このブログ連載は、前回で終了予定でしたが、神澤氏の記事が中途半端になっていました。今回、神澤氏を紹介して、長かった連載「goo blog」を終わります。終了する原因は、掲載会社によるブログ閉鎖です。ちょうど延々700回目の拙文になるようです。秋ころまでには別会社のブログコーナーで再開予定ですが、未定です……。
さて木場村の庄屋は3氏が、ほぼ交互につとめています。三木氏が9名。それと白井氏が18世紀前半に、5名の名があります。神澤氏の当主は、政右衛門か又右衛門を名乗っていたと聞きます。江戸期にこの名の三木氏は4人。彼らは本来神澤氏でしょう。しかし天保2年までは三木姓でした。
神澤家の祖は天正8年正月17日、三木城で自刃して果てた、別所一族のひとり。城主別所長治の弟、別所彦之進友之です。辞世の句は、
命をも 惜しまざりけり 梓弓 末の世までも 名の残れとて
友之には側室に子がありました。男児の名は「善久」。神澤某氏に助けられて的形村仮屋に隠れ住む。当然、秀吉側の追及を避けての居住です。彼は成人の後、神澤氏の娘「妙善」を娶って、二男一女をもうける。しかし「善久」はまもなく死去。未亡人「妙善」が3人の子どもを育てた。家族は母の姓、神澤を名乗る。
「妙善」は3人のこどもと、自身の弟を連れて、隣村の木場村に移る。1620年ころかと思われますが、「後年本多候(城主)命ジテ木場村ニ塩浜ヲ築カル。時二妙善、其三子一弟ヲ携テ云々」。この文は、藩主が三木宗栄に塩田の開発を命じた文と共通しています。おそらく妙善は、藩主の命を受けた義兄、宗栄の力になるべく、木場に家族そろって移住したのだろうと思います。
姫路城主本多忠政は「木場村の人三木又兵衛宗栄に命じ、寛永2年1625年、八家川尻に塩田2町4反歩を開発させた」。宗栄はまた木場村初代の庄屋をつとめます。「妙善」家族5人は、揃ってこの工事に加わったのでしょう。また神澤氏は姓を三木に変更する。
木場村の別所氏にはふたつの流れがあります。ひとつは別所長治を祖とする三木宗栄の流れ。もうひとつは長治の弟、別所彦之進友之に始まる神澤一族。両氏ともに塩業などで成功した豪族です。しかしいくら親しいとはいえ、三木と三木では混乱も起きたのかもしれません。
天保2年1831年、当時の当主、三木又右衛門が姫路藩主酒井雅楽頭忠実に願い出て、三木から神澤に改姓を許された。神澤又右衛門になった彼は、苗字帯刀を藩主忠実に許された大庄屋格でした。彼は別所彦之進友之の末裔なのです。辞世再び「命をも 惜しまざりけり 梓弓 末の世までも 名の残れとて」
<別所彦之進友之 後裔 略>
別所彦之進友之 天正8年正月17日没
|
善久 又一郎・慶長11年9月14日没・行年29歳
妻 妙善・神澤某女・寛文3年6月10日没・行年86歳
|
善智 又大夫・延宝5年7月3日死/妻妙永・元禄10年12月28日没
弟・甚左衛門/妹
|
道林 又右衛門・享保16年正月没・行年93歳/妻:妙林・元文5年正月22日
教順/善林・一太夫/女子2名
|
尚治 仁左衛門・宝暦5年12月16日没・法号道味・行年84歳
妻:智奥寛延元年10月10日没
道喜・長三郎/道仙・彦三郎/道和・六郎兵衛/女子2名
|
尚茂 又右衛門 又右衛門・明和2年10月13日没・法号道真・行年85歳
妻:妙貞・妻鹿住某女・寛政7年4月4日没
仁左衛門・次左衛門養子/利三郎/女子2人
|
尚昌 茂十郎・政右衛門・寛政10年4月29日没・法号道全・行年61歳
妻:磯女・三木伊右衛門女・明和8年7月24日没
後妻:縫・神田仙庵女・妙全・文化8年7月20日没
成昌・清蔵・道甫・分家同郡亀山住居/忠次郎・後三郎右衛門・分家/女子2名
|
尚興 文蔵・又右衛門・文化元年10月16日没・法号観道・行年45歳
妻:妙専・又井四郎左衛門女・寛政元年10月13日没・行年27歳
後妻:妙歓・妙専妹・文政6年5月13日没・行年53歳
|
<役職者・就任年:神澤又右衛門尚吉・天保2年1831年・三木氏より神澤氏に改正/神澤松次郎・明治元年1868年/
神澤伊三郎・明治22年1889年/神澤柳吉・明治34年/神澤憲太郎・昭和3年/
神澤弘一・昭和22年/(江戸期:庄屋/明治以降:村長)>
|
神澤 治 養子
|
神澤直寛
<2025年6月1日>