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ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

「住井すゑ年譜」連載 №3 

2010-03-31 | Weblog
昭和2年 1927 25歳
10月、農民文芸会の機関誌「農民」が創刊された。1933年9月の最終号まで、合計60冊ほどが刊行される。

昭和3年 1928 26歳
卯の父、藤吉が死去。葬式代がなく、すゑは急いで書いた150枚の原稿を、懇意にしていた出版社に持ち込み、150円の原稿料を得て葬式代にあてた。

昭和4年 1929 27歳
1月5日、二女れい子が生まれる。
10月24日、米国株式市場が大暴落。世界恐慌に拡大する。
11月、読売新聞社の創設55周年記念の懸賞小説に、すゑの「大地にひらく」が二等に当選。賞金は千円。同月に卯は農地解放をテーマにした小説『村に闘う』を自費出版したが、発禁処分を受ける。罰金20円。すゑは支払いのために、少女小説を2編書いた。その後もたびたびの罰金支払いのために、すゑは筆名を十くらいもって、童話だけでなく、探偵小説や剣豪小説も書いた。

昭和5年 1930年 28歳
1月、高群逸枝が中心になってはじめた「無産婦人芸術連盟」に、すゑが参加した。メンバーはほかに、神谷静子、野副ますぐり、野村孝子、二神英子、碧静江、八木秋子、鑓田貞子、松本正枝(かわいきわ)、望月百合子、城夏子(しずか)、平塚らいてう、市川房枝ら、アナキズム系の女性たちであった。
3月、連盟が月刊誌「婦人戦線」を翌年の6月号まで解放社から刊行。すゑはほとんどの号に、小説や評論を寄稿した。
4月、懸賞小説「大地にひらく」が、4月21日より10月19日まで、読売新聞朝刊に147回連載された。挿絵は清水登之。
5月28日、読売新聞社講堂において無産婦人芸術連盟と、犬田卯らの全国農民芸術連盟が共催で講演会を開催した。卯は「農民芸術と農村の再組織」を主張した。すゑは一歳四カ月の二女れい子を抱いて登壇し、「マルキストは人間の本能も決議で左右するようなことを言うが、子どもなんかも決議でこしらえようとする」云々という「母性は起(た)つ」と題して講演した。
犬田卯編『新興農民詩集』を全国農民芸術連盟出版部から刊行したが発禁。

昭和6年 1931 29歳
2月5日、二男の充が生まれた。
4月、すゑの「村の浮浪者」が『精鋭十人傑作集』に収録された。同書に卯の「麦搗き唄」も収録。
9月18日、満州事変。15年戦争がはじまる。

昭和7年 1932 30歳
犬田卯の個人誌に近かった雑誌「農民」11月号が発禁処分を受ける。続いて12月号、1月号も発禁になり、罰金の支払いと刊行を継続するための費用、そして家族の生活費、負担は夫妻の経済力をこえてしまう。ふたりは卯同郷の画家、小川芋銭に救援を求め、三枚の色紙を贈られる。色紙は野口雨情、島崎藤村、吉川英治が買った。
このころ杉並警察の特高警察と、牛込憲兵隊がたびたび「杉並の寓居に突然つかつかと立ち入って来て、高圧的に発禁を言い渡した」
12月28日、すゑの父岩治郎死去。享年69歳。

昭和8年 1933 31歳
3月、卯は激しい喘息発作におそわれ、一時は仮死状態におちいる。
夏、卯は農村の窮状に黙しがたく実情を訴える文を新聞に二度発表したが、ともに罰金を科せられた。
9月、卯が実質主催する雑誌「農民」が廃刊。
9月から12月まで満州の大連新聞に、すゑは「母性戦線」を105回連載。

昭和9年 1934 32歳
三男の修が4月にうまれるがわずか40日ほどで、あまりに短い生涯を閉じた。

昭和10年 1935 33歳
卯とすゑは東京での生活をあきらめ、牛久の卯の実家に引き揚げることを決めた。卯の喘息の悪化と、戦争の嵐が激化することを予感しての引き揚げであった。執筆収入と畑作での食糧自給の生活を決意する。
7月28日、内幸町のレインボーグリルで友人たちが、送別の宴を開いた。「都落ちとはいかにも気の毒だ。故郷で英気を養い、再度上京の日を待つ」と何人もが励ましてくれたが、決意はかわらなかった。出席者は、石川三四郎、加藤一夫、加藤武雄、中村星湖、鑓田研一ら、農民文学の仲間を中心に28名。
7月30日、家族そろって卯の故郷、牛久村城中、現在の茨城県牛久市城中町に移る。すゑはこの日、メモ帳に「わがいのち おかしからずや 常陸なる 牛久沼辺の 土と化(な)らむに」と記した。また牛久沼をひとめ見て、「これは大地のえくぼだ」と感じる。わずかの畑で食糧の自給態勢を整える。稲作はできない農地である。
9月、小川芋銭が二年ぶりに、銚子市外海鹿島の潮光庵での別荘生活を引き揚げ、牛久沼畔の自邸「草汁庵」に帰ってきた。

昭和11年 1936 34歳
4月、県立龍ケ崎中学に章が入学。卯は自宅から中学まで、10キロほどの道程を章と歩くほど元気になり、牛久沼に小舟をこぎ出して、手網でフナをすくう。しかし冬から、喘息の発作が再発する。

昭和12年 1937 35歳
夏、自宅の庭にあらたに手押しポンプ式の深井戸を掘る。

昭和13年 1938 36歳
6月、大洪水で牛久沼畔の田んぼが全滅。腸チフスや疫痢がはやったが、すゑは手持ちしていたたくさんの薬をもって、にわか医師として病人を救った。
10月11日、すゑの母さと死去。享年73歳。
この年にすゑは突然家出し、一週間ほど帰宅しなかった。おそらく母の死の直後であろう。
11月、軍国主義ファシズムに協力する文学者の団体「農民文学懇話会」が農相有馬頼寧の後援で発足した。病弱の卯の代理として、すゑが発会式に出席した。
12月17日、小川芋銭が逝く。満70歳。

昭和15年 1940 38歳
9月、短編集『農婦譚』を青梧堂から出版。

昭和16年 1941 39歳
4月、れい子は茨城県立土浦高等女学校に入学。
 『子供の村』を青梧堂より出版。
8月、すゑは長女かほる、二女れい子、二男充を連れて、郷里の奈良満田に里帰りした。長男章は、卯の世話のために残った。
12月8日、日米英開戦。
12月、短編小説集『土の女たち』を青梧堂より出版。
このころより「婦人公論」「中央公論」などに、たびたび文章を寄稿。

昭和17年 1942 40歳
1月、『子供日本』を青梧堂より出版。
5月26日、日本文学報国会結成。
6月5日、ミッドウェー海戦。
11月、『土の女たち』を日月書院より再刊。
雑誌「農政」に「土の寓話」を長期連載。

昭和18年 1943 41歳
2月、『―尊皇歌人―佐久良東雄』を精華房より刊行。
3月7日、大日本言論報国会発会。
8月、書き下ろし長編『大地の倫理』を日独書院(鄰友社)から刊行。
11月、『―日本地理学の先駆―長久保赤水』を精華房より刊行。
このころから小学館の児童雑誌、教育雑誌に童話などをたびたび執筆。またNHKラジオ「文芸放送」に「農婦譚」「土の女たち」などの諸編が、樫村治子、夏川静江、杉村春子、東山千栄子、富田仲次郎らの朗読で放送された。

昭和19年 1944 42歳
6月30日、内閣は、大都市の学童集団疎開を決定。
7月10日、雑誌「中央公論」「改造」に、廃刊命令。
10月10日、米機動部隊が沖縄攻撃を開始。
10月19日、軍は神風特別攻撃隊を編成。
長男の章は、11月に東京物理学校(現在の東京理科大学)を卒業後、文部省付属統計数理研究所に助手として勤務。12月に徴兵をうけ、青森県弘前の騎兵連隊に、二等兵として入隊した。

昭和20年 1945 43歳
3月10日、東京大空襲。死者約8万~10万。
3月、れい子が土浦高等女学校を卒業。
4月1日、米軍は沖縄に上陸を開始。
8月6日に米軍が広島に、9日には長崎に原爆を投下。
8月15日、敗戦。
10月、野良犬だったスピッツの太郎を飼う。
12月9日、犬田卯たちの念願だった農地解放だが、この日に農地改革指令が出る。
<2010年3月31日 全5回連載の第3回> [ 220 ]
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「住井すゑ年譜」連載 №2 

2010-03-28 | Weblog
大正8年 1919 17歳
講談社が婦人記者を募集しているのを新聞広告で知り応募する。40枚の短編小説を提出し、野間社長夫妻の面接を受け、採用が決まる。小説は自立する女をテーマにしたものであった。編集・宣伝の仕事にあたる。出版社に就職したのは、文学の道に進みたいという気持ちからである。上京したすゑは、駒込林町の双葉館で下宿生活をはじめる。
12月、社をあげての新聞一頁広告の競作で一席になる。雑誌「講談倶楽部」新年号の広告だが、その後も講談社の語り草になる。「昔、17歳でこれを作ったひとがいるんだ。君たちもしっかりしろ」と、新入社員は先輩からこの住井作の全面広告を見せられた。
犬田卯が雑誌「農業世界」に書いた農地解放の評論が筆禍事件になり、博文館を退社する。すゑは孤立無援の犬田のために、講談社の給料で何とかしようと思ったが、月給だけでは食べていけず、筆名で童話を書いて原稿料を稼いだ。なお卯は、1891年8月23日生まれ。年齢は、すゑのほぼ一回り上である。

大正9年 1920 18歳
講談社の給料は、女性は日給月給で1日80銭。休みは月2日であった。男性は月給制で、男女の差は月3円ほどもあった。社員の待遇改善を訴えるすゑに対し、野間社長は「女は毎月、メンスのために休むから、月給にはできないし、休むから安くていい」と言った。すゑは「そうですか、女がメンスをみなくなったら、国がつぶれますよ」と啖呵を切って、会社を辞める。

大正10年 1921 19歳
8月、はじめての長編書き下ろし小説『相克』を出版した。筆名は住井すゑ子。生田長江のもとに持参して激賞され、長江の甥が営む表現社から刊行。評論家の平林初之輔、読売新聞社文芸部長の千葉亀雄らの絶賛を浴びた。序文は菊池寛に無理やり書いてもらった。
10月、犬田卯と結婚し、瀧野川中里429番地に住む。居宅は玄関をいれても三間の借家であった。
東京社「少女画報」、実業之日本社「少女の友」「日本少年」、博文館「少女世界」「少年世界」や「野衣雑誌」などの雑誌に筆名で執筆。
卯はこの年から、喘息の発作に苦しみはじめる。

大正11年 1922 20歳
3月3日、全国創立大会が、京都の岡崎公会堂で開かれたのを新聞で知るが、宣言を雑誌「種蒔く人」で読み感動する。

大正12年 1923 21歳
5月5日、長男の章が誕生。すゑは同日付けで婚姻届を出した。
9月1日、関東大震災。「幸運というか、戸障子の建てつけが多少狂った他には、これという被害はなかった」
10月、卯が師と仰ぐ日本画家の小川芋銭(うせん)が治療のために、牛久から上京する。芋銭の住まいは卯の実家の一軒おいた後ろだが、すゑはこの日が初対面であった。なお芋銭は幸徳秋水の週刊「平民新聞」に漫画を描いていた。

大正13年 1924 22歳
3月、東京に出てはじめて奈良のふるさとの家に、章とふたりで帰った。同月に犬田卯は吉江喬松、中村星湖、石川三四郎らと、農民文芸研究会、後の農民文学研究会を結成する。

大正14年 1925 23歳
5月、吉江喬松の紹介で、杉並町成宗113番地(杉並区成宗)の借家に転居。間取りはいまでいう4DK。風呂はなかった。夫妻の仕事部屋兼寝室の入り口には、「禁煙」と書いた大きな紙が貼ってあった。タバコの煙で卯が喘息を起こすためである。筋向いには大逆事件で官選弁護人をつとめた今村力三郎が住んでいた。

大正15年・昭和1年 1926年 24歳
3月25日、長女かほるが誕生。
12月、農民詩人の渋谷定輔がはじめて犬田家を訪れる。

<2010年3月28日 この項続く。5回連載の第2回目>
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「住井すゑ年譜」連載 №1

2010-03-24 | Weblog
明治35年 1902
1月7日、奈良県磯城郡平野村満田に、住井すゑが生まれる。現在の田原本町満田。村落は堀に囲まれた環濠集落だった。父は住井岩治郎、母はさと。三男三女の末子。長男勝治郎、二男益太郎、三男辰蔵、長女ならゑ、二女ますゑ。家業は、大和木綿の製造業と農業で、裕福な家庭であった。岩治郎は1863年7月7日生。なお岩治郎は在満田の川本平治郎、婦美の三男で、住井家の婿養子。さとは1865年5月24日生。

明治39年 1906 すゑ4歳
このころ糞クソが汚いという思いが高じて、便所に行くことができなくなり毎日、着衣を汚してしまう。父と長兄の蔑みの言葉から、すゑは絶望のあまり目を閉じてしまった。母とすぐ上の兄の辰蔵に、毎日交互に背負われて三輪町の嶋中眼科に通う。しかし眼をつむっているうちに、非常に不自由だということがわかってきた。親が着せてくれる衣裳を着ていくしかないのだが、実は自分の好きな着物を着たかった。箪笥で着物を探しているところを見つかり、「琴の師匠にでもするしかない」と言っていた親兄姉から「なんて悪い子だろう」と叱られる。本当は目は正常で、見えていたのである。

明治41年 1908 6歳
春、辰蔵は父のすすめる師範学校への進学をいやがり、小遣い自弁の条件で、大阪船場の商家に見習い奉公に出てしまった。辰蔵はすゑがいちばん慕った兄である。
4月、平野尋常小学校に入学。担任は川村とよ先生。敏感なあまり学校の空気になじめず、11月まで教室でただの一度も口をきいたことがなかった。当初は母親が送り迎え、その後は五年生の姉ますゑが手を引いて、学校と家を往復した。この間たびたび病欠したが、不思議と成績は優等であった。小学校全学年優等を続ける。
11月10日から4日間、陸軍秋季特別大演習がはじまり、天皇は耳成山に行在所(あんざいしょ・統監本部)をかまえた。一夜、姉とともに演習の兵隊を見に出たが、月光に光る銃剣の列を見て立ちすくむ。また演習の後、山麓の農夫が天皇のタバコの吸い殻を拾って家宝にした。また別の百姓が行在所跡で天皇の糞を見つけ、これも大切な宝物になった。すゑはこの話を聞き、「天皇もふつうの人間だ」と理解した。そしてそれまでのウンコに対する劣等感が一挙に吹き飛び、快活な少女になる。
一年生のときから編み物をはじめる。ふたりの姉の見よう見まねではじめたが、一生の趣味になる。また教科書で「犬ノヨクバリ」をはじめて読み、このイソップ物語から「文学」の魅力を知った。
このころ、被差別未解放のひとたちが毎朝のように草履を売りに来たが、あまりにひどい差別の実態を知り、「人間以上の天皇=神と、人間以下のと、こんな差別を許しておいてなるものか」と子どもこころに思い決めた。

明治42年 1909 7歳
4月20日、二年生の遠足で耳成山に登る。担任は外山先生(首席訓導)、教頭は藤本先生。
夏、辰蔵が脚気の療養のために家に戻るが、麦飯と早朝のはだし歩きで健康を回復し、半月ほどで大阪に帰った。この年、大和は大干ばつにみまわれるが、すゑはゴマが日照りに耐えて咲く姿に感動を覚える。
学校の宿題ではじめて作文を書いた。与えられた課題は「私の村」

明治43年 1910 8歳
6月5日、小学校の朝礼で、校長が「幸徳秋水、名は伝次郎というやつが、その仲間と相談して、畏れ多くも天皇陛下を爆裂弾で暗殺しようと企てた。またこの男は、日本国中のカネ持ちからカネを奪い取って、貧乏人に分けようなどという、とんでもないことを考えたり、言ったりしている悪いやつだ」。また幸徳秋水は日露戦争に反対を唱えていたという。すゑは、大演習の夜の銃剣を思い浮かべ、反戦と人間平等を唱える幸徳秋水の思想に感動する。

明治44年 1911 9歳
1月、担任の三住先生から幸徳秋水たち、12名が死刑になったことを教室で聞かされた。あふれる涙が凸レンズの役をしたため、机のキズがバーッとふくれて見えた。
5月、担任の川村とよ先生が、結婚のために学校を去る。すゑの一年の担任でもあったが、この先生がいなかったら、極端に弱虫で口もきけなかったすゑは、「あるいは登校拒否の子になり、落ちこぼれの憂き目をみていたかもしれぬ」と回想している。
船場に奉公に出ている兄辰蔵から送られてくる雑誌を愛読する。博文館の総合雑誌「太陽」「冒険世界」。春陽堂の「新小説」。田山花袋や徳田秋声などの文を読み、文学に対する憧憬を強める。
家業の大和木綿の製造を廃業する。高田町(大和高田市)にできた大規模な紡績工場に負かされたためであり以降、住井家の生活は質素になる。

明治45年 1912 10歳
5月、遠足で法隆寺を訪れた。担任は生駒先生。

大正2年 1913 11歳
3月、卒業する六年生を送る送辞を、五年生のすゑが代表して読んだ。本来は男子生徒の分担だが、「成績は私がいちばんだから」と無理にとった。
学校ではじめて自由選題の作文を書いた。選んだ題は「水仙」。初春のことか。それまでの作文は題を与えられた「課題」であった。

大正3年 1914 12歳
3月、平野尋常小学校を首席で卒業。卒業生を代表して、答辞を述べた。
4月、町村立の田原本技芸女学校に入学。裁縫と刺繍を習う学校だが、高等女学校に進学したかったのを父の反対でかなわず、不本意ながらの入学であった。
博文館の雑誌「少女世界」「文章世界」、新潮社の「文章倶楽部」などに、短歌や短文を投稿する。何度も掲載された。また博文館の雑誌を通して、編集者の犬田卯(しげる・後の夫)を知り、たびたび文通する。

大正7年 1918 16歳
4月、隣村の多(おお)小学校で准訓導として1年間、教師をつとめる。教員資格は女子技芸学校在学中に独学し、検定試験を受けて取得していた。
7月22日、富山県の魚津、水橋、滑川などの漁民の主婦が「米よこせ」の運動をはじめたのを機に、翌月には京都でも、そして全国各地に買占め反対闘争は拡大。わずか一ヶ月の間に、約70万人が闘争に加わった。米価高騰はシベリア出兵にともなう買占め投機が原因である。、
[ そして翌年、東京に出奔する。続く ]
<2010年3月24日 5回連載の第1回> [ 218 ]
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犬田卯訳『民衆のフランス革命』

2010-03-22 | Weblog
 住井すゑさんのことは、懐かしい思い出です。亡くなったのは13年前、1997年6月16日、満95歳でした。
 晩年の彼女は京都に来ると、常宿「橋」に泊っておられた。そしていつも、親友の前川む一に誘われて橋を訪れた。加茂川べり、大橋のたもとの旅館だが、大河小説『橋のない川』の著者が泊る旅館が「橋」とは、愉快だと思ったりしたものです。
 前川む一さんは、2001年1月23日に亡くなった。ふたりともこの世の方ではなくなってしまったが、残されたひとたちが大きな宿題のごとく引きずっていたのが、住井さんの夫、犬田卯(しげる)さんの未完の原稿を、本にすることであった。
 犬田・住井(旧姓)夫妻の子どもは、長男犬田章、長女犬田かほる、次女増田れい子、次男犬田充(みつる)。
 子どもたちの母は、代表作『橋のない川』全7巻などで、文人として、差別と闘う作家として認知されている。ところが農民文学者だった病弱な父、犬田卯はほとんど無名に近い。戦前によく読まれた農民文学の一作家であった。いまでは、近代日本文学史の研究者くらいにしか、知られていないのではなかろうか。
 卯が戦後、1957年に亡くなるまで、病床にあってもエネルギーを注ぎ込んだのが、フランス革命を描いた小説、E・エルクマン、A・シャトリアン共著『一農民の物語』(直訳題名)の翻訳作業であった。たびたび書き直し、残した原稿は400字詰で2000枚。しかしどの出版社も、刊行申し出をしなかった。あまりにも地味な大著である。採算が合うとは思えないのである。しかし子どもたち、特にかほる、れい子姉妹の父への想いは深かった。犬田卯没後、今年で53年になる。

 秋田県に北条常久さんがおられる。『橋のない川 住井すゑの生涯』(2003年刊・風濤社)の著者。現在は、秋田市立中央図書館明徳館館長ですが、かつて同著執筆のころ、京都に来られると、いつも居酒屋「神馬」で日本酒を飲み交わし、住井談義を肴にしたものです。また日曜日には、わたしの車で取材先までご案内したことも、なつかしい思い出です。その北条先生がこの数年間、犬田卯訳「フランス革命」を出版するために東奔西走された。
 卯が翻訳原稿に記した和訳表題「一農民によって物語られたフランス革命」出版は、1957年に亡くなった犬田卯の悲願でした。彼と妻すゑの遺志を継ぎ、北条氏は友人の斎藤征雄教授(東北大学文学部フランス文学科)に補訳を依頼。これらの方々の執念で、やっとこの4月、来月に刊行されることになりました。
 昭和堂刊『民衆のフランス革命―農民が描く闘いの真実―』上下巻、各534頁、定価各2650円。
 この本は、いまはなき妻すゑと、四人の子どもたちが偉大な夫で父の犬田卯を偲び、慰霊鎮魂のために捧げる執念の完成です。聖なる上梓でもある。尽力された北条、斎藤両氏にも敬意を表します。

 わたしはかつて親友の前川む一を追悼し、仲間と一冊の本を出版しました。『住井すゑの世界―その生涯と文学―』(前川む一・増田れい子他共著・2001年刊・解放出版社)。当初、前川が、「住井すゑ伝」を書くはずであったが病に倒れ、それも叶わなかった。彼の無念の遺志を継ぎ、出版した本である。わたしは、岩倉昇のペンネームで、住井の戦争責任のことと、「年譜」年表を記した。
 犬田卯の遺作刊行をこころから祝い、関係のみなさんにご苦労さまと申し上げ、協賛として「住井すゑ年譜」を次回から、ブログ連載で再録します。なおこの年譜は、日外アソシエーツ刊『年譜集成 1 現代の作家』(2005年)にも収録されています。
 住井さん、前川さん、かほるさん、れい子さん…、みなさんを常に支え続けてこられた編集者の川瀬俊治さん、本当によかったですね。半世紀後の完成、おめでとう。有り難いことです。
<2010年3月22日> [217]
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西暦644年 中大兄皇子と中臣鎌足の出会い <古代球技と大化の改新 12>

2010-03-21 | Weblog
つい先日17日のこと、奈良県明日香村教委が、7世紀の遺構を発掘したと発表した。翌日の朝刊に記事が載りました。図書館でも各紙をみてみましたが、朝日・毎日・読売には記事がない。なぜか日経と京都新聞のみの報道です。京都新聞は共同通信の配信でしょうから、各地の地方紙には掲載されたことでしょう。しかしなぜ、全国3紙は無視したのか? 不思議です。京都と日経、2紙の記事をミックスして、記してみます。
 
 国内最古の仏教寺院・飛鳥寺の旧境内地の西南で、7世紀ごろの石敷き遺構の一部がみつかった。かつて70㍍ほど北方でも、同様の遺構が発掘されているので、寺の西側に石敷きの広場か、あるいは道路が広がっていたとみられる。推定される石敷き地域の範囲は、東西30㍍以上、南北70㍍以上。
 この石敷地には10~20㌢の、こぶし大の石を、ていねいに敷き詰めていた。
 日本書紀によると西暦644年、大化の改新の前の年、飛鳥寺の西側には槻(つき:ケヤキ)の木があり、「蹴鞠」けまりをしていた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、中臣鎌足(なかとみのかまたり)にはじめて出会った場所とされる。

 記事にはカラー写真がついており、だいたいのイメージはわかります。また昨日は現地で見学会がひらかれると案内されていたのですが、残念ながら参加できませんでした。いつか、発掘調査報告書を読みたいものです。

 さて<蹴鞠>ですが、かつて何度も述べたように、わたしは異をとなえます。<打毬>打球です。また幅30㍍、南北70㍍以上もある広場は、<けまり>のためではなく打球技を行った、整備の行き届いた広い土地であると確信します。蹴鞠は庭先で、十分に楽しめます。クツが脱げても蹴鞠なら、あわてて拾うほどのこともないはず。みなの目の前に転がっているからです。プレイヤーたちが打毬技ホッケーで走り回っているからこそ、鎌足は急いで駆け、脱げたクツを手にしたのでしょう。
 また石をていねいに敷き詰めていたことについては、排水や風塵防止を考慮したためではないか。バラスや砂で敷石を覆っていたのではなかろうか。
 式典や、打球ホッケーにしろ、蹴球サッカーにしろ、石がごつごつした礫地では、走歩行も困難です。雨水をはやく地下に吸収させる工夫が、なされていたのではないかと考えます。土埃も立ちません。
 また道路であったかもしれないという見解ですが、これが大路なら、南北の延長線上に同様の石葺き地があるはずです。しかしそのような発掘報告はなされていないようです。

 やはりこの地域は、幅30㍍、長さ70㍍以上の、石葺きで砂や砂利で覆った広場であった可能性が高い。明日香村教委は「遺構が槻の広場の一部と確認するため、調査を続けたい」。教育委員会も、道路ではなく広場であろうとみておられる。つぎの発見が、楽しみです。
 しかしただ1点、気になることがあります。2チームが対抗する球技場は、たいていが東西に長くつくられます。日中の太陽に向かって攻めるチームは不利だからです。陽を背にするものが有利です。剣術でも同様のはず。
 この遺構は南北に長く、東西に狭い。この点のみが合点がいきません。試合時間は、太陽の位置を考慮しながら決めたのかもしれません。また曇空の日が好まれたのかしら。そのようなことに、いま思いが走ってます。<2010年3月21日>
※その後いくらか、この文を修正しました。「飛鳥寺西」槻の木の広場については、いつかまた記したいものです。この広場は、饗宴・儀式に使用された神聖な場であったようです。槻は聖樹。この広場で球技もしたであろうと思いますが、それはついで。東西・南北は無関係のようです。修正ばかりが続きます。軽率は、恥ずかしいものです。<4月24日 南浦邦仁>
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冷泉家 王朝の和歌守  <れいぜい・うたもり>

2010-03-14 | Weblog
 同志社大学今出川キャンパスに隣接して、冷泉家があります。邸宅は同地に江戸時代はじめ、1606年に建てられました。しかし天明の大火で焼失し、直後に再建されてから二百数十年。日本唯一の近世公家屋敷です。国の重要文化財に指定されています。
 この家の蔵がまたすごい。大火にも耐え、いまも伝わる典籍文書類は、国宝が5件、重要文化財は1000点を超えます。
 それらが一堂に会して、冷泉家展が開催されます。4月17日土曜~6月6日日曜。チラシから大小見出しと、ポイントの大きな活字を追ってみました。下記の通りです。

 「冷泉家 王朝の和歌守展」 詠むこと、守ること、伝えること 冷泉家時雨亭叢書完結記念 朝日新聞創刊130周年記念 日本文学史に輝くスターたち 平安・鎌倉時代から800年伝わる「歌の家」 古典籍の至宝 春の京都で一堂に 京都文化博物館

 冷泉家は、藤原俊成、定家、為家を祖としますが、延々八百年の間、奇跡の文庫と無形文化を代々、守り伝えられて来ました。定家の孫、為相が冷泉家家祖ですが、現在の為人当主は為相から数えて25代目です。

 冷泉為人当主が、昨秋にすばらしい本を出版されました。『冷泉家・蔵番ものがたりー「和歌の家」千年をひもとくー』NHKブックス。要約抜粋でご紹介します。こころにぶつかってくる言葉が、予期せぬ驚きの波を、何度も打ちました。

 二十五年前のこと、公家とは何の縁もない兵庫県播州の一地方の農村、稲見町の田舎者(鄙の田夫)が縁あって、京都の冷泉家に婿養子として入ったのである。これは冷泉家にとって青天霹靂、椿事これに極まれりだったであろう。そこには妻貴実子の賢さと大胆さがあった。… 
 冷泉家を象徴する建造物は住宅の東北の一角の東西に並ぶ「御文庫」と「御新文庫」という典籍類を収蔵する土蔵である。これらのうち、「御文庫」は冷泉家にとっては、殊に大事な蔵であって、「神様」「神殿」である。…
 実際に[養子として家に]入ってみると、私が思い描いていた冷泉家とはまったく異なり、驚きの連続であった。… 
 冷泉家に入って冷泉家のことを知れば知るほど、空恐ろしく広がりがあり、しかも静かで奥深い大変な家であることがわかってきた。
 人知れず、その責任の重さから、冷泉家になぜ婿養子として入ってしまったのかと自問自答したことが何回もあった。その都度、解決できず悶々としていた。…
 そうした自問自答を一瞬のうちに打ち消してくれたのが『古来風躰抄』であった。…見ている時、突然に身震いがして総身の毛が逆立つほどの衝撃を受けた。文字どおり、身の毛がよだち、ウーンと唸り、息ができなくなるほど背筋が冷たく硬直してしまったのである。これは一体、何かと暫くの間茫然としてしていた。…そしてこれを契機に、俊成さんが私に、「八百年つづいてきた冷泉家とその文化をよろしく頼む」といっておられるように思えてきたのである。それに応えて、「冷泉家の蔵番」になろう。もっといえば「日本文化の蔵番」になろうと強く思うようになった。つまりこれが私に与えられた仕事、私にしかできない仕事ではないかと思うようになったのである。…
  八百歳の遠つ御祖の文庫を千代に八千代になほ伝へなむ

 短歌には、素養のひとつも持ち合わせないわたしです。しかし不思議なことに今回の展覧会には、こころが大きく、もうすでに響き出しました。来月なかば、訪れるのが楽しみです。
<2010年3月14日> [215]
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山が、笑い出しました!

2010-03-07 | Weblog
 「山が久しぶりに笑い出しましたよ」と先週のこと、高校の後輩に話しました。「山も笑いますか?」。本当に、笑うのです。彼は叡山の西麓近くの住人です。
 わたしもこの言葉「山が笑う」をはじめて知ったのは昨年、新緑のころです。ことばの意味は、冬の間くすんでいた山が、さまざまの色合い、濃淡フルカラーで変化に富んだ景色を演じること。
 濃い緑もあれば、黄色がかった葉、白っぽい樹葉、山桜の花と紅茶の葉…。近ごろは常緑樹や竹にも、新旧濃淡を感じます。今年の初笑いに気付いたのは、京都工芸繊維大学正門あたりから比叡山を見上げたときでした。叡山は、微笑んでいたのです。

 今朝はいつものごとく、ベランダでホタル族をしていました。冬場の蛍は本当に情けない。しかし近ころでは、どこの愛煙家ものどかに春を満喫しています。ライターのカチッという音で、姿は見えませんがお仲間蛍が同様の気分で、窓外にたたずんでおられるのが目に浮かぶ。
 ところでわが家は、五階建て住宅の最上階。古い建築なので、エレベーターがありません。毎日、エッコラショとつぶやきながら、階段を登り降りしています。そのため、ビールを買わなくなってしまいました。近所の酒屋・リカーマウンテンでかつては、24本箱入り缶ビールを購入していたのですが、重いのです。長らく自宅では、ビールを飲んでいません。
 そのため晩酌はいつもウィスキー。何より重さあたりのアルコール度が、格段に高い。おおよそビール5%に対して、ウィスキーは50%もある。ビールなぞ、薄いアルコール添加水のようなものです。ウィスキーの重量は登り階段でも気になりませんし、10倍も得をした気分にもなります。

 さて肝心のことを忘れてしまっています。実はベランダから朝に見た京の西山連峰も、笑い出したのです。また狭いベランダに並ぶプランターの雑草も、二月中旬のころから茂りだしました。なお雑草ですが、わたしは「ざっそう」と呼ばずに、雑木にちなみ「ぞうそう」と読みます。ザツでは可哀そうです。
 啓蟄けいちつは昨日でした。先週は湖国で、カメムシにも再会しました。中国の爆竹旧正月のころから、虫も草木も息を吹き返したかのように、回復してきます。地中や落葉下では虫たちがあくびをし、早起きものはもう地表に出現です。草木の根は、たくさんの細い毛先で微小なトンネルを、盛んに掘り抜いています。
 そういえば七草粥は本来、旧暦正月の七日。今年は二月二十日でした。わたしはいつも新旧暦を「祇園暦」で確認しています。八坂さんに行けば、おみくじコーナーで売っていますが、本年版は志納料わずか二百円。おすすめです。たとえば3月6日土曜をみますと<啓蟄 午前1時46分 旧2月節 きのと 乙卯 旧暦正月21日 七赤…>。季節の移り変わりは、やはり旧暦でみなければ体感できません。
 三月三日は桃の節句ですが、旧暦では今年は四月十六日。桜花が散った後です。桃の花はまだ咲いておりません。
 昨年の八月下旬、公家の冷泉家では恒例の七夕・乞巧奠きっこうてんを催された。七月ではなく八月、それも下旬である。ご当主に申し上げました。「ずいぶん間延びした七夕ですね」。すると「旧暦の七月七日ですよ」
 
 さて、笑う山を訪れて、元気を取り返した樹木や虫たちを愛でよう、と思いました。草や木の息吹を受けて、森林浴でもみなとともに楽しもう。
 しかし、階段で息切れしているわたし…。ビールの運搬をも厭う軟弱な、青くもない盛成年?です。たぶん、東山や西山、北山にわけ入る勇気も度胸もないのでは。しかし訪れないと、山に笑われてしまう…。いま、気落ちしています。
<2010年3月7日 旧暦正月22日>
コメント (2)
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