ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

万歳(まんざい)の歴史・番外前編

2009-08-31 | Weblog
「がまの油売り」前編

 萬歳・万才・漫才(まんざい)について書いた本をいくらか読んでいて、面白い記述に出会いました。三一書房『大衆芸能資料集成』第七巻「寄席芸萬歳・万才・漫才」です。この本に「萬歳の隣接芸」として、「物売り口上・がまの油売り」がありました。
 「がまの油売り」口上は、半世紀ほどの遠い昔に、神社の祭りの日にみた記憶がかすかにあります。もしかしたら白黒映画の痕跡かもしれませんが…。いずれにしろ、実になつかしい。わたしにとって、ほとんど透明に近い残影です。
 いくらか現代語に直し、転載してみます。原文は上記書をご覧ください。なお本文は長いので、今日と次回、二回に分けます。

「がまの油売り」口上前編
 サーサお立ち会い。ご用とお急ぎでない方は、ゆっくりとお聞きなさいませ。
 遠目山越し笠の内、物の黒白と利方[利益のある方法]がかわらぬ。山寺の鐘はコウコウと鳴るといえど、法師一人来り鐘に撞木を当てざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやらトント、その音色がわからぬが道理だ。だがしかしお立会い。手前持ち出したるこの棗(なつめ)の中に、一寸八分唐子(からこ)全舞の人形、日本にあまた細工人あるといえど、京都にては守随(しずい)、大坂表にては竹田縫之助、近江の大掾(だいじょう)藤原の朝臣(あそん)。
 手前持ち出したるは、竹田が津守(つのかみ)細工、咽喉(のど)には八枚の歯車を仕掛け、背中には十二枚の枢(くるる・からくり)を仕掛ける。棗を大道に据え置くときは、天の光と地の湿りを受け、陰陽合体いたし、棗の蓋(ふた)をパッと取るときには、ツカツカ進むが虎の小走り虎走り。後にさがるがスズメの駒どり駒返し。孔雀(くじゃく)霊鳥の舞い、人形の芸は十と二通りある。
 だがしかしお立ち会い、投げ銭や放り銭はおよしなさい。手前、大道にて未熟なる渡世はいたすといえども、はばかりながら天下の町人。投げ銭放り銭は、もらわない。しからば何をもって稼業とするやというに、手前年来稼業(なりわい)といたしまするは、コリャこの蟇仙草(ひきせんそう)、四六の「がまの油」だ。いまのお方のように、そういう蝦蟇(がま)は、おれの家の縁の下や流しの下にもいるというが、それはお玉蛙(かえる)、蟇蛙(ひきがえる)というて、薬力と効能の足しにはならぬ。
 手前持ち出したる四六のガマ。四六五六はどこでわかる? 前足の指が四本で後足の指が六本。このガマの住めるところは、これよりはるか北にあたる筑波山のふもとにおいて、車前草(おんばこ)といえる露草を喰らう。[続く]
<2009年8月31日 MIHO MUSEUM「若冲ワンダーランド展」はじまる 南浦邦仁>
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若冲 五百羅漢 №20 <若冲連載40>  

2009-08-27 | Weblog
「石亭画談」
 明治十七年(一八八四)、竹本石亭が『石亭画談』に書いている。近時伏見に遊び百丈山石峯寺に到り、親しく寺中をめぐるに、本堂の右、小高き所に一小楼門あり。漸次山にのぼるに、その石像、もっぱら五百羅漢に止らず。阿弥陀三尊観音地蔵釈迦誕生および涅槃、その他諸仏獣畜等、ことごとくこれを山間樹隙に点続し、配置の位置などにも工夫をなして東西南北に布列す。また若冲の墓あり。これは貫名海屋撰文の若冲の小伝である。すべて一奇観というべし。惜しいかな、これを保存するに意を用いるものなく、苔癬剥蝕(タイセンハクショク)あるいは破壊し、あるいは崖下に転落するものもあり。散失もまた疑いなきなり。寺に入り主僧と話す。主僧いわく、寺は資力に乏しく、これらを保存することが困難であると。ともにその荒廃につくを嘆いて別れる。寺では石像諸仏布列の図を版画にし、信者のためにこれを施している。山中精一後に書する所の詩、また載せて図上にあり。その詩にいう。「斗米先生画才有リ、雲ヲ被ヒ石ヲ刻ミ像ハ奇ナリ、峯頭活溌霊気ヲ発ス、五百ノ群ニ成リ羅漢来ル」。その図は実に若冲七十五歳の筆である。好事の士は、必ず寺に詣て石像をみてその奇なるを知るべし。
 ところで石峰寺はいまも、版画「深草百丈山石峰禪寺石像五百羅漢」を頒布している。現在使用している版木は大正七年(一九一八)、原摺画よりの再刻だが、大正四年の同寺火災で版木元版を焼失してしまったためである。この竹本石亭の記述では、古い版で摺ったものには、峯頭活溌発霊気五百成群羅漢来云々なる詩が刷られており、若冲七十五歳、すなわち寛政二年(一七九〇)の年記があったという。この旧版の版画は、いまでは知られていないが、かつてたくさん刷られたであろうから、いつか発見される日も近かろう。
 参考までに、大正七年新版木・裏面の記載を紹介しておく。「寄附洛南深草里百丈山/石峰禪寺蔵版/為、亡兄宣東宗興居士/十七回忌居士菩提也/大正七年五月十九日/洛東五條袋町住/平野保三郎/敬白」
 さらに大正十五年には、秋山光男が京都の錦市場に出向き、当時は雑穀商を営んでいた橋本屋の主人、安井源六に取材している。若冲の伊藤家は幕末に衰退し、あとは親戚筋の安井家が同家の後を継ぎ、近くの宝蔵寺にある伊藤家の菩提も弔っていた。安井家には「若冲下絵の版画横物、石峯寺五百羅漢図に長崎僧、桃中一の着賛したものがあった。その箱の底裏には米斗庵所蔵と書かれていた」。横物とは横長の画で、版画を軸装にしていたのであろうが、それらは失われてしまった。ちなみに石亭のいう詩は桃中一の書いたもので、若冲七十五歳の款記があったのであろう。<「若冲研究序説」>
 ただ現在の石峰寺版画には、余白がない。大正期に再刻した折、トリミングしてしまったのだろうか。画面に詩を彫りこむ余地がない。
そして明治二十二年の「絵画叢誌」にも記述があるが、筆者は寺に来ることもせず、伝聞をもとに記述しているので割愛する。
<2009年8月27日 南浦邦仁>
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万歳(まんざい)の歴史 №4 声聞師

2009-08-23 | Weblog
中世以降、あるいは平安時代末期から、正月の芸能・祝福予祝の千秋萬歳(せんしゅうまんざい)を演じたのは、声聞師・唱門師(しょうもんじ)とよばれた散所民でした。宮家や摂家、有力寺社などに属し、その本所近くにあった地、散所に住む彼らのおおきな仕事は、自らが所属する公卿庭や寺院や神社などの境内清掃でした。
 何も落葉拾いばかりではありません。建造物の修理、作庭とメンテナンス、道路や土塀の築造修理、池さらえ、井戸掘り…。さまざまの雑用を、散所法師とか乞食法師ともよばれた声聞師は、雑用人としてこなしていたのです。
 ところで、境内の鳥獣死骸などの片付けにも当たったか? 意見のわかれるところですが、おそらく河原者を呼んで処理させたであろうと思います。それらに触れれば、ケガレたとみなす時代でした。一時の蝕穢でも、宮中や権門への出入りが当面できなくなってしまいます。長期間にわたって、外出すらも困難でした。
 彼ら声聞師たちは呪能力者とみなされていました。この特殊な能力ゆえ、新年には言葉がもつ呪力によって寿(ことほ)ぎ、祝う千秋萬歳を演ずる、世間が認める資格と能力があったのです。言霊でもって、人間の精神やこころを清める。特殊な呪力者なわけです。しかし彼らは卑賤視され、差別を受けます。畏怖と差別は紙一重、裏と表の関係にあります。
 井戸掘りや池のことも彼らの仕事ですが、どちらも冥界に通じるという土着信仰があります。この世とあの世、生世界と霊死世界の境界にかかわる職業は、往々にして差別されます。

 中世における声聞師たちの仕事ですが、正月早々の萬歳だけでは、生活が困難です。社寺の清掃、その他の祝福芸能にもたずさわりましたが、戦国戦乱のなか、非常に不安定な生活であったはずです。京の寺社はこの時代、ほとんどが何度も燃え尽きています。
 彼らは世の混乱するなか、「金鼓打ち」(こんくうち)を本業としたといわれています。金鼓は金口とも書きますが、江戸期にいう鰐口(わにぐち)のこと。金属の鼓をたたいて、商家などの門口に立ち、唱える経文の威力によって、ケガレをキヨメて回る。
 1446年の記述では「声聞の僧の義にあらず。門に唱えると書くべし。民屋の門に立って、金鼓を打つ者を、唱門師という。家々の門に立ちて、…阿弥陀経を誦して金鼓を打つ故にいう」。室町時代の辞書では声聞師・唱門師は「金鼓打者也」。
 17世紀早々の『日葡辞書』には、声聞師は「舞をする呪術者や占い師のような者で、祈祷や呪術などをおこなう者」とあります。京では1593年より千秋萬歳が豊臣秀吉によって禁止され、多数の声聞師たちが尾張に流されました。そのためか、『日葡辞書』には萬歳マンザイの記述がありません。萬歳は江戸時代に復活するのですが。
 参考:『京都の部落史』巻1前近代編/阿吽社刊
<2009年8月23日 本日より、本名を記すことになりました。南浦邦仁 記>
<追記:その後に『散所・声聞師・舞々の研究』(思文閣出版)を読み、8月に書いた文をいくらか訂正しました。2009年10月10日 南浦邦仁>
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万歳(まんざい)の歴史 №3

2009-08-16 | Weblog
萬歳(まんざい)はかつて「千秋萬歳」と記され、新年早々に寿詞(ほぎごと)の芸能が演じられました。前回にみたように、古くは新年の予祝は1165年、『古今著聞集』の記載「千秋萬歳とは、正月の子の日に寿詞を唱えて禄物を乞うて歩くもの」にそのルーツをみることができます。それ以前にも「千秋萬歳」の記載はありますが、新春慶賀との関係は明らかではありません。祝いの言葉としては、あまりにも古い千秋萬歳です。二千年以上もの昔に、中国でうまれた語です。
 平安のいつのころからか、12世紀以前には富貴な家々を、さらには禁裏御所を訪れ、新年の予祝を述べ、芸能を演じる万歳、すなわち千秋萬歳を演じる芸能民がいたのです。歳のはじめにいつも此界に来たる異人・神に扮したのです。
 近世以降、単に万歳・萬歳(まんざい)とよびますが、この祝福芸の誕生から中世まで「千秋萬歳」と彼らの芸能は称されました
 1165年から1580年までの記録から、彼らの演芸の記載文字と読み呼称をみてみようと思います。本来、今日書く気はなかったのですが、長かったお盆休暇も終わり、明日からは仕事です。これから一週間、書くことはまず不可能です。あえて、まとめてみました。

 文字は千秋萬歳がもっとも多いのですが、読みは「せんしゅうまんざい」あるいは「せんしゅ」、一部「まんぜい」かもしれません。数字は確認された西暦換算年です。

[千秋萬歳](せんしゅう・せんしゅ・まんざい・ばんぜい)
1165・1211・1233・1241・1246・1247・1280・1289・1301・1319・1324・1347・1436・1437・1447・1471・1472・1475・1477・1481・1586・1487・1488・1490・1492・1503・1515・1516・1520・1522・1533・1537・1546・1551・1552・1554・1559・1560・1564・1565

[千寿萬歳](せんじゅ・せんず・せんす)
1213・1225・1385・1402・1497・1509
 ※14世紀後半から千秋がいくらか減り、千寿がみられるようになる。

[千寿万財](せんじゅ・せんず・せんす・まんざい・ばんざい)
1418・1431・1432・1433・1434・1436
※ いずれも『看聞日記』記載

[千しゆ万(萬)さゐ](せんしゅ・まんさい・ばんざい)
1478・1481・1482・1486・1488・1491
※ いずれも『御ゆとのゝ上の日記』

[千すまんさい](せんす・せんず・まんさい・まんざい)
1546・1552・1560・1564・1565・1570・1580
 ※16世紀には「せんす」あるいは「せんず」ばかりになってしまいます。
いずれも『御ゆとのゝ上の日記』より。
<2009年8月16日 送り火の夜 南浦邦仁>
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万歳(まんざい)の歴史 №2 「中世編」

2009-08-15 | Weblog
万歳(ばんぜい)は二千年以上の昔、中国でつくられた言葉でした。千秋とともに祝福の語です。「千秋万歳」は日本においても、祷(ほがい)、長久祝福のことば・寿詞(ほぎごと)として、新年の予祝だけでなく、さまざまの場で祝いのときに用いられてきたようです。そして明治以降は「ばんざい」と読みます。
 一方の万歳(まんざい)は、祝福の呪術として演じられてきたようです。古来、正月には歳の神が家々に訪れて来る。この信仰の行事が下敷きとなって、職としての芸能マンザイ「千秋萬歳」が、主に声聞師(しょうもんじ)と称したひとたちによって、おそらく平安時代の後期にうまれたのであろうと思います。
 また宮中においては、踏歌が七世紀のなかばから、正月行事として元旦深夜に群舞した佳例。マンザイとの関連もあろうと思います。
 声聞師の正月マンザイがいつごろに誕生し、中世にどのようにあらわれたのかを、時系列で列挙してみます。ずいぶん長いですが。
 これらの史料から、萬歳(まんざい)の中世史を考えてみようと思っています。ただ続編がいつになるか、自分でもさっぱりわかりませんが。
 なおこのテーマに関心をお持ちの方には、盛田嘉徳著『中世賎民と雑芸能の研究』(雄山閣出版)をおすすめします。


(注)この年表は、2009年9月22日に大幅に増補改訂し<前後編>としました。このブログ掲載の新年表をご覧ください。
『「千秋萬歳」中世史年表(改訂増補版)前後編』
そのため以下本文を削除します。

 <改訂転載のため本文を削除空白 2009年9月24日>


<2009年8月15日>
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万歳(まんざい)の歴史 №1

2009-08-13 | Weblog
万歳には「ばんざい」「ばんぜい」と「まんざい」、大きく別ければふたつの読みがあり、現代では意味も異なりますが、もとはどうも同じです。千春万春、千秋万歳。千年万年の繁栄、新年や長寿などを祝うことばです。めでたい時に「ばんざい」とみなで発声し、新年のはじめなど予祝芸能の「まんざい」が訪れ演じる。
 新年早々にかつて家々に来訪した千秋万歳(せんずまんざい)のことを、振り返ってみたいと思っています。

 おそらくこの予祝芸能の原点は、かなり古い。日本人は、いやわたしたちにとどまらず、世界中あちらこちらの古代のひとたちが、あたらしい年を祝ったに相違ありません。とくに冬という季節を痛切に感じる温帯以北の民は、冬の終わりを喜んだ。それはまず冬至(陽暦12月22日ころ)の兆しであり、暦のうえでは新年元旦(旧暦では西洋暦の1月下旬から2月上中下旬)。
 太陰暦旧暦の新年のはじめ、おそらく元旦未明、暗闇のなかを神が各家を訪れる。お盆には祖霊が戻ってくるのですが、そもそもは同じ信仰が正月にもあったようです。亡くなった魂は、どうも年に二度、里帰りのバケーシヨンを楽しんでいたようですが、いつのころからかお盆の一回のみになってしまいます。かわりに聖浄化した祖霊たちは「神」として、元旦に帰省をするようです。歳神、大歳神です。
 秋田県男鹿半島の「ナマハゲ」が、神の来臨を演じたものとして有名です。旧正月15日の夜、扮装した村の青年は3~5人ずつ組になって家々を訪れる。青年たちは蓑(みの)を着て、おそろしい鬼の面をかぶり、手に木の刃物を持ち、家々の戸外でウォーと奇声をあげる。怖い行事にみえますが、しかし注意してこの行事をみると、家の主人が羽織袴(はおりはかま)の正装でナマハゲを迎え、酒肴や餅などで丁重にもてなす。ナマハゲも神棚に礼拝し、祝福のことばをのべる。したがってナマハゲ本来の姿は、小正月の訪問者として、祝福神の性格をもったものと考えられます。
 石川県能登半島では正月6日夜、天狗の面をかぶり、すりこ木を手にした者が、家々を訪れて餅を集めて歩く。ナマハゲも能登の「アマゲハギ」もどちらも、年のあらたまった一夜、神が人間に祝福を与えるために来臨するという信仰にもとづきます。
 1月1日ではない日が、なぜ選ばれるかといえば、小正月15日は旧暦太陰暦では満月の日。古来元旦はこの満月祭の日であったのが、後に新月の1日に元旦が移ったために、本来の15日祭が古い時代だが、1日と15日に分散してしまった。その後、明治以降は太陽暦を採用したため、ふたつの旧暦の正月行事と、新しい新暦太陽暦の行事が複雑に混雑してしまったそうです。
 ナマハゲと本来は同じであったと考えられる正月行事は、全国に痕跡を残しています。東北地方各地では「カセドリ」とよぶが、九州南部でも同じく「カセドリ」という。村の青年たちが家々を訪れ、米銭をもらい歩く。正月14日から16日にかけて行なわれます。
 奄美群島では「トシノカミ」、八重山群島では「ニイルビト」、俗称アカマタ・クロマタ。
 いずれも、年のあらたまった一夜、神(本来は祖霊)が人間(子孫)に祝福を与えるために来臨するという、古来からの信仰にもとづく行事です。
 そして平安朝以降、この新年を祝う予祝の行事、祝福の来訪者が職業化した最たるものが、千秋万歳、「万歳」(まんざい)です。また担った主は、声聞師・唱門師・証文士(しょうもんし)などとよばれた陰陽師の流れをくむひとたちでした。しかし彼らは賤視されました。賤民とされたことは、大きな疑問であり問題です。
 ところで、本日もずいぶん知ったかぶりをしてしまいましたが、弘文堂『日本民俗事典』の盗用が大…。叱咤かブッタですが、ご容赦ください。いつか続編にチャレンジしましょう。
<2009年8月13日 南浦邦仁>

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若冲ワンダーランド <若冲連載39>

2009-08-12 | Weblog
伊藤若冲展「若冲ワンダーランド」が今秋、9月1日より開催されます。
期間 9月1日~12月13日
会場 MIHO MUSEUM
   滋賀県甲賀市信楽町
   TEL 0748-82-3411

 昨年末に新発見公表された「象鯨図屏風」が目玉。しかしそれ以外にも、以前に少し触れましたように、驚嘆の新作が30点ほども展示されます。若冲ファン必見の展覧会です。
 ただ会場のMIHO MUSEUMは少し不便な山の中ですが、新作は見ごたえのある、画期的な宝の山。訪れる価値は十分過ぎるほどあります。今日は館広報のお手伝い役。
<2009年8月12日>

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若冲 五百羅漢 №19 <若冲連載38>

2009-08-09 | Weblog
「筆形石碑」

 天保四年(一八三三)、石峰寺に若冲の遺言という筆塚が立てられた。天保元年に京都に大地震が起き、石像群も被害を受けた。多くは倒れ、崖から転落するものもあった。そして震災の三年後に、筆塚が若冲の墓のすぐ横に据えられたのであるが、謎が多い。幕末三筆のひとり、貫名海屋(ぬきなかいおく)の碑文、筆形石碑銘撰の一部を意訳する。
 「その心霊、その腕の妙は、仙爪の所に至る。ついに仏経中の諸変相を描き出し、よって宇宙の秘を開き発した。幻の技はここまでに至った。…遺言によって墓を筆形に造り銘を記す。いまも居士のなつかしさを忘れることが出来ない。悲しいかな。三年前に大地震が京の地を襲った。いたるところで崩れ砕けしたが、石峰石像の五百応真像も同様であった。天保四年にいたって、若冲居士の孫の清房が、修理復旧につとめた。そして私をして、それらの由を墓表に記させた。居士には孫があるのである。貫名海屋撰」
 若冲は妻を娶らなかった。子も孫もいなかった。清房は彼の次弟、白歳の孫とも、後に錦市場に店を構えた安井家からの養子ともいわれている。かつて平賀白山が若冲を訪ねたときに、妹と一人の子と同居していると記していたその子ではないかと推測する。筆塚建立の天保四年、清房は四十四歳。平賀白山が石峰寺に若冲を訪れたのは、清房五歳のときである。
 しかし若冲の立派な墓は既にあったであろう。なぜ遺言として彼の没後三十三年も経ってから、それも筆形にして再度、清房は墓を建てる必要があったのだろうか。
 ひとつには三十三回忌であろう。かつて「動植綵絵」の相国寺献納を終えたのも、ちょうど若冲の父の三十三回忌に合わせている。また絵は総数三十三枚であるが、観音三十三身、観音霊場三十三所にも、ちなむのであろうか。若冲は、三十三という数字にこだわった。
 それと筆者の勝手な想像をいえば、妹といわれていた心寂あるいは眞寂の筆型墓を、その子の清房が築いたのではなかろうか。彼女は若冲の妹であろうか。安井家の嫁か娘でもあろうか。
 眞寂と清房のことと、筆塚のことは、謎である。
<2009年8月9日 南浦邦仁>
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万歳(ばんざい) №3

2009-08-02 | Weblog
 万歳・萬歳はいまでは「ばんざい」ですが、もともとの読みは「ばんぜい」「ばんせい」
 788年、桓武天皇の祈祷で降雨があった。そこで群臣がみな、万歳をとなえたという記録があるそうです<『続日本紀』>
 古来、天皇の即位式や慶賀に「万歳」(ばんぜい)の文字を記した旗「万歳旛」が用いられ、雅楽「万歳楽」が演じられました。天皇の長寿を予祝するためです。なお「万歳楽」の読みですが、まんざいらく、まんさいらく、ばんざいらく、ばんぜいらく…。いろいろありますが、祝福芸能では「まんざい」というようです。その後、三河万歳、大和万歳などに発展し、昭和8年には漫才という新語が吉本興業によって作られました。

 その後、万歳(ばんぜい)は、君主や貴人の長久の繁栄をことほぎ願うことをいう。さらに転じて、庶民も一般に、正月や目出たいことを祝う言葉になる。400年ほどの昔、イエズス会の宣教師たちによって編纂出版された『日葡辞書』では、「千秋万歳」を「せんしゅうばんぜい」と読み、日本人が正月やその他の目出たいときに、挨拶としていう言葉。「あなたは何千年も生きる」。長久を予祝する言葉として使ったとあります。
 その後おそらく明治時代に、どうも叫び声にまでなったようです。

 明治5年(1872)9月12日、京浜間の鉄道開行式での祝辞の最後に「君万歳、君万歳」
 同11年11月9日、北陸からの還幸の記事に、「百万の民戸、国旗を掲げ、万歳を奏す」。いずれも「ばんぜい」なのか「ばんざい」「ばんせい」なのか不明です。
 「ばんざい」と読んだ最初といわれているのは、明治22年2月11日。帝国憲法発布の式典が挙式された。青山練兵場での観兵式に向かう天皇の馬車に、大学生たちが「万歳」(ばんざい)を高唱したことにはじまるそうです。
 明治30年の第11回帝国議会解散のとき、議長が天皇の詔勅を読みあげた際、議場内に「拍手起こり、万歳と呼ぶものあり」と記されています。
 今回の衆議院解散での万歳三唱のルーツは、おそらくここにはじまるのでしょう。ひとつには明治以来の天皇に向けた万歳。また自らと自己の所属する政党の勝利を予祝する願い。他党や政敵に向けてのエールでは、決してないように感じました。
<2009年8月2日 近ごろ少し書きすぎています。反省しきり…>
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若冲 石峰寺五百羅漢  第18回 <若冲連載37>

2009-08-01 | Weblog
「画乗要略」
若冲の没年は寛政十二年(一八〇〇)、享年八五歳であった。ところが命日は二説ある。九月八日と十日である。彼は石峰寺境内に土葬され、墓も現存する。寺では命日を、九月十日とする。わたしも同寺の過去帳を拝見したが、寛政十一年、亡くなる前年に新調された過去帳の十日の欄に「壽八十八歳 寛政十二庚申 斗米翁若冲居士 九月入祠堂」。やはり、命日は九月十日に間違いない。石峰寺では毎年、命日に若冲忌を催しておられる。

 そして三十年ほど後、天保二年(一八三一)に刊行された『画乗要略』では、「しかるに形似に務めず、写意を貴しとする。居を深草石峰寺のかたわらに構え晩閑す。その画をもって一斗米に換え、よって自ら斗米庵と号す。石像五百羅漢を造り、その像をいま見るに、往々その自然にしたがい、彫琢を加えず。また似に務めず」とある。
<2009年8月1日 南浦邦仁>
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