ふろむ播州山麓

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アウンサンスーチーとミャンマー (3)

2015-12-27 | Weblog
<2011年11月から翌春までのミャンマー>


 2011年の年末から翌年にかけて、わたしは備忘録のようにミャンマーのことを書いたことがある。そのころ北朝鮮と親密で、特殊な孤立国家だったミャンマーが劇的に大変革を起こし出した。新しく大統領に就任したテインセインの力が大きいようだが、この変化は何だったのか? いくらかリライトしたが、参考までに当時の文を再録します。

 近ごろ気になる国のひとつがミャンマーだ。ごく最近、たいへん急激な変化をとげつつある。民主化と国民の幸福実現のために、国のかじ取りが大きく変わりつつあるようだ。どうも本物のように思える。もし早い時期に当面の目標に届けば、国民の圧倒的多数は獲得した自由と幸福に驚くことであろう。世界中でも有数の幸福度の高い国になる可能性がある。
 ミャンマーすなわちビルマは、国土面積が日本の1.8倍。人口は5300万人ほどと東南アジアでも大きな国。国民は勤勉で辛抱強く、手先が日本人よりも器用という。識字率は9割と高く、イギリスの植民地だったため英語を理解するひとも多いそうだ。周囲には中国、ラオス、タイ、バングラデシュ、インドの5カ国が取り囲むという、地政学的にも重要な位置にある国だ。
 しかし長く軍政下にあり、政敵や反抗する少数民族に対して容赦しない。殺害や投獄はあたりまえで、野党NLDを率いるアウンサンスーチーはごく最近まで、15年間も自宅に軟禁されていた。
 言論報道の自由もなく、世界報道自由度ランキングをみても、2011年はビリから11位、2010年はワースト5位。国民の所得はアジアで最低レベル。「アジアを代表する自由と豊かさのない最貧国のひとつ」とまで呼ばれていた。G D Pは356億米ドルで福井県なみ。
 また孤立国家のひとつで、米国を中心とする国際経済制裁を長く受けて来た。同様の孤国北朝鮮と連携し、ミサイル、地下基地、核兵器開発で北と協力している危険な軍事国家とみなされている。

 そのように劣悪な国家とされていたミャンマーがいま、あれよあれよという間に大変革を起こし出した。政治犯の釈放も進みつつある。暴力革命によらず、平和裏に現政権が脱皮に成功すれば奇跡だろう。2011年11月以降の動きをみてみよう。


11月18日 A S E A N首脳会議に出席した野田総理はバリ島でミャンマーのテインセイン大統領と首脳会談。野田はセインが進めている民主化・国民和解融和の動きを歓迎すると評価した。また日本で本年開催予定の日メコン首脳会議への大統領の出席を希望。テインセインは「訪日が実現するよう努力したい。野田総理にはミャンマーを訪問していただきたい」と話した。またASEANの2014年議長国にミャンマーが決定した。
 参考までにアセアン東南アジア諸国連合10カ国を記す。数字は概数人口万人。インドネシア2億4千万、フィリピン1億、ベトナム9千万、タイ7千万、ミャンマー53百万、マレーシア3千万、カンボジア14百万、ラオス6百万、シンガポール5百万、ブルネイ40万。

11月30日 クリントン国務長官がミャンマー入り。テインセイン大統領と、翌日にはアウンサンスーチーと会談した。市民代表や少数民族指導者にも会った。米国務長官の訪ビルマは57年ぶり、1955年のダレス以来である。

12月25日 玄葉外務大臣がミャンマーにセイン大統領を訪ねた。改革に指導力を発揮していることを高く評価すると、玄葉は述べた。またカチン州の少数民族武装組織との停戦、労働団体法の制定と人権状況改善、スーチー女史率いる野党N L D がこの4月1日の国会議員補欠選挙(48議席)に参加できるという大進展を玄葉は評価した。テインセインは「民主主義国家として発展するためにも経済発展は重要。経済面また人材育成のため、日本の支援を得たい。」

2012年1月 テインセイン大統領がはじめて外国メディアの取材に応じた。彼は軍政下の2007年10月より首相、民政移管にともない2011年3月より大統領。

1月12日 枝野経済産業相がミャンマー入り。同行したのはクボタ、東芝、スズキ、太平洋セメント、シャープ、JX日鉱日石エネルギー、ヤマハ、三井物産など14社の代表。

1月31日共同 テインセイン大統領は訪問先のシンガポールで地元英字紙の会見に応じ「北朝鮮から核兵器を調達していない」と述べ、民主化路線の継続を表明した。

2月1日共同 ミャンマー連邦議会で財務相が対外債務額をはじめて発表。約110億ドル。これまで公表されたことは一度もなかった。

2月1日日経新聞朝刊 日本政府は新興途上国へのインフラ輸出拡大のための支援を決定。対象国はミャンマー、カンボジア、インドネシア、パナマ、マレーシア、モロッコの6カ国の10事業、総額1兆円規模。ミャンマーには2事業、上下水道下水処理施設の整備(東洋エンジニアリング)、ヤンゴンの火力発電所の補修(三井物産)。
 発電については中国がすすめていたカチン州の水力発電所建設が、カチンの激しい反対世論を考慮し、ミャンマー政府の英断で中止になった。この発電所は電力の 9割を中国に送ることになっていた。またダウェー港周辺では工業開発が計画されているが、ミャンマー電力相は公害問題を危惧する住民の反対を理由に、石炭火力発電所の建設中止を表明していた。電力の安定供給は、ミャンマーの産業発展と民政向上に欠かせない基本条件。
 いずれにしろ、ミャンマーでは自由にモノが言える雰囲気が高まっていることは確かなようだ。現状だけでもすでに奇跡的だ。北朝鮮やイランなども、きっと注視していることだろう。
<2015年12月27日 南浦邦仁>
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アウンサンスーチーとミャンマー (2) アウンサンスーチー略年譜

2015-12-19 | Weblog
1945年 ビルマの首都ラングーンに生まれる。テインセイン大統領も生年が同じ。

1947年 「ビルマ建国の父」と呼ばれた父アウンサン将軍が暗殺された。

1960年 母キンチーがインド大使に着任。

1962年 スーチーはデリー大学で政治学を学ぶ。

1964年 オックスフォード大学で、哲学・政治学・経済学を専攻。

1969年 国連本部事務局に勤務。

1972年 チベット研究者のマイケル・アリスと結婚。アレキサンダーとキムの息子をもうける。
 その後、ブータン外務省、オックスフォード大の職員をつとめる。

1985年 京都大学東南アジア研究所で、父アウンサン将軍について翌年まで研究。京大名誉教授の濱島義博氏は当時のスーチーについて「留学中は、二男キム君と修学院の京大国際交流会館に滞在していた。彼女は、自転車で川端通を同センターまで通っていた。あの裾の長い民族衣装のロンジー(スカート)が、車輪にからまるんじゃないかとよく心配して見ていたものだった。」

1988年 母の看病のためにビルマに戻る。反政府民主化運動が激化。40万人集会でスーチーが演説を行った。濱島義博は「黄金の輝くシュエダゴン・パゴダの特設ステージの真ん前で、スーチーさんが現れるのを待っていた。/その時の彼女の演説は、決して激しい口調ではなかった。興奮する大群衆をなだめるような優しい表現だった。『平和的手段で、すべての民族が仲良く力を合わせて、民主化を実現させよう』。説得するかのような彼女の姿に、私は非暴力主義を提唱したガンジーの姿をダブらせていた」。しかし運動は徹底的に弾圧され、数千人が犠牲になった。

1989年 ビルマは国名をミャンマーに変更。スーチーは家族のいるイギリスへの出国勧奨を拒否。一度出国すると、軍政権は再入国を認めないためだが、以降15年間にわたって自宅軟禁を受ける。

1990年 総選挙。スーチーたちの野党が勝利したにもかかわらず、政権軍部は選挙結果を無効とした。「民主化より国の安全を優先する」という一方的な理屈である。

1991年 スーチーはノーベル平和賞受賞。再入国が困難なため出国せず、授賞式には家族が代理で出席した。

1999年 夫アリスがイギリスで病死。スーチーはやはりミャンマーから出なかった。

2008年 軍政権は憲法を改正。自己に有利に、スーチーはじめ野党には不利な条文に改変した。

2010年 NLDが総選挙をボイコット。与党USDPが圧勝。スーチーの自宅軟禁が完全に解除された。

2011年 テインセインが大統領に選ばれた。彼は就任演説で「新政権の重要な課題は、良い統治と汚職のない政府をつくるために働くことである。国民の声を尊重して、すべての国民が利益を享受できる政府をつくる」。そして実際に彼はそのように実行してきた。首相には2007年から就任していた。

2012年 連邦議会補欠選挙でスーチーが立候補し当選。改選議席数は48。内国会の45議席中、43議席を獲得した。スーチーはNLD党首、中央執行委員会議長に選出された。ノルウェーのオスロでノーベル平和賞受賞演説。「テインセイン大統領が国家にあらたな道を開く意向であることを確信している。民主化への道のりはまだ遠いが、民主主義と人権を重んじる人々による努力が実りはじめる兆しが現れている。」

2013年 27年ぶりに来日。

2015年11月8日 NLDが圧勝。
<2015年12月19日 南浦邦仁>
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アウンサンスーチーとミャンマー (1)

2015-12-13 | Weblog
Eマガジン「Lapiz」ラピス冬号が発行されました。DL-Market、アマゾン、雑誌ONLINEで購読できます。良記事満載で販価はわずか300円。例によってわたしも寄稿しました。「Lapiz」本誌で全文が読めますが、アウンサンスーチーさんのことを4回連載でお送りします。


(1)11月8日の総選挙

 ミャンマーの総選挙で、アウンサンスーチーのNLD(国民民主連盟)が圧勝した。総議席の25%は軍が常時おさえており残りの議席を争うのだが、NLDはその内の8割を取り、全体議席でも約6割に達し過半数を制した。
軍事政権下で自由を求めて戦ってきたたくさんのひとたちにとって、11月8日のこの選挙結果は歴史的な勝利であり、アジアの民主主義にとっても重要な節目であろう。選挙直後、スーチーはこう語った。「我々はミャンマーの民主主義について、いま世界に示しはじめたに過ぎない。」
 
テインセイン現大統領はまだ開票作業が進んでいる段階で、スーチーに祝福の電話を入れた。そして自らの政党であるUSDPの敗北を潔く認め、平和的な政権移譲を約束した。軍出身で、国軍勢力を利するはずのテインセインだが、彼は実に潔い人物のようだ。

 しかし喜んでばかりはおれない。現憲法では外国籍の家族がおれば、議員に当選しても大統領になることはできないとされている。スーチーのふたりの息子は英国籍である。
 問題の多い憲法だが、上下両院で75%の賛成があれば改正できる。だが25%の議席が常に軍に割り当てられている。軍が反対すれば憲法改正は不可能である。
 国防治安評議会という曲者もある。大統領以下11名の委員で構成するが、NLDは5名の委員しか出せない。過半の6人は国軍が占めるという規定がある。有事には、大統領ですらこの委員会、すなわち国軍の決定に従わなければならない。
 閣僚の選定だが、国軍は憲法の規定によって三大臣を指名する。国防、内務(警察)、国境相である。大統領は単に三人を追認し、任命するだけである。

 スーチーは選挙後の会見でつぎのように述べている。自らは大統領になることはできないが、自分はその上に立つ(above the president) 存在になり、大統領を超える。その計画はすでに立てており、決定はすべて自分が下す。大統領には一切の権限はない。
 しかし彼女は独裁者になることは不可能だ。仲間のNLDよりむしろ、軍勢力の協力を得なければ、閣僚をそろえることもできない。スーチー率いるNLDは、政権を握ったのではなく、旧支配層の軍部と協力して、国家を運営する機会を与えられたというべきのようだ。
 事情に詳しいある日本人ジャーナリストは、スーチーを「演説とメディア戦略のうまさでのし上がり、独裁を標榜するあたり、まるでミャンマーの橋下徹です。大量に当選した“スーチーチルドレン”は人材不足で、大統領候補の名もあがりません。」
 だが日本とミャンマーでは、あまりにも国情がことなる。まず軍と民主主義、経済や民族と宗教の問題などなど、彼我の差は大きすぎる。平和で豊かな大阪府市と、つい数年前まで動乱の続いていたミャンマーと、比較することは困難であろう。

 現在のスーチーはミャンマー国民にとって、宗教的崇拝に近い敬愛の対象だという。呼称は、ザレディー、マザー・スー、スー母さん、英雄スーチーなど、70歳の彼女の双肩には国民の期待が重く覆いかぶさっている。
 スーチーは難題が山積するミャンマーを、どのように構築していくのだろうか。彼女はふたりの最高権力者に書簡を送った。ひとりはテインセイン大統領、もうひとりはミンアウンフライン国軍総司令官である。
課題である国内少数民族の武装勢力との停戦交渉、被差別の立場に置かれ貧困にあえぐイスラム教徒の少数民族ロヒンギャの問題……。それらはミャンマーの抱えるたくさんの課題のごく一部でしかない。スーチーの対話はいま、大統領と軍総司令官たちとはじまった。難題はあまりにも重い。
<2015年12月13日 南浦邦仁>


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