昭和2年 1927 25歳
10月、農民文芸会の機関誌「農民」が創刊された。1933年9月の最終号まで、合計60冊ほどが刊行される。
昭和3年 1928 26歳
卯の父、藤吉が死去。葬式代がなく、すゑは急いで書いた150枚の原稿を、懇意にしていた出版社に持ち込み、150円の原稿料を得て葬式代にあてた。
昭和4年 1929 27歳
1月5日、二女れい子が生まれる。
10月24日、米国株式市場が大暴落。世界恐慌に拡大する。
11月、読売新聞社の創設55周年記念の懸賞小説に、すゑの「大地にひらく」が二等に当選。賞金は千円。同月に卯は農地解放をテーマにした小説『村に闘う』を自費出版したが、発禁処分を受ける。罰金20円。すゑは支払いのために、少女小説を2編書いた。その後もたびたびの罰金支払いのために、すゑは筆名を十くらいもって、童話だけでなく、探偵小説や剣豪小説も書いた。
昭和5年 1930年 28歳
1月、高群逸枝が中心になってはじめた「無産婦人芸術連盟」に、すゑが参加した。メンバーはほかに、神谷静子、野副ますぐり、野村孝子、二神英子、碧静江、八木秋子、鑓田貞子、松本正枝(かわいきわ)、望月百合子、城夏子(しずか)、平塚らいてう、市川房枝ら、アナキズム系の女性たちであった。
3月、連盟が月刊誌「婦人戦線」を翌年の6月号まで解放社から刊行。すゑはほとんどの号に、小説や評論を寄稿した。
4月、懸賞小説「大地にひらく」が、4月21日より10月19日まで、読売新聞朝刊に147回連載された。挿絵は清水登之。
5月28日、読売新聞社講堂において無産婦人芸術連盟と、犬田卯らの全国農民芸術連盟が共催で講演会を開催した。卯は「農民芸術と農村の再組織」を主張した。すゑは一歳四カ月の二女れい子を抱いて登壇し、「マルキストは人間の本能も決議で左右するようなことを言うが、子どもなんかも決議でこしらえようとする」云々という「母性は起(た)つ」と題して講演した。
犬田卯編『新興農民詩集』を全国農民芸術連盟出版部から刊行したが発禁。
昭和6年 1931 29歳
2月5日、二男の充が生まれた。
4月、すゑの「村の浮浪者」が『精鋭十人傑作集』に収録された。同書に卯の「麦搗き唄」も収録。
9月18日、満州事変。15年戦争がはじまる。
昭和7年 1932 30歳
犬田卯の個人誌に近かった雑誌「農民」11月号が発禁処分を受ける。続いて12月号、1月号も発禁になり、罰金の支払いと刊行を継続するための費用、そして家族の生活費、負担は夫妻の経済力をこえてしまう。ふたりは卯同郷の画家、小川芋銭に救援を求め、三枚の色紙を贈られる。色紙は野口雨情、島崎藤村、吉川英治が買った。
このころ杉並警察の特高警察と、牛込憲兵隊がたびたび「杉並の寓居に突然つかつかと立ち入って来て、高圧的に発禁を言い渡した」
12月28日、すゑの父岩治郎死去。享年69歳。
昭和8年 1933 31歳
3月、卯は激しい喘息発作におそわれ、一時は仮死状態におちいる。
夏、卯は農村の窮状に黙しがたく実情を訴える文を新聞に二度発表したが、ともに罰金を科せられた。
9月、卯が実質主催する雑誌「農民」が廃刊。
9月から12月まで満州の大連新聞に、すゑは「母性戦線」を105回連載。
昭和9年 1934 32歳
三男の修が4月にうまれるがわずか40日ほどで、あまりに短い生涯を閉じた。
昭和10年 1935 33歳
卯とすゑは東京での生活をあきらめ、牛久の卯の実家に引き揚げることを決めた。卯の喘息の悪化と、戦争の嵐が激化することを予感しての引き揚げであった。執筆収入と畑作での食糧自給の生活を決意する。
7月28日、内幸町のレインボーグリルで友人たちが、送別の宴を開いた。「都落ちとはいかにも気の毒だ。故郷で英気を養い、再度上京の日を待つ」と何人もが励ましてくれたが、決意はかわらなかった。出席者は、石川三四郎、加藤一夫、加藤武雄、中村星湖、鑓田研一ら、農民文学の仲間を中心に28名。
7月30日、家族そろって卯の故郷、牛久村城中、現在の茨城県牛久市城中町に移る。すゑはこの日、メモ帳に「わがいのち おかしからずや 常陸なる 牛久沼辺の 土と化(な)らむに」と記した。また牛久沼をひとめ見て、「これは大地のえくぼだ」と感じる。わずかの畑で食糧の自給態勢を整える。稲作はできない農地である。
9月、小川芋銭が二年ぶりに、銚子市外海鹿島の潮光庵での別荘生活を引き揚げ、牛久沼畔の自邸「草汁庵」に帰ってきた。
昭和11年 1936 34歳
4月、県立龍ケ崎中学に章が入学。卯は自宅から中学まで、10キロほどの道程を章と歩くほど元気になり、牛久沼に小舟をこぎ出して、手網でフナをすくう。しかし冬から、喘息の発作が再発する。
昭和12年 1937 35歳
夏、自宅の庭にあらたに手押しポンプ式の深井戸を掘る。
昭和13年 1938 36歳
6月、大洪水で牛久沼畔の田んぼが全滅。腸チフスや疫痢がはやったが、すゑは手持ちしていたたくさんの薬をもって、にわか医師として病人を救った。
10月11日、すゑの母さと死去。享年73歳。
この年にすゑは突然家出し、一週間ほど帰宅しなかった。おそらく母の死の直後であろう。
11月、軍国主義ファシズムに協力する文学者の団体「農民文学懇話会」が農相有馬頼寧の後援で発足した。病弱の卯の代理として、すゑが発会式に出席した。
12月17日、小川芋銭が逝く。満70歳。
昭和15年 1940 38歳
9月、短編集『農婦譚』を青梧堂から出版。
昭和16年 1941 39歳
4月、れい子は茨城県立土浦高等女学校に入学。
『子供の村』を青梧堂より出版。
8月、すゑは長女かほる、二女れい子、二男充を連れて、郷里の奈良満田に里帰りした。長男章は、卯の世話のために残った。
12月8日、日米英開戦。
12月、短編小説集『土の女たち』を青梧堂より出版。
このころより「婦人公論」「中央公論」などに、たびたび文章を寄稿。
昭和17年 1942 40歳
1月、『子供日本』を青梧堂より出版。
5月26日、日本文学報国会結成。
6月5日、ミッドウェー海戦。
11月、『土の女たち』を日月書院より再刊。
雑誌「農政」に「土の寓話」を長期連載。
昭和18年 1943 41歳
2月、『―尊皇歌人―佐久良東雄』を精華房より刊行。
3月7日、大日本言論報国会発会。
8月、書き下ろし長編『大地の倫理』を日独書院(鄰友社)から刊行。
11月、『―日本地理学の先駆―長久保赤水』を精華房より刊行。
このころから小学館の児童雑誌、教育雑誌に童話などをたびたび執筆。またNHKラジオ「文芸放送」に「農婦譚」「土の女たち」などの諸編が、樫村治子、夏川静江、杉村春子、東山千栄子、富田仲次郎らの朗読で放送された。
昭和19年 1944 42歳
6月30日、内閣は、大都市の学童集団疎開を決定。
7月10日、雑誌「中央公論」「改造」に、廃刊命令。
10月10日、米機動部隊が沖縄攻撃を開始。
10月19日、軍は神風特別攻撃隊を編成。
長男の章は、11月に東京物理学校(現在の東京理科大学)を卒業後、文部省付属統計数理研究所に助手として勤務。12月に徴兵をうけ、青森県弘前の騎兵連隊に、二等兵として入隊した。
昭和20年 1945 43歳
3月10日、東京大空襲。死者約8万~10万。
3月、れい子が土浦高等女学校を卒業。
4月1日、米軍は沖縄に上陸を開始。
8月6日に米軍が広島に、9日には長崎に原爆を投下。
8月15日、敗戦。
10月、野良犬だったスピッツの太郎を飼う。
12月9日、犬田卯たちの念願だった農地解放だが、この日に農地改革指令が出る。
<2010年3月31日 全5回連載の第3回> [ 220 ]
10月、農民文芸会の機関誌「農民」が創刊された。1933年9月の最終号まで、合計60冊ほどが刊行される。
昭和3年 1928 26歳
卯の父、藤吉が死去。葬式代がなく、すゑは急いで書いた150枚の原稿を、懇意にしていた出版社に持ち込み、150円の原稿料を得て葬式代にあてた。
昭和4年 1929 27歳
1月5日、二女れい子が生まれる。
10月24日、米国株式市場が大暴落。世界恐慌に拡大する。
11月、読売新聞社の創設55周年記念の懸賞小説に、すゑの「大地にひらく」が二等に当選。賞金は千円。同月に卯は農地解放をテーマにした小説『村に闘う』を自費出版したが、発禁処分を受ける。罰金20円。すゑは支払いのために、少女小説を2編書いた。その後もたびたびの罰金支払いのために、すゑは筆名を十くらいもって、童話だけでなく、探偵小説や剣豪小説も書いた。
昭和5年 1930年 28歳
1月、高群逸枝が中心になってはじめた「無産婦人芸術連盟」に、すゑが参加した。メンバーはほかに、神谷静子、野副ますぐり、野村孝子、二神英子、碧静江、八木秋子、鑓田貞子、松本正枝(かわいきわ)、望月百合子、城夏子(しずか)、平塚らいてう、市川房枝ら、アナキズム系の女性たちであった。
3月、連盟が月刊誌「婦人戦線」を翌年の6月号まで解放社から刊行。すゑはほとんどの号に、小説や評論を寄稿した。
4月、懸賞小説「大地にひらく」が、4月21日より10月19日まで、読売新聞朝刊に147回連載された。挿絵は清水登之。
5月28日、読売新聞社講堂において無産婦人芸術連盟と、犬田卯らの全国農民芸術連盟が共催で講演会を開催した。卯は「農民芸術と農村の再組織」を主張した。すゑは一歳四カ月の二女れい子を抱いて登壇し、「マルキストは人間の本能も決議で左右するようなことを言うが、子どもなんかも決議でこしらえようとする」云々という「母性は起(た)つ」と題して講演した。
犬田卯編『新興農民詩集』を全国農民芸術連盟出版部から刊行したが発禁。
昭和6年 1931 29歳
2月5日、二男の充が生まれた。
4月、すゑの「村の浮浪者」が『精鋭十人傑作集』に収録された。同書に卯の「麦搗き唄」も収録。
9月18日、満州事変。15年戦争がはじまる。
昭和7年 1932 30歳
犬田卯の個人誌に近かった雑誌「農民」11月号が発禁処分を受ける。続いて12月号、1月号も発禁になり、罰金の支払いと刊行を継続するための費用、そして家族の生活費、負担は夫妻の経済力をこえてしまう。ふたりは卯同郷の画家、小川芋銭に救援を求め、三枚の色紙を贈られる。色紙は野口雨情、島崎藤村、吉川英治が買った。
このころ杉並警察の特高警察と、牛込憲兵隊がたびたび「杉並の寓居に突然つかつかと立ち入って来て、高圧的に発禁を言い渡した」
12月28日、すゑの父岩治郎死去。享年69歳。
昭和8年 1933 31歳
3月、卯は激しい喘息発作におそわれ、一時は仮死状態におちいる。
夏、卯は農村の窮状に黙しがたく実情を訴える文を新聞に二度発表したが、ともに罰金を科せられた。
9月、卯が実質主催する雑誌「農民」が廃刊。
9月から12月まで満州の大連新聞に、すゑは「母性戦線」を105回連載。
昭和9年 1934 32歳
三男の修が4月にうまれるがわずか40日ほどで、あまりに短い生涯を閉じた。
昭和10年 1935 33歳
卯とすゑは東京での生活をあきらめ、牛久の卯の実家に引き揚げることを決めた。卯の喘息の悪化と、戦争の嵐が激化することを予感しての引き揚げであった。執筆収入と畑作での食糧自給の生活を決意する。
7月28日、内幸町のレインボーグリルで友人たちが、送別の宴を開いた。「都落ちとはいかにも気の毒だ。故郷で英気を養い、再度上京の日を待つ」と何人もが励ましてくれたが、決意はかわらなかった。出席者は、石川三四郎、加藤一夫、加藤武雄、中村星湖、鑓田研一ら、農民文学の仲間を中心に28名。
7月30日、家族そろって卯の故郷、牛久村城中、現在の茨城県牛久市城中町に移る。すゑはこの日、メモ帳に「わがいのち おかしからずや 常陸なる 牛久沼辺の 土と化(な)らむに」と記した。また牛久沼をひとめ見て、「これは大地のえくぼだ」と感じる。わずかの畑で食糧の自給態勢を整える。稲作はできない農地である。
9月、小川芋銭が二年ぶりに、銚子市外海鹿島の潮光庵での別荘生活を引き揚げ、牛久沼畔の自邸「草汁庵」に帰ってきた。
昭和11年 1936 34歳
4月、県立龍ケ崎中学に章が入学。卯は自宅から中学まで、10キロほどの道程を章と歩くほど元気になり、牛久沼に小舟をこぎ出して、手網でフナをすくう。しかし冬から、喘息の発作が再発する。
昭和12年 1937 35歳
夏、自宅の庭にあらたに手押しポンプ式の深井戸を掘る。
昭和13年 1938 36歳
6月、大洪水で牛久沼畔の田んぼが全滅。腸チフスや疫痢がはやったが、すゑは手持ちしていたたくさんの薬をもって、にわか医師として病人を救った。
10月11日、すゑの母さと死去。享年73歳。
この年にすゑは突然家出し、一週間ほど帰宅しなかった。おそらく母の死の直後であろう。
11月、軍国主義ファシズムに協力する文学者の団体「農民文学懇話会」が農相有馬頼寧の後援で発足した。病弱の卯の代理として、すゑが発会式に出席した。
12月17日、小川芋銭が逝く。満70歳。
昭和15年 1940 38歳
9月、短編集『農婦譚』を青梧堂から出版。
昭和16年 1941 39歳
4月、れい子は茨城県立土浦高等女学校に入学。
『子供の村』を青梧堂より出版。
8月、すゑは長女かほる、二女れい子、二男充を連れて、郷里の奈良満田に里帰りした。長男章は、卯の世話のために残った。
12月8日、日米英開戦。
12月、短編小説集『土の女たち』を青梧堂より出版。
このころより「婦人公論」「中央公論」などに、たびたび文章を寄稿。
昭和17年 1942 40歳
1月、『子供日本』を青梧堂より出版。
5月26日、日本文学報国会結成。
6月5日、ミッドウェー海戦。
11月、『土の女たち』を日月書院より再刊。
雑誌「農政」に「土の寓話」を長期連載。
昭和18年 1943 41歳
2月、『―尊皇歌人―佐久良東雄』を精華房より刊行。
3月7日、大日本言論報国会発会。
8月、書き下ろし長編『大地の倫理』を日独書院(鄰友社)から刊行。
11月、『―日本地理学の先駆―長久保赤水』を精華房より刊行。
このころから小学館の児童雑誌、教育雑誌に童話などをたびたび執筆。またNHKラジオ「文芸放送」に「農婦譚」「土の女たち」などの諸編が、樫村治子、夏川静江、杉村春子、東山千栄子、富田仲次郎らの朗読で放送された。
昭和19年 1944 42歳
6月30日、内閣は、大都市の学童集団疎開を決定。
7月10日、雑誌「中央公論」「改造」に、廃刊命令。
10月10日、米機動部隊が沖縄攻撃を開始。
10月19日、軍は神風特別攻撃隊を編成。
長男の章は、11月に東京物理学校(現在の東京理科大学)を卒業後、文部省付属統計数理研究所に助手として勤務。12月に徴兵をうけ、青森県弘前の騎兵連隊に、二等兵として入隊した。
昭和20年 1945 43歳
3月10日、東京大空襲。死者約8万~10万。
3月、れい子が土浦高等女学校を卒業。
4月1日、米軍は沖縄に上陸を開始。
8月6日に米軍が広島に、9日には長崎に原爆を投下。
8月15日、敗戦。
10月、野良犬だったスピッツの太郎を飼う。
12月9日、犬田卯たちの念願だった農地解放だが、この日に農地改革指令が出る。
<2010年3月31日 全5回連載の第3回> [ 220 ]