ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

マッカーサーの厚木到着、宝島社 写真の謎。 (第1話)

2011-09-26 | Weblog
1945年8月30日午後2時5分、日本占領のため連合国軍総司令官マッカーサーが、厚木飛行場に到着した。愛機バターン号から降り立つ元帥の姿は、まるで千両役者のようにみえる。口にはコーンパイプ、特注の軍帽、ラフな軍服とレイバン。顔には化粧までしていたという。
 タラップを2段ほど降り、そして立ち止まり、ゆっくりと日本の大地を右、左とながめ渡す。現場に立ち会った日本人記者はつぎのように記している。オートマチックで伸縮式の「タラップが降ろされ、コーンパイプをくわえるマッカーサーが、一歩一歩踏みしめるかのように降りてきた。その姿は、役者が大見えを切るふるまいにも似て、勇気と自信に満ちたものだった。…ショウマンシップと洞察に満ちた行為だったともいえる。…すべての日本人の目に征服者の姿を焼きつけようとした。」

 この瞬間の写真は、数多く知られている。最近では9月2日、出版社の宝島社が全国6紙に見開き2ページの大広告を掲載した。このことは9月3日に片瀬連載「マッカーサーの財宝」で記しました。しかしその後も、この広告は喉元から離れぬ小骨のように、気になってしかたがなかった。
 タラップに立つマッカーサーの写真は、どこか違和感がある。わたしの記憶とどこかが違う気がする。本やネット、ビデオやDVDで8月30日のマッカーサーの写真映像を数十点、確認してみた。
 結論をいうと、宝島社が使用した写真は、合成写真である。大地の部分がモンタージュされている。宝島社の写真では、左右の両端まで、空港のかなたの地平は草原である。
 マッカーサーが厚木に到着したとき、空港の向こうバターン号の腹の下の彼方は草原ではない。どの写真映像をみても、向こうには兵舎か格納庫のような三角屋根の建物がいくつも並ぶ。またジープなどの軍用車両が何台もみえる。またたくさんの米兵たちが、元帥の警護のため守りを固めている。
 ところが宝島社の写真には、建物も車両も、マッカーサー以外の人間がただのひとりも写っていない。バターン号と荒涼たる大地、そしてたなびく雲と青空。そのなかに元帥だけがタラップに立っている。いかにも、国破れて山河ありという印象の画像である。
 この写真は、合成されたニセ写真である。なぜか? いつだれが作り変えたのであろう。次回からは、いくつかの犬話も交えながら、66年前の8月30日午後2時過ぎのことを考えてみようと思っています。

 なお写真の比較には、まず9月2日掲載の宝島社広告「いい国つくろう、何度でも」をご覧になってください。ネットで確認できます。
 また本来の報道写真は数多くあります。ネットでも何枚もみることができますが、書籍ではたとえば、ジョン・ダワ―著『敗北を抱きしめて』(上巻・増補版・岩波書店 2004年 68ページ)
 この写真は元帥もお気に入りだったそうで、回想録にもトリミングされた写真が使用されています。少しですが建物が確認できます。ダグラス・マッカーサー著『マッカーサー大戦回顧録』(下巻・中公文庫2003年 150ページ)
<2011年9月26日 南浦邦仁>

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愛犬と安寿と厨子王 <ワンコの物語 3話>

2011-09-24 | Weblog
 愛犬ココがいなくなって、今日でもう2週間になります。家族全員が探索に全力を投入しました。近所にお住まいの知人友人にも助けられ、また見ず知らずの方々から励ましやアドバイスもたくさんいただきました。本当にありがとうございます。わたしたち家族は、これまで考えられるだけの手立てを打ってきたつもりです。

 ふつか前、木曜の夜に電話がありました。警察からです。「行方不明の犬の心配をしておられるのは、わたしも痛いほど分かります。しかし信号機や道路標識のポールや道路のフェンスなどにポスターを貼るのはいけません。苦情も届いています」
 わたしたち家族は話し合いの末、電柱や街路樹をはじめ、すべてのポスターをはずすことにしました。ただご好意で私有地やお店などに貼ってくださった方と、ほんの一部、気になるポイントのみは残しました。ご容赦ください。
 それにしても警察からの注意は、10日以上たってからの連絡です。「これまで警察は大目にみてくださったんだ。10日を過ぎたので、そろそろあきらめてください」。きっとそういう考えからの指示だろう。そのように受け止めました。お目こぼし、ありがとうございました。

 愛犬との再会のことを考えていて、ふと『山椒太夫』が読みたくなりました。厨子王と母との再会を思い出したからです。子どものころに読んだきりでした。森鴎外『山椒大夫』と、ねじめ正一『山椒太夫』。この2冊は文章がかなり異なります。ねじめ本から引用します。人買いにさらわれ行方のわからぬ母を探し続けた厨子王が、島で偶然に再会する場面です。

 子どもたちと生き別れ、目の前でうわたき(乳母)に死なれて、美しかった奥方は見る影もなくやつれ、おまけに安寿と厨子王の身を案じて泣き暮らしているうちに両眼を泣きつぶして、とうとう眼が見えなくなってしまわれたのだった。
 眼の見えない女にさせられる仕事といえば、鳥追いしかない。というわけで奥方は、鈴のついた縄をもたされ、むしろに広げた粟の前にすわらされ、粟をついばみにくるすずめをば、日がな一日追わされていた。
 ――厨子王恋しや、ほうやれ。安寿の姫が恋しや。うわたき恋しや、ほうやれ。
 その日も奥方は、そんな歌を口ずさみながらすずめを追っていた。歌い終わると、悲しさのあまり地面にどうとうつぶせになる。気をとりなおして起きあがり、歌いながらまたすずめを追う。そしてしばらくすると、またどうとうつぶせになって、わが身の不運を嘆くのである。厨子王がそばをとおりかかったのは、まさしくそんなときだった。
 「おかしな鳥の追いようもあるものだ。もう一度追ってみなさい。ほうびをやろう。」
 母とも知らず、厨子王は話しかけた。わからなかったのも無理はない。別れた母と、目の前の鳥追いの女とでは、それほどまでにちがっていた。
 「ほうびなぞ無用のこと。追えとおっしゃるなら追いましょう。」
 奥方もまた、いま話しかけた声が厨子王とは気づかない。鈴のついた縄をもちなおすと、ゆっくり打ちふりながら、小声でさっきの歌を歌いはじめた。
 ――厨子王恋しや、ほうやれ。
厨子王はその場にこおりついた。
 ――安寿の姫が恋しや。
女の顔を、食いいるように見つめた。
 ――うわたき恋しや、ほうやれ。
 「お母さま!」
 厨子王は母にだきついた。
 「お母さま、厨子王です。世にでることができて、こうしておむかえにまいったのです。」
 ………

 わたしはこの物語を読み返して、ふと浮かんだのが「ココの歌」をつくって町中を歌いながら歩き回ろうか、という考えです。
 ♪ココ、どこ? 元気かい?
  ココ、そこ? おすわりくん、食べてるかい?
  ココ、どこ? 待ってるよ。
 推敲します。I shall meet Coco !!

○清水羲範・ねじめ正一『おとぎ草子・山椒太夫ほか』講談社 21世紀版 少年少女古典文学館16 2010年
※これから犬の話を連載してみようかと思っています。前回と前々回を1話2話とし、今回を「ワンコの物語」第3話としてみます。
<2011年9月24日 南浦邦仁>
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愛犬、その後。

2011-09-17 | Weblog
 トイプードルのココが行方不明になったのは、9月10日土曜日の早朝でした。もう1週間になります。しかし、まだ見つかりません。真っ黒な犬で、口まわりだけはやや茶色ですが、生後9か月の女の子です。
 ポスターを数百枚貼りました。正確な数は不明ですが、500枚くらいかなと思います。いろんなお店にも気持ちよく貼っていただきました。いつもコピーをとるコンビニ。ショッピングセンター、失踪が早朝なので新聞販売店、タクシー会社、ケーブルTV1階入り口、国道沿いのカラオケ屋さん、レンタルビデオ店、お好み屋さん、焼き肉屋さん、パン屋さん、ファミレス、動物病院、ペットショップ、犬の散髪屋のトリマーさん、わたしが通っている歯医者さん、スーパー、生協、リサイクルショップ…。
 またルール違反は承知で、ポスターをあちこちに貼ってまわりました。電信柱、道路わきの柵、バス停。街路樹には麻ヒモで縛りました。さすがに昼間は片付けましたが、大型の立て看板も2枚作りました。法に反していることはあきらかです。すみません…。ココが見つかれば当然、はずします。なおこのポスターはココが大好きな近所のママさんが、手持ちの写真を入れてパソコンで作ってくださったものです。

 ポスターを縮小コピーしたA5版のチラシは、約1万枚をまきました。郵便受けに入れたり、ショッピングセンター前で対面配布したりしました。「近所にまくので多めにください」「情報があったらかならず電話しますね」「首輪は?」「近所の友人にメールで知らせます。きっと見つかりますよ」…。たくさんの方がそのように言ってくださいました。ショッピングセンターもビラまきに気づいておられたでしょうが、お目こぼしだったようです。ありがとうございました。
 コピーをコンビニでたくさんとりましたが、サークルK、セブンイレブン、ファミリーマート、従業員のみなさんにも励まされ、カラー版ポスターを店入り口に貼ってくださいました。こころから感謝です。コピー中に気づかれたお客さんは、「そのチラシください。ささやかですがお手伝いします」。本当に涙がこぼれました。

 見ず知らずの方々から、励ましや目撃の電話もいただきましたが、早朝3時の電話には驚きました。「夜があけてから電話しよう、と思っていたのですが、ついこんな時間にかけてしまいました。警察と保険所への届けはされているでしょうが、わたしの経験では注意点がありますので」
 当日朝に交番に逸失届を出しました。逸失というのは、ペットの行方不明は財布を紛失したのと同じ扱いだそうです。交番の若いお巡りさんは「大切なペットなのに、物扱いですみませんね」。念のため翌日に区管轄署に行って、どの地域までフォローしてくださるのか確認しました。逸失物なので窓口はやはり会計課で、若い女性職員はパソコンで調べて「安心してください。逸失番号0000ですね。府内全域を網羅しています。どこで見つかっても、黒いプードルで検索されます」。安心しました。
 保険所はどこに届けるべきかわからず、区役所支所に行きました。「区担当部署に電話をつなぎますから、質問にこたえてください」。京都市内はすべて手配済みになりました。しかし隣接の向日市と長岡京市は対象外です。アドバイスに従い、乙訓保険所にも電話しました。
 しかし西の亀岡市やまったく離れた市町も心配です。京都府内の動物が持ち込まれる老ノ坂の動物愛護センターにも伺いました。驚いたことにセンター玄関脇には、子犬がゲージのなかに何匹もいます。たいていが飼い主に捨てられた犬だそうです。あまりにも可哀そうです。また涙してしました。近ごろのわたしは涙もろくなっています。

 自宅近所を歩いていましたら、中学生くらいの少女が犬と散歩しておられました。犬は黒のトイプードル! 大きさもよく似ているのですが、シッポがココより長い。まったく別人、いや別犬です。
 「可愛いワンちゃんですね」。わたしはジロッと見つめ、疑ったことに対する自責の念で声をかけたようです。「そうか、この少女は同じ黒のトイプードルを飼っているだけで、何人もの方から盗難犬ではないかと、疑われているのではないか」。わたしははじめて気づきました。その地区ではポスターが何枚もはがされているのです。しかし紙は地面には落ちていません。ゴミとして処理されているようです。
 そしてわたしはやっと気づきました。「ポスターやチラシを山ほどまけば、同じ黒のトイプードルを飼っている方は散歩もできない」。わたしの家族がやっていることは、自分たちだけがよければいい、というエゴ、自己チュウな身勝手であったことに、思い至りました。本当にご迷惑をかけて申し訳ございません。これからは自制いたします。しかしまだ見つかりません。

 もしいまココを留め置かれている方がありましたら、ごほうびの間食にはササミ味「おすわりくん」をやってください。大好物です。ホームセンターで売っています。
 ペットフードはずっと「ロイヤルカナン」プードル子犬用。国道9号線桂坂下のペット屋さん「グッド・フンド」で買えます。これにしてやってください。
 キャベツ葉の固い部分を湯がいた葉片もすきです。ときどき与えてやってください。喜びます。冷凍庫の四角い氷をかじるのも大好きです。ただし1日1個。食事はこの程度で十分です。

 しかしココとの再会を確信し、楽しみにしています。ココ愛用のおもちゃを見つめながら記します。
※前回記しましたわたしのメールアドレスですが、「何度送っても受信拒否?」の声が何件かありました。不調のようです。別アドレスは、・・・(日もだいぶ経ちましたので消去します。11月28日)
<2011年9月17日 南浦邦仁 記>
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愛犬失踪

2011-09-10 | Weblog
 号外のようなわがままメッセージを、本日は送信いたします。実はたいへんな事件が、わたしたち家族に起きてしまいました。愛犬が本日、9月10日土曜の早朝に行方不明になってしまったのです。まったくの私事で恐縮ですが…。
 名はココ、トイプードル黒の女児、生後9カ月弱。真っ黒のゴリラかクマの幼児のような子犬です。かわいく賢い犬です。
 半年以上、いっしょに暮らしてきましたが、完全に家族の一員、わたしの娘です。失踪の原因は、玄関ドアが少し開いており、朝刊配達のお兄さんについて外に出てしまった…。大反省です。
 今朝は5時ころから家族全員で探し回り、迷い犬ポスターと手書きチラシ1000枚以上を捲き、役所関係にも届けましたが、いま夜になっても不明。
 このような私事をネットで発信して、本当に申し訳ないのですが、わたしはツィッターにもフェイスブックにも無縁なアナログ人間です。京都地区で、助けてやろうかと思ってくださる方がもしあれば、ぜひに広範な発信をいただきますよう調査協力をお願いいたします。また探索についてのアドバイスがありましたら、ご教示ください。

不明になった
 日時 9月10日土曜日 朝5時ころ
 場所 京都市西京区大原野東竹の里町
 愛犬 ココ トイプードル黒 生後9カ月 女児
連絡先
km09071123365@docomo.ne.jp(PCメール不調のため、携帯アドレスを記します。9月17日変更)
<片瀬五郎=南浦邦仁 2011年9月10日> 






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マッカーサーの財宝

2011-09-03 | Weblog
 出版社の宝島社が、鮮烈な企業広告を新聞各紙に掲載しました。見開き2ページですが、愛機バターン号から厚木飛行場に降り立つマッカーサーの有名な写真です。眼にはレイバンのサングラス、口にはコーンパイプ。お決まりのスタイルで、タラップを降りています。
 見出しは「いい国つくろう、何度でも。」 文はこれだけです。右下に「宝島社」とHPアドレス。左下に、ダグラス・マッカーサー財団の許諾の記載、文字はそれだけです。朝日、読売、毎日、産経、日経、日刊ゲンダイの6紙に、9月2日同時掲載されました。
 宝島社はこの広告で、いったい何を伝えようとしたのでしょう。
【2011 年9 月2日 宝島社企業広告意図】
敗戦や災害など、これまで幾度となく苦境に直面してきた日本。
日本人はそのつど、不屈の精神と協調性を武器に国を建て直してきた歴史があります。
世界のどこを見ても、これほどしぶとく、強い生命力を秘めた国民は存在しないのではないか。
そんな気さえするのです。
「いい国つくろう、何度でも。」
この投げかけを通じて、
日本人が本来持っている力を呼び覚ましてみたいと考えました。

 最近みた映画で印象深かったのが、浅田次郎原作「日輪の遺産」です。登場人物たちが歌ったのが「比島決戦の歌」
 ♪いざ来い ニミッツ マッカーサー 出てくりゃ地獄へさか落とし
 ニミッツはアメリカ太平洋艦隊司令長官、マッカーサーはそのころ南西太平洋方面連合国軍総司令官。作詞は西條八十、作曲古関裕而。1944年3月につくられた歌です。
 映画はマッカーサーがフィリピンに有していた金銀財宝貴金属、現在の価値で約200兆円。それらを敗戦後の日本復興の資金として温存するために、1945年8月敗戦直前に軍トップから3人の軍人に極秘命令が下る。そして勤労動員の女学生たち20人と担任教諭は、木箱に密封された財宝を貨車2台分、日本軍が開発した秘密爆弾と信じて山中の洞窟に運び込む。
 この映画では度々、マッカーサーが登場します。なかでも強烈な印象が残るのは、秘匿していた財宝に気づいたマッカーサーが洞窟に向かうシーン。唯一生き残った少女が、山道に仁王立ちし、両手を左右に広げ、元帥の乗るジープの行く手をふさぐ。話の続きは原作本か映画でご覧ください。
 「日輪の遺産」パンフレットには、こう記されています。「太平洋戦争開戦から70年。日本は今、終戦直後同様に復興のスタート地点に立っている。われわれ日本人がいかに揺るぎない信念を持ち、困難を乗り越え、成長を遂げてきたのか。日本人としての矜持を改めて見つめ直す、勇気と希望のメッセージが込められている。」

 3・11からは、この国の第 3 の建国だといわれています。まず最初が、幕末の東インド艦隊司令長官ペリーが迫った第 1 の開国建国からはじまる維新。米国が大きな改革を迫りました。
 そして8・15。マッカーサーが厚木空港に降り立ち、日本大改造を断行しました。
 米国なりマッカーサーが、この国の改造の象徴として登場する、そのような潜在意識をわたしたちは持ち続けているのでしょうか? 宝島社の広告は、わたしのなかで、いまだ消化されません。
※当夜、ドキュメンタリービデオ「マッカーサーとその時代」(文藝春秋)をみました。いくらか、マッカーサーの時代が理解できそうな気がしてきました。
<2011年9月3日>
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