ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

サンクチュアリ

2012-04-29 | Weblog
 佐渡のトキがすくすく育っているようです。ヒナ3羽の性別はまだわかりませんが、三兄弟あるいは姉妹の巣立ちが楽しみです。またほかにも、たくさんのペアが抱卵中。もしかしたら今夏、若鳥たちの乱舞が島のいたるところで見られるかもしれません。ちなみに自然繁殖は36年ぶりだそうです。
 サンクチュアリという言葉があります。わたしはてっきり野生動物たちの楽園くらいに思っていました。辞書を見てみましたが、鳥獣の保護区禁猟区とあります。またゲリラの安全な隠れ場所というのには苦笑してしまいました。要は、ほかから攻撃などが加えられない特別区域なのでしょう。本来は、ヨーロッパ中世に法律が及ばなかった教会や神殿などの聖域だそうです。

 ところで佐渡島ですが、住民がトキとともに暮らしています。釧路湿原の丹頂鶴ことタンチョウや、舞鶴沖の冠島のオオミズナギドリ、鳥島のアホウドリなどは、人間から隔離されています。マレーシアで年初に保護された冠島のオオミズナギドリは足の標識から、40歳以上だったそうです。野鳥の長寿日本記録を塗りかえたそうです。ちなみに日本産最後のトキだった愛称「キン」は2003年に死亡しましたが、年齢は36歳とみられています。大型の野鳥は結構長生きですね。キンさんギンさんもびっくりでしょうね。

 人間と共生する地域での野生動物たちは、生きるのがたいへんだろうと思います。佐渡市では農薬や化学肥料の使用量を大幅に減らしておられる。トキが好むのはドジョウ、サワガニ、カエル、ミミズや昆虫など。それらが健全に育たねば野生トキは滅びます。
 しかしトキは本来は害鳥です。餌を求めて田畑を歩き回り、長いクチバシを泥に突っ込み稲苗を荒らす。だが住民はトキとの共生を決意しました。いま環境保全型農業は結実しつつある。4年前から発売を開始した佐渡島産コシヒカリ「朱鷺と暮らす郷米(さとまい)」は好評で、作付面積は数年で3倍以上に増えたそうです。ドジョウやタニシ、トンボもバッタもあらゆる生物が、豊かな生態系のなかでどんどん増えています。害のある薬品の使用量を減らしたトキにやさしい環境は、すべてのひとと動物に健全な恵みを与えています。ヒトも動物ですが。

 野の鳥を「野鳥」とよんだのは中西悟堂(1895~1984)です。野鳥の観察や保護に先鞭をつけた「日本野鳥の会」の創設者です。彼の短歌に朱鷺がいくつもあります。
 狭間には水田ありて幾なだり 丘につづくなり朱鷺くる山は
 高松の梢のこの巣は国あげて 十となき巣ぞ朱鷺のかけし巣

 ところでサンクチュアリですが、地球上で最長の楽園があります。延々248キロ、幅は4キロと狭いのですが面積は東京都の約半分にもなります。その場所は意外なことに朝鮮半島。だれも立ち入ることのできない地雷が埋まった南北朝鮮非武装地帯です。もう60年間、動植物の完全な聖域になっています。
 鹿児島県の出水平野はナベヅルとマナヅルの越冬地として有名です。シベリア近くから飛来する彼らの渡り中継地に、38度線が重要な位置をしめているのです。ツルは体重が6キロほどと軽いため、地雷の被害は受けません。それにしても皮肉なことに、南北対立の結果設けられた臨戦地帯が、半世紀以上にわたって完璧な聖域になっているのです。
 ツルの渡りをはじめて宇宙から調べた本があります。少し古いのですが、興味ある方におすすめです。日本野鳥の会・樋口広芳編『宇宙からツルを追うーツルの渡りの衛星追跡』1994年 読売新聞社
<2012年4月29日>
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近衛家「陽明文庫展」 <幸せシリーズ32>

2012-04-24 | Weblog
 懇意にしていただいている先輩から電話がありました。「いま京博で開催中の陽明文庫展、必ず行くように。近衛家千年の名宝はすばらしい。それと図録を買ってきてください」
 電話の主は山科のNさん。数年前に健康を損ない外出が困難です。彼の「行きたい、観たい」というあつい気持ちが痛いほど伝わってきました。「はい、図録を買ってきます」
 わたしもこの展覧会のことは前から知ってはいましたが、正直なところそれほど行きたいという気はありませんでした。書の素養に乏しい身としては、貴重な文書の字が読めないのです。
 ブタに真珠、ネコに小判のようなもので、よくはわかりません。しかし行かなければなりません。前の土曜日、東山七条の京都国立博物館「王朝文化の華 陽明文庫名宝展」を訪ねました。そして圧倒されてしまいました。

 図録などから紹介します。なお開催は5月27日まで。
 京都の右京、御室の仁和寺に隣する宇多野。陽明文庫は昭和13年(1938)、近衛家29代当主で内閣総理大臣もつとめた近衛文麿(1891~1945)によって設立された。大化の改新(645)の功績で、中臣鎌足は天智天皇から藤原姓をたまわったことにはじまる藤原氏。摂政や関白に任ぜられる家柄の五摂家(近衛・九条・鷹司・二条・一条)の筆頭である近衛家は、平安時代を代表する貴族・藤原氏の直系にあたる。
 陽明文庫は近衛家が蔵した20万点の古記録・古典籍・古文書や美術品などを保存管理しており、最高権力者として栄華をきわめた藤原道長自筆の日記、国宝「御堂関白記」や、いずれも国宝の「倭漢抄」「歌合」「類聚歌合」…。まさに宮廷貴族の雅をいまに伝える優品である。
 この展覧会では、同文庫が所蔵する国宝8件、重要文化財60件のすべてをはじめて一挙公開し、おおよそ140件の名宝を通して、近衛家が一千年余にわたり護り伝えてきた雅の世界と、歴史の重みに思いを馳せていただきたい。

 名和修氏(陽明文庫文庫長)は『薫る公家文化』に次のように記している。
 「一千年前、近衛家直系の先祖である道長が日々記した日記、それを目前にすると、千年前には道長自身がこれを手にして筆を染めたという、時空を超えた臨場感がひしひしと伝わってくる。中でも、道長が和歌をしたためるために用いた仮名文字というものは、筆者が特定できるという点で、この時代において他にまったく例を見ないもので、仮名の成立史の上で貴重な存在であるのみならず、漢字で書かれた通常の日記の部分が道長の公の顔であってみれば、この仮名で表記された部分からは、何か道長の私の生活の一端を垣間見るが如き雰囲気を感じ取ることができる、…」
 会場でわたしが圧倒され、雷光にうたれたように感じた原因も、このあたりにあったのかもしれません。

 ところで近衛文麿ですが、若かりしとき京都新聞の前身である日出新聞の記者でした。明治42年(1909)、伊藤博文がハルピン駅頭で暗殺された年です。文麿は当時、京都大学の学生でした。父親の近衛篤麿が日出新聞に文麿の名義で出資したためです。山縣有朋が篤麿にすすめたためですが、そのため文麿は大学生のまま出資社員として日出新聞につとめました。
 近衛家は筆頭華族で、その御曹司の文麿は学生服のまま、ときには和服の着流しで、また当時としては珍しい背広姿や乗馬服で会社にあらわれました。身長はそのころとしては破格の180センチほどもありましたから、ハンサムな彼はかなり目立ったことでしょう。
 まともに仕事をしない記者文麿を見かねた社長の雨森菊太郎が、七条で起きた火事の取材に行かせたことがありました。ところが文麿はろくな記事も書かず、カミナリとみなから畏怖されていた雨森から大声で叱りつけられました。しかし文麿は翌日もけろっとした顔で、まったく何もなかったかのように平然と出社したといいます。
 主筆の大道雷淵によると「さすが華族の御曹司だけあって、月給などには目もくれず、若い記者たちと牛飲馬食に散ずる…」
 文麿の退社は翌々年の明治44年ということになっていますが、実際にはその前年から会社に顔もみせず、月給も取りにこなかったそうです。

 皇族や華族は学習院に進むのが習わしです。近衛文麿は新渡戸稲造が校長の旧制一高をあえて選び、東京帝大の哲学科に進学したのですがあきたらず、マルクス経済学の河上肇に学ぶために京都帝大法学部に転学してきました。在学中の1914年、オスカー・ワイルド「社会主義化における人間の魂」を翻訳し、雑誌に投稿しました。しかし掲載誌は発禁処分を受けてしまったそうです。
 若かりしころの近衛文麿は、自分の思想に忠実な、まったく自由な青年であったことはまちがいないようです。

 ところでなぜ、今回も「幸せ」シリーズなのか? 実はメーテルリンク作『青い鳥』を想うからです。チルチルとミチルの兄妹は、おばあさんと暮らす足の不自由な女の子を治すために、青い鳥を探す旅に出かけます。しかし異次元世界から青い鳥を持ちかえることはかないませんでした。粗末な家に帰り着いたふたりは、自宅で飼っていた平凡なキジバトを娘にプレゼントします。すると驚いたことに、一歩も歩けなかった少女が突然元気になり、踊り出すほどの奇跡がおきたのです。しかし役目を果たしたキジバトは、大空へと飛び去ってしまいます。
 先輩に贈った近衛家展の図録が青い鳥にならないか。歩行もままならない N さんの回復を祈って今回の文を閉じます。幸福の『青い鳥』のことは、これからも触れたいテーマです。

『京都新聞110年史』 1989 京都新聞社
『薫る公家文化 近衛家の陽明文庫から』 名和修監修 河部光男文 2008 京都新聞出版センター
<2012年4月24日>
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タイタニックとマッカーサー <幸せシリーズ31>

2012-04-20 | Weblog
 G H Q 最高司令官だったマッカーサーが愛誦し、いつも執務室に置いていた詩「青春」Y o u t h のことは以前に紹介しました。ブログタイトル「宝島社、マッカーサー写真の謎5」。サムエル・ウルマン作の詩「Y o u t h」はさまざまに翻訳されています。

 戦後いち早く紹介されたのが岡田義夫訳です。一部分を紹介します。
 「人は信念と共に若く 疑惑と共に老いる。人は自信と共に若く 恐怖と共に老いる。希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。」

 とこでマッカーサーの「Y o u t h」は原作とは大幅に異なるダイジェスト版です。特に以下の部分はほとんど欠落しています。

「さあ 眼をとじて 思いうかべてみよう あなたの心のなかにある 無線基地 青空高くそびえ立つ たくさんの 光輝くアンテナ アンテナは受信するだろう 偉大な人々からのメッセージ 世界がどんなに美しく 驚きにみちているか 生きることが どんなに素晴らしいか 勇気と希望 ほほえみを忘れず いのちのメッセージを 受信しつづけるかぎり あなたはいつまでも 青年……あなたの心のアンテナが 今日も青空高くそびえ立ち いのちのメッセージを 受信しつづけるかぎり たとえ八十歳であったとしても あなたはつねに 青春」新井満訳

 確かにアンテナについての記述は、省略した方がすっきりするように思えます。なぜウルマンは無線の受発信にこだわったのでしょうか。
 このアンテナは、100年前のタイタニック遭難事件であるからという見解があります。
 マルコーニが発明した無線電信が太平洋横断通信に成功したのが1901年。そして無線の本当の価値にみなが気づいたのが1912年、タイタニックの遭難であったといいます。ウルマンは事故の前日に72歳の誕生日を迎えました。ちなみのこのときマッカーサーは32歳の軍人でした。以下は手島佑郎氏の記述です。

 「1912年4月14日夜、若い無線士デービット・サーノフがニューヨークのワーナー無線局に夜勤当直しているところに、突然SOS信号が飛び込んできました。2400㎞も彼方の大西洋上で豪華客船タイタニックが氷山に激突し、沈没しそうだという。彼はすぐに沿岸警備隊に連絡します。まだ微弱な電波しか出せない時代です。いったんサーノフが受信しはじめたものを、途中で他人と交代するわけにはいかない。混信をさけるために、タフト大統領はワーナー無線局以外の周囲の無線をいっさい封鎖させます。サーノフは沈みゆくタイタニック号や救助に向かう付近の汽船等と交信します。『頑張れ、頑張れ、希望を失うな。いま助けの船が現場に急行しているから……』それから三日三晩、彼の不眠不休の活躍のおかげで、それでも七百人余りの人々が救助されたのでした。」

 無線通信の威力に世界が驚いた。ウルマンも同様であったのでしょう。なおタイタニックが救難信号 C Q D やS O S を発信したのは4月15日0時15分から。氷山接触から2時間40分後、15日未明2時20分に轟音とともに、船体は真っふたつに折れ沈没しました。
 そしてボートで酷寒の海を漂流するひとたち。家族や仲間を船に残し自らは生き残ったひとたち。絶望にさいなまれたボート上のひとたちに、世界中が祈った言葉は「希望」だったのです。
○参考書 『青春とは』新井満著 2005年 講談社
<2012年4月20日>

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タイタニックと宮沢賢治 <幸せシリーズ30>

2012-04-17 | Weblog
豪華客船タイタニックが太平洋に沈んだのは100年前、1912年4月15日未明のことでした。乗員乗客2200人余のうち、1500名以上が亡くなりました。
 タイタニックは最新の科学技術の粋をつくした最新鋭の超大型船です。「不沈船」と呼ばれていました。防水区画も完備し、安全対策は万全とみなされていたのです。この大事故も「想定外」とされました。

 事故の日、宮沢賢治は16歳の中学生でした。後に『銀河鉄道の夜』にタイタニックの乗客だった3人を登場させます。まず6歳ほどの男の子は頭が濡れています。その姉の12歳ほどの眼が茶色のかわいらしい子。そして姉弟の家庭教師の青年です。
 ジョバンニとカムパネルラの汽車に乗り込んだ3人は、ふたりの横に座りました。家庭教師の青年は列車に乗り込んだ訳を語る。「氷山にぶっつかって船が沈みましてね……」

 青年は姉弟に「わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたしたちは神さまに召されているのです。」
 少年「うん、だけど僕、船に乗らなけぁよかったなあ。」
 青年「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのところへ行きます。…わたしたちの代りにボートに乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。」

 姉弟の親から預かってタイタニックに乗った青年は、ふたりだけは救命ボートに乗せようと必死だった。しかし彼らが立っていた甲板から前には、もっと小さな子どもたちで大混乱だった。青年はそのひとたちを押しのける勇気が揺らいだ。ふたりを助けることは、彼に課された義務だとは十二分にわかっていた。しかし彼にはできなかった。
 ほかの子どもたちを押しのけて「そんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行くほうがほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。」
 家庭教師の青年は姉と弟をしっかり抱きしめた。
 「俄(にわ)かに大きな音がして私たちは水に落ちました。もう渦(うず)に入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。」

 列車に同乗しているある男性がこういいました。「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上り下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
 青年は答えました。「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年は教え子のふたりを救うことをあきらめました。ほかの子どもたちを押しのけてまで助かることは、姉と弟にとって決して幸ではない。みなのため、自己たちを犠牲にしたのです。

 この物語には井戸に落ちたサソリが出てきます。これまでさんざん、他の動物の命を奪って来た悪い虫です。彼はイタチに追われ、無駄な溺死を迎えるそのとき、これまでの生を振り返ります。「ああ、わたしはいままでいくつものの命をとったかわからない」。イタチに体をくれてやるんだった。そして神に祈る。「こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい」。そしてサソリの願いは神に聞き届けられます。

 汽車にいっしょに乗るジョバンニの友、カムパネルラは川に落ちた友を救う。そのために自分が死んでしまった。銀河鉄道で天に向かっているのです。
 この物語に登場するタイタニックの3人、井戸に落ちたサソリ、川で友を助けたカムパネルラ。全員が溺死しています。また共通するテーマは、ほかの生命を助けるための自己犠牲だったのです。おそらく賢治が16歳のとき、タイタニックの事故から温めていたテーマなのでしょう。そのように思えます。銀河鉄道は、きっとタイタニックから誕生したはずです。
<2012年4月17日。追記、改題します。「タイタニック」から「タイタニックと宮沢賢治」へ。4月20日 南浦邦仁記>

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知足 <幸せシリーズ29>

2012-04-12 | Weblog
 ちょうど桜花のころでした。東京から出張で来られた方が「昼ご飯に行きましょう。時間に余裕はありますか?」。てっきり街中の料理屋さんだろうと思っていたら、タクシーを拾い郊外の龍安寺に向かうという。
 「湯豆腐の店が龍安寺境内にあります。ちょうど桜が咲き出したので、食事しながら庭の花をみたくなりました」。龍安寺の回遊式庭園は広い鏡容池をぐるっと回りますが、池の西の塔頭、西源院が湯豆腐を食べさせてくれます。畳敷きの広間から小ぶりですが美しい庭をみながら食事する。桜は三分咲きくらいでしたが、気分はウキウキし豆腐は実においしかった。こんな店があろうとは、驚いてしまいました。
 いつも感心するのですが、東京人は京都の味どころや隠れた観光スポットにくわしい方が多い。なぜこの店をご存じかと尋ねると「作家の渡辺淳一先生が連れて来てくださった」。今年の遅咲き桜をながめていて、ふと思い出しました。何年も前の記憶です。
 龍安寺は方丈南の石庭で有名ですが、湯豆腐のほかにもおすすめがあります。方丈北の裏庭にある「知足の蹲距」(つくばい)。茶室蔵六庵の露地にある手水鉢です。四文字が四角い水たまりを囲んでいます。「われただ足るを知る」<吾唯足知>ですが、すべての字に「口」があり、上部の水の凹四角を共有しています。そのため四文字は「五隹疋矢」にみえます。「知足の哲学」は老子です。

 『老子』の「知足」は3カ所に記されています。抜粋でみてみましょう。
第33章「知足者富、強行者有志」
 己に足ることを知る者は富み、道に努め励む者は向上心を持つ。
第46章「故知足之足、常足矣」
 足ることを知る豊かさは、いかなる時も常に満ち足りている。

第44章は「知足不辱、知止不始」ですが、全文を意訳してみます。
 名声と生命と、どちらが大切であろうか。生命と財貨なら、どちらであろうか。手に入れるのと失うのでは、どちらが苦痛であろうか。だから、ひどく外物に執着すれば、生命をすり減らすことになり、しこたま貯めこむと、ごっそり持っていかれることは必定である。満足することを知れば、辱(はずかし)めを受けることもなく、踏みとどまることを知る者は危うい目にあうこともない。いつまでも安らかでいられるのだ。

 八年前のことですが、ブータンの前王妃は訪れた京都で「足るを知る」を語りました。彼女が豊かな日本人に贈りたかった、いちばんのキーワードだったのです。わたしたちは満足を求めるばかりに熱心で、知足を忘れているのでしょう。ブータン王妃からの警鐘だったのです。
○参考書
 『老子』上下 中国古典選11・12 福永光司編著 朝日新聞文庫 1978年
 『不幸な国の幸福論』 加賀乙彦著 集英社新書 2009年
<2012年4月12日>
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京都のアウンサンスーチー <幸せシリーズ28>

2012-04-08 | Weblog
ミャンマー、すなわちビルマの補選は予想の結果で終了しました。アウンサンスーチー率いる野党NLDが圧勝です。しかしわずか獲得総数50にも届かない議席数では、国をかえることは困難です。だが新しい一歩を踏み出したことは喜ばしい。
 ところでスーチー女史はかつて京都に住んでいました。1985年10月1日から翌年の6月30日までの9ヶ月間、当時40歳だった彼女は、京都大学東南アジア研究センターに留学していたのです。研究テーマは、ビルマ独立運動の歴史。スーチーの実父、故アウンサン将軍を中心にすえた研究です。将軍は建国の父とされる英雄です。

 京都大学名誉教授の濱島義博氏は、京都時代のスーチーについて、次のように記しています。「留学中は、二男キム君と修学院の京大国際交流会館に滞在していた。彼女は、自転車で川端通を同センターまで通っていた。あの裾(すそ)の長い民族衣装のロンジー(スカート)が、車輪にからまるんじゃないかとよく心配して見ていたものだった。」

 濱島がはじめてスーチーに会ったのは1977年のこと。首都ヤンゴンの医師宅だったそうです。そのビルマ人医師は濱島の教え子でした。
 当時30歳を過ぎたばかりのスーチーは「美しく、穏やかで、洗練された英国式淑女という風情が印象的だった。きれいな英語で話しをする、まことに気品の高い素晴らしい女性であった。」

 そして1988年8月26日。ビルマ全土で民主化闘争の嵐が吹き荒れたとき、濱島も40万人の大群衆のなかにあった。
 「黄金の輝くシュエダゴン・パゴダの特設ステージの真ん前で、スーチーさんが現れるのを待っていた。/その時の彼女の演説は、決して激しい口調ではなかった。興奮する大群衆をなだめるような優しい表現だった。『平和的手段で、すべての民族が仲良く力を合わせて、民主化を実現させよう』。説得するかのような彼女の姿に、私は非暴力主義を提唱したガンジーの姿をダブらせていた。」

 ビルマは京都大学と縁が深い。戦後まだ鎖国中の同国に、日本が医療支援を開始したのは1968年、濱島たちの京大医学チームでした。ビルマ第2の都市マンダレーから車で2時間、南に行くとポルパ山に着く。
 「驚いたことには、村に住んでいる四千人全員の目が開かないという」。乾燥地帯に位置するこの村の住民全員が、トラコーマという目の結膜炎にかかっている。慢性化すると上下瞼(まぶた)が完全に癒着してしまう。原因は手や顔を洗う水がないためである。遠く離れた川まで、わずかひとつの小瓶を持って往復するだけで半日を要する。
 濱島ははじめて訪れたビルマでこの惨状をみて「少々の抗生物質では、どうにもならない。患者さんを治す前にまず水道を引かなければならない。村の人々の気の毒な生活にすっかりショックを受けてしまった。」

 この年から京大医学部のビルマ支援は開始されました。いくつもの病院や医学研究センターも建てられました。日本人専門家は度々指導に訪れ、またたくさんのビルマ研究生たちも京大に留学してきました。1990年にはその留学生たちが世界ではじめて、E型肝炎ウィルスを発見するという快挙を成し遂げます。

 これから外国に向けて門戸を開くミャンマー。経済開発ばかりでなく、本物の民生を忘れてはならないと思う。ミャンマー国民の幸福のために。
○参考資料 連載「たどり来し道」濱島義博 京都新聞1995年11月掲載
<2012年4月8日 南浦邦仁>
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転職 <幸せシリーズ27>

2012-04-01 | Weblog
 転職を決意することは、日本ではまだまだ勇気のいることです。特に子どもがまだ学生だったり、家のローンが残っていたりすればむずかしい。会社を辞めるためには家族の同意と、相当の計画と覚悟がいります。
 しかしN E Cなど、大幅な人員削減を実施します。同社の発表では、今年の 9月までにグループ全体で1万人規模を削減するとしています。たいへんな数です。対象者のほとんどは、否応なく転職せざるを得ません。自主的に会社を辞すには勇気がいりますが、会社の業績不振で大量の社員が退職させられそして転職する。そのような時代に、日本はなってしまったのです。実に嘆かわしい。
 同様に巨額赤字を計上するパナソニックやシャープ、ソニーなどはこれからどうなって行くのでしょう。転職は本人が望まずとも、強いられてしまうのです。下請けや関連企業の倒産も当然、危惧されます。

 興味ある転職の話しを耳にしました。東京のある有名大学を卒業してエリートサラリーマンだった 30歳代なかばの男性が、農業をやりたいといって会社をやめてしまった。そして縁もゆかりもない長野県に農地と空き家をみつけ、めぐまれた条件で借り受けることができました。そして妻と小学生の子どもふたりを引き連れて信州に移住。
 驚くべき転身です。農業などこれまでやったこともない彼は、いまニンニク栽培に励んでおられる。市場はスーパーマーケットではなく、契約した漬物屋さん。形がいくらか不揃いでも買い上げてくださるから契約したといいます。移住してもう数年たったのですが、農は順調に推移しています。家族は日本アルプスの麓でいきいきと生活し、高齢者の多い農村なので、住民からかわいがられるアイドル的新村民になっているそうです。
 しかしニンニク栽培だけでは、生活が成り立ちません。それで週2日、1泊で東京のコンサル会社に新幹線で出稼ぎに行っておられる。
 これからも経済的に不安定な生活が続くのでは、と心配してしまいます。ところが彼は「大丈夫です。次の計画は米です」。稲作で安心できるとは信じがたいのですが、彼の計画はインドネシアの大規模農場で稲を栽培すること。
 現地と日本の仲間で、いま着々と準備をしておられる。ところでその米はどこに売るのでしょう? 東南アジアや中国、あるいは輸入が自由化されるであろう日本でしょうか。彼のように発想を変えれば、農に転職するのもまんざらでもないのかもしれません。
<2012年4月1日 南浦邦仁>

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