽しんだか? その可能性を否定できません。日出るところの天子は、きっと好奇心旺盛なはずですから。

 さて中大兄皇子がプレーした「打毬」ですが、「毬」は毛偏である。蹴鞠の「鞠」は革偏。蹴鞠ボールは、鹿皮を馬皮でつないで作られたが、蹴上げるためには軽量がいちばんである。薄皮で作られ、中は中空を原則とする。棒で打ったりするとひしゃげ破れてしまう。「打球」という表現からも、やはりゲートボール式の地上闊歩の「ぎっちょう競技」に違いない。球は毛を丸めたものを使ったようだ。しかし庶民は毛丸ではなく、木製球を使ったであろうと、わたしは信じています。

 ところで、毬杖(ぎっちょう)棒を持つ人物の描かれている宮中の「大宋屏風」ですが、元旦寅刻、天皇は清涼殿東庭で、かつて「大宋屏風」八帖を立てかけた密封の狭空間に入る。そしてまず北斗七星中の属星の名を七度称えます。次にこの年の災禍なきを祈る。また天地を拝し、次に山稜を拝す。概容ですがこの「四方拝」は、西暦818年ころか、あるいは遅くとも890年にはじまったといわれています。応仁の乱で数年途絶えますが、1475年以降、毎年行われいまに至っています。天皇は歴代毎年元旦早朝、「毬杖図」の前で四方を拝み、世の平安を祈願しておられたのです。

参考:中大兄皇子:なかのおおえのおうじ・後の天智天皇。
   法興寺:飛鳥寺のこと。
   中臣鎌足:なかとみのかまたり。後の藤原氏の祖。
   蹴鞠:けまり。公家のフットボール。
    平安末期作「年中行事絵巻」では、靴が飛ばないように
    八人のプレイヤーはみな、鞋を白い紐で縛っています。
   大食国:アラビヤ・タージー国。
   吐蕃国:チベット。
<2009年10月25日> [176]
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若冲と相国寺、萬福寺と石峰寺 №2 <若冲連載45>

2009-10-24 | Weblog
「大典和尚」

 若冲は三十歳代なかばから、大典和尚との親交を通して、相国寺と密接な関係にありました。期間はほぼ二十年におよぶ。それが六十歳を前にして、若冲は萬福寺に接近し、黄檗の石峰寺にその後、晩年を捧げ尽くす。相国寺を離れた理由のひとつは、大典を取り巻く周辺環境の変化であろう。

 まず大典の略歴を記してみましょう。彼は八歳で黄檗山華厳寺にあずけられたが、兄弟子との不和から相国寺に移り、塔頭慈雲院・独峯慈秀和尚によって得度する。十歳のときであった。黄檗の詩僧・大潮和尚について文学を学ぶが、大潮は売茶翁の弟弟子である。また儒は宇野明霞・宇士新の門で研鑽を積む。ちなみに大坂の片山北海も明霞の弟子である。北海を中心に結成された大坂の詩文社「混沌社」には、売茶翁や大典、聞中、池大雅そして若冲たちと交流のあった大坂文化のネットワーカー・木村蒹葭堂が有力なメンバーとして加わっていました。
 そして独峯和尚引退の後を受けて大典は慈雲院の住持となるが、和尚没後、三周忌を済ませて本山に隠退届けを出す。宝暦九年(一七五九)二月十二日、四十一歳のときであった。そして十三年もの間、大典は相国寺を離れ市井に暮らす。彼は佛学、経義、詩文に通じた当代隋一の学僧であった。

 若冲と大典が出合ったきっかけは不明だが、若冲三十七歳、大典三十四歳のころ、ふたりの親交がはじまる。時代を代表する学者・文人である大典が、なぜか寺を出、栄達を拒む。若冲はそのような彼を尊敬し、年下の大典を師と仰ぐ。また大典は若冲に、画の天才を見抜きそのひとと才能を愛する。
 そして大典の蔭からの推挙で、鹿苑寺大書院の障壁画を描いたのは宝暦九年、大典が寺を出る年である。
 明和四年(一七六七)、相国寺は連環結制を営む。全国の雲水修行僧が同寺に参集することになった。本山は大典に帰山をうながすのだが、彼はなおも承諾しなかった。すでに四十九歳である。
 明和九年、再三の復帰要請を断ることもついにかなわず、大典は相国寺慈雲院に戻る。安永七年(一七七〇)には碩学に選ばれ、幕府より朝鮮修文職に任ぜられた。翌年には、相国寺第百十三世住持になる。天明元年(一七八一)、以酊庵輪住の任にあたり対馬に着任。約三年間の任期をつとめる。そして天明八年の大火の後には寺復興のために全力を投入し、享和元年(一八〇一)二月八日、若冲没の半年ほど後、友を追うように慈雲院で没した。

 若冲は、自分をいちばん理解してくれる大典のことを大好きであり、尊敬していた。しかし若冲は出家を望み、宗教に浸る生活をこころから希求したようである。売茶翁からかつて学んだ人生哲学を、禅の場で、画禅一致の僧として実践したかったのだと思う。だが大典は若冲の才能と人柄を愛したのであり、市井画家の出家など、相国寺では考えられなかったであろう。
<2009年10月24日> [175]
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若冲と相国寺、萬福寺と石峰寺 №1 <若冲連載44>

2009-10-18 | Weblog
 十八世紀後半の京都画壇。錦市場の青物大問屋に生まれた画家・伊藤若冲の生涯を一望すると、彼がかかわった寺からの視点で、若冲の生涯を三区分することができそうです。
 まず生誕から三十歳代なかばまで。青物問屋の伊藤家「桝源」は浄土宗の寺・宝蔵寺の檀家であった。宝蔵寺はいまも裏寺町通蛸薬師上ル、錦街の彼の生家から徒歩数分の地にある。父母や弟たちの墓も同境内に並んでいます。
 ただ天明の大火、そして幕末禁門の変、すなわち蛤御門の変「どんどん焼け」大火のため、二度の業火にみまわれ、墓石の表面はかなり傷んでいます。「どんどん」とは、大砲の轟音です。「とんど」では、ありません。
 ちなみに若冲の傑作「果蔬涅槃図」。大根を釈尊涅槃に見立て、周りを野菜果実たちが、悲しみ囲んでいる。実にユーモラスにして、荘厳な画です。この画は、どうも彼の母の菩提を弔うために描かれ、宝蔵寺に寄進された。そして同寺はすぐ近くに位置する浄土宗西山深草派本山の誓願寺に、上納したという伝承があります。
 若冲の母・清寿は1779年、八十歳で亡くなっています。若冲六十四歳、石峰寺に全力を注いでいた時期です。野菜涅槃図は、亡き母のために石峰寺五百羅漢造営の途時に描いた傑作のようです。
 彼は家族を大切にしたひとです。「果蔬涅槃図」の由来伝承を、その通りであろうと、わたしは信じています。

 しかし若冲の墓は、家族の眠るここ宝蔵寺にはない。相國寺と石峰寺の、二箇所にある。だが相國寺の墓は寿蔵です。存命中に立てた生前墓であり、彼の遺骨はここには埋葬されていません。
 1800年9月10日、85歳で亡くなった若冲が葬られたのは、黄檗の寺、伏見深草の石峰寺でした。

 三十歳代のなかばころ、若冲はおそらく売茶翁高遊外を通じて、相國寺の大典を知る。そして若冲は菩提寺の宝蔵寺から離れ、大典を通じて相國寺と密接な関係を持つ。大典は、若冲にとっておそらく人生はじめて、深い親交をもった親友かつ師であったろうと思います。相國寺との親密な関係は以降、二十年ほども続く。
 しかし彼の最高傑作「動植綵絵」三十幅を相國寺に寄進した後、若冲は五十歳代なかばのころ突然、相國寺と袂をわかち、絶縁してしまう。
 そして数年の空白期間、このころの彼は錦市場の青物問屋仲間存亡の危機を救うために、全力で渾身を尽くすのだが、このことは追って記そうと思います。

 還暦を迎える前、五十八歳の若冲は黄檗山・萬福寺に帰依する。そして萬福寺末寺である石峰寺に、晩年の力すべてを注ぎ込みました。
 これから数度、若冲と各寺のことを記します。
<2009年10月18日> [174]
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『看聞日記』と横井清先生

2009-10-17 | Weblog
 千秋萬歳の歴史をみていますと、日記記録では『御ゆとのゝ上の日記』、『看聞日記』、『言継卿記』。この三点が長期間にわたり、また内容もくわしい。ただ『御湯殿日記』は代々、宮中女官によって延々と記された公務日記です。一個人が書き残した後両者とは性格がことなります。

 『看聞日記』には思い出があります。この日記の研究第一者である、中世史家の横井清先生とは、かつて京都にお住まいのおり、また岡山総社市に越されたころ、旧著『看聞御記』との絡みで、手紙や電話をたびたびやりとりしました。そして絶版だった『看聞御記』が、改訂版『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界』として、講談社学術文庫版(2002年)が刊行された。
 その年の暮れ、横井先生からこの本が送られて来、同封の手紙に「お電話を頂きまして、まことに有難うございました。[ちょうどその時]裏山の枯竹の始末を手伝っておりました。お陰さまで体を動かす仕事には事欠きません。…師走三十日」

 わたしは長年、横井先生のこの本をちゃんと読まずに、本棚で塵に任せておりました。また原文『看聞日記』(群書類従)に目を通したのは先週がはじめて…。恥ずかしい次第です。やはり、「千秋萬歳中世史年表」完成?に向け、『看聞日記』に近々、取り組もうと思っています。
 さて本日は、横井清著『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界』から、「四季の伏見」一文を引用します。ルビが多いので、便宜的に送り仮名表記はまとめて後ろに掲出します。
 なお『看聞日記』は、著者の伏見宮貞成親王(ふしみのみや・さだふさしんのう)が書き記した応永23年(1416)正月一日から延々、通算三十三年間に及ぶ大冊の日記です。宮は元旦の記載初日、まずはじめに「日記 自今年書始之以不書」。日記、今年よりこれを書き始む。以前は書かず。四十五歳の新春書初めでした。

<横井清文・四季の伏見>まず正月。元旦には「歯固」といって、餅を食べ、七日には若菜の粥(七種粥)、十五日には粥(小豆粥)を食した。正月早々の屠蘇酒も、むろんである。三箇日が明けると千秋萬歳があり、それに三毬打・風流松拍(松拍子・松囃子)・こぎの子遊びなどが、いやさかの新年の訪れを印象づけていた。千秋萬歳は千寿万財とも記され、一種の門付芸であって、家々をめぐって新年を寿ぐ祝言(寿詞)を述べ、いくばくかの米銭を得た。その芸人の多くは者であったらしい。者という言葉は『看聞日記』にはみえていないようだが、それは、この時代にと並ぶ“”であった。伏見御所では正月四日にこの千秋萬歳の祝言を受けるのが恒例で、貞成は「賜禄」して彼らの期待に応え、その祝言に耳を傾けていたらしい。
 三毬打は左義長とも記されるが、魔除けの慣習であって、本来は宮廷の行事として十五日頃に清涼殿の東庭に青竹三本を結び立て、これを焼いたものである。それが武士や庶民の間にも広まり、門松や注連飾などを焼いた。
 その三毬打と切っても切れぬ関係にあったのが、祝言の風流松拍。風流とは、いろいろな仮装や、意匠の工夫をこらした作り物をさし、松拍は“おはやし”であるが、これに踊りが添う。やはり門付芸の一種で、声聞師()の雑芸として知られたが、伏見庄では各村の庄民らによる風流松拍の競合があって、異彩を放っており、毎年壽例のこととして伏見御所[貞成邸]にやって来たものである。一例をあげると、貞成が宮家を嗣いだ直後の応永二十五年(1418)の正月七日には「地下殿原衆松拍」がやって来て、「種々、物学(ものまねヵ)異形、其の興少なからず」であったが、十五日には日暮れに「地下松拍」が来、石井村・山村・船津村の各村民が競い合う風で、あたりの人々も見物に群集。「吾代初度」と、殊のほかに喜んだ貞成は菓子(木の実)や【酒樽】を与えて、彼らの祝福を受けた。
 こぎの子というのは、要するに羽根。そのこぎの子(胡鬼子)を板でつくのだから、要するに羽根つきの遊びなのである。この遊びにも本来は消厄除災の願いが籠められていたようで、胡鬼板は三毬打の際に一緒に灰にされたらしい。…おもしろいのは「負態」が付随して楽しまれたことで、これはなにも羽根つきに限るものではなく、どの遊びにもついて回ったのだが、たとえば永享四年正月五日(1432)の例では、伏見御所の男女は「サルラウ」という千秋萬歳の芸を観たあと、男女両軍?に分かれて「こきの木勝負」に興じ、惜しくも負けた女軍は「負態」のために酒席に加わり、男軍と同様に酒を飲まされた。この「負態」という言葉はなじみが薄いが、勝負事に敗れた側がなにか一芸を演じて償うという形では、今日も脈々と生きている。<以上一月の項了>

※<読み参考> 看聞日記:かんもんにっき 看聞御記:かんもんぎょき 歯固:はがため 七種粥:ななくさかゆ 千秋萬歳:せんずまんざい 三毬打:さぎちょう 風流松拍:ふりゅうまつばやし 寿ぐ:ことほぐ 祝言:しゅうげん 門付芸:かどつけげい 寿詞:よごと 者:さんじょのもの 賜禄:しろく 清涼殿:せいりょうでん 門松:かどまつ 注連飾:しめかざり 声聞師:しょうもじ 地下殿原衆松拍:じげとのばらしゅうまつばやし 負態:まけわざ
<2009年10月17日> [173]
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左ギッチョ・ギッチョウ  <古代球技と大化の改新 1>

2009-10-12 | Weblog
 左利き、ピンクレディの歌うサウスポーを、「ぎっちょ」とか「ぎっちょう」といいます。辞典をみても漢字がなく仮名表示です。不思議な言葉と思います。
 正月15日小正月のころ、全国各地に火祭り「左義長」(さぎちょう)の風習がありました。地方によって「とんど」とか「どんど焼き」「さいとやき」「ほっけんぎょう」などともいうそうです。
 わたしの郷里・播州でも恒例の正月15日の行事でした。いまはもう行っていませんが、長い青竹を立て、竹竿の下は藁(わら)で包む。そして点火するのですが、青竹の破裂する爆音はいまでも記憶に残っています。子どもには、畏怖すべき恐怖や興奮を覚える、すさまじい破裂の音響でした。
 左義長は「さぎちょう」ですが、左を「ひだり」とあえて読めば「左ぎちょう」。どうも左利き「左ギッチョ・ギッチョウ」の語源のヒントはここにありそうに思います。

 『万葉集』巻第六949に「神亀四年正月、数の王子と諸の臣下等と、春日野に集ひて打毬の楽をなす」とあります。原文は「神龜四年正月 數王子及諸臣子等 集於春日野而作打毬之樂」。現代語では、西暦727年正月のこと、多数の皇族や臣下の子弟たちが春日野(かすがの)に集まって、打毬(打球・だきゅう)の遊びを行った。
 正倉院には、少年ふたりが打球棒(打毬杖・球打ちバット・ゴルフクラブに似る)を持つ姿が、まるで現代マンガのように描かれた図が残っています。「花卉人物長方氈二床」ですが、この画は小学館刊『萬葉集』第二巻(日本古典文学全集3)に掲載されています。ふたりは、どうみても中央あるいは西アジアの子どものようです。シルクロードあたりの打球遊びも、いつかは調べてみたいものです。
 この正月の遊び「打毬」(だきゅう)の棒・バット・クラブですが、平安期以降には「ぎっちょう」といい、毬長・毬杖・[求]杖・毬打などの字が当てられます。
 [求]とは横着ですが、マイパソコンでは漢字が出ません。手偏に求という字です。音はキュウ・ク・キウ。意味は、盛る、土をもっこの中に盛る、かき集める。また細長いさま、すくう(救う)、止まる。
 毬長・鞠杖・毬打などの本来の読みは、「きゅうちょう」「きゅうじょう」「きゅうだ」なのでしょうが、すべて「ぎっちょう」と呼ぶようになってしまいます。
 この遊びは、いまのゲートボールにいくらか似ているようです。ただ木球は地上を飛びもする、激しく危険なゲームです。老人は参加しないに限ります。
 バットは古い画ではゴルフクラブ状です。しかし時代が下るにつれ長細い打出の小槌にそっくりになっていきます。江戸時代中期以降には、魔よけの祝い贈答品。新年恒例の美しい飾り玩具になってしまいます。
 球は木製の円球です。また子どもたちだけでなく、青年たちも楽しんだことが、絵巻で知られます。平安末期の作とされる鳥羽僧正「鳥獣人物戯画」や「年中行事絵巻」にも描かれていますが、遊んでいるのは子どもだけではありません。成人も興じています。
 鎌倉時代中期の作「西行物語絵巻 大原本」にも打球に興ずる子どもたちが描かれています。ひとりは女の子ですが、足元をはだけて、何ともかわいい姿で遊んでいます。西行はひとり、陋屋で片肘ついて、柴垣の外の遊児たちを、静かな笑顔で見守っているようです。
 子どもたちが手にする打杖は、棒がみなしなっており、形からみるに木製の鍬鋤(くわ・すき)のようです。「鳥獣人物戯画」「年中行事絵巻」も同様のかたちです。いずれも庶民を描いていますので、バットは木製の鍬や鋤で代用したのかと思います。
 古くからの、おそらく大陸から渡来した遊戯・スポーツですが、本来は正月限定の神事です。独楽回し、羽子板、凧あげ、双六…。不思議と新春に限られた遊びは多いようですね。

 さて火祭りの左義長、三毬長、三毬杖、三[求]杖、三毬打などと書いて「さぎちょう」とよぶ。とんど「左義長」字は、どうも中世以降に用いられ、近世に席捲した語のようです。
 小正月の火祭りのおり、正月遊戯に使った打球の棒・バットを三本、三脚にして立て、竹を中にして縛り、足元を藁(わら)で覆う。そして点火する。一緒に燃やすのは、正月の注連飾りや門松、書初めなどです。元旦から二週間、特別に用いられた正月の道具・品々が火にくべられます。楽しかったお正月のハレの日は終わり、この火とともに歳の神も去っていくようです。
 中世晩期、十六世紀後期作「洛中洛外図屏風」、上杉本や歴博乙本でも、左義長「とんど」をみることができますが、現在も残る風習と同じような形態です。ただし追求考究は当然、必要ですが。

 ところで、左利きのギッチョウに話しを戻します。打球・ギッチョウ遊びで、左打ちプレイヤーを、「左ギッチョウ」と呼んだのではないでしょうか。
 昔の図絵に描かれた打者をみても、みな右打ちばかり…。少し残念な気がします。正月の神事でもあり、もしかしたら左打ちが禁じられていたのでしょうか。左右に差別はあってはならぬ、と思うのですが。
 これから時々、「左義長」のことを書こうと思っています。左ギッチョではなく、「さぎちょう」「とんど」です。それと遊戯の打球「ぎっちょう」のこともあと数度。

追伸:吉川弘文館『国史大辞典』第4巻「ぎっちょう・毬杖」の項があります。「毬杖(ぎっちょう)の図」が掲載されていますが、子どもは打出の小槌に似たバットを手にしています。しかし成人は鍬鋤型の棒で遊んでいます。そして何とその内のひとりは、左利きでした。上記の差別的発言記載を訂正します。なおこの図の正面、上方に描かれた人物に注目。扇子を手に顔半分を隠していますが、綿の帽子からみて、声聞師の万歳法師であろうと思います。
<2009年10月12日> [172]
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「千秋萬歳」中世史年表 新版 <後編>

2009-10-10 | Weblog
1500年1月4日「大こく千しゆ万せゐ申」大黒党が千秋萬歳(せんしゆうばんぜい)を申す。<御湯殿>
1503年1月5日「千秋萬歳来、如例」<実隆公記>
1505年1月4日 禁裏議定所の庭で千秋萬歳が行なわれた<二水記>
1505年1月5日 禁裏議定所の庭で、北畠声聞師による千秋萬歳が行なわれた<二水記>
1507年 今の舞々と申すは、世間を往来する声聞士が仏菩薩の因縁を唱へ人を勧る<旅宿問答>
1509年1月4日 禁裏にて大黒の千秋萬歳<京都東山御文庫記録>
1509年1月5日 禁裏にて北畠の千秋萬歳<京都東山御文庫記録>
1509年1月11日 禁裏にて目白の千秋萬歳<京都東山御文庫記録>
1509年1月13日「神主方千寿萬歳、如形在之」<春日社司祐稱記>
1510年1月13日 春日社の神主方で千秋萬歳が形の如くある<春日社司祐稱記>
1512年1月2日 近江国志賀郡堅田庄の伊豆神社に、毎年千秋萬歳が来て、禄200文は下司が出す<居初寅夫家文書>
1512年1月5日 禁裏に北畠声聞師七、八人が参内し、千秋萬歳を催す<後柏原院御記>
1515年1月5日 三条西実隆邸に「千秋萬歳来」<実隆公記>
1516年1月13日「千秋萬歳来、如例年、給禄」<後法成寺尚通公記>
1518年1月11日 伏見宮に参じた天王寺千秋萬歳が帯をもらう<伏見宮貞敦親王日記>
1519年1月4日 伏見殿に千秋萬歳が参入。芸を尽くし太刀を与えられる<二水記>
1520年1月4日 禁裏に千秋萬歳が常の如くに参る<二水記>
1520年1月5日「千秋萬歳来」<実隆公記>
1522年1月5日「今日北畠聖門師、申千秋萬歳、於議定所申之」<隆康卿記>
1523年1月5日 千秋萬歳、三条西実隆邸に参入<元長卿記>
1528年1月9日「雪ふる。せんすまんさい大こくまいる。きちやう所の御庭にて申。めてたしめてたし。宮の御かたなる」千秋(せんず)萬歳大黒が参り、議定所の庭で申す。目出度し目出度し<御湯殿>
1528年1月10日「きたはたけまいりてせんすまんさい申」北畠の千秋萬歳<御湯殿>
1529年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1529年1月5日「きたはたけまいる。まいなととしとしのやうにまいまいらする」北畠が年々の如く舞々等を舞う<御湯殿><言継卿記>
1530年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1530年1月5日「きたはたけまいる。まいなとまいてめてたし」北畠が舞を舞う。目出度し<御湯殿>
1531年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1531年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申。としとしのことくまいなとまいまいりていつる」北畠の千秋萬歳、舞を舞う<御湯殿>
1532年1月4日「千秋万さいまいりて御さか月(御盃)まいる」<御湯殿>
1532年1月5日「千秋万さいまいる」<御湯殿>
1533年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1533年1月5日「きたはたけまいりて。としとしのことくまはられ候て めてたしめてたし」<御湯殿>「北畠之声聞師千秋萬歳三人参候了、如例参議定所御庭曲舞[盛長夢物語・頼朝都入等也]<言継卿記>
1534年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1534年1月5日「千秋万歳まいる。きたはたけ」<御湯殿>
1535年1月4日「千す万さいまいりて御さか月まいる」<御湯殿>
1535年1月5日「千す万さゐきたはたけまいる。てうのはしめあり。めてたし」<御湯殿>
1537年1月4日「千秋万さいまいりて御さかつきまいる」<御湯殿>
1537年1月5日「きたはたけ千秋万さいまいる。まわせらるゝ」<御湯殿>
1537年1月7日「千秋萬歳、二日ニ来候と、又今日来候と、両度の唯今来候、然而見苦敷事候間、させず候て、嘉例のごとく代物、二日のに百疋、又七日のに二百疋遣候」<證如上人日記>
1538年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1538年1月5日「北はたけまいる。としとしのことくまいなとまいまい(舞々)らする」<御湯殿>
1539年1月4日「千す万さいまいりてまはせらるゝ」<御湯殿>
1539年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申。てうのはしめあり」<御湯殿>
1540年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1540年1月5日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1541年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1541年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申」<御湯殿>
1542年1月4日「千す万さいまいりて申。…千す万さいの御さか月もまいる」<御湯殿>
1542年1月5日「北はたけまいりて。千す万さい申」<御湯殿>
1543年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1543年1月5日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1544年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1544年1月5日「きたはたけまいる。千す万さい申」<御湯殿>
1545年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1545年1月5日「北はたけまいりて千す万さい申。てうのはしめあり。めてたし」<御湯殿>
1546年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>千秋萬歳7人、禁裏孔雀間において行なう<後奈良院宸記><言継卿記>
1546年1月5日「きたはたけまいりて千す万さい申」<御湯殿>「千秋萬歳北畠五人参、孔雀間有之」<後奈良院宸記>「今日四過時分参内、北畠千秋萬歳参五人、於孔雀間申之、舞三番了」<言継卿記>
1547年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1547年1月5日「きたはたけまいる」<御湯殿>
1548年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿>
1549年1月5日「千す万さいまいりてまはせらるゝ」<御湯殿>
1549年1月6日「北はたけまいりて千す万さい申。これは五日の事也」<御湯殿>
1549年1月13日 春日社で千秋萬歳があるが、後段は無しという<中臣祐金記>
1550年1月4日「千す万さいまいる。くしやくのまにて申」<御湯殿>禁裏に千秋萬歳が参り、孔雀間で舞う<言継卿記>
1550年1月5日 禁裏で北畠の千秋萬歳、曲舞(和田酒もり・なす与一)を舞う<言継卿記>
1550年閏5月8日 伏見宮家の侍・三木新五郎によって声聞師大黒が殺害された。これがために大騒動が起こり、伏見宮家では声聞師成敗のために二千人を動員。事件の拡大を恐れた禁裏は、伏見宮に「穏便之御沙汰可然之由」と収束を指示<言継卿記>
1551年1月4日「千秋万さいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1551年1月5日「北はたけまいりて。としとしのことくまい【まい】らする<御湯殿>禁裏で北畠の千秋萬歳、曲舞[和田酒盛・こし越・ゆり若]を演じる<言継卿記>
1551年1月7日「千秋萬歳両日之分七人来由候」<證如上人日記>
1551年1月中旬 イエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルがはじめて京の都に到着した。ちょうど一年後に記された書簡で「都地方のひどい寒さや、いたる所で旅人を襲う盗賊の群れのことなどは、今更語ろうと思わない。/都には数日間[近江坂本も含め11日間]いただけである。私たちは国王[後奈良天皇]に謁して、日本で信仰教義を説く許可を得ようと思ったのである。ところが私たちは、国王に謁することができなかった。その上、国民はずいぶん前から、王に従わなくなっている由を聞いたので、私は国王に近づこうとするこれ以上の努力を中止し、国王から許可を得ることはあきらめた。…この地方には当時、新しい戦争が起こりかけていたので、私たちは、いまこの地方は聖教を受け入れる態勢になっていないと判断せざるを得なかった。/都はかつて大きな都会であったけれども、今日では打ち続いた戦乱の結果、その大部分が破壊されている。昔はここに十八万戸の家が櫛比していたという。私は都を構成している全体の大きさからみて、いかにもありそうなことだと考えた。今でもなお私には、十万戸以上の家がならんでいそうに思われるのに、それでいて、ひどく破壊せられ、かつ灰燼に帰しているのである」応仁の乱以降も、京の荒廃と惨状は延々と続いている。また彼は比叡山に入ろうとしたが、献上品がないということで、入山もかなわなかった。ザビエルはフェルナンデスを従えて、御所の門前に二日か三日、立って懇願したが取り次いでもらえず、通りすがり町衆の嘲笑を得るだけであった。遠来の珍客ザビエルらの入洛は、本人の記載以外、日本国内のどの公家の日記にも記されていない<聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄>
1552年1月4日「千す万さいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1552年1月5日「千す万さいまいる」<御湯殿>「北畠之千秋萬歳参、於孔雀間申之、曲舞三番了」<言継卿記>
1553年1月4日「千秋万さいまいりて。御さか月まいる」<御湯殿>
1553年1月5日「千秋万さゐまいる」<御湯殿>
1554年1月4日「千秋万さいまいる」<御湯殿>御近所之声聞師の大黒五人が参る。曲舞は鞍馬常盤・吉盛・木曽願書<言継卿記>
1554年1月5日「千秋万さいまいる」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に午時に参、今日者北畠声聞師也、但桜町参云々」今日は北畠声聞師の日で、但し桜町から来るという<言継卿記>
1554年1月7日「千秋萬歳両日分来之由候条、去年者祝言申度之由候間、申させ候処、言語道断見苦為躰曲事候之間、当年者是ヘ喚入間敷之由申出之処、彼等申にハ…」<證如上人日記>本願寺に千秋萬歳8人が訪れ、祝言ののち、久世舞を舞う<天文日記>
1554年1月18日「御三木ちや(左義長)、いつものことし、大こくはやしまいらする」<御湯殿>
1555年1月4日「大こく千秋万さいまいりて。いつものことく申」<御湯殿>禁裏に大黒が千秋萬歳に参り、孔雀間で行い曲舞も舞う<言継卿記>
1555年1月5日「きたはたけ千秋万歳まいりていつものことく申」<御湯殿><言継卿記>
1556年1月4日「せんすまんさいまいる」<御湯殿>
1556年1月5日「せんすまんさいまいる」<御湯殿>
1557年1月4日「千す万さいまいりて。いつものことく御さか月まいる」<御湯殿>
1557年1月5日「けふの千す万さいもいつものことし。ておのはしめいつものことし」<御湯殿>
1559年1月4日「せんすまんさい五人まいる」<御湯殿>禁裏の千秋萬歳を御近所の声聞師5人が旧儀に復し議定所の庭で行なう<言継卿記>
1559年1月5日「けふもせんすまんさい六人まいる」<御湯殿>禁裏に北畠声聞師6人が例年の如く来て、舞三、四番を舞う<言継卿記>
1559年1月7日 本願寺に千秋萬歳が来て、舞五番がある「千寿萬歳参候」<私心記>
1559年1月7日 本願寺に千寿萬歳8人が訪れ祝言の後、久世舞を舞う<天文日記>
1560年1月4日「千すまんさい五人まいる」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に可参之由有之間、午時参内、大黒五人未刻参、於議定所御庭如例年申之」議定所の庭にて声聞師大黒5人の千秋萬歳が行なわれた<言継卿記>
1560年1月5日「きたはたけのせんすまんさい五人まいる」<御湯殿>北畠声聞師5人の千秋萬歳、後に曲舞も舞う<言継卿記>
1561年1月4日「千すまんさい五人まいる」<御湯殿>
1561年1月5日「さくらまちのせんすまんさい六人まいる」禁裏に桜町の千秋萬歳5人が参る<御湯殿>
1561年1月13日 春日社で千秋萬歳があるが、社中衆ばかりで陰陽沙汰は無いという<中臣祐金記>
1562年1月4日「大こくせんすまんさいまいる。五人まいる」禁裏に大黒5人が来て千秋萬歳<御湯殿>
1562年1月5日「さくらまちのせんすまんさいまいる。五人」禁裏に桜町の千秋萬歳5人が参る<御湯殿>
1563年1月4日「千すまんさい大こく五人まいる。ゆきふりておそくまいる」降雪のため例年より遅い時間の参内<御湯殿>大黒の千秋萬歳が議定所の庭であり、後に曲舞二番(張良・大織冠)を舞う<言継卿記><惟房公記>
1563年1月5日「さくらまちのせんすまんさい五人まいる」<御湯殿>禁裏に桜町の声聞師が参内し、千秋萬歳を演じ、後に曲舞二番を舞う(浜出鳥・烏帽子折)<言継卿記><惟房公記>
1564年1月4日「千すまんさいまいりて。御さか月きちやう所にて一こんまいる」<御湯殿>禁裏で千秋萬歳、議定所で盃<言継卿記><惟房公記>
1564年1月5日「さくら町の千すまんさいまいる」<御湯殿>「北畠之千秋萬歳五人参、如昨日於議定所有之」北畠[桜町?]の唱門師の千秋萬歳5人が議定所で行なわれる<言継卿記>「禁中千秋万歳参之、桜町唱門士云々」<惟房公記>
1565年1月4日「いつものことくせんすまんさいまいる。大こく五人まいりて。色々めてたき事申。はしめて御はいになる。いく久しくもとめてたしめてたし」 <御湯殿><言継卿記>
1565年1月5日「いつものことくせんすまんさいまいる。さくらまちのせんつまんさい五人まいりて。めてたき事とも色々申」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に未刻参内、自桜町参、根本北畠也、如例議定所御庭」桜町より参る、根本は北畠。議定所の庭で曲舞(張良・筥根脂・烏帽子折・秀平・浜出等)を舞う<言継卿記>
1566年1月4日 禁裏に近所の声聞師の千秋萬歳が参り、夕暮れに退出す<言継卿記>
1566年1月5日 禁裏に桜町の声聞師が参内し、千秋萬歳を演じる<言継卿記>
1566年1月13日 春日社神主宅で千秋萬歳があるが、声聞師は不参する<中臣祐金記>
1567年1月4日「大こく五人まいる」<御湯殿>大黒5人、禁裏の千秋萬歳に参る<言継卿記>
1567年1月5日「さくら町のせんすまんさいことしは四人まいる。いつも五人なり」<御湯殿>桜町の千秋萬歳4人が議定所の庭で舞い、曲舞二番(烏帽子折・あつもり)も舞う。いつもは5人という<言継卿記>
1568年1月4日「大こくせんすまんさいとしとしのことくまいる」<御湯殿>禁裏で声聞師大黒5人の千秋萬歳。ついで曲舞の大織冠を舞う。また夷舁、参内して車寄で舞う<言継卿記>
1568年1月5日「さくらまちのせんすまんさいまいる。てうのはし【め】あり」<御湯殿>桜町の千秋萬歳が議定所の庭であり、祝言の後に曲舞(和田酒盛・浜出)がある<言継卿記>
1568年1月18日「払焼御三毬打(さぎちょう)如例年、大黒以下声聞師各参囃之、雖大雪賤男女之見物群衆也」<言継卿記>
1569年1月4日「大こく五人まいる」<御湯殿>
1569年1月5日「けふさくらまちのせんすまんさいまいらす。世のふつそうゆへなり」今日、桜町声聞師の千秋萬歳は世上物騒の故をもって参内せず<御湯殿>
1570年1月2日「大こくひさもんしん上申。こほし四郎二郎。くらう(九郎)二郎はうきしん上(箒進上)申。御庭はきそむる」大黒声聞師が参内して毘沙門経を申す。この日、らも参内し箒を献上し、庭掃きに従事する<御湯殿>
1570年1月4日「千すまんさいいつものことく大こくまいる」<御湯殿>「禁裏千秋萬歳に午時参内…近所声聞師大黒参、五人有之、於議定所御庭申之、如例、種々曲共舞等也」近所の声聞師大黒5人が参内し、議定所の庭で千秋萬歳を演ずる<言継卿記>
1570年1月5日「きたはたけのせんつまんさい三人まいる。色々めてたき御事申」北畠の千秋萬歳3人が色々のめでたきことを申す<御湯殿><言継卿記>
1571年1月4日「せんすまんさいまいる」<御湯殿>禁裏で大黒の千秋萬歳、議定所の庭で演じる<言継卿記>
1571年1月5日「せんすまんさいまいる」<御湯殿><言継卿記>
1572年1月2日 この日より5日にかけて、声聞師大黒が禁裏に参内して毘沙門経を読む<御湯殿>
1572年1月4日「大こく五人まいる」<御湯殿>
1572年1月5日「きたはたけのせんす万さいまいる。三人まいる」北畠の千秋萬歳3人参る<御湯殿>
1573年1月2日 声聞師大黒、禁裏に参内して毘沙門経を進める<御湯殿>
1573年1月4日「千すまんさい六人まいる」<御湯殿>
1573年1月5日「千すまんさい四人まいる。てうのはしめあり」<御湯殿>
1575年1月4日「大こく六人まいる」<御湯殿>
1576年1月4日「せんしゆまんさい大こく五人まいる。まいあり」<御湯殿>禁裏の千秋萬歳に大黒5人が参り、曲舞も舞う<言継卿記>
1576年1月5日 桜町の千秋萬歳3人が参る<言継卿記>
1576年1月8日「従梅津千秋萬歳、昨日依雨儀今日来、十七八人有之」<言継卿記>梅津より千秋萬歳[18、9人]が山科言継邸に来る。梅津の地を知行するため来ると注される<言経卿記>
1577年1月4日「大こくせんすまんさい五人まいる」<御湯殿>
1579年1月4日「大こく六人まいる。まいまう」<御湯殿>禁裏に大黒6人が参り、舞を舞う<言継卿記>
1579年1月5日「きたはたけのせんすまんさい三人まいる」<御湯殿>千秋萬歳3人が参り、孔雀間で舞う<言継卿記>
1579年1月7日 梅津より千秋萬歳7人が山科言継邸に参り、例年のごとく舞う<言継卿記>
1580年1月4日「大こくせんすまんさい六人まいる。二條へもまいる」禁裏に大黒6人が参り、次に二条邸にも参る<御湯殿>
1580年1月5日「さくらまちのせんすまんさい三人まいる」桜町の千秋萬歳3人が参る<御湯殿>
1581年1月4日「大こくせんすまんさいまいる。女院の御事にことしはつゝみなしにまいせらるゝ」禁裏に大黒が参る。先年女院死去のため、鼓無しに舞わせる<御湯殿>
1581年1月5日「雪ふる。きたはたけのせんすまんさいまいる。けふはしゆこうの御七日にてかへさるゝ」北畠の千秋萬歳が参るが、主公の御七日のため帰される<御湯殿>
1582年1月4日「たいこく五人まいりて。せんすまんさい申。御さか月は一こんまいる。ことしは雨ゆへくちやくのまにて申ほとに。大こくいてゝのち。いつものことくきちやう所にて御さか月一こんまいる。おとこたちもいつものことく御ゆとのゝうへにてめしいたしあり」禁裏の千秋萬歳に大黒5人が参り舞う。雨のため孔雀間で舞い、終わって例年のように議定所にて盃<御湯殿>「今日せんすうまんざいにしこう不申候」<晴豊記>
1582年1月5日「さくらまちのせんすまんさい三人まいる」<御湯殿>
1582年6月2日 本能寺の変
1583年1月4日「せんすまんさい大こく六人まいる。いつものことくきちやう所にてまいまいらする」千秋萬歳大黒6人、例年の如く議定所の庭で舞々などを舞う<御湯殿>
1583年1月5日「はるゝ。ゆきふる。さくらまちのせんすまんさいまいりて。きちやう所にてまいまいらせ候」<御湯殿>
1585年1月5日 北野社に千秋萬歳が来て舞う<目代昭世引付>
1586年1月4日「はるゝ。大こくせんすまんさいとしとしのことくまいる」晴れ。禁裏の千秋萬歳に大黒が参り、例年のように議定所にて盃<御湯殿>
1586年1月5日 桜町の千秋萬歳11人が参る<御湯殿>
1587年1月4日「千す万さいきてう所の御庭にて申」<御湯殿>
1587年1月5日「桜町の千す万さいまいる。きてう所の御庭にて申」桜町の千秋萬歳が議定所の庭である<御湯殿>
1587年1月6日 千秋萬歳が北野社目代のもとを訪れる。いつもは5日<北野目代日記>
1588年1月4日「はるゝ。せんすまんさいまいる。みなみにて申」千秋萬歳が参り、南の庭で囃す<御湯殿>
1588年1月5日「はるゝ。さくらまちのせんすまんさいまいる。みなみにて申」 桜町の千秋萬歳が南の庭で行われる<御湯殿>
1589年1月4日「せんすまんさいまいる。みなみにてはやし申」<御湯殿>
1589年1月5日「櫻まちまいる。昨日のことくみなみにて申」<御湯殿>
1590年1月4日「せんすまんさいまいる。みなみの御にわにてはやし申」<御湯殿>
1590年1月5日「さくらまちまいりて。せんすまんさい申。みなみの御庭にてきのふのことくはやしまいらする」<御湯殿>
1591年1月4日「雨ふる。はるゝ。せんすまんさいまいりて。いつものことくみなみの御にわにて申」<御湯殿>
1591年1月5日「さくらまちのせんすまんさいまいる。みなみの御【にわ】にて申」<御湯殿>
1592年 壬申倭乱。秀吉の朝鮮侵略はじまる。
1594年3月12日 京都・堺・大坂の陰陽師、すなわち声聞師たち127人が尾張国に強制移住させられた。清須あたりの荒地開発に使役される。内訳は、京都109人ともっと多く、京の唱門師は壊滅的大打撃を受ける。その他、堺10人、大坂8人。奈良大和はなぜか徴発されていない。
1595年1月4日「けふのせんすまんさいはまいらす」今日の千秋萬歳は参らず<御湯殿>追放翌年の1595年正月、禁裏に千秋萬歳は不参。
 慶長17年(1612)1月5日の再開まで、内裏での千秋萬歳は中断してしまう。ほぼ20年ぶりのこの日、参内したのは桜町の声聞師であった。そして翌年正月15日、仙洞御所での三毬打(さぎちょう・左義長)に、大黒が久しぶりに参入し「音曲有り」。なお秀吉の死去は、1598年8月18日。
  
 最後に、ザビエルの遺志をついだイエズス会宣教師たちが、いまから四百年前に編纂した『日葡辞書』をみてみましょう。1603年に本編、翌年に補遺が足されて完成した「日本語・ポルトガル語辞典」。西欧人がはじめて作り上げた、本格的な日本語辞典です。
 この本で、「千秋萬歳」や「声聞師」をみますと、
<千秋>[センシュウ]
正月、あるいはその他の祝祭の折に、日本人が挨拶をかわすのに用いる語で、「何千年も生きなさい」と言うようなもの。(千秋は千の秋[千の年・歳])
<千秋萬歳>[センシュウバンゼイ]
 千の秋と万の年と。
 [注:万歳の読みは<バンゼイ>]
<万歳>[バンゼイ:読み注意]
多くの年。例、千秋萬歳[せんしゅうばんぜい]、または万年[ばんねん・まんねん]。永久に、長年の意。
<唱門師・声聞師>[ショウモンジ]
舞をする呪術師や占い師のような者で、祈祷や呪術などを行なう者。
<陰陽師>[ヲンヤゥジ]
占いをする者、または博士。呪術師、または占い師。

 豊臣秀吉による突然の声聞師(唱門師・芸能陰陽師・萬歳法師)たちの大受難。千秋萬歳が禁止された直後に編纂された『日葡辞書』です。そのような時期に編纂されたためか、残念ながらこの辞書には、門付千秋萬歳(せんしゅう・せんずまんざい)の記載はありません。

 なお年表作成のため参考にした書籍は、盛田嘉徳著『中世賎民と雑芸能の研究』(雄山閣出版)。それに世界人権問題研究センター編『・声聞師・舞々の研究』(思文閣出版)、渡辺昭五著『中近世浮浪芸の系譜』(岩田書院)、『御ゆとのゝ上の日記』など。これら資史料を加えて、年表を充実してみました。
 しかしいま、再度改訂したいと思っています。『看聞日記』と『言継卿記』など、該当部分の原文引用が必要だからです。さて、いつ実行しましょうか…。少し、悩んでいます。
<2009年10月11日>
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「千秋萬歳」中世史年表 新版 <前編>

2009-10-10 | Weblog
 この年表は、新春の寿ぎ(ことほぎ)芸能である千秋萬歳(千寿・万財・万才・せんしゅう・せんずまんざい)関連の歴史年表です。「まんざい」であって、萬歳(ばんぜい・ばんざい)ではありません。またいくらか、萬歳以外でも関連する事項、民の萬歳法師である声聞師・唱門師(しょうもんじ)のことなども含んでいます。
 中世期、彼ら声聞師たちは正月早々、禁中や寺社権門に参入し、千秋萬歳を演じます。正月18日には声聞師の大黒などは、火祭りの左義長・三毬打(さぎちょう)で、拍子をとって囃しました。左義長は民間では、小正月の火祭り「とんど」「どんど」などとよぶ恒例だった行事です。
 また声聞師たちは、猿楽・舞々などの芸能をいつも演じています。そして九月九日の重陽「菊の節句」前日、毎年のように声聞師大黒は禁裏に参内し、菊を植えています。
 しかし左義長や菊のことなどは、新春の千秋萬歳とは直接のつながりがありません。一部を記しましたが、原則として略しました。なお<御湯殿>は宮中女官公務日記<御ゆとのゝ上の日記>の略記です。
 ところでこの年表は、校正が十分ではありません。これから少しずつ修正追加していきますが、間違いに気づかれた方がありましたら、ぜひご指摘ください。
続編「近世史年表」もいつかは作りたいものですが、かなりの労力がいりそうです。もう尻込みをしております。
 なおこの稿、再改定「新版」は長文のため、ブログの字数制限をこえてしまいました。前編後編にわけて掲載します。前編は10月10日、後編は10月11日付けです。

11世紀はじめ「千秋萬歳之酒祷(さかほがい)」旨い酒が醸造なるように、という呪言・予祝という<新猿楽記>
11世紀末「千秋萬歳をもちてはやらせて」<古今著聞集>
1149年 醍醐寺領近江国柏原庄の桶餅修正会料支配に、千秋萬歳料がみえる<醍醐雑事記>
1165年 千秋萬歳とは、正月の子の日に、寿詞を唱えて禄物を乞うて歩くもの<古今著聞集>
1186年以前 「此ノ子(ね)ノ日ト卯(う)ノ日トノ、正月七日内ニ出来レル時、千秋万才ト云物ハスルナリ。二カ中ニ一アレハス。二日乍ラモ有レハニ度スルナリ。装束ハ錦ノ帽子ニ、ヲリモノ、キウタイ(裘袋)、綾ノサシヌキ(指貫)、花節ノワラフカクツ(藁深沓)ハイテ、左手ニソテマクヒニ、ウツヱ(卯杖)カ子ノ日ノ松カマトイテ(纏いて)、右手ニヒアフキ(檜扇)ヲ二間許開テ、口ヲオシイテ、二人ノ事トリ[ふたりの米穀金銭授受の雑用係]、三人フクロ(袋)持チシテ[賜物を入れる袋持ちが三人]、スルナリ。此ハ乞食法師ノスル事也。正月七日ノ子ノ日ナルニ、シアワセ(幸福)タルヲ以テ、美キ事ニスル也。」乞食法師のすることとして、千秋萬歳の風俗が記される。小松は「正月ノ七日ノ内ニ来レル子ノ日、東山ニ出テ、長三寸生出タル小松ヲ根引ニ根引テ…」<知恩院本・倭漢朗詠注上>
13世紀はじめ 千秋萬歳始事に「ぶんふうぜい」なる者の創始とし「錦の帽子をきたりけり。始は代を祝ひ、次に君の御所を祝ひ」<参語集>
1204年1月3日 千秋萬歳、禁中に参入する<明月記>
1211年1月1日「千秋萬歳法師原等有御覧」後鳥羽院がみる<猪隈関白記>
1213年1月3日 前内府の邸を「千壽萬歳入興之間也」<明月記>
1219年「錦ノボウシ(帽子)キタルモノ、手ヲムナシクシテアユミキケレバ、人々千秋萬歳ノイルハ、何事ゾトワラヒケリ」錦の帽子をかぶった鷹飼が、禁裏の門を鷹も連れずにくぐるのをみて、帽子が千秋萬歳とそっくりだと殿上人たちが大笑いした。両人の綿帽子はよく似ていた<続古事談>
1220年11月16日 豊明節会に貴族たちが遊びのひとつとして、宴席で千秋萬歳などの物真似をして楽しんだ<明月記>
1225年1月3日 藤原定家の邸宅を「臨昏千壽萬歳来」<明月記>
1233年1月1日「万福弥富、毎年幸甚々々、(略)院千秋萬歳御覧」<経光卿記>
1233年1月1日 千秋萬歳が北白川院(藤原陳子)に参入<民経記>
1241年1月9日「千秋萬歳参入、下賜帋立菓子十合了」<勝延法眼記>
1241年1月10日「今日千秋萬歳、小松法師参入盡曲、帋立菓子十合、酒肴一具下給之了」<勝延法眼記>
1246年1月10日 宣陽門院・鷹司院、「千秋萬歳法師等有御覧、毎年正月子日如此、昏黒退出」千秋萬歳を行なう日は、必ずしも子の日にこだわらず、卯の日のことも忘れられたか<岡屋関白記>
1247年1月1日 後嵯峨院御所に「千秋萬歳群参」<葉黄記>
1254年「侍を御かんどう(勘当)有けるには、千秋萬歳、その侍をまはせ(舞わせ)られけり」<古今著聞集>
1263年1月9日 醍醐寺三宝院に千秋萬歳が伺候して祝言を申す<後七日雑記>
1275年 千秋萬歳とは、正月子の日にの乞食法師が仙人の装束をまねて、小松を持って家々を訪れ、様々な祝言をいって、禄物にあずかると記す。「千秋萬歳トテ、コノゴロ正月ニハ、ノ乞食法師ガ仙人ノ装束ヲマナビテ、小松ヲ手ニサヽゲテ推参シテ、様々ノ祝言ヲイヒツヾケテ、録物ニアズカルモ、コノハツ日ノイハヒ(祝)ナリ」小松は門松と同じく年のあらたまりに来訪する歳神の依代で、萬歳法師は歳神の神格を負って、各戸を祝って門付けたのであろう<名語記>
1280年1月9日「見物千秋萬歳、非無其興、少時帰畢」<勘仲記>
1287年ころ 千秋萬歳と鷹司の帽子の違いについて述べている「大様ハ鷹カヒ(鷹飼)ノ帽子ニタガハズ」<塵袋>
1289年1月1日「院御薬儀平宰相奉行、公卿儀同三司以下参仕云々、千秋萬歳【並】新院御薬吉田中納言奉行」<勘仲記>
1289年1月8日「千秋萬歳法師参入、叡覧之程也」<勘仲記>
1301年1月1日「千秋萬歳参、十二段了、萬歳退出」<実任卿記>千秋萬歳が仙洞御所に参内し、十二段を演じる<継塵記>
1301年1月5日「今日千秋萬歳、被急之故也…猿楽三番了」<実任卿記>千秋萬歳が禁裏にて猿楽三番と手鞠・振劒を演じた。千秋萬歳、小御所前庭で猿楽を行なう<継塵記>
1318年3月29日 後醍醐天皇が即位。
1319年1月1日「千秋萬歳法師参入、乱舞了退出」<花園天皇宸記>
1319年1月13日「千秋萬歳法師参入、猿楽三番了」<花園院御記>
1319年1月13日 千秋萬歳、御所で猿楽を演じる<花園天皇宸記>
1321年1月3日 東大寺の神輿が入洛したため、千秋萬歳の参内を中止する<花園天皇宸記>
1324年1月12日 御後見の千秋萬歳が、奈良興福寺・大乗院を訪れる<内山御所毎日抄>
1324年1月15日「千秋萬歳法師参入、散楽如例」<花園院御記>
1324年1月15日 千秋萬歳、御所に参入<花園天皇宸記>
1334年 後醍醐天皇による建武新政。
1337年1月12日 醍醐寺座主坊に千秋萬歳が来る<建武四年後七日御修法記>
1338年8月 北朝は足利尊氏を征夷大将軍に任ずる。室町時代。
1347年1月1日「千秋萬歳法師祝言等如例可有之云々」<園太暦>
1369年11月11日「於毘沙門堂北畠、為京極三位行光卿下人被殺害了」北畠の声聞師が京極行光の下人によって殺害された<後愚昧記>
1385年1月13日「千秋萬歳法師等、神主館ニ【 】、祝等致沙汰【 】下行物等事」千秋萬歳が春日神社神主館を訪れる<至徳二年記>
1402年1月4日「四十文 正月四日千寿萬歳さかて/五十文[日同]千寿萬歳豆代/二十文 千寿萬歳白米代」<備中国新見荘領家方所下帳>
1416年1月11日 伏見殿に京の松拍(まつばやし)が参入し、猿楽等を行なう<看聞日記>
1418年1月4日「千寿万財参祝言申、賜酒肴如例」<看聞日記>
1419年1月4日 伏見殿に千寿万財が参入し、祝言を申す「賜禄如例」<看聞日記>
1419年1月11日「松拍参[柳原【及?】犬若]、猿楽種々施芸、禄物捶等賜之、当座飲之、乱舞了退出」<看聞日記>
1420年1月4日 伏見殿に千寿万財が参入し、祝言を申す<看聞日記>
1421年1月4日 伏見殿に「千寿万財参如例」<看聞日記>
1422年1月4日 伏見殿に千寿万財が参入する<看聞日記>
1423年1月4日 伏見殿に千寿万財が参入し、祝言を申す<看聞日記>
1423年1月11日 院が御悩のため、伏見殿では歌舞を止め松拍も不参<看聞日記>
1423年1月17日 京松拍が柳原から来るも追い返す<看聞日記>
1423年1月23日 院本復のため、柳原より京松拍が参入し猿楽等の芸をなす<看聞日記>
1424年1月5日 伏見殿に千寿万財が参入し、祝言を申す<看聞日記>
1425年1月4日 伏見殿に千寿万財が参入<看聞日記>
1425年1月11日 伏見殿に京松拍が参り、猿楽を行なう<看聞日記>
1428年1月4日 の小犬が仙洞御所に参入し、散楽を演じる<建内記>
1431年1月2日 将軍邸において観世、松拍・猿楽を催す<満済准后日記>
1431年1月11日 将軍邸において観世、松拍・猿楽を再度催す。以前は声聞師がつとめたが、推参を止められたという<満済准后日記>
1431年1月11日「北畠松拍参、次柳原松拍[初参]、各賜禄」伏見殿に北畠、そして初めて柳原の松拍が参入し、祝言を申す。おのおの禄を賜る<看聞日記>
1431年1月13日「千寿万財、号サルラウト、自公方可参之由、以大河内被仰云々、初参不審也、不及追出、施芸、禄事勧修寺ニ仰付」千寿万財サルラウ参入し芸をなす。また松拍小犬参入し、猿楽、手毬等殊勝の芸をなす<看聞日記>
1432年1月4日「当所[伏見]之千寿万財参祝言申。如例」<看聞日記>
1432年1月5日 伏見殿に千寿万財サルラウが参入し芸を催す<看聞日記>
1433年1月4日「地下之千寿万財参、如例」<看聞日記>
1433年1月11日 伏見殿に北畠松拍が参入して猿楽を演じる<看聞日記>
1433年1月12日 伏見殿に松拍小犬等も参入して猿楽をなす<看聞日記>
1433年1月27日 伏見殿に柳原松拍が来るも、留守のため追い出される<看聞日記>
1433年1月29日 先日追い出された蝶阿子孫が来て、猿楽五番をおこなう<看聞日記>
1434年1月4日「千寿万財参。給禄如例」<看聞日記> 
1434年1月6日「松拍[蝶阿、末村]参、追出、依諒闇、禁中ニも不被入、仍追出了」伏見殿に蝶阿末村が来るも追い出される<看聞日記>
1434年1月11日「千寿万財[サルラウ]参、追出、北畠松拍参、同追出。禁中不被入仍斟酌頻歎申…」千寿万財サルラウ・北畠松拍が追い帰される<看聞日記>
1434年1月19日「千寿万財さるらふ参、留守之由仰、追出」<看聞日記>
1434年1月20日「千寿万財さるらふ参祝言申、禄物如例」禄物を与えられる<看聞日記>
1435年1月4日「千寿万財参、歌舞賜禄如例」<看聞日記>
1435年1月11日 伏見殿に千寿万歳猿らうと北畠松拍が参入し、芸能を催す<看聞日記>
1436年1月2日 伏見殿に北畠の松拍が祝言を申す<看聞日記> 
1436年1月5日 千寿万財「サルラウ」が訪れ祝言を申す<看聞日記>
1436年1月7日 千寿萬財が訪れる「給太刀」<看聞日記>
1436年1月8日「千寿万財[予召仕者也]、太刀酒肴等給」伏見殿に仕える千寿万財が参り芸をなす。松拍蝶阿党も参るが、公方の許容がないため追い出される<看聞日記>
1436年1月13日 柳原の松拍小犬が参入し、猿楽七番を演じる<看聞日記>
1436年1月18日 内裏の三【求】(手偏に求)杖に、柳原の松拍が参じて拍す<看聞日記>
1436年6月14日 祇園会に北畠の「笠鷺鉾」が伏見殿に参入し、多くの見物衆を前にして屏中門で鵲舞を舞った。練貫一、太刀一を下賜された。以降もこの鉾は祇園会に練る<看聞日記>
1437年1月4日 柳原の松拍小犬、室町殿に参じ、足利義教の機嫌悪きにより追い出され、門番衆に打擲される<看聞日記>
1437年1月4日より1443年1月5日まで、「市」と称する千秋萬歳が毎年正月に伏見宮に参上<看聞日記>
1437年1月4日 伏見殿に松拍蝶阿党が参じるも、追い出される<看聞日記>
1437年1月6日 伏見殿に松拍蝶阿党が参り舞うも、「散々下手」の評価を与えられる<看聞日記>
1437年1月20日 声聞師の小犬が三[求]杖の拍をなす<看聞日記>
1438年1月6日 千寿万財市、伏見殿に参入「施芸給禄。折紙如例」<看聞日記>
1438年1月7日 松拍蝶阿が伏見殿に参るも追い返された<看聞日記>
1441年1月5日「千寿万財市参。祝言申。賜禄如例」<看聞日記>
1443年1月5日 伏見殿・内裏に千寿万財の市が参入<看聞日記>
1443年1月14日 松拍小犬等、参入について、公方の許可がないことにより議論となる<看聞日記>
1447年1月2日「一種乞食革歳首、到人家歌祝言、世号之千秋萬歳、前后相逐来、各与百銭」相國寺の僧瑞渓周鳳は、千秋萬歳を評して「一種乞食之輩」<臥雲日件禄>
1447年1月18日「禁裏【 】三毬打…今夜、北畠参入皷舞如例[中権喝食、見物之]、伏見宮三毬打、岩上皷舞云々」<建内記>
1467年1月18日 応仁・文明の大乱(~1477)。戦闘の開始は御霊林の戦いで、まず御霊社(現在の上御霊神社)鳥居脇の唱門師村が放火される<応仁記>
1471年1月2日「千秋萬歳来、給飯等了」<経覚私要鈔>
1472年1月5日「布施舞々四人来、千秋萬歳後ナリ、振舞之、給酒」布施の舞々四人、大和の大乗院を訪れ、千秋萬歳の後ナリ<経覚私要鈔>
1472年「千秋萬歳といひて逸興を催すことあるは、これら(宮中で新春を祝う)踏歌の余風なり」<花鳥余情>
1473年1月5日「布施舞々四人来、千秋萬歳後ナリ、振舞之、給酒、途一連遣畢」<経覚私要抄>
1475年1月4日 禁裏で応仁の乱後、はじめて千秋萬歳がある<続史愚抄>< 親長>
1475年1月12日「千秋萬歳、鶴亀等於庭上舞、催其興者也」禁裏で千秋萬歳があり、鶴亀等を舞う<実隆公記>
1477年1月10日「千しゆう萬せゐめてたし」千秋萬ぜい、目出度し。これはバンゼイであって、マンザイではありません<御湯殿>
1477年1月12日 禁裏で千秋萬歳があり、鶴亀等を舞う<実隆公記>
1477年5月13日 声聞師が沙汰するものとして「陰陽師・金口・暦星宮・久世舞・盆彼岸経・毘沙門経」<大乗院寺社雑事記>
1477年「千秋萬歳など云は、男踏歌の余風なり、後嵯峨院の御時にもはやりし事也」<源語秘訣>
1478年1月4日「大こくかたう(大黒の党)、千しゆ万さゐ申」声聞師、大黒党が禁裏で千秋萬歳を催す<御湯殿>
1481年1月1日 熊、毘沙門経を読む<山科家礼記>
1481年1月4日「大こく千しゆ万さゐ申」大黒、千秋萬歳申<御湯殿>
1481年1月4日「今日千秋萬歳男参入了、有興、及黄昏退」声聞師大黒、禁裏で千秋萬歳を催す<実隆公記>
1481年1月8日「千しゆ万せいあり。色々の事まゐおとり(舞い踊り)申」バンゼイか?<御湯殿>。声聞師大黒、禁裏で舞う<実隆公記>
1481年1月15日「千しゆ万さいまいりてくせまゐ(曲舞)を申」<御湯殿>千秋萬歳が禁裏にて曲舞(くせまい)を演じる<実隆公記>
1481年1月17日「千秋まんせいめてたし」千秋萬歳目出度し。[マンゼイ]の用法。バンゼイの変?<御湯殿>
1482年1月4日 「大こくかたうせんしゆ万さい申」大黒の党、内裏にて千秋萬歳を演じる<御湯殿>
1482年1月6日「北はたけかたう(北畠の党)とて千しゆ万さゐ申」北畠党が千秋萬歳<御湯殿>
1482年1月9日 禁裏に幼き曲舞が来て舞う<御湯殿>
1483年1月4日 「大こくかたう千しゆ万さゐ申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1483年1月15日「千しゆ万さゐ申」<御湯殿> 
1485年1月4日「千しゆ万さいまいる。御かゝりにてまはせ(舞わせ)らるゝ」禁裏に千秋萬歳が参り、御かゝりで舞わせる<御湯殿>
1485年1月6日「千しゆ万さいまはせらるゝ」<御湯殿>
1485年1月19日「わかしゆ(若衆)なとつれて(連れて)まいりてくせまひ(曲舞)あり。御ひしひしと千秋万せいめでたし」注[万せい]<御湯殿>
1486年1月4日 「ひる大こくかたう千しゆ万さゐ申」禁裏で昼に、大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1486年1月6日「無殊事、千秋萬歳来」中院通秀邸に千秋萬歳が参入し、芸をなす<十輪院内府記>
1486年1月8日「いつもまいるとて。きたはたけ(北畠)のせんすまいさいとてまう」禁裏で北畠の千秋萬歳が舞う<御湯殿>
1487年1月2日「千しゆ万さゐまいる。色々の事ともしほしほしう申て、わさわさときこしめす。めてたし」<御湯殿>
1487年1月2日「北畠千秋萬歳如旧例」相國寺蔭凉軒で北畠の千秋萬歳が例の如くある<蔭凉軒日録>
1487年1月4日 ・者ら正月に近衛家に参賀し、種々の礼物を進上する<雑事要録>
1488年1月2日「今晨北畠千秋萬歳入道来、作祝舞」相國寺蔭凉軒に、北畠の千秋萬歳入道が来て祝舞を舞う<蔭凉軒日録>
1488年1月4日「大こくかたう千しゆ万さゐ申。うたゐまいなと色々申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1488年1月4日 河原五郎・者、近衛家に参賀して種々の品を進上し、銭・扇等を与えられ、また千秋萬歳も扇を与えられる<雑事要録>
1488年1月7日「北はたけかたう千しゆ万さゐ申。ちこ(稚児)つれてくせまゐ(曲舞)まふ」北畠党も千秋萬歳、稚児を連れ曲舞も舞う<御湯殿>
1488年1月15日「千しゆ万さゐまふ。いたくおもしろからぬによりはやくはつる」禁裏で千秋萬歳、面白くなく早く終わる<御湯殿>
1489年1月2日 相國寺蔭凉軒で千秋萬歳が旧例の如く、祝舞をおこなう。入道は御陣へ参じたためか不参。北畠入道は足利義尚の六角高頼討伐に従って陣所まで出向いていたための留守であったようだ<蔭凉軒日録>
1490年1月2日「千秋萬歳如旧例作祝舞、入道舞如先規」相國寺蔭凉軒に亀太夫が来て歌を唱い舞を舞う。ついで千秋萬歳が旧例の如く、祝舞をおこなう。入道舞も先規のごとく行なわれる<蔭凉軒日録>
1490年1月3日「如恒例千秋萬歳来、於廣庭舞之、春松丸出之、引出物太刀一腰、(金)、弐十疋、壇帋二帖八本、扇一本遣之、珍重々々」<松梅院禅予日記抄>
1490年1月3日 恒例の千秋萬歳、北野松梅院の広庭で舞う<北野社家日記>
1490年1月4日 石籠大工の十座物、毘沙門経を大乗院に持参し、紙一帖と酒を給される<大乗院>
1490年1月9日 足利義政没し、天下蝕穢となり、三毬打(さぎちょう)が禁じられ、神事行なわれず<北野社家日記>
1491年1月2日 相國寺蔭凉軒で千秋萬歳が旧例の如く、祝舞をおこなう。先規の如く入道も舞う<蔭凉軒日録>
1491年1月3日 恒例の千秋萬歳が北野社松梅院で祝言・歌舞する<北野社家日記>
1491年1月4日「大こくかたう千しゆ万さゐ申。いろいろのまゐとも申」禁裏で大黒党が千秋萬歳と種々の舞を舞う<御湯殿>
1491年1月4日 十座の明寛、大乗院に毘沙門経を持参し、紙一帖と酒を給される<大乗院><政覚大僧正記>
1491年1月6日「北はたけの千しゆ万さゐまわせらるる。なかにし六らう御れゐ申。御かゝりにて御てうしいてゝ、めんふたつたふ。かしこまり申。かめ千代御れゐ申」<御湯殿>
1491年1月18日「こよひ(今宵)の三木ちやう(さぎちょう)ことしもふきはやしなくて。大こくたきまいらする」<御湯殿>
1492年1月2日「千秋萬歳年々嘉例也、祝物如先規」相國寺蔭凉軒で千秋萬歳、年々の嘉例。祝物も先規の如し<蔭凉軒日録>
1492年1月3日「千秋萬歳来、如例成祝言歌舞、録物弐十疋、扇一本、帋二帖、太刀(金)出之、近年如此沙汰也」北野松梅院に千秋萬歳が来て、例年のように祝言歌舞をなす<松梅院禅予日記抄>
1492年1月3日「大こく【かたう】けふまいる(今日参る)。いろいろの事とも申」<御湯殿>禁裏に大黒が参入して、色々の事を申す<続史愚抄>
1492年1月5日「やなき【はらか】たうとて千しゆ万せゐ申」[万せゐ]表示<御湯殿>柳原の法師・柳原党が参内して禁裏にて千秋萬歳<続史愚抄>
1492年1月17日「御ひしひしとありて千しゆう万せゐめてたしめてたし」[バンゼイ]用法<御湯殿>
1492年1月18日「三木ちやういつものことし。かも(賀茂)よりもまいる。大こくかたうはやす」大黒の党が囃す<御湯殿>
1493年1月2日 相國寺蔭凉軒に千秋萬歳が来て、雲頂院意足軒において祝舞を旧例のように舞う<蔭凉軒日録>
1493年1月4日 「たいこくかたう千しゆう万せい申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1493年1月5日 夜に北野社法花堂で曲舞<北野社家日記>
1493年1月9日「きたはたけかたう千しゆ万さゐ申」禁裏で北畠党が千秋萬歳<御湯殿>
1494年1月3日 北野社松梅院で恒例の千秋萬歳が歌舞を行なう<北野社家日記>
1494年1月4日 「大こくかたう千しゆ万さゐ申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1495年1月4日「大こく千しゆ万さゐ申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1495年1月8日「せんつ万さゐまいる」<御湯殿>
1496年1月4日「せんすまんさいまいる」禁裏に千秋(せんす)萬歳が参る<御湯殿>
1496年1月6日「北はたけの千すまんさいまわせらるる」禁裏で北畠の千秋(千す)萬歳<御湯殿>
1496年1月18日「御三木ちやういつものことし(如し)。大こくはやしまいらする」<御湯殿>
1496年 蓮如・石山道場(本願寺)建立
1497年1月4日「千しゆ万さいあり」禁裏で千秋(千しゆ)萬歳<御湯殿>
1497年1月5日「けふも北はたけの千しゆ万さいあり」今日も北畠の千秋(千しゆ)萬歳<御湯殿>
1497年1月13日「今日、神主館千寿萬歳有之、如先々」<明応六年記>
1498年1月4日「大こくかたう千しゆ万さゐ申」禁裏で大黒党が千秋萬歳を申す<御湯殿>
1498年1月7日「北はたけ千しゆ万せい申」北畠の千秋萬歳(せんしゆばんぜい)<御湯殿>
1499年1月4日「大こく【か】たう千しゆ万さい申…大こく千すまんさい」禁裏で大黒の党が千秋(しゅう・せんず)萬歳を申す<御湯殿>
15世紀末 『三十二番職人歌合』に、千秋萬歳法師は素袍(すおう)を着て帽子を被ったシテ(太夫)は扇を手に。風折烏帽子(かざおりえぼし)を被ったワキ(才蔵)の打つ鼓にあわせて舞い、双方が掛け合いで祝言を述べた。
15世紀末 「せんずまんざいといふは。何のおこりにてはべるらん。[答]むかしは男踏歌とて。京中の男女、声よきをつどへて。だいり(内裏)にて。祝詞をうたひて舞せられし也」<世諺問答>
<2009年10月10日>
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若冲 五百羅漢 №23 <若冲連載43>  

2009-10-04 | Weblog
『京都府紀伊郡誌』と『新撰京都名所圖會』

 大正四年刊『京都府紀伊郡誌』によると、同年一月六日に石峰寺は火を発し焼燼してしまったが、残っている山門、小門ともに漢風に擬し形状は頗る奇巧である。後山には釈尊槃像(坐像六尺ばかり)を中央に安置し、周囲に十六羅漢、五百大弟の石像を置く。風餐雨食、彫鑽粗朴、わずかにその面目を認るのみ。
 その後、昭和の初年になって、拙門和尚の後を継いだ、第十六世龍門和尚が山を整備し、数少なくなっていた石像を、現在の配列に並べかえた。吉井勇がかつてみた若冲の羅漢たちは、現在われわれが目にする様子とほぼ同じである。
 ちなみに昭和三十八年刊『新撰京都名所圖會』では、石佛群を九所に分けて記載している。釈迦誕生、来迎諸菩薩、出山釈迦、十八羅漢、説法場、羅漢座禅窟、托鉢修行、釈迦涅槃、賽の河原である。この分類は、石峰寺にて頒布している現在の寺案内冊子と同じである。

 この連載「若冲 五百羅漢」も今回で終了です。興味ある方はぜひ、伏見深草の石峰寺を訪れてみてください。寺は伏見稲荷の南東、徒歩わずか十分たらずに位置しています。
 若冲シリーズはいよいよ終盤。次回からは「若冲 相國寺・萬福寺など」を連載する予定です。
<2009年10月4日記 昨晩は鴨川の三条大橋から、東山の天空で遊戯する中秋の名月を楽しみました。この地でかつて非業の死をさらされた数多のひとびとの怨念を弔いつつ…>
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