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ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

別所長治の末裔(13)木場神澤氏②

2025-06-01 | Weblog

 このブログ連載は、前回で終了予定でしたが、神澤氏の記事が中途半端になっていました。今回、神澤氏を紹介して、長かった連載「goo blog」を終わります。終了する原因は、掲載会社によるブログ閉鎖です。ちょうど延々700回目の拙文になるようです。秋ころまでには別会社のブログコーナーで再開予定ですが、未定です……。

 さて木場村の庄屋は3氏が、ほぼ交互につとめています。三木氏が9名。それと白井氏が18世紀前半に、5名の名があります。神澤氏の当主は、政右衛門か又右衛門を名乗っていたと聞きます。江戸期にこの名の三木氏は4人。彼らは本来神澤氏でしょう。しかし天保2年までは三木姓でした。

 神澤家の祖は天正8年正月17日、三木城で自刃して果てた、別所一族のひとり。城主別所長治の弟、別所彦之進友之です。辞世の句は、

 命をも 惜しまざりけり 梓弓 末の世までも 名の残れとて

 友之には側室に子がありました。男児の名は「善久」。神澤某氏に助けられて的形村仮屋に隠れ住む。当然、秀吉側の追及を避けての居住です。彼は成人の後、神澤氏の娘「妙善」を娶って、二男一女をもうける。しかし「善久」はまもなく死去。未亡人「妙善」が3人の子どもを育てた。家族は母の姓、神澤を名乗る。

 「妙善」は3人のこどもと、自身の弟を連れて、隣村の木場村に移る。1620年ころかと思われますが、「後年本多候(城主)命ジテ木場村ニ塩浜ヲ築カル。時二妙善、其三子一弟ヲ携テ云々」。この文は、藩主が三木宗栄に塩田の開発を命じた文と共通しています。おそらく妙善は、藩主の命を受けた義兄、宗栄の力になるべく、木場に家族そろって移住したのだろうと思います。

 姫路城主本多忠政は「木場村の人三木又兵衛宗栄に命じ、寛永2年1625年、八家川尻に塩田2町4反歩を開発させた」。宗栄はまた木場村初代の庄屋をつとめます。「妙善」家族5人は、揃ってこの工事に加わったのでしょう。また神澤氏は姓を三木に変更する。

 木場村の別所氏にはふたつの流れがあります。ひとつは別所長治を祖とする三木宗栄の流れ。もうひとつは長治の弟、別所彦之進友之に始まる神澤一族。両氏ともに塩業などで成功した豪族です。しかしいくら親しいとはいえ、三木と三木では混乱も起きたのかもしれません。

 天保2年1831年、当時の当主、三木又右衛門が姫路藩主酒井雅楽頭忠実に願い出て、三木から神澤に改姓を許された。神澤又右衛門になった彼は、苗字帯刀を藩主忠実に許された大庄屋格でした。彼は別所彦之進友之の末裔なのです。辞世再び「命をも 惜しまざりけり 梓弓 末の世までも 名の残れとて」

 

<別所彦之進友之 後裔 略>

別所彦之進友之 天正8年正月17日没

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善久 又一郎・慶長11年9月14日没・行年29歳

  妻 妙善・神澤某女・寛文3年6月10日没・行年86歳

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善智 又大夫・延宝5年7月3日死/妻妙永・元禄10年12月28日没

  弟・甚左衛門/妹

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道林 又右衛門・享保16年正月没・行年93歳/妻:妙林・元文5年正月22日

  教順/善林・一太夫/女子2名

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尚治 仁左衛門・宝暦5年12月16日没・法号道味・行年84歳

  妻:智奥寛延元年10月10日没

道喜・長三郎/道仙・彦三郎/道和・六郎兵衛/女子2名

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尚茂 又右衛門 又右衛門・明和2年10月13日没・法号道真・行年85歳

  妻:妙貞・妻鹿住某女・寛政7年4月4日没

  仁左衛門・次左衛門養子/利三郎/女子2人

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尚昌 茂十郎・政右衛門・寛政10年4月29日没・法号道全・行年61歳

  妻:磯女・三木伊右衛門女・明和8年7月24日没

  後妻:縫・神田仙庵女・妙全・文化8年7月20日没

  成昌・清蔵・道甫・分家同郡亀山住居/忠次郎・後三郎右衛門・分家/女子2名

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尚興 文蔵・又右衛門・文化元年10月16日没・法号観道・行年45歳

  妻:妙専・又井四郎左衛門女・寛政元年10月13日没・行年27歳

  後妻:妙歓・妙専妹・文政6年5月13日没・行年53歳

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<役職者・就任年:神澤又右衛門尚吉・天保2年1831年・三木氏より神澤氏に改正/神澤松次郎・明治元年1868年/

 神澤伊三郎・明治22年1889年/神澤柳吉・明治34年/神澤憲太郎・昭和3年/

 神澤弘一・昭和22年/(江戸期:庄屋/明治以降:村長)>

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神澤 治  養子

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神澤直寛

<2025年6月1日>

 

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別所長治公の末裔(12)休載

2025-05-25 | Weblog

いつもご覧いただき、ありがとうございます。

突然ですが、「ふろむ播州山麓」は休載いたします。

「GOOブログ」がサービスを終了してしまうためです。突然です。

新投稿は累積されず、旧掲載分は遠くないうちに

すべて消去されてしまいます。

残念ですが、ご理解のほどお願いいたします。

さて、次の新しいプラットフォームを探してみます。

再会を楽しみにいたしております。

 

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別所長治公の末裔(11)木場神澤氏⓵

2025-05-22 | Weblog

 この連載の前回、木場村の歴代庄屋名と、明治期の村長名を列記しました。登場の人物を見ますと、三木氏 11名。神澤氏 9名。白井氏 4名。木場三木氏と白井氏のことはこれまでいくらか記してきました。ところが神澤氏の記述を調べても、ほとんど参考資料が見当たりません。なぜでしょうか?

 

 平田秀一氏は、一般に紹介されることがほとんどない神澤一族について、「姫路藩酒井家時代のほぼ100年間を、世襲の庄屋として木場村発展のために尽くしたのであるが、『兵庫県飾磨郡誌』に同家の事績が紹介されなかったためか、その事情が知られていない。」

 

 『兵庫県飾磨郡誌』の掲載だけが原因なのでしょうか。不思議に思います。同書を紹介します。書名は兵庫県を略し、『飾磨郡誌』に短縮します。

 『飾磨郡誌』は飾磨郡教育会が編纂発行した大冊です。地域を網羅した百科事典といえるほどです。「大正天皇即位の大典を記念するために郡誌編纂の計画を立て、之が調査に着手したのである。」完成刊行は昭和2年。十数年の歳月と精査を積み重ねて完成された。総頁500以上。

 

 その前に、町村合併の経過を記しておきます。

明治22年1889年 八家村と木場村が合併し八木村になる。

明治29年1896年 飾東郡と飾西郡が合併して飾磨郡になる。

昭和29年1954年 八木村、姫路市に合併。

 

『飾磨郡誌』に紹介されている歴史上の人物は、大正期の記載ですので、旧木場村でなく新八木村に広がっています。新村で合わせて5人が記載されていますが、旧木場村で活躍した3名を紹介します。

 

<三木宗栄> はじめ久右衛門と称し、後に又兵衛と改める。三木城主別所小三郎長治の遺腹の男にして母は於松の局なり。天正8年正月三木落城の際、於松はこの地を遁れ、宗栄を福泊に産む。時に6月8日なり。宗栄長じて木場に移り、三木姓を称す。姫路城主本多忠政の知遇を得て、寛永2年八家川尻に24反の塩田を拓き、また寛文3年には子の定信とともに明田に明田新田を開けり。木庭山上の木庭神社はまた宗栄の造営である。寛文4年5月13日没す。行年85。

 

<白井元貞> 木場村の人にして長左衛門と称す。播磨名跡志および『木庭記』の著あり。元文のころの人なり。各郡諸所の名所旧跡を旨として記し、諸家の和歌記文などを列挙す。元文3年戌午の末書あり。

 

<長澤蘆洲> 木場の人、名は呑江、長澤蘆雪の義子なり。家法を守りて円山の画風をよくす。ついに義父の後を継ぎて城州淀の藩士となれり。弘化4年10月24日没。年81。

[飾磨郡誌・編者曰く] 芦雪1年この地に遊びしに墨磨り?に来たりし蘆洲の画才あるを見抜き、親に乞いて養い受け、弟子として連れ帰りしが、刻苦勉励上達すること速やかなりしかば、ついに師の後を継ぐにいたるという。

 播州高砂の豪商岸本家・三代目博高は応挙や芦雪と交渉があった。冷泉為人氏は次のように記しておられる。蘆雪の義子蘆洲が「博高像」を描いている。さらに蘆洲の息子蘆鳳も父蘆洲とともに、岸本家に劉備玄徳の図の鯉幟の幟を描き残している。岸本家は蘆雪、蘆洲、蘆鳳と3代にわたって交渉をもった。

[拙記] 蘆洲の子は長澤蘆鳳だが、円山風の絵をよくす。京都に住む。帰省の際には、東山村の再幸寺を度々訪れた。住職の啓寶と懇意だったためです。同寺には大作もたくさん残している。ところで、「円山派主要画家画系図」をみますと、円山応挙の弟子には20名ほどが記されています。しかし一番弟子の長沢芦雪の弟子には、2名しか名がありません。長沢芦洲と長沢芦鳳です。長澤蘆雪の画風は、木場村出身のふたりが継いだのです。

<2025年5月22日 なぜ神澤氏が載らないのか、調べたくなります>

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別所長治公の末裔(10)継と木場

2025-05-13 | Weblog

ここで一度、三木別所氏の子孫のことを振り返ってみます。

まず城主別所小三郎長治の嫡男幼名寅松、別名千松丸のようですが、祐嗣別所小三郎小右衛門光治ともいうようです。母は正室照子。三木城が開城したとき、寅松は3歳だったようですが、両親姉弟とともに落命したと伝わっています。天正8年正月17日。

この時、同時に亡くなったのは、長治弟の彦之進友之夫妻。それから叔父の別所吉親夫妻と子ども3人。介錯をつとめた家老の三宅治忠。羽柴秀吉に約した自刃の全員です。ほかに殉死された方も何人もおられるでしょうが、名前はわかりません。

ところが、城主別所小三郎長治の長男は生きていた、といまも信じられています。家臣杉本□兵衛氏己がわが子の亀吉と、長治の長子小三郎寅松とを入れ替えて、城主の嫡男の命を守ったという。

落ち延びた寅松は、住居は加東郡長井村に定めました。ごく少数の家臣に守られ、育ったことでしょう。そして村名にちなみ長井を氏とし、惣兵衛と名乗ったようです。秀吉方の探索を遁れるためです。呉服業を営む。

 

その後、8代目小三郎惣兵衛は姫路藩家老、河合寸翁のもと藩内でさまざまの土木建設工事に携わっています。「継村の人、別所小三郎祐忠」とも記されているようです。継村周辺では8代目小三郎がさまざまな工事を行ったことで知られます。小三郎祐忠とも惣兵衛とも記されていますが、継村は、河合寸翁が開設した仁寿山校の隣村です。木場村も徒歩圏内ですし、運河船溜まりの堀止から小舟に乗ればすぐです。

そして次の別所家9代小三郎も継村に住み、彼は「学才あり書画をよくす。好んで村内子弟を養育す」。そして10代目は5人兄弟で、明治になって、苗字を長井から別所にもどしました。長子と次男は大阪に、また東京などに兄弟は散った。その後、継村には誰も残っていない。大きな石碑2基と、歴史を刻んだ別所家墓碑が当地に建っている。

 

各地に子孫は散ったが、現在でも三木別所家のご当主は、代々小三郎を名乗っておられるようです。

 

何度か紹介してきましたが、木場の三木氏も三木別所氏の一族です。久右衛門、改名して三木又兵衛尉宗栄。母は別所長治の側室、於松の局だが三木城開城の時、懐妊の身であった。はじめ木庭山の東麓の福泊に隠れ住む。苗字を別所から三木に改めたのは、秀吉の探索を恐れるがためです。そして後に、木庭山の西麓の木場村に移り住む。以降、宗栄の子孫は木場三木氏として現在にも及ぶ。

ところで木場初代三木宗栄は、姫路藩主の本多忠政の命を受けて、木場村の八家川尻に2町4反歩の塩田を開発しました。前六反浜と十八反(じはた)浜です。前の城主、池田家の姫路城築城が完成したのが慶長14年1609年。城石垣の大土木工事が全国的に落ち着くのが、このころからでした。新しい城の建設もほとんどありません。

新しい製塩方式は「入浜式塩田」と呼ばれる工法ですが、まったく新しい画期的な大工事です。かつての石工たち、城の石垣を築いた人たちが、平和な時代の到来で、海岸に塩田用の防波堤を築くという職に転換移動しました。

三木宗栄の工事は、無事に竣工しました。寛永2年1625年のことですが、宗栄はいかほどの新建設の知識や経験を積んでいたのでしょうか。おそらく綿密な計算や理論、準備作業。職人たちの組織化。そうした計画で実践不足の先駆者、宗栄は成功したのではないでしょうか。三木宗栄は、天正8年6月8日1580年生まれ、寛文4年5月13日1664年没。

そのように優れた宗栄を藩主は抜擢し、木場村庄屋の初代役も彼に任せています。なおこの連載で「入浜式塩田」のことを2度書いています。ご興味ある方はぜひご一読ください。

「別所長治公の末裔/(8)入浜式塩田/(9)的形塩田」

 

 つぎに江戸期木場村の庄屋と、明治期の村長をみてみます。圧倒的に三木氏が多く、次に神澤氏、白井氏も5度、庄屋を務めています。彼らとその周辺の人物についても記したいと思います。

 

庄屋の一覧表には、白井氏の名があります。木場在住で地誌『木庭記』(元文3年刊1738年)などを残した白井長左衛門元貞・五柱斎が、木場白井氏の一族と考えられています。元貞の著作にはほかに『播磨東山村(柿畔鎮守)稲荷社略記』(元文3年)など、計6点が知られています。それらの文章から「彼の学識はすごい」と研究者からの絶賛を聞きます。

寛保元年1741年、元貞は三木魚泰と力をあわせて暴風雨で壊れた木庭神社を再興しました。魚泰は三木宗栄の曾孫で、別名寸斗。父の三木元泰とともに「医を業となす」。木場別所氏の一族です。また木庭神社を創建したのは木場三木氏初代の三木宗栄です。元和元年1615年創建。

 

なお「庄屋」ですが、村落行政の責任者です。村内の治安・勧農・水利土木。代官のお触れ伝達。年貢割付徴収。祭礼。証文の添書。人別改。村代表として願届訴訟。他村交渉など、業務は多岐にわたり大変な激務です。特に人口の多い村は大ごとでしょう。庄屋を補佐する組頭や年寄を置いたりもしたそうです。

<江戸期・明治期 木場村代表者> ※年表示は就任年

三木久右衛門宗栄  庄屋  寛永年間(元年1624年~15年1638年)

三木又兵衛定信   庄屋  寛永16年1639年  

三木市右衛門    庄屋  寛永16年1639年

白井利兵衛     庄屋  正徳5年1715年 

白井利左衛門義周  庄屋  寛保元年1741年

白井利兵衛     庄屋  寛延2年1749年  

白井利右衛門包道  庄屋  宝暦6年1756年

白井利右衛門包道  庄屋  宝暦11年1761年

三木政右衛門尚昌  庄屋  安永7年1778年

三木又右衛門尚興  庄屋  天明5年1785年

三木政右衛門尚義  庄屋  寛政11年1799年

三木伊左衛門典愛  大庄屋格 文化5年1808年

三木又右衛門尚浩  庄屋  文政6年1823年

神澤政右衛門尚吉  庄屋  天保2年1831年

神澤松次郎     庄屋  明治元年1868年

三木達治郎     庄屋  明治3年1870年

神澤伊三郎     戸長  明治22年

神澤伊三郎     村長  明治22年

神澤松次郎     村長  明治26年

神澤伊三郎     村長  明治28年

三木彌平      村長  明治30年

神澤伊三郎     村長  明治30年

神澤柳吉      村長  明治34年

三木彌平      村長  明治37年

中島幾太郎     村長  明治39年

神澤伊三郎     村長  明治43年

中澤松次郎     村長  明治45年

 

さて木場村の庄屋と村長を見ましたが、宿題は頻出する神澤氏です。彼も三木別所の一族です。次回は神澤氏を取り上げる予定です。

<2025年5月13日>

 

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別所長治公の末裔(9)的形塩田

2025-04-29 | Weblog

 権力者や著名人が、さまざまの文書を残すことは歴史上いくらでもあります。ところが驚いたことに、江戸時代の庶民が詳細な工事記録を残していました。ここで紹介するのは、塩田開発の古文書です。遠方からもたくさんの方が来ておられる。江戸時代のいわばプロジェクトXそのものです。読んでいますと、ここに登場された方々が、まるでいま活躍しておられるような、そのような錯覚を感じます。

 19世紀の塩田新規開発が、どのような計画で進められたのか、詳細な記録です。よく書き、よく残されたと、敬服いたします。なお的形村の隣村は、東が大塩村、西が三木宗栄の木場村です。

 

 文政10年1827年春、的形村近隣に在住の4名が集まった。大塩村黒川源左衛門・同村千葉惣左衛門・砂部村磯野(金沢)九郎兵衛・東山村茂木八二郎。

 この4人が発起人になって、的形塩田浜・新開発を協議し現地を熟見した。的形沖の瀬の浅深、場所の高低、縦横の間数を脚によってはかり、帰って大塩の黒川(発起人)家で絵図面化し、さらに石垣・土手の仕様、土石、人夫の積り、入用の銀高を概算し、計画一件帳を作った。

 その後、銀主(ぎんしゅ/金主と同じ)の依頼に成功し銀主と発起人との約定が取り交わされた。(略)もし途中で出銀不能となった場合は、それまでの出銀は損銀として事業から立ち退くという一札を取り交わし、さらに普請とその後について約束を次のように取り交わした。

 <以下約定6項目略 契約締結は文政11年正月10日>

 契約完了以前の10年9月初旬、資金拠出歩割りが決まったところで、10日ころ普請奉行堀米令治に干拓希望を話した。(注:姫路藩が望む新塩田開発です)奉行は喜び代官・諸役人に掛け合ってくれ、9月12日呼び出され、工事に関し大塩村・的形村から支障申立はないかと問われた。申立はないと返答したが役所自身も両村に問合わせて、大塩村からは在来塩田との間の水路は上荷舟運航のため、なるべく広くしてほしい。的形村からは河口の波止場堤80間を、新塩田の沖に付け替えて欲しいと申し出ている。

 堀米奉行は発起人・願主4人以外に、普請加勢支役の必要を説かれ、近隣2村の庄屋を支役に推薦した。またここで4名の願主は普請成就を期し、もし誰かが落命しても、幼少の子どもであっても、連中に加えると「3人宛ての印に而互いに取替」した。かくて9月19日は久長町薬屋新兵衛方に泊まって奉行からの連絡を待った。21日正午に召状によって、村役人梶原・梅谷・七十郎・庄太夫・大庄屋船津源左衛門・惣左衛門・八次郎・九郎兵衛・砂部村庄屋・寺家町大庄屋・東山村庄屋・宇佐崎大庄屋。各人立ち合いのうえ、代官より正式の開発許可があり、古い塩田の障りにならぬよう、また領主に一切の無心のなきよう申し渡され、銘々押印の請書を提出した。23日には開発支役の庄屋2名も請書を提出した。24日には源左衛門と惣兵衛が呼び出されて、大塩村からの水路の要望、横水尾についてその場合新開塩田面積はどうなるのか、絵図面を提出せよといわれたが、その場合広げた部分を深く掘り下げることになれば、銀子百貫目も余分に必要になり、新開塩田は4町歩ほど少なくなる。それについては銀主と相談するからしばらく返答を待ってほしいと返答したが、この要望は立ち消えになったようである。10月5日には支役両人立ち合いにて干潟検分。6日にも検分を続け、宇佐崎新浜も検分した。8日夜には発起人のひとり、大塩村千葉惣左衛門宅にて「御願合」を催した。

 工事準備の上で、石材の採掘運搬が最も重要であった。採石は塩市村の宝殿石が主だった。大塩村東の山手、西浜村、的形村の岩鼻、行基が鼻、福泊の近在の5カ所での採石も許可をとった。運送は塩市村の石を82艘の上荷舟が、近在5採石場の石は約100艘で運び、これらは丁場受け取りのため切手は用いず、丁場以外からの売石・小破石は切手取引とした。

 石工は塩市村善兵衛、同村庄助、東山村清助、魚橋村利助の近在のものの他に、伊予今治の佐代治・喜代五郎・米蔵・椋蔵・常五郎その他。家嶋眞浦の丁場請負売石人など48~49人と八家・東山の人々。また石積方は備前宮ノ浦重太郎組多数。同村庄屋組、伯耆の人々などと専門職を集めた。

 土方は魚橋の幸左衛門組・大塩村東組・同中組・同西組・田谷才吉組・備前伊部良介組・赤穂の治九郎組・尾張成岩村助右衛門組・酒見北条徳兵衛組・岸□村丈兵衛組・志方町幸兵衛組・岩倉与之介組・木場村小市郎組・的形村村山河清五郎組・同久左衛門組など。遠くは備前や尾張からも来ている。

 剛土(はがね)を扱う集団もいた。剛土とは、防潮堤の石垣と裏土との間に漏れ防止用の粘土。一般に満潮位までは海粘土、それより上部は山粘土を用いた。山粘土は曽根村のものが極上であるので、同村の橋本屋長左衛門に請け負わせ、同村の上荷舟40艘で運搬した。不足分は魚崎剛土・塩市土・的形川筋の粘土などで補った。

 釜屋・納屋・穴(鹹水粘土)の建造大工は、市場村清兵衛組・大塩村甚吉が中心で、これに屋根葺、壁塗り人足が加わる。

 ほかに、竹打ちの作業がある。溶出装置を割り竹で作る。また台盛りは、その装置に粘土で共に造る。また堤防上の上穴など、様々な工程がある。これら工事施工の指図人は山の治兵衛が契約された。これらの大工や人足は地元で間に合ったようである。

 また運搬舟の修理のため舟大工なども雇われた。普請用の土船は新調または購入したが、赤穂や飾万津その他からも借り受けた。また工事用の土石はもちろん朶草(たぶくさ?/した草・歯朶シダ?)・筵・縄・俵・眞藁・麦藁なども近在から買い受けた。

 諸職人の食糧は膨大な量にのぼった。職人自身で買い求めることは往還に時間がかかり、作業に支障を来すと思われるので、万源方または会所で斡旋してきたが、文政11年1828年冬から米価が高騰したため、蔵米を買い請けて各組に配給するようにした。

 <以下簡略>

 もちろんこの普請中、藩の重役の検分が4回あり、願人中からその度ごとに饗応を行い、4回とも機嫌よくすますことができ、また願主・銀主共に、「御褒詩御挨拶トシテ御音物(いんもつ/贈り物)」

 

 「暑寒ヲ不厭、晴雨ヲ不撰、日ヲ積円ヲ重ネ、千辛万苦ノ功ヲ畳ミ、土手ノ惣長七百余間、横幅或ハ(は)五間或ハ七間、同高サ或ニ間半或三間、或ハ三間半ノ土手ヲ、蒼々タル波濤ノ中ニ築キ、塩浜十一軒ヲ得タリ」

 すごい大工事の末、完成しました。文政12年1829年冬。ご苦労さまでした。おめでとうございますと、心から祝います。

 数字は概数ですが、防潮堤1200m以上、高さ4m~6m、幅 9~12m。面積 23町歩=23ヘクタール。(※なおこのころ1軒前=約2町歩) 開発費用 465貫以上(1町当たり 20貫)

 的形の隣村木場の三木宗栄は、入浜塩田の初期開拓者でした。面積は上記の的形塩田に及びませんが、彼は先進の開発者だけに、新しく創意工夫を重ねて造成されたと思います。

参考:『姫路市史』4巻 平成21年刊

<2025年4月29日>

 

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別所長治公の末裔(8)入浜式塩田

2025-04-26 | Weblog

 新しく塩田を築くのはたいへんな事業だったようです。三木宗栄はどのように技術を習得したのでしょう。

 まず近世の始まりとともに、江戸時代初頭から始まった「入浜式塩田」がすごい。潮の干満差を利用した画期的な製塩法で、実に昭和30年代まで、この製法は続いたそうです。最初の発祥の地は播州東南部だろうと思われます。

 まず遠浅の海岸に大きな石で、長い堤防を造る。塩田地盤は満潮時と干潮時の中間の高さにつくる。。この石積みが大工事です。波濤に耐える築堤技術の発達で可能になりました。また隙間には粘土を詰め込み、堤防の穴をふさぐ。

 塩が満ちてくると堤防に設けられた水門(伏桶・桶門)を通って、海水を適度に塩田に浸透させる。そして毛細管現象によって、砂層上部に海水を供給する。その水を太陽熱で砂に付着させ、海水をかけて塩分の濃い鹹水(かんすい)を採る。それを鍋で煮詰めて塩をつくる。鍋の加減もむずかしいそうです。

 燃料には遠方から船で運ばれてきた薪を用いた。しかし文明期ころからは、安価な石炭を使う。

 またこれらの作業が可能になったのは、平和な徳川時代になったからです。新規の築城もまずなくなり、優秀な熟練工、大きな石を扱うのに長けた石工など、新しく誕生した仕事として、彼らは取り組んだのです。

 石工の技術をみますと、防波堤を築く技術とその下を通す伏桶と桶門を造る優れた石工技術が必要でした。また石材とその切り出し運搬をする石工、塩田開発には複雑で高度な技術が必要ですが、姫路藩にはそれがそろっていたのが幸いでした。池田藩の姫路城築城工事が慶長14年1609年に終わると、その数年後には石工技法は入浜式塩田の石材工事に投入されていったのです。

 

 木場村の三木宗栄は、入浜式塩田開拓の初期開発者のひとりです。彼は藩主の命を受けて、木場村の八家川尻に二町四反歩の入浜式塩田を開発しました。木場村河口の前六反と十八(じばた)浜がこのときに開かれた。寛永2年1625年のことでした。

 ちなみに三木宗栄は子の定信とともに、明田村に新田も開いています。寛文3年1663年。

 

 ところで木場の西、八家川右岸の宇佐崎村の新塩浜築造は、たいへんな難工事でした。まず城主榊原忠次(1649~1665年)が江戸の人、三宅又兵衛に命じて起工。しかし長堤が切れ失敗し、又兵衛は辞退しました。それにしても、製塩には無縁なはずの江戸人に、なぜ築造を任せたのか。不思議です。

 次いで藩主榊原政房(1665~1667)が開発を決意します。領内の大庄屋27名に命じてここを塩田にさせようとしました。しかし工事が容易でないため、大庄屋全員が固く辞退しました。大庄屋には農村地域の人たちが多い。人足を出すことは容易でしょうが、海岸地帯の大庄屋で製塩業を理解できる人は数人ではないでしょうか。

 そして寛文8年1668年、姫路藩主榊原直矩の時代。宇佐崎村の3名が協力し、夫役を断って、自力で干拓工事を進めた。そして新塩浜26軒(30町くらいか)を完成させました。3人の発起人は、河野宗兵衛清房、河野弥大夫通賢、置塩治郎右衛門道忠。

 藩主榊原直矩はこれを誉め、塩浜1軒の公役を免じた。「軒」は塩田1単位の面積です。時代と共に生産の効率化が進み、単位面積は広くなっていきます。ざっと分かりやすく、<1軒=1町>でしょうか。たいへん横着な換算ですが。

 それから木場村について。以前に木場港の改修について述べましたが、河合寸翁の指図で竣工しました。良かったですね。文政2年1819年。

 ところが同時に計画された戎新浜は相当困難だったといいます。小島戎の宇佐崎は木場村の西対岸です。「文政5年1822年、四国あるいは江戸の小西なる人が戎新浜の開墾を始めたが、まったく成功していない」。その後、神崎郡土師村鎌谷十郎太夫広長という人が、幾分成功させた。完成した浜は、そのずっと後の明治初年にやっと開発されたものです。

<2025年4月27日>

 

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別所長治公の末裔(7)木庭

2025-04-19 | Weblog

旧木場村の初代三木宗栄のことは、前回に記しました。ところで村名は、すべて旧名です。たとえば「木場村」「的形村」などは、現在ではすべて「木場」「的形」です。ここでは、あえて村付きで呼びます。

さて木場は「木庭」(きにわ)と昔は呼ばれていたようです。木場村のすぐ東は木庭山で、小高い丘のような山ですが、山頂には木庭神社があります。

今回は木庭を取り上げてみます。まず「兵庫県神社庁」等から「木庭神社」を紹介します。

 

「木庭神社は元和元年1615年、木場開発の長者である三木久左衛門宗栄が創建した。寛保元年1741年に4代後の三木魚泰が改造した。風雨で大破したための再建で、魚泰は木場三木家4代後。医師の三木寸斗のことで、木庭神社の宮司を兼ねたようだ。一説では三木家は三木城別所氏の子孫といわれている。木庭山の前、南面の小赤壁の沖寄りは水深が深い。大きな船は沖合に船を止め、船頭一人の上荷舟が、陸と大船の間を往復して、荷物や船客を運んだ。木場港は中世より海運の発達により栄え、塩田業や廻船問屋などで三木家などの長者を輩出した。」

奇岩の並ぶ木庭山南面海岸線を「小赤壁」と名付けたのは頼山陽。河合寸翁が近くに設立した仁寿山校にたびたび講義に訪れています。山陽は沖合から眺めたのでしょう。ここは景勝の名所になっています。中国三国志の赤壁が有名ですが、赤壁はレッドクリフです。

 

ところで『木庭記』という名著が残っています。近世中期の木場村と付近の地誌を記す。元文3年1738年、白井長左衛門元貞著。白井は木場村の名士のようです。

彼は木場の港について、次のように記しています。

「さてまた、中播磨は遠干潟(とおあさ)にはべるに、この木庭山より東、地蔵の沖まで十町あまりのほどは水深も深く、山に添いて大船の浮かぶ地なり。惜しむらくは、木庭山、棲神(やか)の小島を四、五町ばかりも沖に出して、(この工事は不可能ですが、もし実行できれば)…おそらくは良港成るべし。」

八家川河口の木場港は、たびたび浚渫や増築工事を行っていますが、なかなか成功しない。小赤壁沖から隣村的形村の福泊沖合に船を停めて、小舟の上荷舟で木場港を往復するしかない。

 

『姫路市史』第4巻に、文化4・5年にこの沖に来航した客船の数が、掲載されています。船籍をみると中部から西日本各地、さまざまの地から、たくさんの船が訪れています。

客船と表示されていますが、積んでいるのは客よりも荷物が多いように思いますが。

「船は各地の商品を購入して姫路の外港に運び、そこからまた藩特産の皮革・木綿・塩などを買い積みして、阪神間方面または船籍地に運んだ。」別に、塩の運搬を業とする塩廻船も往来した。天保9年、姫路藩4か村~宇佐崎・木場・的形・大塩。近隣の村ばかりだが、年間の塩生産量は80万俵、うち40万俵は江戸に積みだした。小壁壁沖に停泊する大型帆船に、小型の上荷舟が何度も積み込み、活躍したことでしょうね。

 

<文化4・5年に小赤壁沖に来航した客船数>

尾張   船数5

紀伊   4

和泉   11

播磨   6

淡路   2

備前   13

安芸   10

周防   6

阿波   4

讃岐   15

伊予   27

土佐   20

豊前   3

豊後   8

日向   1

出雲   3

長門   1 

2年で合計139隻。年平均70回来航。当時の日本人客の船便多用には驚きます。陸路の街道を行くより、よほど楽です。特に瀬戸内海は安心な航路です。

追記 このような文章がありました。木場沖の本格的改修についてです。「文政元年、河合寸翁をして検分せしめ、港の東西に波止坪数457坪(1510㎡)。長180間、幅25間、深5尺。」翌年12月には木場港河口に灯台も築造し、大工事は、無事完成しました。

文政2年2月17日着工。同年12月26日東西波止場を完成。波止場と川堀工事費合計 銀33貫。その後、文政9年に追加工事。明治27年にも改修工事。この工事には県からの補助金獲得に、村長の神澤松次郎の尽力が大きかったといいます。神澤一族については後日紹介します。なおその後も木場港はどんどん姿を変えていきます。

 

 

<2025年4月19日>

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別所長治公の末裔(6)木場別所氏

2025-04-12 | Weblog

姫路城主本多忠政はほかの藩主同様、製塩業に着目した。「寛永2年1625年、木場村の人三木又兵衛尉宗栄に命じ、八家川尻に塩田2町4反歩を開拓させ、姫路藩内の製塩業益々発達するにいたった」

八家川尻・木場村のこの塩田は翌年に完成する。前六反と十八反(じばた)と呼ばれた広い塩田のようです。

 

宗栄は久右衛門、後に三木又兵衛尉宗栄。三木城主・別所長治の違腹の男子であり、母は側室「於松の局」であった。三木城開城のとき、於松は懐妊の身で、三木城要人の蔭山清光と久米五郎に介護されて落ち延びた。そして木場村の隣村の福泊に隠れ住んだ。天正8年6月14日1580年に生れた宗栄は母に育てられたが、秀吉の探索を恐れて、姓を三木、名を久右衛門と称した。後に隣村の木場に移る。そして寛永2年1625年以降、塩田築造を生業とする。この年、宗栄は46歳。

 

側室「於松」説が正しいなら、別所長治の嫡男の千松丸は当時3歳、三木久右衛門の兄にあたる。なお長治の子、千松丸の別名は、寅松ともいうようだ。名は祐忠という説もあるが、江戸時代には長らく長井姓を称していたという。呼称で間違いないのは、8代目別所小三郎であろうか。母は開城のときに自刃した別所照子である。

 

 

※木場別所三木氏の家系図です。簡略版ですが <宗栄> <三木宗栄>はいずれも同一人。

※宗栄は、初代木場三木/又兵衛尉宗栄・久左衛門宗栄です。

※宗栄か定信が、木場(木庭)村、初代の庄屋をつとめています。

※//:以下略

※<三木氏名前>

※木庭:きにわ・きば

 

<別所長治>――<三木宗栄・久右衛門・又兵衛尉宗栄>(天正8年6月8日1580年生・寛文4年5月13日1664年没)――

 

――<宗栄>――<定信/亦兵衛尉/久左衛門尉>(木庭村初代か2代目の庄屋/元和4年1618年生・延宝6年1678年没)――<元泰><幼名丹波・号亦兵衛尉>(万治年1659年生・享保2年1717年没/医を業となす)ーー<魚泰・寸斗>(医師)//

 

――<宗栄>――<定正・又太夫>(延宝5年没1677年)――<正之・市太夫>(正徳5年没1715年)――<信之・三木伊左衛門>(延享元年1744年没)//

 

――<三木貞夫>(本家・木場14代)――<三木美智夫>(同当主・15代)―

 

 

この系図については、興味深い逸話があります。昭和57年、大阪市天王寺区の安田定利の妻の母、三木栄(当時86歳)が所有し、大切に保管していた写系図が発見された。上記はその略図です。

それから上記の<三木元泰1717年没>について。宗栄の孫ですが、彼は医者になってしまいました。おそらく元泰の子孫は三木分家になり、三木本家はその後<定正1677年没・正之1715年没・信之1744年没>の系譜が継いだのだろうと思います。

参考:橋本政次著『新訂姫路城史』中巻/昭和27年/臨川書店

 福本錦嶺編『別所氏と三木合戦』平成8年/三木市教育委員会 

<2025年 4月12日>

 

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別所長治公の末裔(5)運河

2025-03-30 | Weblog

 継村の人、別所小三郎祐忠が、姫路藩家老の河合寸翁に提案した。「仁寿山校まで、運河を継村の広海(ひろみ)八家川から繋ぐのはいかがでしょうか」。水運は八家川の河口・木場村の港とも、この運河は一体になり、播磨灘に通じる。計画提案は文政10年(1827)でした。当時、小三郎は長井姓を用いていました。また祐忠の名は初出で、確信はありませんが。事情を知る関係者は、長井姓を名乗る彼を、別所長治の末裔と認識していたはずです。

河合寸翁は藩民からの、殖産興業などの意見提案をたくさん採用した。運河も認められた。ほかに例えば「固寧倉」(こねいそう)がある。飢饉が起きたら困窮者を救うための非常食の備蓄庫です。「下々の者のなかから心得よろしき者が固寧倉のことを願い出た」。提案者は飾西郡町村の大庄屋・衣笠八十右衛門氏長です。固寧倉は村が願い出るという形で建設した。藩からの強制や命令ではない。固寧倉は幕末には、藩内に288箇所を数えた。

ところでこの運河は、狭い所でも幅4.5m、深さ6.3mまで掘り下げ、堤防には5.5mの石垣を築き、上部90cmを芝生にした。立派な造りです。水路は、八家川沿いの広海(内湾・入海)から仁寿山校近くまで達する計画だったが、工事は中断した。完成したのは長さ440mほど。堀を途中で止めたので、その地点辺りを「堀止」といい、いまでは埋め止めて児童公園になっている。公園は決して広くはないが、現在は月2回粗大ごみの集積場、小学生の集団登校集合場所です。かつての工事中断の理由はわかりません。

ところで8代目別所小三郎の運河工事ですが、掘り出した土は広海に埋め、5反(60アール)の耕地の小島を造った。河合寸翁はこれを小三郎に与え、その労に報いた。

しかしその後の報告によると、明治42年には、水深わずか2.7m。この小島は半島状になっている。昭和30年ころ、広い沼状態で100m四方ほど。現在では、広さは約50m四方の沼になってしまいました。

ところでこの入海・内湾の広海ですが、塩分を含む汽水沼です。八家川に面した内陸の湾で、川自体が海水を含んでいます。海が満潮になると、木場村・八家村・東山村を遡って、塩水が遡り逆流してきます。淡水と塩水が混じっており、農業には不向きな悪水です。先日久しぶりに広海を訪れたら、釣りをしている方がおられました。「海の魚と川の魚と、どちらが釣れますか?」と聞きましたら、「どちらも釣れます」との答え。便利な釣り場です。 

ところで八家川の紹介をしておきます。古くは「棲神(やか)川」と書いて、「神住む川」と訓したそうです。棲神・ヤカは八家・屋カ・夜加などとも記します。神は港入口の小島、いまは陸地につながっていますが、ここの小島・蓬莱山に蛭子・恵比寿が祀られています。船乗りの守り神だそうです。

木場港を出入りする小舟はみな、三ツ橋をくぐりました。昔は太鼓橋で、周防岩国の錦帯橋にちなみ「小錦帯橋」の名で呼ばれていました。橋の下を行く小舟の上部や船頭が橋の底にぶつかってしまうためです。いまでは小舟も通らず、平らな普通の橋です。大きな船は河口の内外に停泊します。現代のレジャーヨットも三ツ橋より下流に、たくさん係留されています。

かつて、周りの広大な塩田には水路が縦横に走り、三ツ橋の下を通過するのはまず百隻ほどの上荷舟(うわにぶね)。出来上がった塩を沖の帆船まで運ぶ。また沖からは釜焚き用の薪を運び込んだ。文政のころからは石炭も利用。この小舟をゴイラ船と呼んだそうです。北九州から大きな帆船で運んできました。

塩田地帯より北、八家川中流には、継村や明田村、東山村に属する10石積みほどの小舟、合わせて20隻ほど。船溜まり、現代でいえば狭いヨットハーバーのようなものですが、東山村は屋台庫周りが溜まり場で、10隻ほどが常駐。西の八家川まで、2m幅ほどの舟用の溝が続いていました。荷物は住人用の生活必要品、農村部には肥料の干鰯(ほしか)、鰊(にしん)かすなどを運びました。そして農家は野菜を出荷しました。船溜まりの痕跡は、東山にも継にも、いまではさっぱりありませんが。

ただ塩水は製塩業には好条件でした。姫路藩の南東部は広い製塩地帯でしたが、古くはまず東山村・八家村などから、近世方式の入浜塩田が広がったそうです。その後すぐに、宇佐崎・木場・的形・大塩と、広大な塩田が広がっていきます。有名な赤穂塩業は姫路に遅れて始まります。姫路から赤穂に指導者として行き、定住した塩作り職人も何人もいました。

ところで8代目別所小三郎ですが、運河建設にかかわった後、姫路の塩田開発にも当たったようです。どうも木場村の三木氏との繋がりが縁のようです。初代木場三木氏は三木久右衛門尉宗栄ですが、「三木城主別所長治の異腹の男」『姫路城史』とあります。三木宗栄氏は、別所小三郎長治の長子の弟にあたります。

三木一族は現在でも木場・八家などの広大な土地の地主です。それらはかつての塩田です。三木家は現在では燃料業も営んでおられ、わたしがいつもガソリンを給油するのは「三木産業」です。燃料取り扱いのルーツは、塩田で釜焚き用に使った薪や石炭かもしれませんね。

「寛永2年(1625)三木宗栄によって前六反浜(塩田)が開発された」『姫路城史』。十八反浜も宗栄が開発したといいます。あれこれと、わからないことが多いのですが、連載次回は宗栄と別所氏の関係を、調べてみたいと思っています。

<2025年3月30日>

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別所長治公の末裔(4)酒井忠以と河合寸翁

2025-03-01 | Weblog

 安永7年3月1778年、姫路を出立した姫路酒井藩2代目城主、酒井忠以の一行が三木町に途中立ち寄った。三木から有馬温泉までの「湯の山街道」は、豊臣秀吉が三木城戦のために整備した新道です。

「3月11日、三木町大庄屋十河与次太夫方に止宿。三木町の辺より別所小三郎か城跡をのそむ。」『玄武日記』

忠以は持病治癒のために、有馬温泉に向かう途中でした。

「もののふのまもりしあとはあれはてて何かすミれの花さきにけり」。「すミれ」はスミレ。

これまでに通り過ぎて行った時間のながれは、あまりにも速い。

 河合寸翁、少年のころは名を猪之吉、そして16歳から隼之介、54歳からは道臣。どんどん変わっていきますが、ここでは隠居後の名「寸翁」で通します。

 ところで藩主酒井忠以と河合寸翁とは、藩主と家臣、子弟でありかつ兄弟のような関係でした。寸翁が城主にはじめて謁見したのは安永6年1777年、11歳のときでした。若き藩主忠以は22歳。主君は少年に卓越した才能を、瞬時にして見出します。「超宗公材之教以諸芸」。忠以は寸翁に諸芸―和歌、茶道、絵画など。さらには政治経済などあらゆる教えを授けた。

 忠以(宗雅)は茶を松平不昧校に師事。宗雅は大名茶では、国を代表する人物でした。忠以は、画は少年の弟、酒井抱一に指導した。酒井抱一は後に江戸琳派を大成する大家だが、兄忠以の絵画力も一流でした。

 

 姫路藩家老の河合寸翁は、藩民にとって大恩人でした。膨大な藩の借財を完済し、殖産興業も目を見張るものがありました。木綿はじめ専売品を拡大しました。高砂染、東山焼、朝鮮人参、蝋燭、皮革、竜山石、絞油を増産。また飢饉や貧窮者に備えた固寧倉(こねいそう)を藩内に数多く造らせた。

 さらには寸翁は菓子舗の伊勢屋を江戸に修行に行かせ、銘菓「玉椿」を作り上げさせた。また小料理屋を同じく江戸に行かせた。そして嘉永元年に鰻料理屋「森重」(もりじゅう)が誕生する。ともに現在も盛況です。

 

 河合寸翁と別所家8代目小三郎とは、親密だったと考えられますが、両人にはなぜ深い繋がりがあったのでしょう。碑文ではふたりには何か縁があり、さまざまな土木工事に小三郎は寸翁の指示を得て、活躍しています。

 兼田村では新田を開発している。また塩田では宇佐崎村の新浜開発に小三郎が当たっています。着手は文政11年1828年。

 他の塩田開発をみると、彼が直接かかわったのではないようですが、木場村、大塩村、的形村三村の塩田も、ほぼ同時期に開発されました。天保9年1838年には4ヶ村の塩田で80万俵生産し、半分を江戸に船積するほどの生産量になりました。

 運河は八家川の内陸湾/ひろみ広海から、継村経由で仁寿山下の山校に達する計画でしたが、残念ながら途中で中断しました。工事の開始は文政10年1827年。この計画も寸翁の指示で小三郎が進めていました。  

<2025年3月1日>

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別所長治公の末裔(3)石碑文

2025-02-17 | Weblog

近くの山麓のことは、「播州山麓」連載の第1回で紹介しました。小さな三山が連なる姫路の山塊です。西の峰が仁寿山で、南麓に姫路藩家老、河合寸翁が設立した仁寿山校がありました。

そしてこの学校の建築、さらには運河開設や新田開発に、別所氏8代目が建設に当たりました。なお河合寸翁一族の墓域は少し西の山中腹にあります。

東の峰は、小高い船橋山です。その麓の南東に、別所家一族の墓と石碑があります。姫路バイパスを西方向から東インターを下りると、碑は最初の信号機のすぐ左手に見えます。立派な墓石です。

また目印は「ホテル継KEI」。継の読みは「つぎ」ですが、ホテルはあえて「ケイ」と読ませています。墓域はホテルのすぐ西隣です。一帯は車の通行量が多く、横断歩道は少ない。墓参に訪れる方は、交通事故に十分注意してください。

この墓碑文裏面には長文が彫られ、読みずらい刻字箇所もいくらかあります。いつかは全文を紹介したいと思いますが、とりあえずは簡略文を記します。正しい字をご存じの方がありましたら、コメントでお知らせくださればありがたいです。

なお原文は、□:文字不明、句読点なし、改行無し。それから運河は、近くを流れる八家川の広海(ひろみ)から山校までの計画であったが中断した。名残に堀止(ほりどめ)の地名がいまも継地区にあります。また文末の櫻花ですが、長治公は旧暦1月17日、あとひと月ほどで咲くサクラに思いをいたされていた。 

 

 

<別所家之墓> 

わが祖先は東播播十八万石、三木城主、別所小三郎長治が天正八年正月十七日に落城の際、 

今は唯恨みもあらじ諸人の命に代る我が身と思へば

時世を詠みて自刃し、菩提寺法界寺に葬られた。

家臣の杉本□兵衛が、自分の子の亀吉を主君の嫡子の身代りとして入れ替えた。

長治の嫡男の小右衛門光治、幼名寅松を偽って我が子に仕立てたのである。

そして加東郡東条□長井村に逃れて住まいした。

数年の後、長井村の南の地に移ったが、徳川治世の世に武門再興の希望は持てぬ。

布屋と号し呉服屋を営み、前住地にちなみ長井を氏とした。

曾祖父八代、惣兵衛□□は、姫路城主酒井家の家老河合隼之助寸翁公の命を受け、

仁寿山学問所の建設に当たった。また運河と阿保新田、宇佐崎□浜の新開をたまわり、

完成を賞せられ□四反余の新田をたまわった。

これを機に、継村内に移住して、農業に転じた。

そして明治維新後、一般人も苗字を名乗ることができるようになった。

われわれも別所氏に復す時を迎えた。

別所氏九代小三郎氏は学才あり、書画をよく好んで、村内子弟の養育につとめた。

彼に五児があった。長子十代小三郎氏は大阪に住む。

次子は田尻家に養子に入り、同じく大阪に。以下三子は東京に居住する。

これまで、一族各人は墓地を散立していたのをここに改葬した。

この地を長く別所一族墳墓の地と定める。

  昭和十四年四月中旬  

  櫻花の満開の節これを建つ

※追記 寅松と亀吉について。亀吉は開城の前日、病死していたという説があります。

  死して、翌日に、次の主君、寅松のためにつくす。亀吉も忠実な家臣のひとりです。無名でなしに、碑文の通りに名を記したのは、立派な家臣であるからと、聞きました。

  もしも亀吉が、一族自決のときに生きていたなら、どうでしょう。年齢はおそらく三歳。照子が我が子四人全員を短刀で刺した、とされています。生きている亀吉を寅松の身代わりに、照子が刺し殺すことは、わたしには想像することが、できません。

  亀吉は前日に死亡していた。これで円滑に話しは進みます。長治が本人の自決の直前に指示し、一族女性三人と子どもたち七人は、城内の庭で火葬されました。

<2025年2月17日>

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別所長治公の末裔(2)一族の辞世

2025-02-11 | Weblog

1年と10か月ほども続いた三木合戦。籠城戦もついに終わりを迎えます。別所長治と照子夫妻は、辞世の和歌を詠んでいます。一緒に自死した一族たちも同様です。弟の別所友之夫妻、叔父の別所吉親妻の波、家老の三宅治忠。籠城戦の開始は、天正6年3月29日(1578年)、開城は同8年1月17日。実に実に長い籠城でした。最後まで耐えた一族の辞世を紹介します。

 

□三木城落城之時に詠む

長治とよはれし事も偽か弐五年の春を見捨て                          別所長治 

  長治と呼ばれし事もいつわりか。25年の春を見捨て行こう。「長治」は「長い春」でしょう。「25年の春を見捨て」について、旧暦では春は、1月から3月まで。  一族の自決は1月17日ですが、現暦では2月下旬ころでしょうか。春ですが、桜花の開花はまだです。意訳「桜の咲く前のいま、まだある春にさようならと言い」。それから、長治の年齢ですが定説はないようです。23~26歳のいずれかと伝わっています。しかしこの歌から、25歳ではなかったでしょうか。そのように思えて仕方ありません。

 

□別所氏討死之節、辞世之和歌

今は唯恨ミもあらじ諸人の命に代はる我身思えば                   別所長治 

  いまはただ、うらみもない。諸人の命に代わる我が身と思へば。

 

もろともに消え果つるこそ嬉しけれ遅れ先立つ習ひなる世を              長治妻 照子 

  夫婦とはいえ、死ぬのは後になり先になることが世の常だというのに、私は夫と一緒に死ねるのがうれしい。照子は丹波国篠山城主、波多野丹波守秀治の娘。

  

命をも惜しまさりけり梓弓末の世までも名をおもふ身は                   弟 別所友之

  後の世まで名の残ることを願って武士の名誉を全うするのだから、命も惜しんではいない。

 

たのもしや後の世までも翅をもならぶるほどの契りなりけり               友之内室 尚

  翼を並べて一緒に飛ぶように過ごしてきた夫と私は、次の世でも一緒に生きることを約束したのです。尚は但馬山名和泉守豊恒の娘。短刀を手にした尚だが、手が震え刀を落としてしまった。長治の妻照子はそれを見て諭した。「遅れ先だつ道をこそ悲しき物とは聞候ひき。共につれ行死出の山、三途の川も手を組んで渡候はんこそ嬉しけれ。余りに嘆かせ給へは、後の世の迷ひにこそ成候べし」『別所記』

 

君なくはうき身の命何かせむ残りて甲斐のある世なりとも                家老 三宅肥前守治忠     

  生き残って甲斐のある世だとしても、主君のあなたががいなければ私の命があってもしかたがない。当日の介錯は三宅治忠がつとめた。

 

のちの世の道も迷はじ思ひ子を連れて出でぬる行く末の空                 叔父別所山城守吉親の妻 波

  波は武芸に秀でた女傑。夫吉親との子どもは3人あったとされています。男2人、女1人。「思い子」とは、ともに自決した自身の子たちをいうのでしょうが、あるいは城主夫妻の子どもの意味もあるのでしょうか。長治の男児は、この日に逃れたと伝わる。

 

 長治は自刃の前に家臣に指示した。先に逝った3人の女性と、7人の子どもたちの火葬である。照子、尚、波。そして我が子4人と、波の子の3人である。十人の遺体は庭に下ろされ、蔀(しとみ)や遣戸(やりど)など、建具で覆って火を放った。                                             

<2025年2月11日>

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別所長治公の末裔(1)戦国

2025-02-05 | Weblog

久しぶりの「山麓噺」、数回の連載になりそうです。

きっかけは近くの山麓に建つ別所家の3基の大きな石碑。三木合戦、羽柴秀吉の軍勢に敗れた城主、別所小三郎長治の一族のことなどを記します。

 

三木は東播磨。領主の別所氏は当時の播州で最大の勢力でした。

城攻めですが、秀吉の攻め方があまりにもひどい。城から一歩も出られないように囲み、兵糧攻め「三木の干殺し」を徹底しました。城には兵と住民、7500人が別所氏を頼り籠城した。開戦は天正6年3月29日(1578)

攻防戦の間、討って出た城兵以外、城外に脱出することができた一般人は、一体どれくらいの数だったのでしょうか。圧倒的多数のひとたちが戦闘にも加わることもなく、逃れることもできず、城内で窮乏に耐えた。

 

女子どもまでが籠城を選んだ理由として、ひとつには西播磨の上月城での暴挙があろう。天正5年(1577)秀吉軍の攻撃を受けて落城した。秀吉は見せしめに、城内に残っていた女子ども200余人を、備前、美作、播磨三国の国境に引き出して処刑した。そして女は磔に、子どもは串刺しにして並べるという残虐極まりない暴挙を行った。三木の女性たちは、主君長治を敬愛信頼していた。そして秀吉が勝利することは、絶対に許せなかった。

元亀2年(1571)、有名な比叡山の焼き討ちが起きた。犠牲者は数千名にのぼるという。信長は叡山の僧侶、学僧、上人、児童などの首をことごとく刎ねた。

また天正7年12月(1579)、三木が籠城戦を始めた翌年、有岡城残党に対する残虐があった。城主の荒木村重は、一族や家臣の妻子を残したまま城を脱した。織田信長は、残された女子供を惨殺させた。荒木一族の女子供30人余りは、京都町中引廻し磔にされた。武将たちの妻女も磔。「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目も心も消えて、感涙押さえ難し」。中位以下の武士の妻女、侍女など510余人は「小屋に押し込み、枯草を積んで、焼き殺した。地獄の鬼の呵責もこれかと思われた」『信長公記』。これらの話が伝わると、秀吉たちのやりざまは、本当に恐ろしくなる。籠城者は、特に女子はみな、酷くおびえたであろう。

 

三木城では、食糧は完全に底を尽く。このままでは、全員がもう間もなく餓死するしかない。「民の命を無駄に散らすことはおろかなこと」。長治の妻、照子は心底思った。

長治も覚悟のときが来たと決断する。天正8年正月15日(1580)、彼は包囲する敵方に申し入れた。

「来る十七日、申の刻、長治、吉親(叔父)、彦之進友之(弟)ら一門ことごとく切腹仕るべく候。然れども、城内の士卒雑人は不びんにつき、一命を助けくだされば、長治今生の悦びと存じ候」

正月17日、約した日が来た。夫妻には幼い子が4人あった。5歳の姉の竹姫、妹の虎姫4歳。3歳兄の千松丸と、2歳弟の竹松丸。全員が夫妻の刀で息を引き取った。

ところが、男児のひとりか二人ともか。家臣が敵に偽って城外に連れ出し、逃れた。そして田舎の地で秘密裏に育てる。いまも別所長治公の子孫があるのは、その故である。もう450年も昔の流離譚であるが、今も日々、山麓の祈念碑と別所家墓には、美しい花が絶えない。 

※本を読めば読むほど、にわかの知識が、空転し出します。たとえば子どもたち。本当に四人だったのか、名前は、年齢は? 本当に難しい………

<2025年2月5日 >

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千秋万歳 まんざい  

2025-01-29 | Weblog
萬歳(まんざい)はかつて「千秋萬歳」と記され、新年早々に寿詞(ほぎごと)が芸能人によって演じられました。古くは新年の予祝は1165年、『古今著聞集』の記載「千秋萬歳とは、正月の子の日に寿詞を唱えて禄物を乞うて歩くもの」にそのルーツをみることができます。それ以前にも「千秋萬歳」の記載はありますが、新春慶賀との関係は明らかではありません。祝いの言葉としては、あまりにも古い千秋萬歳です。本来は二千年以上もの昔に、中国でうまれた語です。
 平安のいつのころからか、12世紀以前には富貴な家々を、さらには禁裏御所を訪れ、新年の予祝を述べ、芸能を演じる万歳、すなわち千秋萬歳を演じる芸能民がいたのです。歳のはじめにいつも此界に来たる異人・神に扮したのです。後には一般人の門にも訪れます。
 近世以降、単に万歳・萬歳(まんざい)とよびますが、それより以前、この祝福芸の誕生から中世まで「千秋萬歳」と彼らの芸能は称されました
 1165年から1580年までの記録から、彼らの演芸の記載文字と読み呼称をみてみようと思います。本来、今日書く気はなかったのですが、この連載で「ばんざい」と「まんざい」が混乱してしまいました。それで、あえて古い記述を再録します。
 
 文字は千秋萬歳がもっとも多いのですが、読みは「せんしゅうまんざい」あるいは「せんしゅ」、一部「まんぜい」かもしれません。数字は確認された西暦換算年です。こんな一覧表に、どのような意味があるのか? わからなくなってしまいましたが、あえて掲載します。
 
[千秋萬歳](せんしゅう・せんしゅ/まんざい・ばんぜい)
1165・1211・1233・1241・1246・1247・1280・1289・1301・1319・1324・1347・1436・1437・1447・1471・1472・1475・1477・1481・1586・1487・1488・1490・1492・1503・1515・1516・1520・1522・1533・1537・1546・1551・1552・1554・1559・1560・1564・1565
 
[千寿萬歳](せんじゅ・せんず・せんす)
1213・1225・1385・1402・1497・1509
 ※14世紀後半から千秋がいくらか減り、千寿がみられるようになる。
 
[千寿万財](せんじゅ・せんず・せんす/まんざい・ばんざい)
1418・1431・1432・1433・1434・1436
 ※ いずれも『看聞日記』記載
 
[千しゆ万(萬)さゐ](せんしゅ/まんさい・ばんざい)
1478・1481・1482・1486・1488・1491
 ※ いずれも『御ゆとのゝ上の日記』
 
[千すまんさい](せんす・せんず/まんさい・まんざい)
1546・1552・1560・1564・1565・1570・1580
 ※16世紀には「せんす」あるいは「せんず」ばかりになってしまいます。
いずれも『御ゆとのゝ上の日記』より。
<2009年8月16日送り火の夜 2025年1月29日再改訂再録>
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酒井抱一 江戸琳派展

2025-01-27 | Weblog

京都・岡崎の細見美術館で、注目の抱一展が開かれています。2月まで開催なので、のんびり構えていました。ところが、気づいたら来月といっても2月2日まで! 日があまりありません。早く行かなければ。あわててお知らせします。

展覧会名「抱一に捧ぐ 花ひらく雨華庵(うげあん)の絵師たち」。江戸琳派は抱一にはじまりますが、弟子一門は延々と続き、雨華庵5世の酒井抱祝に至るまで、昭和の戦後まで続きます。雨華庵とは、抱一の住まいかつ、江戸琳派たちの画塾かつサロン。

 

日経新聞の記事では「酒井抱一は、姫路藩主酒井家の次男として江戸でうまれている。あの姫路城の主となる可能性も、僅かにだがあったわけである。」1月24日夕刊

 

年譜で抱一の仮養子と、世継ぎの甥の誕生をみてみましょう。

1773年、兄の忠以は第2代姫路藩主として初の国入り。抱一は仮養子として、江戸に留守居。もしもことあれば、抱一が第3代藩主をつとめることもある。仮養子の制度は、跡継ぎのいない大名が長旅をするときの決まりだそうだ。

1774年、兄忠以が高松藩主の娘と婚姻。

1777年、6月22日、忠以の国入りに際し、抱一は再び仮養子となる。兄が幕府に差し出した願いは「未男子無御座候付、私弟酒井栄八(抱一)儀、当酉二十歳相成申候、右之者当分養子仕度奉願候」

9月10日、兄忠以の長男、酒井忠道が生まれる。9月18日、忠以は抱一の仮養子願いを取り下げ申請。翌日了承される。

1790年、7月17日、抱一が30歳のとき、兄の姫路藩主・第2代酒井忠以が36歳で急逝。11月27日、抱一の甥の忠道が家督・第3代姫路城藩主を相続。

 

抱一は江戸琳派を大成させた。彼がもし姫路城主についていたら、どうだったでしょう。文化全般に精通した抱一です。画だけでなく、たくさんの成果を残したことでしょう。しかし時間の経つのを忘れて、度々作画に没頭することは、城主兼幕府要人では、困難ではないでしょうか。

 

ところで、彼の名「抱一」は『老子』からとっています。

「載営魄抱一、能無離乎。」10章

「是以聖人抱一為天下式」22章

「一」は道の同義語だそうです。「道」は万物の根源。「式」は模範、おきて。

魂魄(精神と肉体)を安らかにして唯一の「道」をしっかりと守り、それから離れないでいることができるか。

 聖人は、道の本質をしっかりと身につけて天下の模範となるのだ。

 

抱一の俳号に「白鳧」「白鳧子」(はくふし)があります。杜甫の詩「白鳧行」からとっています。白鳧は、白い鴨ですが、鳧は日本では「けり」。鳧には「アヒル」の意味もあります。抱一は、表は杜甫のふりをして、実は名に白い「アヒル」をひそめているのではないか。兄の忠以の俳号は「銀鵝」、銀のガチョウです。ふたりは互いの命名に当たり、談笑しながら決めたのかもしれません。

同様に、「抱一」の名は『老子』からとっていますが、実は「放逸」を裏に隠しているのではないか? そのような説もあるようです。

 

また脱線してしまいました。アヒルや放逸はさて置いて、細見美術館に行きましょう。

<2025年1月27日/ほぼ毎回そうですが、年月日について。年は西暦ですが、月日は原則旧暦。正確には新旧で何日かのずれが生じます。ご了解ください。以降まず同様>

 

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