姫路城主本多忠政はほかの藩主同様、製塩業に着目した。「寛永2年1625年、木場村の人三木又兵衛尉宗栄に命じ、八家川尻に塩田2町4反歩を開拓させ、姫路藩内の製塩業益々発達するにいたった」
八家川尻・木場村のこの塩田は翌年に完成する。前六反と十八反(じばた)と呼ばれた広い塩田のようです。
宗栄は久右衛門、後に三木又兵衛尉宗栄。三木城主・別所長治の違腹の男子であり、母は側室「於松の局」であった。三木城開城のとき、於松は懐妊の身で、三木城要人の蔭山清光と久米五郎に介護されて落ち延びた。そして木場村の隣村の福泊に隠れ住んだ。天正8年6月14日1580年に生れた宗栄は母に育てられたが、秀吉の探索を恐れて、姓を三木、名を久右衛門と称した。後に隣村の木場に移る。そして寛永2年1625年以降、塩田築造を生業とする。この年、宗栄は46歳。
側室「於松」説が正しいなら、別所長治の嫡男の千松丸は当時3歳、三木久右衛門の兄にあたる。なお長治の子、千松丸の別名は、寅松ともいうようだ。名は祐忠という説もあるが、江戸時代には長らく長井姓を称していたという。呼称で間違いないのは、8代目別所小三郎であろうか。母は開城のときに自刃した別所照子である。
※木場別所三木氏の家系図です。簡略版ですが <宗栄> <三木宗栄>はいずれも同一人。
※宗栄は、初代木場三木/又兵衛尉宗栄・久左衛門宗栄です。
※宗栄か定信が、木場(木庭)村、初代の庄屋をつとめています。
※//:以下略
※<三木氏名前>
※木庭:きにわ・きば
<別所長治>――<三木宗栄・久右衛門・又兵衛尉宗栄>(天正8年6月8日1580年生・寛文4年5月13日1664年没)――
――<宗栄>――<定信/亦兵衛尉/久左衛門尉>(木庭村初代か2代目の庄屋/元和4年1618年生・延宝6年1678年没)――<元泰><幼名丹波・号亦兵衛尉>(万治年1659年生・享保2年1717年没/医を業となす)ーー<魚泰・寸斗>(医師)//
――<宗栄>――<定正・又太夫>(延宝5年没1677年)――<正之・市太夫>(正徳5年没1715年)――<信之・三木伊左衛門>(延享元年1744年没)//
――<三木貞夫>(本家・木場14代)――<三木美智夫>(同当主・15代)―
この系図については、興味深い逸話があります。昭和57年、大阪市天王寺区の安田定利の妻の母、三木栄(当時86歳)が所有し、大切に保管していた写系図が発見された。上記はその略図です。
それから上記の<三木元泰1717年没>について。宗栄の孫ですが、彼は医者になってしまいました。おそらく元泰の子孫は三木分家になり、三木本家はその後<定正1677年没・正之1715年没・信之1744年没>の系譜が継いだのだろうと思います。
参考:橋本政次著『新訂姫路城史』中巻/昭和27年/臨川書店
福本錦嶺編『別所氏と三木合戦』平成8年/三木市教育委員会
<2025年 4月12日>
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