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ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

別所長治公の末裔(5)運河

2025-03-30 | Weblog

 継村の人、別所小三郎祐忠が、姫路藩家老の河合寸翁に提案した。「仁寿山校まで、運河を継村の広海(ひろみ)八家川から繋ぐのはいかがでしょうか」。水運は八家川の河口・木場村の港とも、この運河は一体になり、播磨灘に通じる。計画提案は文政10年(1827)でした。当時、小三郎は長井姓を用いていました。また祐忠の名は初出で、確信はありませんが。事情を知る関係者は、長井姓を名乗る彼を、別所長治の末裔と認識していたはずです。

河合寸翁は藩民からの、殖産興業などの意見提案をたくさん採用した。運河も認められた。ほかに例えば「固寧倉」(こねいそう)がある。飢饉が起きたら困窮者を救うための非常食の備蓄庫です。「下々の者のなかから心得よろしき者が固寧倉のことを願い出た」。提案者は飾西郡町村の大庄屋・衣笠八十右衛門氏長です。固寧倉は村が願い出るという形で建設した。藩からの強制や命令ではない。固寧倉は幕末には、藩内に288箇所を数えた。

ところでこの運河は、狭い所でも幅4.5m、深さ6.3mまで掘り下げ、堤防には5.5mの石垣を築き、上部90cmを芝生にした。立派な造りです。水路は、八家川沿いの広海(内湾・入海)から仁寿山校近くまで達する計画だったが、工事は中断した。完成したのは長さ440mほど。堀を途中で止めたので、その地点辺りを「堀止」といい、いまでは埋め止めて児童公園になっている。公園は決して広くはないが、現在は月2回粗大ごみの集積場、小学生の集団登校集合場所です。かつての工事中断の理由はわかりません。

ところで8代目別所小三郎の運河工事ですが、掘り出した土は広海に埋め、5反(60アール)の耕地の小島を造った。河合寸翁はこれを小三郎に与え、その労に報いた。

しかしその後の報告によると、明治42年には、水深わずか2.7m。この小島は半島状になっている。昭和30年ころ、広い沼状態で100m四方ほど。現在では、広さは約50m四方の沼になってしまいました。

ところでこの入海・内湾の広海ですが、塩分を含む汽水沼です。八家川に面した内陸の湾で、川自体が海水を含んでいます。海が満潮になると、木場村・八家村・東山村を遡って、塩水が遡り逆流してきます。淡水と塩水が混じっており、農業には不向きな悪水です。先日久しぶりに広海を訪れたら、釣りをしている方がおられました。「海の魚と川の魚と、どちらが釣れますか?」と聞きましたら、「どちらも釣れます」との答え。便利な釣り場です。 

ところで八家川の紹介をしておきます。古くは「棲神(やか)川」と書いて、「神住む川」と訓したそうです。棲神・ヤカは八家・屋カ・夜加などとも記します。神は港入口の小島、いまは陸地につながっていますが、ここの小島・蓬莱山に蛭子・恵比寿が祀られています。船乗りの守り神だそうです。

木場港を出入りする小舟はみな、三ツ橋をくぐりました。昔は太鼓橋で、周防岩国の錦帯橋にちなみ「小錦帯橋」の名で呼ばれていました。橋の下を行く小舟の上部や船頭が橋の底にぶつかってしまうためです。いまでは小舟も通らず、平らな普通の橋です。大きな船は河口の内外に停泊します。現代のレジャーヨットも三ツ橋より下流に、たくさん係留されています。

かつて、周りの広大な塩田には水路が縦横に走り、三ツ橋の下を通過するのはまず百隻ほどの上荷舟(うわにぶね)。出来上がった塩を沖の帆船まで運ぶ。また沖からは釜焚き用の薪を運び込んだ。文政のころからは石炭も利用。この小舟をゴイラ船と呼んだそうです。北九州から大きな帆船で運んできました。

塩田地帯より北、八家川中流には、継村や明田村、東山村に属する10石積みほどの小舟、合わせて20隻ほど。船溜まり、現代でいえば狭いヨットハーバーのようなものですが、東山村は屋台庫周りが溜まり場で、10隻ほどが常駐。西の八家川まで、2m幅ほどの舟用の溝が続いていました。荷物は住人用の生活必要品、農村部には肥料の干鰯(ほしか)、鰊(にしん)かすなどを運びました。そして農家は野菜を出荷しました。船溜まりの痕跡は、東山にも継にも、いまではさっぱりありませんが。

ただ塩水は製塩業には好条件でした。姫路藩の南東部は広い製塩地帯でしたが、古くはまず東山村・八家村などから、近世方式の入浜塩田が広がったそうです。その後すぐに、宇佐崎・木場・的形・大塩と、広大な塩田が広がっていきます。有名な赤穂塩業は姫路に遅れて始まります。姫路から赤穂に指導者として行き、定住した塩作り職人も何人もいました。

ところで8代目別所小三郎ですが、運河建設にかかわった後、姫路の塩田開発にも当たったようです。どうも木場村の三木氏との繋がりが縁のようです。初代木場三木氏は三木久右衛門尉宗栄ですが、「三木城主別所長治の異腹の男」『姫路城史』とあります。三木宗栄氏は、別所小三郎長治の長子の弟にあたります。

三木一族は現在でも木場・八家などの広大な土地の地主です。それらはかつての塩田です。三木家は現在では燃料業も営んでおられ、わたしがいつもガソリンを給油するのは「三木産業」です。燃料取り扱いのルーツは、塩田で釜焚き用に使った薪や石炭かもしれませんね。

「寛永2年(1625)三木宗栄によって前六反浜(塩田)が開発された」『姫路城史』。十八反浜も宗栄が開発したといいます。あれこれと、わからないことが多いのですが、連載次回は宗栄と別所氏の関係を、調べてみたいと思っています。

<2025年3月30日>

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別所長治公の末裔(4)酒井忠以と河合寸翁

2025-03-01 | Weblog

 安永7年3月1778年、姫路を出立した姫路酒井藩2代目城主、酒井忠以の一行が三木町に途中立ち寄った。三木から有馬温泉までの「湯の山街道」は、豊臣秀吉が三木城戦のために整備した新道です。

「3月11日、三木町大庄屋十河与次太夫方に止宿。三木町の辺より別所小三郎か城跡をのそむ。」『玄武日記』

忠以は持病治癒のために、有馬温泉に向かう途中でした。

「もののふのまもりしあとはあれはてて何かすミれの花さきにけり」。「すミれ」はスミレ。

これまでに通り過ぎて行った時間のながれは、あまりにも速い。

 河合寸翁、少年のころは名を猪之吉、そして16歳から隼之介、54歳からは道臣。どんどん変わっていきますが、ここでは隠居後の名「寸翁」で通します。

 ところで藩主酒井忠以と河合寸翁とは、藩主と家臣、子弟でありかつ兄弟のような関係でした。寸翁が城主にはじめて謁見したのは安永6年1777年、11歳のときでした。若き藩主忠以は22歳。主君は少年に卓越した才能を、瞬時にして見出します。「超宗公材之教以諸芸」。忠以は寸翁に諸芸―和歌、茶道、絵画など。さらには政治経済などあらゆる教えを授けた。

 忠以(宗雅)は茶を松平不昧校に師事。宗雅は大名茶では、国を代表する人物でした。忠以は、画は少年の弟、酒井抱一に指導した。酒井抱一は後に江戸琳派を大成する大家だが、兄忠以の絵画力も一流でした。

 

 姫路藩家老の河合寸翁は、藩民にとって大恩人でした。膨大な藩の借財を完済し、殖産興業も目を見張るものがありました。木綿はじめ専売品を拡大しました。高砂染、東山焼、朝鮮人参、蝋燭、皮革、竜山石、絞油を増産。また飢饉や貧窮者に備えた固寧倉(こねいそう)を藩内に数多く造らせた。

 さらには寸翁は菓子舗の伊勢屋を江戸に修行に行かせ、銘菓「玉椿」を作り上げさせた。また小料理屋を同じく江戸に行かせた。そして嘉永元年に鰻料理屋「森重」(もりじゅう)が誕生する。ともに現在も盛況です。

 

 河合寸翁と別所家8代目小三郎とは、親密だったと考えられますが、両人にはなぜ深い繋がりがあったのでしょう。碑文ではふたりには何か縁があり、さまざまな土木工事に小三郎は寸翁の指示を得て、活躍しています。

 兼田村では新田を開発している。また塩田では宇佐崎村の新浜開発に小三郎が当たっています。着手は文政11年1828年。

 他の塩田開発をみると、彼が直接かかわったのではないようですが、木場村、大塩村、的形村三村の塩田も、ほぼ同時期に開発されました。天保9年1838年には4ヶ村の塩田で80万俵生産し、半分を江戸に船積するほどの生産量になりました。

 運河は八家川の内陸湾/ひろみ広海から、継村経由で仁寿山下の山校に達する計画でしたが、残念ながら途中で中断しました。工事の開始は文政10年1827年。この計画も寸翁の指示で小三郎が進めていました。  

<2025年3月1日>

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