ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

元祖「天狗」は隕石だった?!(3)

2014-06-25 | Weblog
<2013年ロシアに落下した隕石>

 昨年2月15日、ロシアのチャリビンスク州近辺に隕石が落ちて来ました。現地時間朝の9時過ぎです。車載カメラや監視ビデオが決定的瞬間の映像をたくさん記録しており、動画をニュースで見た人も世界中に数多い。
 大気圏突入直前の石直径は17メートルほど、重さは約1万トン、落下速度は18キロ秒という。高度20~25キロあたりで砕けたとされています。負傷者は千人を超えていますが、幸い死者の出なかったのが不思議なほどです。
 現地住民の声を報道でみると、「核戦争が始まった!」「ミサイル攻撃だ!」「爆弾テロか?」「アメリカが開発した新型兵器だ」「この世の終わりがついに来た!」…。市民はまずそのように思ったようです。

 具体的にはどのような体感だったか。まず突然の熱を感じた。屋外なのにストーブが突然燃えだしたかのようだった。温度を感じる方角を見たら光が高速で走っていった。日の出の太陽がすごい勢いで走るような異常な空だった。
 強烈な光線は強い熱線も伴っていたのですね。そして爆発し粉砕するのだが、轟音は5回か6回鳴り響いた。衝撃波はすごくたくさんのガラス窓などが吹き飛ぶ。なお壁の崩れた工場や、大きな穴の空いた建物は衝撃波ではなく、隕石のかけらがぶつかったのだろうといわれています。
 わずか直径20メートル足らずの小天体が大気圏に突入しただけで、これだけ大きな災難になるのです。

<巨大天狗「キユウ」の地球攻撃>

 ロシアのメドヴェージェフ首相はチャリビンスク火球事故の後に、つぎのように語っています。「同様のケースに対して脆弱であることを証明するもので、将来発生しうる事態に対する防御システムが必要である」
 またロゴージン副首相は「ロシアと他の国々が、将来同様の出来事が発生した際に地球を守るシステムを開発すべきだ」

 まるでSFのような話ですが、天体衝突に備えての地球防衛システムの構築提案は杞憂でしょうか? いまから6550万年前、メキシコのユカタン半島に小惑星が衝突しました。火球の直径は約10キロメートル。カリブ海で発生した津波の高さは300メートルと推定されています。
 この衝突で地上から舞いあがった大量のチリが太陽光をさえぎり、地球は急激に寒冷化した。ほんのわずかの期間で、地球上の恐竜とおびただしい数の生物が絶滅してしまった。生物種の70%が滅びたといいます。生き残ったネズミに似た哺乳類が天敵の滅びた地表で大進化を遂げる。このネズミこそわたしたちのご先祖さまです。
 いつかまた直径数キロの小天体が地球に衝突したらどうなるでしょう? 人類のみならず地表の生命体はとてつもない危機を迎えるのではないか。ロシアの要人たちの言葉には切実感があります。地球に向かって飛来する小天体は、杞憂「キユウ」という名の巨大テングかもしれません。
 現在も地球上ではおびただしい数の生物が大量絶滅しています。現生人類が引き起こしている生物圏の破壊行為です。経済や開発を最優先する人類による虐殺でもあります。わたしたち人間こそが、凶暴な「極悪天狗」なのかもしれませんね。
<2014年6月25日 完です 南浦邦仁記>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元祖「天狗」は隕石だった?!(2)

2014-06-20 | Weblog
Eマガジン「Lapiz」ラピスの夏号掲載文です。いい記事満載ですが、購読は「Amazon」 「DLマーケット」 「雑誌ONLINE」からどうぞ。

<西暦637年の天狗>

 日本古代では『日本書紀』に天狗が記されています。舒明天皇9年2月23日(637年)に天狗が日本史上はじめて出現します。
 大きな星が東から西に流れた。大音が響いたが雷に似ている。人々が言うに、流星(ながれぼし)の音だと。また別の人が言うのに、土雷(つちのいかづち) であろうと。しかし僧旻(そうみん)法師は「流星ではない。あれは天狗である。その吠え声が雷に似ているだけだ」と言った。
 読み下しでは「九年春二月丙辰朔戌寅、大星東ニ従イテ西ニ流。音有リテ雷ニ似タリ。時ニ人ノ曰ク、流星ノ音ナリ。又曰ク、地雷ナリ。是ニ於イテ、僧旻僧曰ク。流星ニ非ズ。是レ天狗ナリ。其ノ吠ユル声、雷ニ似レルノミ」

 ところで隕石らしき流れる物体を、流星ではなく天狗といった僧旻(そうみん)法師ですが、もとの名は日文(にちもん)。渡来人の子で、在日2世か3世だったと言われています。推古 16年(608年)の第2次遣隋使節の小野妹子とともに、留学生の高向玄理や南淵請安などと隋に向かいました。日文 は名の二字を上下にくっつけ「旻」とし、「僧旻」と名乗る。隋そしてあたらしく建国なった唐に24年間留まり、学業に励んだ。そして舒明4年632年に帰国。 その5年後に彼が語った「天狗」は、隋や唐の時代に、大陸の人たちが信じていた「天狗」観からの解釈だったはずです。
 帰国後の僧旻法師は大陸帰りの学者僧として、朝廷で重きをなします。蘇我入鹿や藤原鎌足たちにも講義しています。中大兄皇子も話を聞いたことでしょう。 もしかしたら皇子は、天狗の正体を聞きただしたかもしれませんね。そのように考えると、実に楽しい。僧旻と皇子の隕石天狗談義を喜んでいるのは、おそらく わたしだけでしょうが…。
 大化元年645年のクーデター翌日には、僧旻は国博士に任じられています。そして大化の改新のブレーンとして、隋唐の新制度を倭国に導入しました。没年は653年ですが享年は不明。日本建国の礎石を築いたひとりなのですね。
 僧旻法師が隋唐で学んだであろう『史記』『漢書』、そして『山海経』などに隕石天狗が登場します。それにしてもなぜ隕石が天狗で、天の狗「ワンコ」なのでしょう。

<古代中国の天狗>

 地球上にはこれまで大小、さまざまの隕石が落下していますが、中国古代の記述をみてみます。落下する隕石は天狗と呼ばれ、轟音は天鼓と記されています。
 2100年ほど前に記された司馬遷『史記』。隕石の落下のときには、雷ではないけれど同じような音が鳴り響く。それは空の太鼓、天鼓(テンコ)の音である。空を飛ぶ隕石を「天狗」(てんぐ・テンコウ)と呼ぶが、その姿は大彗星のようだ。落ちた石の姿は狗(いぬ)のごとくで、火と光を発し炎は天をこがす。
「天鼓、有音如雷非雷、音在地而下及地」
「天狗ノ状ハ大奔星ノ如ク、声アリ下リテ地ニ止レバ狗ニ類ス。堕(お)ツル所ハ炎火ニ及ブ、コレヲ望メバ火光ノ如ク、炎炎トシテ天ヲ衝ク」

 司馬遷の百年ほどのちの『漢書』では「天鼓有音、如雷非雷、天狗、状如大流星」
 唐代の『雲仙雑記』では「雷曰天鼓、雷神曰雷公」
 古代中国では、隕石は天狗であり流星のごとく。地に墜ちれば天を衝くように燃え上がる。また雷に似た大音、天鼓を響かせる。

 地球に着地した天狗について『山海経』はつぎのように記しています。
 「天門山に赤犬あり。名づけて天狗という。その光は天に飛び流れて星となる。長さ数十丈。その速きこと風のごとく、その声雷のごとく、その光は電の如し」
 陰山の天狗について『山海経』は「獣有り、その状はタヌキのごとし、白き首なり、名を天狗という。その音榴榴というがごとし」。同書には蛇を口にくわえた天狗の絵が描かれているが、その姿はタヌキよりもネコに近いように思える。なお『山海経』は古代中国において、二千何百年も前から数百年かけて付加筆されて成立した奇書。

 僧旻が唐を去って百年ほど後の事、長安郊外の動物園でテングを観察した人物がいる。詩人杜甫が玄宗皇帝造営の華清宮の園で見た。杜甫「天狗賦」によると大小数匹が飼育されていたようです。
 「天狗は深い谷のように大きさと重々しさをたたえており、放つ気迫はきわだって優れている。色は獅子にも似て、小さいものは猿のようである」
 原文読み下しでは「天狗麟峋(りんしゅん)タリ。気、神秀ニ触レ、色、猨猊(えんげい)ニ似、小ハ猿狖(えんゆう)ノ如シ」
 中国ではニ千年以上にわたって、地上に降りた天狗はいつまでも四足の妖獣として存在し続けています。片や日本では変身を続け、半鳥半人から赤面の鼻高人に行きついてしまったのです。そもそものスタートは、同じく隕石であったのです。
<2014年6月20日 南浦邦仁>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元祖「天狗」は隕石だった?!(1)

2014-06-05 | Weblog
Eマガジン「Lapiz」ラピスの新号が6月1日に発売になりました。今号からアマゾン・キンドルでも購入できます。価格305円。
http://www.amazon.co.jp/Lapiz-2014Summer-%E4%BA%95%E4%B8%8A-%E8%84%A9%E8%BA%AB-ebook/dp/B00KR1Q718/ref=sr_1_1?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1401855313&sr=1-1&keywords=Lapiz
 わたしは天狗談話を寄稿しました。数回に分けてこの欄に転載します。キンドルやマガストアでぜひ購読ください。良記事満載です。

<変遷する天狗像>
 天狗の姿をイメージすると、現代日本人ならほぼ全員が、鼻が高い赤面テングを思い浮かべることでしょう。修験道の山伏姿で手にはヤツデか羽団扇。これが典型的な天狗の姿でしょうが、「天狗の鼻は高い」とされたのは江戸時代になってから。せいぜい400年ほどの歴史しかありません。しかし日本天狗の歴史はほぼ1400年間にも及ぶのです。

 日本天狗の変遷史をみると、最初の登場は西暦637年、『日本書紀』の記述が初出です。これは追って紹介します。
 不思議なことにその後400年間ほど、日本史に天狗の記述は見えません。奈良時代と平安時代前半期には天狗が登場しないのです。やっと10世紀末成立の『宇津保物語』に、天狗は「深山に響き渡る妙なる怪音を発する姿のみえぬ妖怪」として久々に再登場します。
『源氏物語』(11世紀前半成立)では、「天狗や木霊(こだま)などというものが、だましてお連れ申し上げたのではないか」。源氏は天狗を狐や木霊と同類とみなし、それらは人をたぶらかしてどこかに連れさる妖怪とされています。
 いずれにしろ西暦1000年前後の記述では、森にひそみ姿の見えない妖しい天狗の記述がありますが、姿かたちはわかりません。

 平安時代末期にやっと姿形を備えた中世天狗が登場します。『今昔物語集』(12世紀前半)において、天狗は半人半鳥の姿の鳥テングになり、スター妖怪として脚光を浴びます。
 室町期以前には鼻の高い天狗はいないのです。すべての口は鳥のクチバシ型で背には双翼があり、天空を飛翔します。平安末期から室町期までのおおよそ500年間、日本の天狗の姿は鳥であったのです。

 稲垣足穂「鼻高天狗はニセ天狗」は実に楽しい一文です。『稲垣足穂大全Ⅴ』「天狗考」現代思潮社を、現代語意訳でみてみましょう。鳥型テングが鼻高テングに変化する原因を考える一助にもなりそうです。
<いまから五、六百年前の坊様のあいだに日本天狗が誕生した。日本天狗は『保元物語』にはじめて登場するが、これは僧服鳥嘴のきわめて高貴な存在である。次に山伏姿の天狗がある。これは室町時代に入って、修験道の繁栄をきっかけにポストが与えられたので、やはりクチバシを持っていた。
 ところが江戸期になって品威を失墜することになった。祭礼行列のガイドをつとめる猿田彦のイメージがくっつけられたためで、ここに大衆好みの猥雑無類の鼻高氏ができあがったわけである。
 ところで遮那王丸(牛若丸)が源氏の大将として都入りしたとき、鞍馬山では歓迎会が催された。大僧正ケ谷には幔幕が張り巡らされ、上座にひかえた義経公の前に、一山の大天狗小天狗が横列を敷いて座った。「掘りかた始め!」の号令の下に、めいめいが右肩に担いでいた短いシャベルを取って土をうがち、敬礼!の合図にその孔へ鼻を差し入れてお辞儀をしたとか。しかしこの必要はまったくなかったのである。なぜなら、みなはまだ烏天狗であって、鼻高天狗ではなかったのだから。>

 江戸時代から天狗が鳥から鼻高人に変化するのですが、わたしは南蛮人の影響ではないかと考えています。室町時代そして織豊期、日本は海外に開かれ鼻の高い南蛮人が数多く滞在した。しかし切支丹弾圧そして鎖国によって、国内で彼らヨーロッパ人を見ることは絶えた。鼻の高い天狗は、江戸時代とともに去って行った欧州人の記憶ではなかったか? バテレンは仏法を惑わす「天狗」であったのではなかろうか?
<2014年6月5日 南浦邦仁>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする