ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

戦時中の動物たち №10

2009-03-22 | Weblog
 高島春雄著『動物渡来物語』昭和22年3月、日本出版社刊。(増訂版・学風書院刊・昭和30年3月発行)。現代語表記にあらためて、同書本文「猛獣渡来考」からの意訳再録です。

 なお上野動物園と姉妹関係にある井之頭自然文化園でも、北極クマと日本クマを捨身せしめたが、ここはもともと温和なものを飼養するのが方針だったので、ほとんど影響はない。
 大阪市立動物園でも同じころ、ライオン6頭、トラ1頭、ヒョウ2頭、ピューマ1頭、朝鮮オオカミ2頭、縞ハイエナ1頭、斑ハイエナ2頭、満州クマ1頭、日本クマ3頭、北極クマ4頭など、11種25頭を処置した。
 このうち、ピューマとブチハイエナは、日本においてはきわめて珍しく、おそらく剥製に仕上げられたであろう。
 猛獣を処置した後も、戦時中の来園者数はたいして減らなかったようであるが、ついに昨今(昭和20年)は、上野動物園を訪ねる老若男女も目だって少なくなり、あちらこちらの動物舎をみて回るとき、落莫たる感じをいかんともすることができない。
<2009年3月22日 この稿、完>
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戦時中の動物たち №9

2009-03-14 | Weblog
 高島春雄著『動物渡来物語』昭和22年3月、日本出版社刊。(増訂版・学風書院刊・昭和30年3月発行)。現代語表記にあらためて、同書本文「猛獣渡来考」からの意訳再録です。

 上野動物園のオオカミの仲間では、北アメリカ産コヨーテがただ1頭がいた。最近(昭和18年)めっきり衰弱してきたので、助命の恩典に浴した。しかし昭和19年10月30日に病死。
 北極クマのメスは大正15年6月来園、推定20歳。オスは昭和6年12月来園でおなじく25歳。日本クマはオスが昭和9年11月、メスが昭和10年1月に来園。どちらも推定20歳。
 アメリカ野牛は葬られた動物のなかで最も惜しいもので、オスは北米産の推定18歳。昭和6年12月4日に来園した。アメリカで新聞王といわれるハースト氏が、読売新聞社長の正力松太郎氏に答礼として送ってきた3頭中の1頭で、昭和14年9月15日に二度目のお産をしたときに出来たのが今度、運命をともにしたオスである。
 インドゾウのオスメス2頭は、大正13年10月23日に来園した。購入価格は、2万5千円であった。当時オスのジョボーは6歳、メスのトンキーは4歳。昭和18年の死亡時には、25歳と23歳であった。トンキーは天気のよい日に限り、毎日一定の時間に芸当をお目にかけていた。
 もう1頭のメスゾウの花子は、昭和16年6月5日に来園。シャム国(タイ)産で、毎日園丁を載せて園内を一巡していた。
 ゾウは薬殺せず、自然に餓死するのを待ったそうで、トンキーが最後に絶食21日目に他界したという。
 アミノメニシキヘビはマレー産のメスで、年齢は不明だが、昭和13年2月に来園。これも他の動物たちとともに処分された。
<2009年3月14日 あと1回の掲載で、この稿は終了です>

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戦時中の動物たち №8

2009-03-08 | Weblog
 高島春雄著『動物渡来物語』昭和22年3月、日本出版社刊。(増訂版・学風書院刊・昭和30年3月発行)。現代語表記にあらためて、同書本文「猛獣渡来考」からの意訳再録です。

 ライオンの老夫婦は昭和6年12月、エチオピアの使節がわが皇室に献上した。それを下賜されたもので、オスは昭和18年に17歳、メスは16歳という。もう1頭のメスは昭和10年6月に園で生まれた9歳であった。
 トラはインド産のメスで、昭和12年5月に来園。推定年齢20歳だが片眼を失明していた。
 ヒョウ3頭のうち若いオスは3歳、台湾産で昭和17年7月に来園した。かの『兵隊と豹』の主人公・ハチである。ほかのオスメスはどちらも推定11歳。台湾産で昭和11年6月に来園した。8月19日、メスは2頭の子を産んだ。その1頭は毛色の黒い黒ヒョウで、もう1頭はふつうの毛並みであった。黒ヒョウがヒョウと別種でないことは、カラスヘビがシマヘビと同種なのと軌を一にする。
 黒い子ヒョウは戦争激化による措置以前に病死してしまったが、もう1頭は両親と運命をともにした。別の檻にいた黒ヒョウは、オスもメスもマレー産で昭和10年8月来園。推定年齢12歳であった。
<2009年3月8日>

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若冲 五百羅漢編 №11 <若冲連載30>

2009-03-01 | Weblog
江戸時代の石峰寺五百羅漢<皆川淇園の記載>

 天明八年正月二十八日(1788)、皆川淇園と円山応挙、そして呉春らが石峰寺を訪れた。あいにく若冲は不在だったが、幸いなことに淇園がその日のことを書き残してくれた。

 路左見一寺ヲ望石表有云、百丈山石峰禅寺、仲選云、此釈若冲造構ヲ成ス、山上ノ石羅漢、皆其レ手刻ヲ成ス、同行之ヲ聞ク、皆往観ヲ欲ス、乃寺ニ入リ、、大路ヲ距テ里許、石磴山門旗杆鐘楼略備ル、境静神清、堂後ノ小山、阪高一二丈、上ニ小竹門ヲ設、扁ノ云、遊戯神通、阪上ニ門ヲ過、門内小径、壑ヲ右ニシ山径ヲ左ニシ、山ニ沿テ屈曲升降八九轉、其間或ハ渓ニ架橋ヲ設、或嶺ヲ繞シ磴ヲ築ク而旁乃置ク石羅漢ヲ羅、或ハ三五、或七八、岩掩林ニ映、高下乱置、率皆高二三尺過不、皆其石質ノ天然ニ因テ、略ク彫工ヲ施、以テ之ヲ為、是以其殊形異ノ状怪ノ貌奇態、往往人意表ニ出、殆ト観者ヲシ為ニ倒絶ヲ令、最後一大臥石ヲ彫、涅槃像ヲ作、左右諸天菩薩、眉目態度、其略刻麁鑿之間、亦皆彷佛哭泣之姿ヲ見、其下獅虎牛馬羊犬兎鶏、大小或ハ倫不者有、然レモ造意之工、無人奇歓者令不、観尽キ則道己ニ於前阪門下ニ到、乃寺門ヲ出、途ヲ南頭ニ取、而復大路ニ就、(筆者読み下し)

 この時には、釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)においてたくさんの衆生や羅漢を前に法を説く姿だけでなく、釈迦涅槃の像や複数の橋も完成していたことが知れる。獅子、虎、牛、馬、羊、犬、兎、鶏などの石像もたくさん並んでいた。
 ところで、小さな竹の門に「遊戯神通」の扁額があったという記述は興味深い。石峰寺に「城南深草百丈山石像之図」複写コピーがある。米斗翁七十五歳画の行年、藤汝鈞印、若冲居士の印まで揃っているが、偽作である。ただ描かれた諸仏羅漢天女鳥獣たちは、表情豊かで実に楽しく、戯画とよぶのがふさわしいと思うのだが、後山の入口に描かれた黄檗風の門には、「遊戯神通」の扁額が明瞭である。かなり後世まで、この額はあった可能性が高い。なお原画は、いつ描かれたか不明であり、所在もわからない。
<2009年3月1日 南浦邦仁>

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