ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

貸本という文化インフラ (5) 図書館の時代

2013-12-29 | Weblog
 電子雑誌「Lapiz」12月号が発売になりました。知名度はまだ低いようですが、内容はかなりのハイレベルだと思います。MAGASTOREマガストアの扱いで300円。今号では図書館特集も読み応えがありそうです。「椋鳩十と島尾敏雄」、「武雄市図書館」、「貸本という文化インフラ」…
 実は「貸本という文化インフラ」をわたしが執筆担当しました。編集長の了解を得て転載しましたが、今回が最終回です。これを機会にぜひ季刊e誌「Lapiz」ラピスをご購読ください。


 書籍と雑誌をあわせた書店の全国売上は、1996年をピークにほぼ毎年減り続けています。2013年の予想売上は17年前と比べて四割減。本屋の数はどんどん減り、閉店廃業してしまった書店は、10数年で1万5千軒ほどという。
 この間に図書館は増え続け、年間貸し出し冊数は2010年に7億冊を超え、翌11年には書店の書籍総売上冊数と、図書館の貸し出し冊数は逆転してしまいました。全国3200館以上の公共図書館は恐るべき存在です。しかし個人的には、図書館を重宝しているのはいうまでもないのですが。
 現代の有料貸本屋は、おそらくレンタルコミック屋だけでしょう。有料でもやっていけるのは、図書館がマンガ本をほとんど置いていないからです。図書館はマンガ本を除く「無料貸本屋」と揶揄されたりもします。

 ところで今年一月のことですが、朝起きたら妻が開口一番「パソコンで図書館の本を予約してほしい」。昨晩からはじまったテレビドラマ「夜行観覧車」を見て、原作本を読みたくなったそうです。湊かなえ著の同題小説で双葉文庫です。
 PCで検索してみて驚いた。予約者は75名。京都市内には市立図書館が20館ありますが、在庫所蔵総数は40冊。ほとんどの館が複本で2~3冊在庫しておられる。この日時点で、読んでいる最中の利用者と予約して待っている方の合計は115名にのぼる訳です。定価わずか680円の文庫本ですよ。
 連続テレビドラマが好評なので、一ヶ月ほど後に予約者数を調べてみましたが、『夜行観覧車』はなんと300人を突破していました。ベストセラー作家湊かなえ、図書館貸出ベストテン作家でもあるのですが、同じ著者のほかの作品の予約者数は『白ゆき姫殺人事件』528人、『母性』528人、『望郷』297人、『サファイア』280人……。

 図書館の活況で困っているのは書店だけではない。著者の印税は減り、出版社も売り上げが低下する。しかし図書館はインフラであり、絶対に欠かせない存在です。ところが図書館の資料費、すなわち書籍雑誌の購入予算は、20世紀末をピークに毎年減っているのです。昨年までの十年間で、全国合計は二割減です。地方自治体の財政は中央政府同様にきびしい。費用対効果計測が困難なサービス部門である図書館予算は、毎年切り詰められているのです。
 そこで提案したいのは、公共図書館利用の有料化です。図書館の理念や、いうまでもなく関係法規の障壁といった問題はあるでしょうが、館内閲覧は無料でも、貸出については定価の1パーセント徴収を提案します。収入は当然ですが図書館の充実に当て、料金の上限は一冊100円とする。定価数万円の本であっても100円均一です。

 紹介した湊かなえさんの本はすべて文庫化されており、一冊わずか数百円です。小額でも有料化になれば本屋で文庫本を購入する利用者が増え、たいへんな数の予約者は減ります。いつまでも延々と待ち続けることなく、希望の読みたい本を手にすることができます。
 日本のリテラシー、教養や娯楽本の供給は二百年にわたって、町の有料貸本屋が担ってきました。現在の図書館の予算的苦境をみると、ライブラリー衰退の危機が近い内に訪れるのではないかと危惧せざるを得ません。わたしたちは図書館という文化インフラかつ文明の象徴を維持し、さらに進化させなければなりません。また著者を守り、出版社、印刷会社、物流取次、書店をこれ以上に苦しめることなく育てるためにも、公共図書館は安価な貸本屋を目指すべきだと、わたしは確信しています。有料化は図書館人にとっては常識はずれの提案でしょうが、決して禁じ手ではないはずです。
<2013年12月29日 完>
コメント

貸本という文化インフラ (4) 本は買うものであった

2013-12-22 | Weblog
 電子雑誌「Lapiz」12月号が発売になりました。知名度はまだ低いようですが、内容はかなりのハイレベルだと思います。MAGASTOREマガストアの扱いで300円。今号では図書館特集も読み応えがありそうです。「椋鳩十と島尾敏雄」、「武雄市図書館」、「貸本という文化インフラ」…
 実は「貸本という文化インフラ」をわたしが執筆担当しました。編集長の了解を得て、連続5回にわたって転載します。今回は4回目。これを機会にぜひ季刊e誌「Lapiz」をご購読ください。


 ベビーブーマーが大学生になるころ、日本は経済的豊かさを実感できるほどになっていました。電車車内でマンガ雑誌を読む大学生が多く、年配者からひんしゅくも買いました。サンデーとマガジンは、若者の読書に多大なる影響を与えていたのです。一方、学生運動も盛んで、反戦や革命を真剣に議論する学生も多かった。そして「教養」が死語ではなく生きた言葉であり、いくらかの古典や思想書や先端を行く雑誌などを、読んで理解していないと恥ずかしい時代でした。
 しかしこの時代、図書館は少なく、また読みたい本がほとんで所蔵されていませんでした。本は買うものであり、自室の書棚があまりに小さく蔵書が少ないと、友人知人に見せるのが恥ずかしいと思う若者が多かった。大学生協は定価の一割引き。よく利用しました。
 そして卒業後、わたしは書店に就職し毎日四六時中、本に囲まれた日々を過ごすことになりました。社員割引もありましたが、やはり本は買うものだったのです。
 20年前のことですが、本をはじめて出版しました。『ロバのパン物語』(かもがわ出版)というノンフィクションです。調べて書く作業をしますので、たくさんの資料が必要です。数十万円の本を購入しました。その後、共著でノンフィクション本をペンネームで出しました。この時は公共図書館を活用しました。前著の反省で、本をいっぱい買っても、書き終えるとほとんどがゴミ同然になってしまう。息子三人の教育費も圧迫するし、夜遊びの小遣いもショートしてしまう。そのような切実な問題もありましたが、買う本と図書館で借りる本の見極めが、いくらかできるようになったようです。
 またそのころには、図書館がかなり進化していました。まず検索がカードから機械にかわりました。徒歩圏内の分館の端末機で全館の探書が可能になりました。画期的なイノベーションだと感動したのを、いまでも鮮明に覚えています。さらには自宅のパソコンやスマートフォンで検索し、予約するとどの館の図書であろうが数日で近所の分館に届く。メールで到着案内まで知らせてくださる。
 このサービスをはじめて利用したとき、本屋のわたしは恐怖心を抱きました。「書店は図書館に負ける! 何より敵は無料である……」。滅びの予感でしたが、いま現実のものになりつつあります。
<2013年12月22日>
コメント (4)

貸本という文化インフラ (3) 団塊世代の読書

2013-12-15 | Weblog
 電子雑誌「Lapiz」ラピス12月号が発売になりました。知名度はまだ低いようですが、内容はかなりのハイレベルだと思います。MAGASTOREマガストアの扱いで300円。今号では図書館特集も読み応えがありそうです。「椋鳩十と島尾敏夫」、「武雄市図書館」、「貸本という文化インフラ」。
 実は「貸本という文化インフラ」をわたしが執筆担当しました。編集長の了解を得て、連続5回にわたって転載します。今回は3回目。これを機会にぜひ季刊e誌「Lapiz」をご購読ください。



 幕末と明治10年代の貸本屋事情をみて来ましたが、上村松園が画家として誕生したのは貸本屋のお陰のようです。次は時代を一気に下って昭和の戦後期はどうだったのか? やはり同様に、貸本屋は隆盛でした。ただし期間は短く十余年でしょうか。
 筆者は戦後間もない生まれ、団塊世代の一員です。といっても昭和25年(1950)出生ですので、新生人口のピークは過ぎかけていました。少年時の貸本漫画屋事情を知っているべき世代なのですが、残念ながら地方の田園地帯の出身です。紙芝居のおじさんは自転車でやって来ましたが、田舎なので近くに新本屋も貸本屋もありませんでした。また小学校に図書室もなければ、まともな公共図書館も存在しません。
 戦後、日本国民は押し並べて貧乏でした。生活に余裕が出るのは、高度経済成長のはじまる昭和30年代後半からです。言論出版の自由から、戦後は新思想の本がたくさん発売されましたが、食うのが精いっぱいの一般庶民はむやみやたらに書籍や雑誌を買うこともままなりません。そこで都市部で普及したのが安価で本を貸し出す貸本屋です。小中学生や集団就職で都会に出た若者たちも、彼らは金の卵とよばれましたが、みな貸本屋を愛用した。

 昭和33年と翌34年は、西岸良平原作の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」が設定した年です。33年末に東京タワーが完成し、34年3月17日にはふたつの週刊マンガ雑誌が発売になりました。「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」の同日発売です。手塚治虫「スリル博士」、横山隆一「宇宙少年トンダ―」、石森章太郎「怪傑ハリマオ」、寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」、藤子不二雄「海の王子」、ちばてつや「リカのひとみ」などの連載が同時にはじまりました。
 少年たちには垂涎のマンガ雑誌ですが、どちらも高額でした。ともに定価30円! 毎号買えば月に百数十円も小遣いが消えてしまいます。わたしは確か当時の小遣いが一日五円、月合計百五十円ほどだったと思います。小学低学年の子どもはどちらか片方の雑誌を毎号買えば、もう駄菓子屋に行くこともできないのです。
 そこで貸本がはじまりました。といっても無料です。中学生など上級生が買って読み終えた雑誌のお下がりが廻って来るのです。しかし貴重な一冊が年功序列順に移動して行きます。幼い少年にはかなり遅れて、あるいは行方不明で届かなかったりしました。毎号続けて読まないと面白みは失せてしまいます。幸か不幸か、わたしはマンガ読書が習慣にならず、もっぱら活字人間になってしまいました。原因はお下がりの無料貸本マンガ雑誌が、希望通りに読めなかったためでしょうか。
<2013年12月15日>
コメント (2)

貸本という文化インフラ (2) 上村松園の貸本屋

2013-12-08 | Weblog
電子雑誌「Lapiz」12月号が発売になりました。知名度はまだ低いようですが、内容はかなりのハイレベルだと思います。MAGASTOREマガストアの扱いで300円。今号では図書館特集も読み応えがありそうです。「椋鳩十と島尾敏夫」、「武雄市図書館」、「貸本という文化インフラ」。実は「貸本という文化インフラ」をわたしが執筆担当しました。編集長の了解を得て、連続5回にわたって転載します。今日は2回目。季刊e誌「Lapiz」をぜひご購読ください。以下本文。


 さて次に明治時代をみてみましょう。美人画で知られる上村松園は明治8年(1875)に京都の四条奈良物町で生まれ育ちました。父を早くに亡くし、ささやかな葉茶屋を営む母と姉と、女ばかり三人の家族でした。ちなみに葉茶屋とはお茶の葉を売る小売店で、芸妓や舞妓と遊興するお茶屋とは、まったく異なります。
 ところで四条河原町の少し北に本屋がありました。松園が愛した書肆「菊屋」です。幕末に中岡慎太郎が下宿し、坂本龍馬が愛したこの本屋の少年が峯吉。彼は龍馬と慎太郎の子分格で、ふたりが河原町通の近江屋で殺害された夜も、凶行の寸前まで峯吉は同席していました。慶応3年11月15日(1867)、奇しくも龍馬は満32歳の誕生日です。
 風邪をひいていた龍馬はシャモ鍋を食べたいと、峯吉を近所の鶏肉屋に向かわせます。『坂本龍馬関係文書第二』によると、「龍馬は峯吉を顧みて『腹が減った、峯、軍鶏を買ふて来よ』といへり。慎太郎も『俺も減った一処に喰はう。』」そして軍鶏肉を携えた峯吉が、近江屋に戻るまでのわずか半時間ほどの間の奇襲でした。
 上村松園はその後の菊屋と、若主人の峯吉のことを記しています。松園が小学校に入学した明治15年のころ、菊屋は貸本屋「菊安」と呼ばれていました。鹿野峯吉は安兵衛に改名したため菊屋の安です。またまた長い引用ですが、ここに登場する「本屋の息子」が峯吉で、当時30歳代なかばでした。表記は現代語に変更しています。

 母は読み本が好きで、河原町四条上ルの貸本屋からむかしの小説の本をかりては読んでおられたが、私はその本の中の絵をみるのが好きで、よく一冊の本を親子で見あったものでした。
 馬琴の著書など多くてーー里見八犬伝とか水滸伝とか弓張月とかの本が来ていましたが、その中でも北斎の挿絵がすきで、同じ絵を一日中眺めていたり、それを模写したりしたものでーー小学校へ入って間もないころのことですから、随分とませていた訳です。
 字体も大きく、和綴じの本で、挿絵もなかなか鮮明でしたからお手本には上々でした。
 北斎の絵は非常に動きのある力強い絵で、子供心にも、
『上手な絵やなあ』
 と思って愛好していたものです。
 貸本屋というのは大抵一週間か十日ほどで次の本と取り替えてくるものですが、その貸本屋はいたってのん気で、一度に二三十冊持って来るのですが、一ヶ月経っても三ヶ月しても取りに来ません。
 四ヶ月目に来たかと思うと、新しい本をもって来て、
『この本は面白いえ』
 と言って置いて行き、前の本を持って帰るのを忘れるという気楽とんぼでした。
 廻りに来るのは、そこの本屋の息子ですが、浄瑠璃にたいへん凝って、しまいには仕事を放り出して、そればかりうなっている始末でした。
 息子の呑気さに輪をかけたように、その貸本屋の老夫婦ものんびりとしたいい人達でした。
 いつでも店先で、ぼんやりと外を眺めていましたが、時折り私が借りた本を返しに行くと、
『えらいすまんな』
 と、いって、色刷りの絵をくれたりしました。<上村松園談『青眉抄』六合書院>
<2013年12月8日 南浦邦仁>
コメント

貸本という文化インフラ (1) 幕末のリテラシー

2013-12-01 | Weblog
 電子雑誌「Lapiz」ラピス12月号が発売になりました。知名度はまだ低いようですが、内容はかなりのハイレベルだと思います。MAGASTOREマガストアの扱いで300円。今号では図書館特集も読み応えがありそうです。「椋鳩十と島尾敏夫」、「武雄市図書館」、「貸本という文化インフラ」。
 実は「貸本という文化インフラ」をわたしが執筆担当しました。編集長の了解を得て、連続5回にわたって転載します。これを機会にぜひ季刊e誌「Lapiz」をご購読ください。

 江戸時代末期、やっと開国した日本にはたくさんの欧米人が訪れました。秘境であった極東の異文化に接した彼らは、驚異の眼で日本人の特異性を記しました。なかでも識字率の高さに愕然としたひとが数多い。
 トロイ遺跡の発掘、『古代への情熱』で有名なシュリーマンは、慶応元年(1865)に日本を訪れました。彼は江戸や八王子でみた寺子屋の盛況ぶりに驚いています。そして次のように記しました。「日本の教育は、ヨーロッパの最も文明化された国民と同じくらいよく普及している」。さらには「自国語を読み書きできない男女はいない」
 正教会のニコライは文久元年(1861)に函館にやって来ました。そしてロシア領事館付司祭として明治2年まで8年間滞在しました。彼は次のように記しています。少し長いですが引用します。
 

 街角に娘が二人立ちどまって、一冊の本の中の絵を見ている。一人が、いま買ったばかりのものを仲良しの友だちに自慢して見せているのだ。その本というのが、ある歴史小説なのだ。もっとも、この国では本をわざわざ買い求めるまでもない。実に多くの貸本屋があって、信じ難い程の安い料金で本は借りて読めるのである。しかも、こちらからその貸本屋へ足を運ぶ必要がない。なぜなら、本は毎日、どんな横町、どんな狭い小路奥までも、配達されるからである! 試みにそうした貸本屋を覗いてみるがよい。そこに諸君が見るのは、ほとんど歴史的戦記小説ばかりである。(それが長きにわたった内乱肛争の時代によって養われた、民衆の嗜好なのである。)しかも、手垢に汚れぬまっさらの本などは見当たらない。それどころか、本はどれも手摺れしてぼろぼろになっており、ページによっては何が書いてあるのか読みとれないほどなのだ。日本の民衆が如何に本を読むかの明白なる証拠である。
 読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にも退けを取らない。(ロシアについては言うも愚かだ!)日本の本は、最も幼稚な本でさえ、半分は漢字で書かれているのに、それでなおかつそうなのである。漢字の読み方を一通り覚えるだけでも、三、四年はたちまち経ってしまうというのに! それなのに日本人は、文字を習うに真に熱心である。この国を愚鈍と言うことができるだろうか? <中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』講談社学術文庫>

 幕末の日本では、各地でたくさんの庶民が読み書きをこなしていたことは明らかです。寺子屋や貸本屋がリテラシーを高めたといえます。このような文化的に成熟した高度な社会は、18世紀末ころから全国で形成され出したと歴史学者は考察しています。
<2013年12月1日 続く>
コメント