ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

阪急阪神ホテルズ&イオングループ

2013-10-28 | Weblog
 レストランのでたらめさには驚きます。阪急阪神ホテルグループの数十店舗で7月以降にメニュー表示がこっそり変更されているのですが、たとえばこんな風です。

 自家菜園野菜→季節の野菜
 上海式→上海風
 津軽地鶏→津軽鶏
 霧島ポーク→豚バラ肉
 フレッシュジュース→ドリンク
 芝エビ→(バナメイエビ)
 車エビ→(ブラックタイガー)
 沖縄産豚肉→(本土産)
 鮮魚→(取り消し)
 手作り→(取り消し)
 手こね→(取り消し)
 自家製→(取り消し)
 小山農園→(取り消し)
 信州→(取り消し)などなど

 別件ですが最近、スーパーのイオンが「週刊文春」に抗議しました。四日市の米穀販売会社「三瀧商事」のコメ偽装事件について、イオンが関与かという記事が事実でないという反論です。
 文春記事タイトルは<『中国猛毒米』偽装 イオンの大罪を暴く>。 中国産米などを国産と偽装して三重県内の卸業者三瀧商事のコメを使った弁当やおにぎりを、 イオンが2府21県のグループ店舗で販売し、検査態勢が機能せず偽装を見抜けなかった--などとしている。 また三瀧商事と、弁当とおにぎりを製造した惣菜会社のフジパンが安価なコメを使ったのは、イオンの値下げ圧力が強かったためではないかとしている。イオンが要求する価格では利益が出ないために、国産と偽って安い外米を使用したのであろうと記している。
 イオンは自社のホームページで「あたかも人体に有害な食品を安全な商品と偽って 販売していたかのような誤解を読者に与える。内容についても事実と 異なる記述が多く含まれており、断固たる措置をとる」などと抗議している。そしてイオンは直営の未来屋書店全店での「週刊文春」同号の発売を中止した。なお三瀧商事が偽装販売したコメの量は、4千トンを超える。

 阪急阪神と三瀧・フジパン・イオン、ふたつの異なる事件には、同じ企業論理が底流にあるのではないでしょうか。要は「安く仕入れて高く売る」という商売の鉄則です。
 メーカーは付加価値を高め、小売サービス業は高級感や高品質を打ち出します。根っこにあるのは顧客との信頼関係でしょうが、売上がたいして伸びない中、利益至上主義に走ると下請けを搾取し、下請けは品質を落とします。一度この偽装のワナにはまると暴利に笑いが止まらず、もう泥沼から抜け出せない。不正が常態化すると、露見を恐れて隠ぺいにひた走る。そのような非社会的行為であったのではないでしょうか。
 それとマスコミの体質です。阪神阪急やイオングループは大広告主。新聞はこの事件を継続して追うことができるでしょうか? また一方の週刊誌ですが、書店が置かないと決めれば大ダメージを受けます。文春を売らないと決めた未来屋書店は本屋業界第6位で、全国に二百店以上を展開する。イオングループにはほかにマックスバリュー、ダイエーやコンビニ・ミニストップの雑誌コーナーもあります。また阪急電鉄は今年の3月まで、書店チェーン「ブックファースト」を傘下に置いていました。阪神と阪急、電鉄売店の雑誌コーナーもあります。
 ふたつの企業グループの事件は、マスコミとの手打ちで幕を引くのではないか。残念な気がしてなりません。
<2013年10月28日>

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アメリカと中国、どっちの政府が安泰?

2013-10-17 | Weblog
 世界を震撼させた米連邦債のデフォルト(債務不履行)の危機は、今日になってやっと回避されました。暫定予算も可決され、閉鎖されていた政府機関も再開されます。アメリカの政治は一体どうなってしまったのか? 世界中の眼が注がれました。

 興味深いのは中国の反応です。ベンジャミン・カールソン氏は次のように記しています。「アメリカ人は、今回の閉鎖は政府の機能不全の証とみている。しかし中国では、ある種の強さの表れとして捉える評論家が少なくない。今回のような状況は、強い経済力と国民の意思を反映する政治力を備えた民主主義国家でしか起きない……そのような羨むような声が、中国のソーシャルメディア上にはあふれている」
 ある中国人はこう語っている。アメリカのシステムでは、共和党と民主党と大統領が議論を戦わせるのはごく普通のことであり、どこの国でも本来はそうあるべきだ。
 中国の多くのひとは「中国で同じような事態が起きたら、すぐに国全体が大混乱に陥ってしまう。だから絶対に起きない」
 また最大の驚きは、政府機関閉鎖後もアメリカの州や自治体レベルの政府は平常通りに機能していること。アメリカ在住のある中国人は「閉鎖されて何日も経つのに、驚いたことにアメリカ人は誰も心配していない。連邦政府が閉鎖されても、地方政府は機能し続けている」
 中国の一党支配体制では、アメリカのように極端な論争や、開かれた議論が行われる余地はない。

 大澤真幸氏は「エコノミスト」誌上で次のように語っておられる。資本主義社会では、経済制度よりも政治制度の方が、基本的に重要な要因である。だから中国の将来には、懐疑的にならざるを得ない。
 「中国では、政治制度に多元性がない。こういう制度のもとでは、経済成長のキャッチアップはできても、追いついてしまった後の発展は難しい。強力な国家が自由なイノベーションを望まず、その抑制を図るからである」

 アメリカの上下両院のネジレは「決められない政治」体制を産んでしまいました。一方の日本では国会のネジレは解消し、「何事でも決めやすい政治体制」に急変してしまいました。
 日本はアメリカ型ではなく、一党独裁の中国型に似て来たとも言えます。注意すべき危険な状態かもしれません。

参考『ニューズウィーク』電子版10月15日 ベンジャミン・カールソン「アメリカ政府機関閉鎖をうらやむ中国人―閉鎖危機は政府の機能不全のせいではなく、成熟した民主主義国家を見る人々もいた」
『週刊エコノミスト』10月22日号 大澤真幸・橋爪大三郎・保坂俊司鼎談「近代資本主義のあり方と日本経済への示唆」
<2013年10月17日>

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伊藤若冲の生涯 (3)

2013-10-09 | Weblog
一七五五年 宝暦五年 乙亥 四十歳
○九月四日 高齢と健康を理由に八十一歳の高遊外は売茶を廃した。この秋より一年余の間、腰痛に悩む。
○若冲は四十歳を期に、伊藤源左衛門の代々の主人名と枡屋家業を次弟の宗巌(そうごん)白歳に譲る。若冲は茂右衛門と改名し、画事に専念する。伊藤家は当時、錦高倉に三軒の家屋敷を所有していたようだが、若冲は内一軒を住居兼アトリエにし、鴨川西岸の画室「心遠館」と併用した。
○若冲のそれまでの住居、枡屋の本拠は錦小路高倉東入ル東南角の中魚屋町。彼は南に隣接する帯屋町のもう一軒の伊藤家屋敷に移ったようだ。三軒の内、あと一軒は高倉通錦上ル北東角の中魚屋町で、桝屋本拠とは向かい合わせに位置すると考えられる。中魚屋町は高倉通から東一帯で、錦小路に各店が南北で面する両側町である。
○若冲は後に帯屋町年寄の重責を担う。帯屋町の彼の住居は、高倉通錦下ルだが高倉通四条上ルも同じ表示である。
○若冲の次弟は法名宗巌明空で号は白歳。末弟三男は宗寂。五代源左衛門を継いだ次弟白歳は、俳句や描画がすきな人物であった。兄を師として描いた白歳画『雪中群鶏図屏風』『鶏図』『田楽図』などが残っている。当然ながら画才は兄には及ばないが、白歳画は味わい深い。俳句は「こんな布袋/あらばさがさむ己午市」(若冲画『布袋図』の白歳賛)、「つらいつらい/花も紅葉も/なきそよき」(白歳墓石刻)。ちなみに白歳の名は野菜の白菜にちなむのだろうが、百から一を減じると九九で「白」。白歳は九十九歳で読み「つくも」である。若冲の作とされる『付喪神図』があるが、「つくもがみ」は長年使い古した器物に宿る神。白歳のひょうきんで楽しい性格が伝わって来る気がする。
○この年、数多くの作品を制作している。『旭日鳳凰図』<宝暦五年乙亥首夏平安若冲居士藤汝鈞造>(宮内庁蔵)、『虎図』(プライスコレクション)、『月梅図』(バーク)
○また前後年の若冲款記作は『雪梅雄鶏図』(両足院)、『雪芦鴛鴦図』『群鶴図』(プライス)、『月夜白梅図』(個人蔵)。また「心遠館」が記されている作品は『旭日雄鶏図』(プライス)、『燕子花小禽図』『松に鸚鵡図』『竹鶴図屏風』(各個人蔵)

一七五七年 宝暦七年 丁丑 四十二歳
○『動植綵絵』制作にこの年から着手か。『芍薬群蝶図』<平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室>が第一作とみられる。
○若冲画『売茶翁像』に高遊外が賛をした。印章は「若冲」ではなくデタラメな「若中」であり、「中」字使用の二例目。当時の売茶翁は高齢と腰痛のため書に自信がなかった。誤字脱字を起こしては申し訳ないと、依頼主と若冲に賛を辞退していたのだが、若冲はあえて誤印を捺すことによって、自分の印章もそうだが、失敗を恐れないようにと売茶翁をユーモアで励ましたのではないか。同じ姿のよく似た売茶翁像が現存しているが、賛に失敗しても代替の画があると、何枚も翁に見せたのでなかろうか。老子を誤解して作ってしまった「若中」印をあえて再度、使用した若冲の翁へのこころ配りを感じるのはわたしだけか。この折に売茶翁が依頼主に送った断りたいという手紙に「拙筆儀ニ候ヘ者、書損或落字抔、有之候故、書キ直シ之不成物ハ、一向書不申候」。その後、高遊外が賛を無事に終えて依頼主に送った手紙には、つぎのように記されている。「痛い腰をかがめて書きましたので、格好のよい字とはなりませんでした。字を抜かすことはありませんでしたが、もともとうまくない字です。今回はいっそううまくありませんでした…」。宝暦五年以降、売茶翁は腰痛に悩んでいた。
○この年前後の作品に『枯木鷲猿図』『雪中遊禽図』(各個人蔵)

一七五八年 宝暦八年 戊寅 四十三歳
○春 『動植綵絵』全三十幅の内、最も早い年記を記した『梅花小禽図』<宝暦戊寅春居士若冲製>。これが前年の『芍薬群蝶図』に続くシリーズ二作目か。
○九月 黄檗僧で弱冠二十歳の聞中(もんちゅう)浄復(一七三九~一八二九)が大典に師事。彼は明和九年に本山黄檗山萬福寺に呼び返されるまで、十四年間も相国寺にとどまる。芦雁の画を好んで描いたが、画の師は若冲である。

一七五九年 宝暦九年 己卯 四十四歳
○二月一二日 大典は師の三回忌を終え、本山に退隠届を出し慈雲庵を出て郊外に閑居する。この突然の退隠には相国寺も驚き、「本山に於いても先例これ無き事」と記している。相国寺に戻るのは十三年後。この年、大典四十一歳。彼は鷹峰、山端、華頂山麓などと住まいを転々とし、詩作、文筆、著作に専念した。
○一〇月 金閣寺で知られる鹿苑寺大書院五室の障壁画が完成<宝暦己卯孟冬居士若冲造>。大典に学問文学を師事した二十六歳の龍門承猷が鹿苑寺の住持になったのが、若冲制作につながったと考えられる。大書院は延宝年間(一六七三~一六八一)の建造だが、長年にわたって襖は無地のままだった。
○この年に制作された『動植綵絵』五幅は『雪中鴛鴦図』『秋塘群雀図』『向日葵雄鶏図』『紫陽花双鶏図』『大鶏雌雄図』。いずれにも<宝暦己卯>の年記。
<2013年10月9日>
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伊藤若冲の生涯 (2)

2013-10-04 | Weblog
一七三八年 元文三年 戊午 二十三歳
○九月二九日、父の三代源左衛門、法名浄空宗清居士没、享年四十二歳。若冲は若干二十三歳にして枡源の四代当主、伊藤源左衛門を継ぐ。

一七四四年 寛保四年 甲子 二十九歳
○売茶翁はこの年から宝暦四年までの十年間あまり、相国寺林光院に寄寓。同年九月に売茶翁は大典とともに、儒学者の宇野明霞士新を見舞った。士新の詩の師は売茶翁の法弟の大潮。また大典は士新の弟子であり、大潮を文学の師とした。
○若冲は二十歳代後半から師匠について画を学びはじめたという説がある。師は町狩野の絵師大岡春卜(一六八〇~一七六三)で、春教の画名を与えられたと伝えるが、春教落款の画はいまだに発見されていない。春卜は大坂住まいで、作画教本を何冊も出版している。
○大坂の木村蒹霞堂(一七三六~一八〇二)『諸国庶物志』では、若冲は京狩野の鶴沢探山の門人である青木左衛門言明に学んだとする。蒹霞堂は幼いころに大岡春卜に画を習った。その彼がいうからには、若冲が春卜についたとは考えにくい。青木左衛門言明を若冲の師とするのは正しいかもしれない。
○二月二一日 延享に改元。

一七四六年 延享三年 丙寅 三十一歳
○大典は独峯和尚の後をつぎ、慈雲庵住持になった。

一七四七年 延享四年 丁卯 三十二歳
○夏 大典が糺森で売茶翁高遊外の茶器注子に『老子』の言葉「若冲」を記した。「去濁抱清 縦其灑落 大盈若冲 君子所酌」。『老子』第四十五章の原文は「大成若缺 其用不弊  大盈若冲 其用不窮 大直若屈 大功若拙 大辦若訥…」。大盈若冲其用不窮は「本当に満ち充実しているものは、一見空っぽのように見えるが、それを用いると尽きることがない」
○売茶翁は市井で庶民と交わる清貧の哲学者で宗教家、そして文人学者である。荷茶屋はいやしい職業とされたが売茶翁は「茶銭は黄金百鎰より半文銭迄はくれ次第。ただ飲みも勝手。ただよりは負け申さず」。黄金百鎰(いつ)は二千両、一文は寛永通宝一枚でいちばん安い貨幣なので両替もできない最低単位。現代の一円玉と同様。
○若冲の署名も捺印もなく「景和」のみの款記は『雪中雄鶏図』(細見美術館蔵)、『葡萄図』(プライスコレクション)。若冲款記のない景和だけの名は、延享か寛延年間の作ともされる。
○若冲の初期作品である『松樹群鶴図』には「平安藤汝鈞製」と記し、印章は「汝鈞字景和」と「若中」。中であって冲でも沖でもない。三十六歳までのある時期、「若中」という誤った印を使用した。老子「若冲」の意味と字を勘違いしたのであろう。「充実しているものは、一見『中』が空っぽ(冲)のように(若)見える」。大典が記した売茶翁の注子の大盈若冲を見、翁から字の意味を教えられたとわたしは考えている。「中」字の作品を見た翁はきっと笑ったであろうが、若冲命名者は売茶翁であろう。その時期は若冲三十二歳夏から三十六歳冬までの間である。

一七五一年 寛延四年 辛未 三十六歳 
○九月二九日 伊藤家の菩提寺である宝蔵寺に父母の墓を建てた。墓石の施主名には「ますや源左衛門」と自らを刻す。母親は健在なのでこれは生前墓。宝蔵寺は浄土宗誓願寺派で、裏寺通蛸薬師上ル。後に建てた弟たちの墓とともにいまも現存している。
○この年ころから大典禅師と交わったとされる。若冲と売茶翁の出会いはそれより以前のはずである。翁には京のだれでもが、客として出会うことができた。もし若冲と大典が、売茶翁を介さずに面識がもしあったとしたら、考えられるひとつは近江ではないかと思う。大典の今堀家は近江国伊庭郷の出であり、伊藤家も若冲の母の実家武藤家も近江の出身。ただ近江とひとくちに言っても広い。史料も伝承もないが。
○一〇月二七日 宝暦に改元。

一七五二年 宝暦二年 壬申 三十七歳
○一月 『松樹番鶏図』に若冲居士を記す。若冲名と年記がはじめて確認される作品である。款記に<壬申春正月且呵凍筆於平安独楽窩/若冲居士>。独り楽しむ窩(か)、すなわち穴倉は土蔵であろうか。意訳すると「宝暦二年正月の明け方、京の寒いアトリエ独楽窩において、凍った筆を息で吹き温めながら記す」
○この年前後の若冲款記の作品は最初期の『日出鳳凰図』(ボストン美術館)、『牡丹百合図』(慈照寺)。『糸瓜群虫図』、『梅花小禽図』、『風竹図』<心遠館若冲製>(細見)。『梅鷹図』(大阪美)。『松鷹図』<心遠館若冲製>(プライス)。『葡萄図』。『隠元豆玉葱黍図』『鸚鵡図』(草堂寺)。『白鶴図』、『花卉双鶏図』(各個人蔵)など。錦高倉以外に鴨川べりにあったもうひとつの画室「心遠館」は、三十歳代後半から構えたようだ。ところで草堂寺は南紀白浜の東福寺末寺だが、初期作品が二幅も現存しているのは不思議に思う。若冲が南紀まで旅したという伝承もない。
<2013年10月4日>
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