ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

同志社と継体天皇 続編

2010-02-28 | Weblog
 このブログをみた友人から電話がありました。「京田辺の同志社が校区の地名をかえることには反対です」。同大は田辺キャンパスの地名を「同志社」1丁目2丁目、このように変更してほしいと市に申し入れたことを前回、書きました。
 電話をかけてきた彼は、同志社大学の卒業生です。関係者までもが、この変更提案に反対しておられる。「実は母が多々羅(同志社田辺の現住所)の出身。昔、小学生のころ夏休みにはいつも母の実家に行き、都谷の継体天皇筒城宮碑あたりで、カブトムシやクワガタをよく捕った思い出があります。思い出はさて置いても、町名を変更したところで、何の得がありますか? 同志社の自己満足でしかないのでは?」
 確かに、郵便物を送るにしても<京田辺市同志社大学○学部○○様>と記すだけで届きます。地名を書く必要もないのです。町名変更をしても、喜ぶのは印刷屋さんだけかもしれません。同大には何のメリットもありません。

 御所の北、同志社大・同志社女子大の今出川キャンパスの地名をみますと、まず「相国寺門前町」。この町名が圧倒的に広く、敷地の半分以上を占めています。そして西から、御所八幡町、岡松町、玄武町、新北小路町、常盤井殿町。いずれも歴史を背負った地名ばかりです。隣接する重要文化財、冷泉家住宅も玄武町。京都御苑の北側対面はこの町名です。玄武は北を意味します。
 これらすべての町名を同大は、「同志社」1丁目2丁目などと変更することを希望するでしょうか。ありえません。
 京田辺も地名に関しては同様です。1500年の歴史を刻む土地であって、単なる雑木の丘陵地帯ではありません。もしも変更するのであれば、近鉄奈良線の興戸(こうど)駅です。先日のことですがある友人から「息子が同志社田辺に下宿しているのですが、近鉄電車で行くにはどこの駅で降りればいい?」。「興戸です」と答えると「コウド?」
 JR片町線の最寄り駅は「同志社前駅」、近鉄は「コウド」駅です。興戸も地名ですが、せめて駅名だけを「同志社」駅とでも変更するのが、ベストあるいはベターな選択ではないでしょうか。おそらく近鉄も地元住民も、反対しないのではないかと思います。

 近ごろの同志社はかつての立命館のように、自らを見失いつつあるのではないか? そのように思えてなりません。関西の私学でいちばんの評価、受験生が志望する大学ナンバーワンは同志社大学と、もっぱらの評判です。
 外からの評価が高いと、組織であろうが個人であろうが、何が正しいのか見失ってしまうことがあります。歴史はたびたび同じことを繰り返してきました。トヨタ自動車は、豊田市と名付けたことがその後の蹉跌のはじまりかもしれません。本田は社名を「ホンダ」としたことが最大の失敗であったと、創業者自身が認めました。人名、町名、社名…すべてに共通する、奢りや過剰な自信、思い上がりを感じます。名を誇り、末代まで残そうとする利己的遺伝子かもしれません。
 たぶん同志社はいま、頂点にあるのでしょう。あとは凋落かもしれません。かつて新島襄や山本覚馬らが築いた礎石は今出川にあります。そして京田辺では、継体天皇の宮の礎石のうえに建っているのです。
<2010年2月晦日>
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同志社と継体天皇

2010-02-22 | Weblog
 同志社大学のキャンパスは、京都市上京区今出川が有名です。御所と相国寺のあいだ、赤レンガの建物が並ぶ地は、いかにも歴史ある同志社を感じさせます。
 しかしこの校地は手狭で、同志社は京都府南部の京田辺市にあたらしく、広大な京田辺キャンパスを開きました。田辺には同志社女子大、同志社国際中高校なども集結し、田舎の山中に広々とした「同志社」村が連なっています。
 ところが学校法人同志社は最近になって、この地区の地名を「同志社」に変更するように京田辺市に求めています。先週20日土曜日の京都新聞朝刊の報道です。
 現地名は、多々羅・興戸・三山木・普賢寺の四地区ですが、それらを新地名「同志社」に統合し、同志社1丁目・2丁目などとしたいという市への要望です。
 しかしこの地はかつて継体天皇が筒城宮(つつきのみや)を置いた地そのものです。都谷などの字名はその名残といわれています。多々羅都谷近辺に継体天皇は、511年から518年まで都を構えました。
 継体は厩戸皇子・聖徳太子誕生の40年ほど前に亡くなったひと。当時の都は狭かったとは思いますが、そのためか遺跡はいまだに発掘されていません。一日も早い発見が待たれます。継体こそ、その後の歴代天皇のルーツそのものと、わたしは確信しています。
 京都新聞記事のコメントで、京都地名研究会の吉田金彦会長は「地名には、その土地の歴史や文化が息づいている。安易な変更は、地域に固有の歴史を抹殺することになり、あまりにも乱暴な話だ」

 わたしも吉田先生の意見に賛同します。たとえば京都市の中心部、小さな町が数えきれないほどあります。それらの町名は、長い歴史を背負い、住民とともにいまも息づいています。安易な町名変更など、京都市中ではまず考えられません。
 同志社にお願いしたいのは、筒城宮跡を発掘し、町名を「筒城宮」町にでも変更し、全国有数の歴史遺産地名をもつことが肝要なのではないでしょうか。遺構遺跡は発掘されれば開発が制限され、同志社には一見不利に感じられるかもしれません。しかし校区のまわりには、ありあまるほどの雑木林が広がっています。いくらでも周辺部に拡張することが、可能なはずです。
 かつて中山修一先生による長岡京発見のとき、地名字名や地形などが、発掘時の大きな推定材料になったと聞きます。同志社大には考古学や古代学の優秀な人材が、辰巳和弘先生はじめ揃っておられる。
 陽日のもと、1500年ぶりの筒城宮出現を期待します。
<2010年・平成22年2月22日 ところで昭和22年2月22日生まれの方は今日、63歳になられたのですね。おめでとうございます。>
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パソコン

2010-02-21 | Weblog
なぜか不調…。今週は、休載いたします。
<2010年2月21日>
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図書館めぐり

2010-02-14 | Weblog
 つい先日のこと、三人集まって高瀬川横の料理屋で、久しぶりの美味と芸術談義を堪能しました。おふたりは美術や日本近世史に精通しておられる。話しを聞いているだけで、刺激やヒントをバシバシと受ける。そのような時間でした。
 ところで話しのなかで、おひとりが「近ごろ興味をもっているテーマは…」。近世京都のユニークなテーマについて、突っ込んで調べたいといわれる。ご専門からはだいぶ離れておられるが。
 飲んだときの勇気というものがありますね。わたしは咄嗟に「お手伝いしましょう。資史料をあれこれ調べてみます」。これをカラ勇気とでもいうのでしょうか。カラ元気に引っかけたのですが。
 さてやらねばならなくなったのが、市内の図書館で資史料を渉猟すること。深く読み込むまではしなくていいのですが、その先生に必要な資料の奥付や目次、本によってはなかのコピーもとる。貴重書は、どこに何があるのかのリストをつくる。
 調査のためにはいくらか基礎知識も必要です。インターネットでの検索とともに、もう何冊か目を通すはめになってしまいました。
 また当日、二次会で島原の太夫の店に行ったところ、打合せもしていないのにいつもの飲み仲間が偶然、合流してきた。そして市役所の職員六人もあとから来店。何人かはこのテーマに多少かかわる方である。翌日には早速、「市の広報に詳しい後輩がいる。電話しておいたので一度、会ってみてください」
 やはり持つべきものは、応援してくれる友人。本だけでなく、京都の文化遺産に、市職員現役やOBの助けを得て、ふれることができる。「昔、大名の子孫に会ったことがありますが、すごいコレクターでその関係の文化財をいっぱい持っておられる。市で借り受け、30年ほど前に展示会をやったほどです」。驚くべきことに、たいへんな広がりをみせそうになって来ました。
 そのため、とりあえず本日は図書館・資料館の梯子…。行ってきます。なお何を調べるかは内緒です。これからは少しずつ、片鱗がちらりと見えるかもしれませんね。
<2010年2月14日 ヴァレンタイン・デー> [211]
コメント (7)
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大晦日と元旦 <月籠り・つごもり 年神・としかみ 歳徳神・としとくかみ 客人神・まれびとかみ>

2010-02-11 | Weblog

 明治初年までの旧暦では、大晦日はふつう三十日でした。ひと月は月の満ち欠けでみる。大晦日が十二月三十一日に固定したのは、明治五年、新暦になってからのことです。
 十二月の晦日、新月の月籠りのこの日の夕刻、日没の後に正月の神・年神・歳神・歳徳神さま・客人神が各家を訪れる。
 中世以前には、この大晦日来臨の神は各家の祖霊祖先神であり、産土神や氏神さまであり、「年神」観念はその名残りである。民俗学はそのように示しています。大晦日には、仏式の御霊(みたま)祭りがいまも残っている地がいまもあります。
 正月の氏神詣は、祖霊崇拝の残滓であるといわれています。盆の祖霊崇拝と、大晦日新年正月の氏神信仰は、もとは同じものであったのです。わたしもこの見解に同意します。
 またこの夜には、富や豊作をもたらす豊穣の神とともに、恐ろしい鬼や疫神もが同時に来臨する。大晦日の信仰は、盆に地獄の釜のフタガ開いて餓鬼どもが跳梁するという考えと、繋がることにもうなずけます。要はこの世とあの世の境が氷解してしまい、善神も邪神悪神もが空間時間の壁を超えてしまうという、古代からの確信です。
 大晦日に関しては、昔話や伝説に「大歳の客」や「蘇民将来」などのあるのは同様です。乞食のような身なりにやつして訪れる神を、大切にもてなせば巨大な富や、子孫の永遠の繁栄を得る。ところが乞食の神を粗略に扱えば、たいへんな災難を受けることになります。乞食を来訪神とみなす民俗習性は、ここにみられます。以前に記した「乞食」の第二の流れです。この意識は、正月に来訪する芸能民の祝福芸につながっていきました。
 
 年とり魚(としとりさかな)とは、大晦日の夕食で必ず食する魚のことをいいます。だいたいでいうと、東日本は鮭サケ・シャケが主です。西日本は鰤ブリです。長野県が境で、同県では両方の魚が混じっています。年取魚の地域分布については、いま少しずつ調べていますので、いつか書こうと思っています。

 また大晦日の晩餐ですが、北海道ではたいていの家庭では、お節(おせち)料理を食べます。これは何も一日早い習慣ではなく、いまも内地各地に残っている風習です。おそらく明治期に入植した方々が持ち込んだ風習の名残であろうと思います。
 「年取りの膳」とか「おせち」とよんで、大晦日の夕食に元旦以上に豪華な食事をとる地方が意外と多い。本来は、久しぶりに帰ってきた祖霊神である年神を祝うためです。
 北海道松前では、一年でもっともぜいたくな、家族そろっての夕飯となる。青森県津軽では、年中でいちばんのご馳走をつくる。まず塩鮭のひとヒレを神さまの膳用にとり…また、仏壇に供える「だ飯」御魂飯(みたまのめし)も用意する。この米飯の小さなおにぎり数個には、箸を一本ずつ立てる。<日本の食生活全集・農山漁村文化協会>1986「聞き書 青森・北海道の食事」

 正月のことを「年取り」とか「年越し」といいます。旧暦では全員が元旦すなわち大晦日に、歳をひとつ加齢したからです。昭和1ケタ生まれのわたしの母は、いまだに数え年と満年齢の二本立てで歳を計算しています。

 古代では、太陽が西に沈んで、つぎにまた沈むまでを一日としていましたから、大正月(おおしょうがつ)現歴一月一日前夜の大月籠りや、満月小正月前夜の十四日を年取りとよびました。古代においては、地域によって正月元旦・年取り夕・大晦日をいつにするか、日にちのずれがあったのです。
 新月の日か、満月か。また一月七日か。満月からつぎの望月までをひと月としたであろうというのが、もっとも古い暦であるとするのがもっぱらの見解のようです。旧々暦の1ヶ月は、旧暦15日にはじまったという考えです。
 また一年のはじめは、冬至とも節分・立春とも認識されていたようです。かつては古来からの体験的な農事暦・自然歴でもって四季なり暮らしをみつめていました。南北に長い日本列島では、自然環境もおおいに異なります。米だけでなく、五穀さらには七穀、芋類などなど。主食の生育をもとに暦は深く、生産者に定着していたのです。
 そしていまの一年を二期に区分する、一年二年説もあります。盆と大晦日正月、同じような風習がこの二期にいまも残存するのは、このような農業歴・民間歴に由来するようです。
 またまたまじめな作文になってしまいました…
<2010年2月11日 南浦邦仁>  [210]

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雑煮と正月粥 (後編)  ぞうに・かゆ

2010-02-07 | Weblog
 平山敏治郎「七草粥に白砂糖」(『民俗学の窓』昭和56年・学生社刊)からのダイジェスト掲載の後篇です。文が輻輳していますので<平山文><河鰭文>、わたしのコメントは◎以下で区分けしました。

 <友人の篠田統さんがかつて、島根県の五月五日、端午の節供(せっく)の粽と柏餅の分布調査を行った。柏餅をつくる村で育った女性が、粽の村へ嫁入った場合、その家ではやがて柏餅をつくるようになる。つまり主婦の嗜好習慣が家風に大きく作用を及ぼす、ひとつの例である。>
◎筆者の個人的意見:粽より柏餅の方が、甘いからではないか? 子どもは柏餅を好みます。おとなももちろん。いずれにしろ大家族制のもと、嫁が婚家の食習慣をかえた珍しい例です。

 <家族のだれの好物でも、主婦が嫌う食物は決して食膳にのらない。そのような個人的好物は、外食でおぎなわなければならない。
 ところで今年もわが家では、正月七日の朝に七草粥、十五日の朝には小豆粥を祝った。わたしの恒例の粥祝いは、白砂糖を鉢に盛り上げ、これを適宜に粥に振りかけて食べることになっている。ものごころついて以来、家族揃ってこのようにしてきた。わが家の仕来たりであったから、別に珍しいことをしているとも思わず、しごくあたりまえの食作法としか考えなかった。
 ところが大学生になってはじめて京都に来て、この家風が実はかなり異風であることを、いやというほど思い知らされた。
 米の粥に砂糖をかけて食べるなど、聞いただけでも見ただけでも、いやらしいという人に、たびたび出会った。しかしわたしの古いかすかな記憶をたどると、妹が産まれたとき、母が産後の養生食いに、粥に白砂糖をかけているのを見て、ねだって食べたこともある。それほど、粥と砂糖は切って離せない。
 ところがあるとき、日本橋の旧家出身者に会って正月粥のことを話したら、彼も近所の知り合いも、みな粥に白砂糖をかけるという答えが、即座に返ってきた。そのときのわたしの感動、うれしさは何にたとえようも知らない。
 池田弥三郎さんも『私の食物誌』の「一月七日のななくさの話題」に書いている。「わたしのうちなどでは、別に植物類のたきこみもしなかった。ただ、さとうで味をつけた『おかゆ』であった。あまりおいしくもないので、大抵いっぱいでごめんをこうむった」…>
◎ 参考:池田先生の生家は、東京銀座のテンプラ屋「天金」

◎平山先生はこの異風の食習慣に思いをめぐらす。これらを思いあわすと江戸時代、国産の白砂糖、四国は阿波・讃岐地方でようやく産出された三盆白(和三盆)は高価であり、豪奢品でもあった。身分制にあぐらをかいていた侍も多くが貧乏で、貴重な白砂糖など口にすることができなかった。そこで経済力豊かな富商たちは、ひそかに家族だけで魅力的な甘味に舌鼓を打った。威張るばかりで無力な侍たちを馬鹿にしながら。また砂糖は薬でもあった。新年の甘粥は、江戸の富商にとって、一家繁栄の象徴の祝いであったようだ。

 <よくよく考えてみると、粥それも小豆粥ならばともかくも、七草の青みを加えた粥に白砂糖をふりかけたところで、天下の美味になるわけではない。いわば痩せ我慢にも似た態度であった。わたし自身も家風の惰性で、家族が口を尖らせ、白い眼を見せるからこそ肩肘張ってみせるだけのことである。急に止めようとは考えないが、江戸末期以来の町人層のひそかな工夫もわが家では、わたし一代で廃れるであろう。それも惜しいとは思わない。>

◎コメント:平山敏治郎先生の家では、もうこの砂糖粥はすたれているのでしょうね。ところが最近、驚くべき文章に出会いました。河鰭実英「近世に於ける公家食生活の研究」(雄山閣出版『全集日本の食生活』第2巻・1999年)

◎公家の倉橋家史料(1818~1830)によると、正月の七種粥にはナズナと餅を入れた。河鰭先生によると、
<もちろんこの粥のなかには、白砂糖をかけたこと疑いをいれない。三条家史料(1819)では、小正月15日は餅の入った小豆粥であるが、もちろんこの粥のときも、白砂糖をかけて食したのである>

◎いずれも京都の公家たちの史料である。19世紀のはじめ、貧乏であった公家であるが、和三盆普及の初期に白砂糖を粥にかけた! 当然、維新ののちに江戸・東京に移り住み、この風習を持ち込んだに違いない。
 しかし江戸商人の砂糖粥も、江戸時代からの食習慣であるという。いったい、粥に砂糖をかけるという異習は、どのように広まったのか? 
 
◎淡白な味をたっとぶ京都である。雑煮をみても公家たちは、意外なことに「すまし雑煮」を好んでいた。
<それは大正時代まで宮廷で保存されたおくゆかしき料理法であるが、公家家庭においても同様に料理した。すなわち雑煮のなかに入れるものは鉄板で焼いた「焼餅」と青味、すなわち季節の青菜だけで、それに昆布のダシ、およびカツブシのダシを用いた「すまし汁」をかけて、食の直前にカツブシを削ったもの、いわゆる「花カカ」(かか)をかけて食するのである。枯淡な公家風の味は、ここに味わう事ができよう>

◎何と、すまし汁に焼餅入りである。現代の京都庶民の雑煮とはおおいに異なり、濃い口にすれば関東風になってしまう。

◎読めば読むほど、知れば知るほど、年中行事の食事のバラエティ豊かさには感心してしまいます。なお著者の河鰭実英先生(1891~1983)は、日本服飾史・有職故実の専門家で、大正天皇の侍従をつとめられた方です。ご存命であればお会いして、あれこれお話を聞きたいのですが。
 しかし幸いなことに、今週の水曜日、あるお公家さんと晩ご飯をご一緒することになりました。現代公家の食を聞き取りします。収穫が楽しみです。お楽しみに。

◎追記:白砂糖粥についてその後、あれこれ考えてみました。河鰭先生が江戸期の史料に記載がないのに「もちろん粥のとき白砂糖をかけて食したのである」と断定されるのはなぜか? おそらく公家たちは、明治大正期にも正月に砂糖粥を食していたのだろう。当時なら江戸時代に生まれた御隠居さんも多数、健在である。東京遷都後の新風習ではないはずだ。
 また氏は、大正天皇の侍従をつとめた方である。明治・大正、両天皇も同様であったからではなかろうか。さらには、昭和も平成も、天皇は砂糖粥を踏襲しておられるのではなかろうか。雅子さんは結婚後の初正月、甘い粥に辟易したのでは。わたしなりの結論です。
<2010年2月7日>  [209]
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