ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

字「幸福」の誕生 (12) 『言海』

2012-10-29 | Weblog
日本初の本格的国語辞典は、大槻文彦編『言海』です。明治の出版物で三大ロング・ミリオンセラーは福沢諭吉『学問のすすめ』、中村正直『西国立志編』と『言海』のようです。中村正直の書いた幸福のことは、その内に紹介します。
 たくさんのひとが待望の近代日本語辞書『言海』を買い求めました。最初に出た4冊もの、その後の大型1冊本と上下2冊もの、そして小型文庫版や中型本が出ましたが、もっとも売れた1冊大版はちょうど広辞苑机上版ほどの大きさです。
 新村出は明治25年に高校入学時に『言海』を贈られた。折口信夫は中学2年生になるとき、明治33年に父に買ってもらった。山本有三は小学生のときに親から買ってもらったが、35年に高等小学校を出て奉公に出た先で主人に取り上げられてしまった。丁稚に学問は不要だからという理由です。ちなみに彼らが愛用した『言海』は、いずれも大型の1冊本だったようです。森洗三は明治44年、14歳のときから縮刷文庫版を愛用しています。
 ちなみに小型版は講談社学術文庫になっていますが元版は昭和6年発行で628版。昭和19年発行の中型は568版、昭和24年発行中型はなんと千刷りと奥付に記されています。あまりにたくさんの版を重ねたので、千刷りはきっと横着かジョークなのでしょう。

 そもそも明治8年に文部省から日本語辞書編集の命令が大槻文彦にくだされた。本来は文部省から刊行されるのが当然だったが、紆余曲折を経て結局は刊行は中止になってしまう。「出版したければ自費で出せ」。これが官の結論だったのです。しかし大槻が個人で出版するには大冊で、たいへんな費用が必要です。結局は購読希望者から予約前金を取り、それを制作費にあてることになります。
 資金難から最初は全4分冊でスタートした。明治22年に第1冊、そして4冊目が刊行され完結したのが明治24年です。大槻は感慨をこめて次のように記している。「明治8年起稿してより、今年にいたりて、はじめて刊の業を終えぬ、思へば17年の星霜なり」。福沢諭吉は完結時に「おかげで日本にも初めて辞書と名づくべきものができ…」と大槻にはがきを送っている。
 最後の校正追い込みのとき、大槻は人生での大きな危機にみまわれます。自費出版のため、印刷製本の原資を読者からの予約金でまかなったのだが、刊行は書きなおしのために大幅に遅れた。前金を払い込んだ予約者からは「大嘘槻(おほうそつき)先生の食言海」など、苦情非難の郵便物が山積みになったといいます。
 さらには完結直前の明治23年11月、二女の乳児「ゑみ」がはじめての誕生日を直前にして病で急死。そして妻「いよ」は心労もたたり娘の死の1ヶ月ほど後に病死した。父とともに残された長女は明治19年生まれだが、名を「幸」という。「さち」である。
 

 『言海』から「こうふく」「さいわい」「しあわせ」をみてみます。幸福と書いて「こうふく」と読むのは、前にみたヘボン辞書同様に固く定着しています。また江戸時代には、幸福を「さいわい」とだけ読んでいたのですが、明治37年の版から「幸」字のみになり、幸福を「さいわい」とは読まなくなっています。また「しあわせ」(仕合・為合わせ)は良いときにも悪いときにも使う言葉で、運命・命運とも記されています。「しあわせ」のよいのが「幸福」です。
 ※印と【文字】は、わたしの勝手な書き込みです。

<かうふく 幸福>【明治22年初版】
 サイハヒ・運命(シアハセ)好[よ]キコト

<さいはひ 幸福>【明治22年初版】※幸福を旧例通り<さいはひ>と読んでいます。
 サキハフコト・吉事ニ逢フコト・シアハセヨキコト・幸福(カウフク)

<さいはひ 幸>【明治37年改訂版 縮刷文庫サイズ】
 運、良ク。時(ヲリ)好ク。

 ※明治37年に文庫本ほどの大きさの縮刷小版が発行されましたが、「さいはひ」は改訂されています。漢字「幸福」を「さいわい」とは読まなくなり、「さいわい」には「幸」字があてられました。

<しあはせ 仕合>【明治23年初版】※「し」は「志」のくずし字
 為合ハセタル時(ヲリ)ニ・運ニ當[あた]リ・不運に當ルコト。
 「仕合善[よ]シ」「仕合悪シ」・命運

<2012年10月29日 南浦邦仁>
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字「幸福」の誕生 (11) ヘボン Hepbum

2012-10-24 | Weblog
日本語のローマ字表記で有名なJ.C.ヘボン(日本名:平文1815~1911)は1859年に初来日し、長年の滞在中に立派な辞書も残しました。『和英語林集成』ですが、日本初の和英辞典です。ずいぶん好評な辞典で、増補改訂を繰り返しています。
 初版は慶応3年(1867)、明治5年(1872)に改訂2版刊行。明治19年(1886)に全面改定増補3版を出版しています。この辞典は「和英」に多くの頁を割いていますが、「和英の部」の後に「英和の部」(ENGLISH AND JAPANESE DICTIONARY)が付いています。
 英和からHAPPY関連語、<Happily.Happiness.Happy>の和訳を、この3語の順に3行書きで並べます。初版・2版・3版と、訳語は変化します。なお原文の日本語はローマ字で表記されていますが、読みやすいように「かな」にしました。(漢字)はわたしの勝手な判断です。
 なおヘボンは医者としても活躍し、また教育者として明治学院大学やフェリス女学院の設立者でもある。近代日本の恩人のおひとりです。さらには女優のオードリー・ヘップバーン(Hepbum)は彼の一族だそうで、これにも驚きます。


(1)1872年初版(慶応3年)

 さいわいに
 らく(楽)・たのしみ・さいわい・くわんらく(歓楽)
 らくな・さいわいなる

 
(2)1872年2版(明治5年)

 さいわいに・しあわせに・なかよ(仲良)くして
 らく・たのしみ・さいわい・くわんらく
 らくな・さいわいなる・しあわせな・あんらく(安楽)な

(3)1886年3版(明治19年)

 さいわいに・しあわせに・なかよくして
 らく・たのしみ・さいわい・くわんらく・こーふく(幸福)・ふくし(福祉)
 らくな・さいわいなる・しあわせな・あんらくな

 明治19年の3版で「幸福」がはじめて登場します。原文表示は「kofuku」ですが、O字は上に横棒のついた伸ばす音です。間違いなく字は「幸福」で、読みも江戸時代の「さいはひ」「さいわい」ではなく「こーふく」「こうふく」です。明治初年に字「幸福」が普及し出し、また読みも、江戸時代には使わなかった「こーふく」「こうふく」がはじめて定着します。
 それと「しあわせ」ですが、幕末に廃れていた言葉が、明治5年の第2版から出ます。本来の表記は「仕合」です。明治初年の「こうふく」をもう少し知りたいと思っています。
<2012年10月24日 南浦邦仁>
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字「幸福」の誕生(10) 英華字典

2012-10-22 | Weblog
『英和対訳珍袖辞書』が普及するまで、英語を学ぼうとする日本人は、中国・清国の「英語―中国語辞書」に頼ったそうです。勝海舟も新島襄も、いつも利用していたといいます。たいへん高価な辞書ですが、当時「英華字典」「華英字典」とよばれました。日本幕末期の代表的な字典は下記の通りですが、やはり「幸福」は出て来ません。
 『康煕字典』をみても「幸福」はありません。中国でも字「幸福」は、比較的あたらしい近代語のようです。なお編さん者はすべて欧米の宣教師です。清国人は手伝いはしていますが、外国を知ろう理解しようという意識は現代中国と違って、あるいは同様に脆弱だったようです。

(1)ロバート・モリソン(漢字名:馬礼遜1782~1834)イギリス人宣教師。

 はじめての聖書中国語訳と、大著の『字典』(英華・華英辞典全6巻)を13年の歳月をかけて完成。1822年、最後に完成した『英華字典』(収録語数約1万字)から、「さいわい」「しあわせ」関連語をみてみました。

 FELICITY ・慶・吉之事
 FORTUNATE 吉
 FORTUNATELY 幸・恰好・好采・好采數・好造化
 FORTUNE 命(destiny of life)
 HAPPILY 幸然
 HAPPINESS ・納・享・
 LUCK 好造化(good)
 LUCKILY 恰好的
 LUCKY 好運・良時運・良機会・僥倖


(2)S.W.ウィリアムズ(衛廉士1812~1884)アメリカ人宣教師。

 1853年と翌年、ペリー艦隊に同行し中国語と日本語の通訳として来日しました。
 『英華韻府歴階』1844年(収録語数約13400語)。後に日本翻刻版『英華字彙』が明治2年(1869)に刊行されています。柳沢信大校正訓点のHappy関係語。
 Happily 幸然ニ・幸ニ得ル・幸トス可キ・恰モ好キ
 Happiness 分大ナル・ヲ納ル


(3)W.H.メドハースト(麦都思1796~1857)イギリス人宣教師。

 いち早く1830年、バタビアで『英和・和英語彙』を刊行しています。残念ながら未見です。『華英字典』全2巻を1842・1843年に刊行。『英華字典』全2巻1847・48年刊。これも見たいのですが、所蔵図書館が見あたりません。


(4)W.ロプシャイト(羅存1822~1893)ドイツ生まれ、イギリス宣教師。

 1854年、中国語ドイツ語通訳としてペリーに同行して来日し半年間滞在した。通詞の堀達之助に、メドハースト編『華英字典』をロプシャイトは寄贈しました。現存する同書の署名はドイツ語で「達之助殿 思い出に 下田にて W.ロプシャイトより 1855年2月」

 ロプシャイト『英華字典』(1866~69年)より。
 Felicity(happiness) ・禧・祉・
 Fortunate 好彩・好造化・幸・吉・・幸事・吉事・有幸(fortunate amidst disasters不幸中之幸)
 Fortunately 幸得・好彩・幸遇
 Fortuneless 無・貧
 Happily 幸・幸而・好彩・幸得・幸遇・幸到
 Happiness ・禧・・祉・蟢・氣・…
 Happy 幸・好彩・有・好命・喜・樂・歡・欣喜・享…
 Luck 造化・際遇・遭際・吉・有幸・有
 Luckily 幸・倖・好彩・好分・有幸・恰好的・幸而
 Lucky 幸・吉・彩・有・好彩數・吉兆・兆・瑞・好運・大吉・好機會

 『訂増英華字典』井上哲次郎訂増(明治17年1884)は、ロプシャイト『英華字典』の日本翻刻版ですが、Happy関連語のみを記します。
Happily 幸・幸而・幸然・好彩
Happiness ・禧・祉(示偏)・福祉・祚・氣・吉・
Happy 幸・好彩・有・好命・喜・樂・歡・欣喜・享

 「幸福」はまず上田秋成『雨月物語』(1776年)に登場します。そして『諳厄利亜興学小筌』(1811年)と『諳厄利亜国語林大成』(1814年)に載るのみだと、幕末まで確認してみてやはりそう思います。ところがどちらも読みは「さいわい」なのです。「こうふく」「かうふく」と読むのは、明治に入ってからです。
 退屈な連載ですが、もうしばらくお付き合いいただければうれしいです。そろそろ明治に入ります。
<2012年10月22日>

 ありがたいコメントをいただきました。孫引きばかりで恥ずかしい次第です。いつか確認にうえ修正します。ただ字典からの引用記述は子引きで、孫引きではありません。言訳いたします。
 「ロプシャイトについて (てる)」 2012-11-24 18:04:42
大変興味深いブログをありがとうございます。今日、はじめて拝見いたしました。
私はロプシャイトを調べている者ですが、先行研究でペリーに同行して来日とされているのはどうやら間違いで、ペリー帰国後、日米和親条約批准のためにアダムスの通訳として来たのが最初のようです。通訳したのは中国語の他、ドイツ語ではなくオランダ語であることが、大日本古文書 幕末外国関係文書に出ております。
謎の多い人物ですが、さらに解明されることを願っております。ブログ、楽しみにさせていただきます。
<2012年11月24日 南浦邦仁>
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物静かなカラスたち

2012-10-19 | Weblog
 冬が近づくと恒例だったのが、夕方の空をカラスの大群が舞うこと。京都西山の麓あたりは、乱舞の名所でした。過去形なのは、3年ほど前までがそうだったからです。数千羽、ときには万のカラスが集結しました。まるでヒッチコックの「鳥」さながらだったのです。
 ところが近ごろ、この数年ですが、カラスの数はどんどん減る一方。夕方になっても数百羽もそろえば多いくらいになってしまいました。早朝も、「おはよう」「おはよう」と鳴きかわしていたのですが、最近は元気もなく静かなものです。

 大群集結のころは、どれもみなよく遊んでいました。たとえば避雷針の先端取りゲームなどは見ものでした。一羽しか留まれない尖った先を取り合うのです。これは何の得もない、遊びです。何羽もが避雷針目がけて席取りゲームを競います。ところが今年はこの遊びを楽しむカラスがほとんどいません。
 数が極端に減ったのは、食料不足のためでしょう。彼らはみなお腹がペコペコなのです。原因は家庭が出す生ゴミ袋をあされなくなったため。かつて人間にとって大問題だったカラスの食害ですが、ネットを掛けるだけで解消してしまいました。あれだけ住民を困らせた鳥害が、網だけで解決してしまいました。
 しかし彼らは日々、満腹の経験も減ってしまい空腹を抱えて弱っていることでしょう。「ガーーカアアーグアーー」と鳴いていたのが、近ごろでは「かぁ~かぁ~」。ずいぶん弱々しくなってしまいました。
 
 衣食足りて礼節を知るは、『管子』の言葉だそうです。「衣食足りて栄辱を知る/憂いも辛いも食うての上/恒産無き者は恒心無し/倉廩実ちて囹圄空し/倉廩実ちて礼節を知る/富貴にして善をなし易く、貧賤にして功をなし難し/礼儀は富足に生ず」
 カラスたちは「食足らずして、空腹で礼節を知る」。そんな状態でしょうか。いつもきれいなゴミ置き場を見るたびに、彼らを励ましたくもなってしまいます。目標は「食足りてこそ避雷針もまた楽し」
 本当かどうか、友人から聞いた話しですが「カラス二羽が一組になって、一方がクチバシでネットを持ち上げ、相方が袋を引っ張り出すの見た」。すごい。ガンバレ!カラス!
<2012年10月19日>
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字「幸福」の誕生(9) 堀達之助の幸福

2012-10-16 | Weblog
「アイケン、スピーク、ダッチ!」私はオランダ語を話せる、と黒船舷側の小舟上に立って、英語で叫んだのは堀達之助(1823~1894)でした。ペリー提督が初来航してきた嘉永6年(1853)、長崎通詞の幕府方官吏として、外交使節に向かって発した日本初の英語です。この非常時に、江戸詰め長崎通詞の中から、堀が首席通訳に選ばれました。翌年のペリー再来日のおりには、彼は首席通詞の森山栄之助と通訳をつとめています。森山はアメリカ人通訳のウィリアムズに「マクドナルド先生は元気にしておられるか」と英語で聞いた。
 激動の幕末期、蘭語が得意で英語もこなす優秀な堀ですが、わずかの落度で小伝馬町牢に投獄されてしまいます。真実の罪科は不明だそうですが、決して重罪ではないのです。微罪だといわれています。彼の才能を惜しむ幕府学問所・蛮書調所(後の洋書調所・開成所)頭取・古賀謹一郎の度々の取りなしでやっと出牢したのは、4年余りも後のことでした。
 ところで吉田松陰も同所西奥獄に入牢していましたが、松陰から東獄の堀に送られた手紙には「冬のよる ひとりまくらの さむからぬ またあけきぬか きくもかなしき」。松陰は何度も牢名主に出世した達之助に手紙を書いています。

 出獄した堀は洋書調所教授に抜擢され幕命を受け、英和辞典の編さんにあたります。そして彼を中心にわずか2年足らずで、江戸時代で最大最高と評価されるはじめての活版印刷英和辞書をつくりあげました。なお出版は文久2年11月(1862)。文久2年は、11月12日が西暦1863年元旦です。1863年1月刊かもしれませんね。
 官版『英和對譯袖珍辭書』(A POCKET DICTIONARY of The ENGLISH AND JAPANESE LANGUAGE)、「袖珍」(しゅうちん)の袖はPOCKETで、着物の袖にいれて携帯できるの意味。珍は珍しいですが、貴重の意味があります。収録語彙数は約3万5千語。初版200部。
 俗称「枕辞書」ですが、形がちょうど昔の枕のようです。京都府立図書館蔵書に『改正増補 英和対訳袖珍辞書』(慶応3年1867・明治3年印刷)があります。サイズを計ってみましたが、横幅21センチ、縦15センチ、高さ10センチほど。枕になりそうです。
 種本はH.ピカードの『英蘭辞典』で、英語を流用し、オランダ語に『和蘭字彙』などの日本語訳語をあてた。はじめ頒価2両(約20万円)であったがすぐに売り切れ、後に度々増刷した。それでも供給が追い付かず、価格は高騰し20両ほどで販売されたそうです。国内で印刷した辞書1冊が200万円ほどもしたのです。

 文久3年に藩命を受けてイギリス留学に向かった長州の伊藤博文、井上馨はこの袖珍辞書を携行しました。船上では毎日、この辞書で英語を学習したといいます。伊藤博文は明治30年の講演で「私共が洋行する時分には如何なる有様であつたかと云うと、堀辰(ママ)之助といふ人の翻訳した薄い(?)英吉利の辞書がたつた壱冊あつた。この辞書も翻訳の上に沢山間違ひのある辞書であつた。それはその筈である。当時はなかなか本当に英書を読み砕く者が無かつた。其間違ひのある一冊の辞書と、山陽の日本政記とを携へて私共は洋行したのである。」

 袖珍辞書で「幸福」探しをやってみましたが、出てきません。「幸」は「さいわい」ですが、「不幸」は「ふしあわせ」なのか「ふこう」なのか? おそらく「ふこう」だと思います。幕末のころ、なぜか井原西鶴が多用した<仕合>「しあわせ」は消え去っているのです。字「幸」「幸福」はあっても読みは「さいわい」ばかりなのです。上田秋成は不幸の読みを「ふこう」としています。

 堀達之助は49歳で新政府の職を辞す。そして晩年は、五代友厚とともに大阪財界で活躍した息子の孝之や、最愛の孫娘たちに囲まれ幸福だったそうです。享年72歳、大阪で亡くなりました。達之助の「幸」訳語を列記してみます。

 Happily   幸ヒ
 Happiness  幸(現代辞書:幸福・幸せ・喜び・満足)
 Happy    幸ヒナル(現代辞書:うれしい・幸福な・楽しい・幸運な・満足して)
 Happiless  不幸ナル

 Luck     不意ノ出来事、取リ付キギハ、幸、潮合ニ(現代辞書:運・めぐり合わせ・幸運・つき・まぐれ当たり)
 Luckiness  幸ナル不意ノ出来事
 Luckily   幸ニ
 Luckless   不幸ナル
 Lucky    幸ナル

 Felicitous  幸ナル
 Felicitonsly 幸ニ
 Felicity   幸(現代辞書:至福・幸福)

 Fortune   運命・持物[領地・財宝・嫁入ノ持参ナドヲ云フ](現代辞書:富・財産・運・運勢・幸運)
 Fortunate  幸ナル
 Fortunately 幸ニ
 Fortunateness幸

 堀達之助の子孫にあたる堀孝彦著『開国と英和辞書―評伝・堀達之助』(港の人2011年)の記述を以下引用します。
 「近代日本にとり、外国語とくに英和辞書は、翻訳語の新造を介して、同時にすぐれて日本語辞書の役割を果たしてきた。…日本のように、大半の語彙を外国語の翻訳として、しかし今やそれが翻訳語であることの意識をなくして自国語として国民全体が使用している例はきわめてめずらしいのではなかろうか」

 字「幸福」は上田秋成が早くも18世紀から用いています。しかし一般には普及しなかったこの語を、オランダ通詞が用い出したのです。「諳厄利亜」両書を編さんした本木庄左衛門は、秋成の『雨月物語』の愛読者だった?
 袖珍辞書では「幸福」は使われませんでしたが、その後の英和辞典にまた出ます。通詞と英学者たちが「幸福」を広めたであろうというのが、わたしの想像仮説です。次回続編は、英語・中国語辞典『英華字典』から確認しようかと思っています。
 幕末に参考にされた辞典は、「オランダ語―英語」「オランダ語ー日本語」「オランダ語―フランス語」「中国語(漢語)-英語」(華英英華)の各辞書です。「英英辞典」は咸臨丸帰港まで、まだ渡来していません(ペリー初来航のおりに、将軍へのプレゼント用に『ウェブスター英語辞書』を持参したそうです)
<2012年10月16日 南浦邦仁>
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字「幸福」の誕生(8) 本木庄左衛門の幸福

2012-10-13 | Weblog
江戸時代には、ほとんど目にすることのない新語「幸福」です。わたしは、上田秋成が最初の使用者ではないかと思っています。『雨月物語』(1776年)の幸福(さいわい)です。
 そして幕末にはじめてつくられた英学書『諳厄利亜興学小筌』(1811年)と、同じく日本初の英和辞典『諳厄利亜国語林大成』(1814年)に英語の訳語「幸福」が記載されています。

 まず『諳厄利亜興学小筌』あんがりあこうがくしょうせん(『諳厄利亜国語和解』)全10巻には、2カ所に幸福が出ています。第3巻に<happiness ヘピネス 幸福>と記載され、

 第10巻の最後尾には対訳例文があります。卷10第36。
 「Sir, i Thank you an Eternal friendship and wish you always to simply Fortune, fare well.」
 「シル・アイ・テヤンキ・ユー・エン・エテルナル・フリントシツプ・エント・ウイス・ユー・ アルウエイス・ト・シユツプレー・ホルチエン・ハレ・ウエル」
 オランダ語なまりのきつい発音だそうですが、この読みではわたしの発音と五十歩百歩かもしれません。また常に「私は」アイは小文字です。
 しかし驚いたことに、ここでは「Fortune」の和訳語に「幸福」があてられています。実に格調高い訳文です。
 「我汝に生前の交誼恩沢を謝し 常に君の幸福加倍して健在せんことを 祝するなり 諳厄利亜興学小筌大尾」

 そして辞書『諳厄利亜国語林大成』全15巻には、
 <happiness ヘピネス 幸福 サイワイ>
 <Fortune ホルテュン 幸福 サイワイ>
 <Luck リュフク 幸 サイワヒ>

 幸福を「さいわい」と読むのは、上田秋成と同じです。何かつながりがあるのでしょうか? まったく不明ですが、あまりの偶然に驚きます。

 ところで日本の英語学をはじめて開拓し、英学史上に輝く両著ですが、その後は特別な「秘本」として表舞台からは消え去ってしまいます。鎖国日本では、いくらか許されたオランダ語以外の西洋語は、だれでもが見たり学んだりすることができませんでした。所蔵したのは幕府と、限られた数のオランダ通詞だけです。
 突然やって来る海外からの夷狄を説得し、追い払うためだけに西洋語が必要なわけです。鎖国体制を維持する手段として、英語は学ばれました。『興学小筌』も『語林大成』も、国家の秘本として書庫に厳重に保管されました。ごく限られた関係者以外、だれも見たものがなかったのです。

 明治初年のこと、後に国語辞典『言海』を編さんした国語学者の大槻文彦(1847~1928)が、『諳厄利亜国語林大成』の写本を東京の古本屋で発見した。彼はつぎのように記しています。
 後の英和対訳辞書(『英和対訳袖珍辞書』1862年)は蘭和訳辞書(『和蘭字彙』1858年完成)をもとにつくられた。1814年作成の『諳厄利亜国語林大成』は、明治10年ころに東京の古書店にてその写本を購入したが、この時はじめて、このような本のあることを知った次第である。わたしのみならず、おそらくは当時のだれもが、この本のことを知らなかったはずである。

 1848年、アメリカ人のラナルド・マクドナルドが利尻島に単身漂着しました。長崎に護送された彼は、オランダ通詞たちの英語教師を半年ほどの間つとめる。マクドナルドは翌年にはアメリカ船に引き渡されて本国に去るが、森山栄之助(多吉郎1820~1871)ほか計14人の通詞がはじめてネイティブスピーカーから英語を学んだのがこのときです。テキストには本木庄左衛門編の秘本『諳厄利亜国語林大成』を用い、特に発音を学び語林大成のカタカナ読みを修正しました。
 本木の「ヘピネス」「ホルテュン」の訳語「幸福」などは、マクドナルドや森山たちのなかで、その後も延々と受け継がれていたことは間違いありません。1854年のペリー来航時、森山は首席通訳をつとめ、堀達之助が補佐役でした。
 後のことですが、開港した横浜で福沢諭吉は得意のオランダ語がまったく伝わらず、大ショックを受けます。英語学習を決意し、当時江戸でもっとも有名だった幕府役人の英語学者につこうとしました。しかし多忙を理由に断られてしまいます。その英語学第一人者こそ森山栄之助です。いつかラナルド・マクドナルドや森山のことを、調べたいとも思っています。
<2012年10月13日 南浦邦仁>
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字「幸福」の誕生(7) 諳厄利亜(あんげりあ)

2012-10-10 | Weblog
長崎でろうぜきを働いたイギリス軍艦フェートン号事件は、たいへんな衝撃を特に幕府に与えました。そして幕府は長崎のオランダ通詞たちに英語の学習を命じます。事件の起きた文化5年8月15日(1808)、日本人のだれひとりも英語のABCも理解できなかったのです。いまからわずか200年ほど前のことです。
 通詞たちは参考書もないなか、日本初の英語学習書をつくり上げました。事件の翌々年には『諳厄利亜語和解』第1冊が誕生し、1811年には全10冊が集大成なりました。手書き本の読みは「あんげりあごわげ」で別題「諳厄利亜興学小筌」
 アンゲリアはイングランドのラテン語ANGLIAに由来するそうです。「和解・小筌」の記述では<English language エンギリス ランゲユース 諳厄利亜語>となっています。
 この本は英語の単語と会話文にカタカナで発音を表示し日本字をつけたもので、日本初の英学書です。なお「筌」(せん)は魚を獲るための仕掛けの竹製の「ふせご」。英語を把握理解するための小筌は謙譲語です。編さん代表の本木庄左衛門正栄(1767~1822)が序文凡例を記しています。現代語抄意訳を記します。

 文化6年(1809)の春、イギリス(諳厄利亜)の文字言語を学習せよ、との幕府の命令がわたしたち長崎のオランダ通詞仲間に下された。ちょうどこの年の秋、出島のオランダ商館に赴任したばかりの商館長補佐官のヤン・コック・ブロムホフが英語にいくらか通じているというので、幕命でイギリス語の教授にあたらせ、オランダ通詞仲間がはじめてイギリス語修業を開始した。そしてわたし、本木庄左衛門正栄が世話役に任じられた。
 ブロムホフ先生について英語の授業を受けたが、長年習い親しんでいるオランダ語の読み方や解釈法と違い、遠く数万里も隔たった知識皆無の異国イギリスの国語をはじめて修行するのであるから、音韻、言語、風俗、事情がたいへん異なっている。それだけにますます理解困難であった。
 わたしは世襲のオランダ通詞の家に生まれながら、幕府からの命令を受けたまわったのに、困難なあまりあきらめてしまえば、国家のために役立たぬことを憂えた。日夜悩みながら、考えあぐねた結果、オランダ学研究を世襲とするわが家に代々伝わって来た古書を調べてみた。すると亡父が50年ほど前に書き写していた数冊の書物があった。
 この筆写本はオランダの会話文を編集したもので、片方にオランダ語を、もう一方には英語を両側に並べて、細かに書き写したものである。昔に渡来した珍しい書物を、父がオランダ人から密かに借り受けて書き写した書物である。原書は転写したのちにオランダ人に返却したと思われる。
 そしてこの亡父の残してくれた写本をもとに、師のブロムホフ先生に質問し修業することとなった。……ABCの発音からはじまって、類語・会話・文章の段階までいたる有様は、ちょうど(英国の)10歳の子どもと同様であったろう。
 いま、年月を積み重ねて、子細に研究し、筋道を考究したお陰であろうか、やっと英語の間垣(まがき)、柴竹の垣の内をのぞき見ることができるようになった。といってもわたしは晩学、歳をとって体も弱り、英学を十分に完成することもできない。だが本書を訳述し、オランダ通詞仲間の年少者に教授し、熟読暗誦させ口頭教授していけば、いつかは大業は完成し必ず大きな実りを得るであろう。本書がそのための土台の一助になることを、ひたすら願うばかりである。……
 この本を礎に、さらに年月を積み業績を重ねて、英学の真髄に達すれば、国家非常の事態に対応する働きができるひとつの力になることができるであろう。異国人に対し自由自在な説得、対談、通訳が可能になる。いま英学の糸口を開き訳述するのが本書であるが、解釈の誤りや誤訳があれば、それはわたしの拙劣愚昧のためである。……後世の研究者が幸いに本書を参考にして[原文:後の學者幸に参考して]、適訳によって増補改訂してくれることを期待するものである。
     文化8年ひつじどしの春(1811)/長崎の愚かなる和蘭通詞/本木正栄謹述

 幕府は「興学小筌」の完成を喜び、通詞たちに次ぎは英和辞書の編さんを命じました。苦労の末に完成したのが文化11年(1814)、日本初の英和辞書『諳厄利亜国語林大成』全15冊です。収録語彙は約6000語。編集責任者は、今回も本木庄左衛門正栄でした。
 日本ではじめて誕生した英学書と英和辞書、『諳厄利亜語和解』(諳厄利亜興学小筌)と『諳厄利亜国語林大成』。この両書に、実は和訳語「幸福」が記されています。当時、ほとんど使われることのなかったはずの字「幸福」です。連載次回、通詞本木庄左衛門たちが、あえて選択した訳語「幸福」をみてみようと思っています。
<2012年10月10日 南浦邦仁>

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本を買わない学者たち

2012-10-06 | Weblog
 まじめな本が売れない。固い本、難解な本、いい本、後世に残る本、それらがどれも売れない。さらにはマンガ本も、ふつうの雑誌も、一般読み物も売れない。
 そのような話しは耳にタコができるほど、これまで聞きまた経験してきました。ただ次の話しには驚きます。小田光雄さんがホームページ「出版状況クロニクル53(2012年9月1日~9月30日)」で紹介しておられます。出版・本の業界に興味ある方にはおすすめのホームページです。毎月初に更新されます。

○小田光雄「出版状況クロニクル 53 (2012年9月1日~9月30日)」
 岩田書院の「新刊ニュースの裏だより」のNo.763(2012年8月)に「だれも買わない」との一文が掲載されていた。
 それによれば、『都市民俗基本論文集』全4巻が完結したので、全執筆者に自らの論文が入っていない他の巻を買ってくれませんかという案内を出したところ、「誰からも注文が来ない」「執筆者は、その分野の研究者であるはずなんだが、それでも『0』である」。そして岩田書院の社長は呟いている。「うーん。こういう著者を相手に、本を作って、売っていかなくてはならなかったのか……。」と。
 『都市民俗基本論文集』は定価も高く、著者割引でも一冊1万円を超えている。だがそれでも執筆者は100人近くいるにもかかわらず、1冊も注文がないとは驚くべきことのようだが、研究者が本を買わないのはもはや当たり前と考えていいかもしれない。大学図書館とコピーですませる習慣が常態化しているのではないだろうか。

 岩田書院のホームページに「新刊ニュースの裏だより」バックナンバー欄がありました。転載させていただきます。なおこの論文集は昨年に完結していますが、京都市立にも府立図書館にも入っていません。全国の大学図書館で所蔵しているのはわずか50館ほどのようです。いったい何冊売れたのでしょうか? 秋の冷え込みか、背筋が寒くなりました。

○岩田博「だれも買わない」新刊ニュースの裏だよりNo.763(2012年8月)
 以前この「裏だより」で、執筆者が買わなくて誰が買うのよ、と書いたことがある→【売れると思ってる?】(※後に原文を転載しています)。今回『都市民俗基本論文集』全4巻の完結にあたって、執筆者に割引販売の案内を出した。このシリーズは、既発表論文を再録したものなので、執筆者には再録巻を1冊献本するだけでご了解いただいている。ということは、再録された巻以外の巻は、持っていない、ということになる。
 そこで、完結を機に、他の巻を買ってくれませんか、という案内を全執筆者に出したのだが、なんと注文はナシ。本当に 誰からも注文が来ない。1冊18800円+税だが、執筆者割引で3割引。執筆者は、その分野の研究者であるはずなんだが、それでも「0」である。
 う~ん。こういう著者を相手に、本を作って、売っていかなくてはならないのか…。
 あ、いかん いかん。最近、すぐ毒づくようになってきたな。
 でも考えてみたら、執筆者のなかには、企画から完結までのあいだに、何人か亡くなった方もいたくらいだから、期待するほうが、そもそも いけないのか?。
 出版の基本は、やはり自分で買いたいと思うような本を作る、ということですね。それは、出版社(編集者)はもちろん、著者にも問われていることです。自分が出版した本(書いた本)を 買いたいと思ってくれるか?。1000人とは言わない、300人でいい。その顔が見えるか?。見えない?、じゃ、やめようか…。 

○岩田博「売れると思ってる?」新刊ニュースの裏だより№638 2010年8月
 出版社の社長の発言としては如何なものか、という気がしますが、言ってしまおう。
 ここのところ「記念論集」を何冊か作っていますが、売れません。先生の古稀や退職を記念して、教え子たちが、お世話になった先生に献呈する論文集のことです。こういった習慣は、いつ頃からできたんだろうか。以前にも書いたと思いますが、「先生のお蔭で、こういった論文を書けるまでになりました、ありがとうございました」といって先生に献呈するのが基本型。したがって編者は「○○先生○○記念論集刊行会」が本来の形ですが、それだと売れないので、出版社側の要望で、お祝いされるべき先生を編者にして刊行する場合が多くなってきています。
 刊行の趣旨がそうだから、集まった論文のテーマは、いろいろ。書名をつけるのに苦労します。「~の諸問題」「~の新展開」「~の視座」「~論叢」などなど。でも、考えたところで、内容が変わるわけではない。
 ここで、当の執筆者に問いたい、貴方はこの本を買いたいと思いますか?、と。これって、とっても大事なことだと思うのですよ。自分が買いたいと思わない本が、売れるわけないですよね。でも、そういう本を出したいのなら、それを売るところまで責任を感じてほしいわけですよ。出版すると決めたのは私(岩田書院)なんだから、売れない責任を「とる」のは私で、これは仕方のないことです(すみません、言い換えます。「仕方がない」ではなくて、「当然です」というべきなんでしょうね…。でも 気持ちとしては「仕方がない」)。
<2012年10月6日>
コメント (5)
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字「幸福」の誕生(6) 楽天とユニクロ

2012-10-03 | Weblog
英語がブームです。個人の域をこえて、会社全体が英語公用語化に向かっています。なかでも楽天など、日本人だけの会議もすべて英語。社内での日常会話も原則英語だし、社員食堂のメニューまで横文字だそうです。三木谷社長が日本語で話すのをみたことのない若手社員も多いといいます。
 日本人社員の胸の名札にも「トミー」とかのニックネームが輝いています。ジョンやラッシ―やリンチンはないでしょうか。
 世界での競争に打ち勝つため「グーグルやアマゾン、アップルと競うために、世界中から優秀な人材を集める。そのためには社員全員の英語力向上は必須である」というのがポリシーです。それにしても、徹底するのがすごい。

 ユニクロも負けず劣らず本社会議は英語オンリー。2・3年後には海外売上比率を50%超とする目標を掲げる同社では、グローバル化のために英語力は当然のこととしています。
 ソニーもオリンパスも前の社長CEOは外国人でした。日産のカルロス・ゴーン社長はブラジル人だが、アラビア語、英仏語、スペイン語、ポルトガル語に精通し、日本では社員向けスピーチは日本語で行う。
 確かに海外に進出する日本企業の変身は著しい。近ごろの英語ブームはこれまでとはだいぶ異なるようです。いつか日本人が海外資本の会社から「CEOについてください」とハンティングされる時代が来れば、グローバリゼーションも本物でしょうね。

 いまから67年前、1945年9月15日に『日米会話手帳』が発売され、その年の暮れまでに360万部の大ベストセラーになりました。つい一カ月前まで、鬼畜米英と叫んで竹ヤリで敵を倒す訓練ばかりしていた日本人がですよ。機を見るに敏、手のひらの反し方は実に見事です。米軍GHQにすり寄るのが最善の進路だと、多くの国民が確信したのです。
 ところが出版社はこの本の印刷を中止してしまいました。別に検閲ではねられたのではなく、いくら刷っても利益が出ないどころか、赤字がふくらむばかりだったといいます。おそらく紙不足で、用紙代が高騰したためではないかと思います。値上げしなかった版元の姿勢には感服します。

 日本史上最初の英語ブームは、文化5年8月15日(1908)に起きます。旧暦ですが、これもお盆の8月15日です。きっかけはイギリス軍艦フェートン号の長崎港への不法侵入事件でした。また英国はやり方がずるいのです。最初はオランダ国旗を掲げて油断させ、奉行所役人と通詞、オランダ商館員2名とが船に乗り移ると、オランダ国旗を降ろしユニオンジャックの英国旗にかえました。商館員両名は武装英兵に拉致され、厳重抗議する長崎奉行所に対し、彼らを人質に食糧・飲料水を強要しました。商館長のヘンドリック・ドゥーフは提供することを奉行にすすめ、結局2名は供給物と交換に戻されました。この狼藉に対し奉行所も港守備隊もなすすべもなく、イギリス船は17日に去ります。日本の反撃は一切ありませんでした。
 鎖国の国法を守れなかった責任をとって、長崎奉行松平康英は艦が去った日の夜に切腹しました。佐賀藩はこの年の長崎警備の当番だったのですが、配置すべき定員1000人のところわずか100余名しか置いていなかった。職務怠慢のため、佐賀藩家老ほか責任者数名が同じく自刃して果てました。藩主鍋島斉直も100日間の逼塞処分を受けています。

 幕府の受けた衝撃はおおきかった。この事件は、文政8年(1825)の異国船内払令の契機になります。また佐賀鍋島藩は藩の一大事を機に、海外の技術や文明に蘭学から開眼し、後の維新で活躍することになります。薩長土肥の肥は、肥前の佐賀鍋島藩です。
 そしてフェートン号事件を機に、幕府は長崎オランダ通詞たち約50人全員に英国語の習得を命じます。驚くべきことに、それまで鎖国日本で英語を理解できる日本人は皆無だったのです。日本人はだれも、英語のいろはエービーシーも知らなかったのです。
 このときの英語熱は限られたひとのみで、またお上からの厳命だったわけですが、楽天やユニクロと同じで下からのブームではないわけです。いずれもトップの決定です。しかし敗戦直後は、民衆から自発的に起こった学習熱でした。だがどれも外圧が契機のようです。
 次回はオランダ通詞たちが、この事件の後で苦心してつくった英語日本語対訳本をみてみようと思っています。当然、訳語に「幸福」が出るかどうかです。実は、さいわいなことに幸福があらわれます。わたしは、しあわせな気分でいっぱいです。
<2012年10月3日 南浦邦仁>
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