ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

伊藤若冲 生涯と画業 (続)

2013-03-28 | Weblog
 若冲(1716~1800)の謎のひとつに年齢加算があります。享年は数え年齢で85歳です。ところが86、87とか88歳と自ら記した作品が残っている。実年齢に3歳を加算しているわけです。この年齢書きについて、岡田秀之氏は「伊藤若冲 生涯と画業」で、ふたつの説を紹介しておられる。

 まず狩野博幸説では、還暦以降の改元に際してその都度1歳を加算したという「改元一歳加算説」。例としてあげられるのが茶人の川上不白(1719~1807)で2歳か3歳を加算しているが、どうも改元ごとに1歳ずつを足したようだ。ところが若冲が還暦以降に迎えた改元は2度です。安永から天明へ、天明から寛政への2回の改元です。3年上乗せの88歳には届きません。

 もうひとつ紹介されているのが辻惟雄説。若冲は「四」という数字が「死」に通じるため、還暦以降は四のつく年を忌避し、四を五に変えてしまったという説です。65、75、85歳。この3度の1歳加算で享年は88歳になったとします。

 岡田氏は小学館『日本美術全集』卷14ではふたつの説を紹介しておられるが、同氏は「國華」1408号(2013年2月発行)の「伊藤若冲の年齢加算について」で、より詳しく論じています。
 まず民俗学による戦前の調査から、年増し、年違え、耳ふさぎの風習を紹介しておられる。身近な同年齢者が亡くなると、「同齢感覚」という不安畏怖の民間信仰心から、歳をひとつあわてて加えた事実が数多く報告されている。
 また文献史学からは平山敏次郎氏が中世から近世にかけて、年違え、耳ふさぎの加齢があったことを、文献上からたくさんの例をあげておられる。
 耳ふさぎ・耳ふたぎとは、家族のなかのだれかと同年齢者が亡くなったことを知ると、家人は同年の本人には知らせずにあわててモチをつく。正月をいち早く迎え、1歳加齢するのです。そして搗いたばかりの餅を当人の耳に当て、亡者が同年の生者を呼ぶ声をふさぐ。
 また凶作の年にはその年を早く終えるために地域あげて餅をつき、今年におさらばし夏や秋に正月を迎えてしまう。豊作の兆候でも台風などの被害を恐れて、いち早く門松をたてて正月を迎えてしまうこともあった。ただこの風習では地域共同体の全員が早めの加齢を迎えるので、終生の加算が続くとは考えにくい。ただ年に2度正月祝いをすれば年齢加算になりますが。
 なお昔の数え年計算では元旦に、すべてのひとが1歳加齢しました。蛇足ですが。

 個人の年齢加算の例では、まず富岡鐵斎(1837~1924)。彼は数え89歳の大晦日に亡くなった。後1日で90歳を迎えるはずだった。ところが生前にいち早く90歳と年記している。実は89歳の秋に予祝を行い、一足早く卒寿の祝いを済ませて90歳にしていたようです。
 改元加算の代表的人物とされる川上不白について、岡田氏は年齢書きのある遺墨を調査された結果、どの作も「実年齢に一歳加算しているだけで、不白が改元ごとに一歳ずつ加算したような事実は確認できない」としておられる。定説を覆す大発見です。
 司馬江漢(1747~1818)は還暦を期して、実年齢に9歳か10歳も加算している。そのため享年は71・72歳説と81歳説がうまれてしまい、研究者の間ではいまも混乱しているそうです。
 長崎の大悟散人(養老山人)はある年、一時に9歳を加算した。『荘子』の「九年而大妙」か、あるいは禅の「面壁九年大悟」か? また江漢は大悟散人をまねたのではないかともいわれています 
 狩野永岳(1790~1867)は65歳のときに67歳と款記し、その後もずっと2歳の加算を通している。彼も改元とは無縁です。京から江戸に出向いた折り、天気晴朗のなかで不二の山を往復で2度拝んだからではないかとも言われています。

 さて不思議で興味深い年齢加算ですが、わたしも関心があり岡田氏のアドバイスを得て、いくらか調べてみました。例えば「東海道五十三次」で有名な浮世絵師・歌川広重(1797~1858)。彼は13歳のときに一気に4歳加算しました。安藤家は代々幕府の定火消同心をつとめる幕臣ですが、広重の父が急死し家督をつぐために17歳と称し元服した。幼い少年では幕府役人をつとめられず、そのための4歳加算だろうと思います。
 木彫仏で有名な木喰行道上人・明満仙人(1718・1728~1810)は、遊行僧として北海道から九州薩摩まで巡りました。そして各地にたくさんの微笑仏を残しましたが、彼は66歳のときに一気に10歳を加算し、それ以降ずっと10歳上の年齢を押し通す。そのため実享年は83歳ですが、どの古記録にも93歳と記されています。
 木喰は66歳の年に念願の五智如来像を完成させたが、自らの名を「五行菩薩」に改名し年齢も10歳加算した。小島梯次氏は「大きな懸案事項を成し遂げた充実感の中での心機一転のために改名に連動して改年齢が行われたと思われる」(『円空・木喰展 「庶民の信仰」の系譜』図録)

 何人かの年齢加算の例をみてきましたが、歌川広重のやむにやまれぬ加算以外は、すべて還暦を過ぎてから足されています。還暦は人生の一周なので、「還暦過ぎれば歳知らず」という言葉が生きていたように思えます。数え還暦の61歳までは正確に数えますが、過ぎれば年齢加算は個々人、ある程度自由だったようです。先日ある方が「現代では還暦からが誕生です」と言っておられたのが印象深い。
 そして上記のどの人物も江戸後期の生まれです。そのころ画家文人や宗教者には、還暦後の加算は特殊なことではなかったのではないでしょうか。生年は若冲1716年、川上不白1719年、木喰上人1728年、司馬江漢1747年、狩野永岳1790年、歌川広重1797年、富岡鐵斎1837年。実例はこの程度ですが、大悟散人も含め圧倒的に18世紀の生まれが多い。
 これからもっとたくさんの加算例が発見報告されることでしょう。それらによっていつかは解明されるでしょうが、年齢加算にはさまざまの個人の事情がありそうです。それにしても年違え、耳ふたぎ餅の年齢加算は、わたしには理解困難です。
<2013年3月28日>

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伊藤若冲 生涯と画業

2013-03-23 | Weblog
江戸時代後期の画家、18世紀に京都で活躍した伊藤若冲(1716~1800)のブームは、依然として衰えません。昨年春、ワシントンのナショナル・ギャラリーで開催された若冲「動植綵絵展」には、わずか1ヶ月足らずの会期に22万人以上の観客が詰めかけたそうです。アメリカでもたいへんな人気です。
 ところで若冲は謎の多い人物でした。しかし彼の秘密のベールは最近の研究によってつぎつぎにはがされ、真実の人物像があらわれつつあります。かつての若冲のイメージは、絵画オタクで世事にはうとい人物とされていました。しかし彼は正義感の強い、活発な人間であったことを、滋賀大学の宇佐美英機先生(日本近世経済史)が錦市場の文書から発表されました。
 また最近ではミホミュージアムの岡田秀之氏が、伊藤家菩提寺である宝蔵寺過去帳から、若冲が晩年に同居していた謎の人物だった女性と子どもを解明されました。
 岡田氏の記述はほかにも若冲還暦前の空白の数年間の解明。そして85歳で亡くなった若冲が88歳と款記している年齢加算の問題などにも、果敢にアプローチし大きな成果をあげておられます。

 小学館から大冊の美術全集が刊行されています。『日本美術全集』全20巻ですが、先月に第2回配本の第14巻「江戸時代Ⅲ 若冲・応挙、みやこの奇想」が発売されました。
 同書に掲載された岡田秀之解説「伊藤若冲 生涯と画業」が、若冲伝としてこれまでで最高の内容です。この本は1冊1万5千円と高額。興味ある方には図書館での閲覧、余裕ある方には購読をおすすめします。
 

 まず錦市場に近い裏寺通にある宝蔵寺。伊藤家の菩提寺で若冲の父母やふたりの弟たちの墓がいまも現存しています。大正時代に伊藤家過去帳が調査されていたのですが、当時発表されたのは若冲と両親とふたりの弟の記載でした。最近の再調査で岡田氏は同寺のすべての江戸期過去帳を調べ、新しい発見をされました。伊藤家初代から幕末の9代目まですべての当主とその家族の探究です。なお若冲の墓はこの寺ではなく、還暦以降の晩年を傾注した伏見深草の石峰寺にあります。
 伊藤家の当主は代々、伊藤源左衛門を名のり、初代源左衛門(1573~1649)は江戸時代のはじめから錦小路で青物商「桝源」を営んでいました。枡屋は錦市場有数の大店で、若冲は若くして亡くなった父、3代目源左衛門を継ぎ4代目を名のります。しかし彼は40歳にして弟の白歳に5代目を譲り画作に専念する。
 岡田氏は初代から9代目源左衛門まで、またその妻や子どもの名を追跡された。なかでも注目されるのが「寂真」と「清坊」の発見です。
 広島浅野藩の平賀白山が石峰寺門前に住む若冲のことを記しています。「若冲の妻か妹らしき女性の真寂が、その子どもらしい男の子と同居している」という不可解な記録です。若冲は生涯独身だったはずです。
 過去帳から判明したのは、若冲の末弟・宗寂の妻の名が「深窓寂真(ママ)禅尼」であり、寛保3(1743)~寛政10(1798)年3月11日没、享年56歳。寂真は若冲没の2年前に亡くなっていました。白山のいう女性は寂真です。子どもは清坊のようで、若冲のすぐ下の弟・白歳の孫です。過去帳では清坊の父は左太郎(6代目源左衛門)で、若冲の甥左太郎の次男が清坊(9代目源左衛門)。
 平賀白山が石峰寺を訪れたとき、門前の若冲宅に同居していたのは、若冲の亡くなった末弟の嫁だった寂真と、次弟の孫の清坊だったのです。清坊は石峰寺の若冲墓横に立つ筆塚を33回忌に建立した人物です。
 また若冲は身寄りのない子、「スイ笑」を養っていたという記述も紹介されている。スイ笑は天明元年(1781)没だが、平賀白山が石峰寺を訪れる12年前である。不思議な名のスイ笑とは何者か?
<2013年3月23日 「伊藤若冲 生涯と画業」は続けます 南浦邦仁記>
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犬と人間(1)

2013-03-18 | Weblog
 神戸から京都に引っ越してきて、もう四半世紀になりました。二十幾年の間、京都ではこれまで三匹の犬と暮らしてきましたが最初はチョコちゃん。雑種でしたが敏しょうで賢い。近所の小畑川を三段跳びで渡る犬として有名で、女子中高生からは「バンビちゃん」の愛称でかわいがられました。
 チョコがわが家に来たとき、息子の三男坊はまだ三歳。いまは二十歳代なかばですが、「物ごころがついたらチョコがいた」といっています。三歳のときから十五年の間、室内で同居しましたから、メスのチョコはずっと彼の妹だったのです。

 つぎが黒いトイプードルのココ。知人が犬夫妻を飼っており、子どもが三匹産まれた。その片割れのメスをいただきました。しかし残念なことに一昨年に行方不明になってしまいました。原因は当方の不注意です。本当にココには申し訳なく、いまでも彼女のことを思い出すと胸が痛みます。四方八方に手をつくして探索し、面識のない方からいくつもの情報も提供されたのですが発見できませんでした。

 そして三匹目がいま室内を駆け回っている茶色トイプードルのノンです。ペットショップを十軒ほども見て回り、いちばん気にいった女の子でした。もう一年半ほど一緒に暮していますが、実の子どもたちよりも余程かわいい。

 ネコのことはこれまで一度も飼ったことがないので、さっぱりわかりません。祖父母の代から犬しか飼わないのです。成り行きで犬派になっただけで、ネコ派に対する偏見などはありません。言い訳まで。
 わたしが生まれたとき、故郷の家にはすでに年上の犬が住んでいました。シロという雑種です。小学生のときまで元気でしたが、彼女は延々と年長で、わたしの姉だったのです。
 シロのつぎはタロウでした。学校を出て社会人になって、先輩と話していたら彼は「生まれた子どもの名がやっと決まりました。太郎にしました」。それでわたしは「わが家の犬もタロウです。同じですね」といって、ヒンシュクをかいました。タロウもずいぶん賢く、南極犬のタロやジロと比べても遜色はないなどとほめたたえていました。人間の太郎君はもう中年で、子も大きくなっていることでしょうね。

 近ごろ、犬を飼うひとがずいぶん増えました。近所を散歩しても、棒でなく犬に当たりそうになる。「日本では子どもの数より、飼い犬の方が数が多い」ともいいますが、実感します。
 人間と犬、何ともふしぎな関係ですね。両者の交流、機縁はおおよそ1万5千年前、あるいは3万年前には始まっていたともいいます。人間が最初に友とした動物は犬です。
 ネコも馬も牛やニワトリも、人間との深い付き合いはわずか数千年の歴史しかない。はじめてネコが日本列島に渡来したのは千数百年前です。古墳時代に中国か朝鮮半島から仏典などが招来したとき、大切な経をかじるネズミ除けに同船させられたためのようです。それまでこの国にはネコはいなかった。チュー害対策だったのです。
 犬と人間の数万年の交流や、現代のパートナーとしてのワンコ。愛犬ノンと日々たわむれながら、そんなことを書いてみようかと近ごろ思っています。
<2013年3月18日>
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農林漁畜産

2013-03-11 | Weblog
 この土曜と日曜、ふる里で農林作業をやってきました。二日間は天気予報通り、暖かな日よりで日曜の昼過ぎからは大粒の雨。雨降りの直前に当面の作業をほぼ完了し、ほっとため息をつきました。天気予報はほんとうにありがたい。
 やり終えた作業は、荒れた2枚の休耕田を果樹園にすること。合計14本の幼木を植えることができました。その内の2本は例外で、実はなりませんが花を愛でるために山桜と染井吉野を1本ずつ植えました。これは同園目印の看板娘です。
 田は長年放置していた荒野ですが、鍬を入れてみると土は実に黒い。豊かな土壌には驚かされました。腐葉土とピートモスを黒土に混ぜましたが、高価大量の有代土は必要なかったのかなあ、そんな気もしました。しかし数十センチ掘りこむと、黒土の下は灰色の粘土質です。稲作で張った水が抜けないのはこの粘土質のせいなのです。先人たちが何百年、あるいは二千年ほどの間、延々と育てて来た土壌かと思うと、弥生時代からの祖先たちの営為に頭が下がります。わたしの頭は稲穂ほどには実っていないのですが、それでも頭は上がりません。
 この地の名は『播磨国風土記』に由来が記されています。村落の地中を掘れば、縄文時代の貝塚が出ます。かつては海岸に近い地で、延々数千年の間、漁業や植物栽培に先人たちが励んだ土地です。また高台には古墳も多い。現在の海岸線は3キロほども後退していますが、古文書では戦国期まで一帯は、石清水八幡宮の領地でした。そして同じ地のささやかな一角が、いま果樹園にかわろうとしています。

 ほとんど植え終えたころ、近所に住んでおられる老婦人が細い畔道を歩いて来られた。わたしが小中学校の同級生だった友人の母上です。数年ぶりにお会いしました。通り一遍の挨拶をしましたらこういわれた。「健康には田仕事がいちばん。しかし根腐れしますよ。黒土の下に水がたまりますから。もっと土を盛って高く植えないと、田の底土は木には向きません」
 これにはにわか百姓はギャフンです。さすがに亀の甲より年の功。次回の作業では、排水を考え、水抜き用に粘土層よりも深い穴と溝を掘りぬくことにしました。作業は延々と続きます。
 それと樹間には何か下草のようなものを育てたい。ホームセンターの種子売り場でにらめっこし、青シソと赤シソとカボチャの種を購入しました。今月末の予定ですが、深穴掘り、溝つくりと同時に、紫蘇と南瓜の種をまきます。宿題は絶えませんよ。別の休耕田はコスモス畑にしよう、また初冬には果樹園にクローバーの種をまこう……。計画だけは延々と浮かびます。考えるだけで楽しいのです。

 ところでTPPですが、JAなどは開国に対して強硬な姿勢を貫いておられる。開国賛成者の意見として「日本の農産物は世界一安全で高品質産品です。コメなど中国の富裕層は高額でも買ってくれる。農業開国は大きなチャンスです」
 わたしが試行錯誤している小さな果樹園も、タケノコ園の竹林も、有機肥料だけで育てる人間にやさしい農場になります。人体に有害な農薬も一切使いません。
 しかし日本の農林漁業と畜産品はほんとに高額でも、海外で望まれているのでしょうか? 大問題が起きています。ちょうど2年前の福島第1原発の事故が原因です。世界の44カ国・地域が、放射線物質汚染を危惧して、輸入禁止や大幅な制限をいまも続けています。3月9日、共同通信が報じました。

 中国では下記都県のすべての食品の輸入を禁止しています。宮城・福島・群馬・埼玉・東京・新潟・長野。汚染国の代表のような中国が、長野や埼玉、新潟までを対象地にしています。
 台湾では福島・茨城・栃木・群馬・千葉県。すべての食品が輸入禁止です。
 韓国では福島・茨城・栃木・千葉の農産物。水産物は宮城・福島・茨城。
 同様に世界44カ国が輸入を禁止し、あるいは検査証明書の提示を求めるという規制を、ずっと続けています。東日本の農産漁業品は、決して安全とは認められていないのです。TPP開国に踏み切っても、本州のほぼ3分の1ほどの面積の農畜産品などは、輸出もままなりません。
 シンガポールの担当者は「放射線物質が減少するには長い年月がかかる。だからたくさんの国が同様に日本からの輸入を規制している」

 日本も30年近く、いまも欧州地域からの食品輸入を制限しています。1986年のチェルノブイリ原発事故以来です。キノコやトナカイの肉とかだそうですが、きびしい食品検査をパスしないと日本国内に持ち込むことはできません。
 昨年の夏のことでしたが、フィンランドのネイティブご夫妻が京都に来られました。手土産はトナカイの肉とか地元の食材でした。ホームパーティにわたしも行って来ましたが、サンタの相棒の肉は実においしかった。

 昨日のこと。妻がわたしにこういいました。「はじめて行ったスーパーですが、肉がめちゃ安かった。産地をみると○○県……。迷ったけど買いませんでした」。わたしは返答に窮した。現地の生産者の困窮を考えると買うべきだ、と明言できませんでした。
 ところが翌日、3月11日の今朝、起きがけに彼女はこういいました。「昨晩はあんなことをいったけど、やっぱり肉も魚も農作物も買うことにします。食べたところでわたしたちはもう結構な歳だし、健康の心配もいらないでしょう。現地の生産者の苦労を思うと、買わないといけませんよね」
 彼女はあの一言を一晩考え、悩んだようです。育ち盛りの子どもがおれば、母として避けるかもしれません。しかしこの歳では心配はもう杞憂でしょう。農なり水産畜産業者の喜びは、たくさんの方が食してくれてからこそです。農作業に従事する端くれのひとりとして、そのように実感します。

 近ごろ読み出した本。福岡正信著『自然農法 わら一本の革命』。1983年に春秋社から刊行されましたが、農、土壌、植物、微生物と昆虫、実に不可解な自然をいくらかでも理解する手立てになる名著です。
<2013年3月11日 もう2年がたちましたね>
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ふる里おこし

2013-03-05 | Weblog
 「近ごろの日々、どんな生活を送っていますか?」と聞かれることが増えた。長年のサラリーマン生活と訣別してもうすぐ1年半。いちばん時間をとるのが読書とパソコンです。「こんな毎日を過ごしていていいのかなあ」と時々はため息もつきますが、正直なところ結構楽しい。束縛もほとんどなく自由で、ささやかながらそれなりに満ち足りた日々です。(追記:えっ!という声がありましたので言い訳しますが、PCと読書は仕事のひとつでもあるのです。これもささやかですが)

 最近力を入れ出したのが晴耕雨読。といっても京都の自宅にはネコの額ほどのベランダ庭園しかありません。その狭い庭の植木鉢に、まるでチューリップのような芽が出ました。不思議です。スイセンもアネモネもチューリップも植えていません。妻に聞いても知らないという。同居の息子が土をいじくるはずがない。
 ふと思い出したのがニンニクです。昨年にスーパーで買った青森産ニンニクを放っていたら、数粒がしおれてしまいました。しかし捨てるのもしのびない。夏に赤トウガラシを育てた鉢に植えてみたのです。それがどれも元気に育っています。やはりニンニクは精が強いようですね。老人も意外と強靭? 大きくなれば芽か球根を食べますが、どちらにすべきかいま迷っています。やっぱり幸せですね。ささやかですが。

 ベランダには13本の果樹幼木も並んでいます。次郎柿、興津早生ミカン、高砂サクランボ、無花果ドーフィン、田中ビワ、八朔など。10本はホームセンターでいずれも千円足らずで購入。3本は食後に果実の種をまいたら育った幼い木です。
 狭いベランダで果樹園は不可能です。実は郷里の播州に、荒れ果てた農地がいくつかあります。昨年は何度か草刈り機をウィーンと振り回して、セタカアワダチソウなどの生い茂るジャングルと格闘しました。今年も同様に数度、草刈りに出向かねばならないのですが、刈るだけではあまりにも生産性がありません。かといって稲作などわたしにはできるはずもない。それで思いついたのが「果樹園をつくろう!」でした。
 草の根を掘り土を耕し、腐葉土やピートモス、混合肥料を入れ、とりあえず待機中の13本を今月中に移植します。そして樹間のバランスをみて、1年後に何本か追加しようと思っています。つぎはクリかリンゴかモモか南高梅か……。考えるだけでも楽しいものです。

 それと孟宗竹林の伐採作業も開始しました。ひとりか二人、時に三人で作業しています。実は10アールほどの竹藪がふる里にあるのです。これまでほとんで手入れをしなかったのですが、それでも毎年桜花のあと、タケノコがたくさん顔を出す。
 この正月、親戚が京を訪れ「竹細工の店に行きたい」とおっしゃった。嵐山・嵯峨野にお連れしたのですが、気のきいた竹扇子などを買われていた。わたしは「ステキな扇子ですね。センスがいい」などと爺ギャグを飛ばし、店員さんの失笑を買ってしまった。わたしは何も買いませんでしたが……。
 そのあと天龍寺裏の竹林散策に連れだって行きました。春節前、学校が冬休みのため中国人の親子連れ観光客が多い。日本人はわずか3分の1ほど。日中関係が険悪とはいいますが、彼らのニンニク並みのパワーに感心してしまいました。それと手入れの行きとどいた美しい竹の林には恐れ入った。
 このときの竹林紀行をきっかけに、1月から何度もふる里に出向き、倒れた竹、枯れた竹と格闘しているのです。竹は繊維質のかたまりで非常に固い。ふつうのノコギリで切るのはたいへんです。プロから竹伐り専用ノコギリを教えていただき、1月に買った3千円もする鋸を片手に奮闘する日々です。
 まず藪を片づけないと、つぎの果樹園作業を始められない。その竹林には、おそらく歴史上はじめての施肥20リットルほどを播きました。冬の元肥で、チッソ・リンサン・カリのバランスのよい混合肥料を選びました。
 それと竹林の周りの山道が荒れています。歩くひとは少ないのですが、というか数え切れないほど倒れた竹や木が道をふさぎ通れないのです。これの片付けも課題です。ささやかの村起こしになりそうですね。
 そんなこんなで晴耕雨読の毎日。週間天気予報とにらめっこしながら、スケジュール調整に忙しい(wふる里おこしの日々を送っています。

 さて桜花のあとは、雨後のタケノコの季節です。苦労した自慢の竹林にご招待します。果樹園の収穫は数年先ですが、タケノコは来月が旬です。いくらでも顔を出しますので、何人来られてもひとり5本や10本、掘り放題です。希望者は一報ください。すでに数人の方が「行きます!」。入園料は不要です。勝手に出て来る筍ですから。
<2013年3月5日>

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監視カメラ

2013-03-01 | Weblog
ロシアの隕石落下を写した映像には驚いた。光や轟音に気付いてからレンズを向けても遅い。ごく短い時間の現象だけに、決定的瞬間を意図して写すことはできません。
 あの映像を偶然キャッチしたのは、屋外の固定式監視カメラ。それから車載のカメラだったのですねえ。交通事故を起こした時、車中のカメラが勝手に撮影した映像が、身を守る証拠になります。また警官がいちゃもんを付けてワイロを要求した時も、動画が動かぬ証拠になる。いたる所に取り付けられた監視用カメラが、100年に一度ともいう決定的瞬間をとらえたわけです。

 京都駅近くで深酒し最終電車。最寄りのJR桂川駅のバスは終了しており、タクシーの世話になりました。つい先日のことですが、その車の助手席窓サンバイザーあたりに、携帯電話を倍ほどにした縦長な箱が付いている。運転手さんに聞くと「わたしたちがいま話していることは、すべて録音されています。また外の景色も車内もカメラが撮影しています」
 これには驚きました。ロシアは特別なのだと思っていたのですが、日本も同様だったのですね。何か事故や事件があれば、このレコーダーを調べるそうです。交通事故もタクシー強盗も警察官の横暴も、運転手さんや乗客のプライバシーもすべて記録されているのです。飛行機のコクピットにもボイスと映像の両用レコーダーが必要かもしれません。

 この1月には埼玉県でスイス在住のセレブ夫妻の遺体が土中から発見されました。マスコミ報道は風化しつつあるようですが、裏の世界がからんだ事件といわれながら、真相は一向にみえてきません。犬好きだった夫妻があまりにもいたましい。
 ところでこの事件が一応解決したのは、やはり防犯カメラのお陰です。まず銀座のホテルを出て犯人の車に乗り込む夫妻の姿が、屋外のカメラに写っていました。また車のナンバープレートも鮮明に読みとれた。この車は埼玉県に向かったのですが、幹線道路に取り付けられている監視カメラのNシステムで、車の移動経路は正確に把握された。車を特定したことから所有者と借りた犯人が確定したのです。日本国中、いたる所でわたしたちは見張られています。

 遠隔操作ウイルスの真犯人だとして、猫好きの容疑者が逮捕されました。これまで無実の4人が何者かの遠隔操作を受け、冤罪で逮捕されていただけに、ネコ男とか呼ばれている彼は真犯人かどうか、やはり疑わざるを得ません。どうも高度なコンピュータ知識を彼は持ち合わせていないという情報もあります。またも冤罪なら、わたしたちは捜査陣を許してはいけません。
 江ノ島の猫のみぞ知るですが、チップ付き首輪がポイントです。容疑者が問題のネコと戯れたのは確かですが、その時にはまだ首輪は巻かれてはいないのです。彼はネコ好きで、ほぼ毎週バイクで島を訪れていたそうです。
 江ノ島には監視カメラが35台も設置されています。ところが彼がバイクで去った3時半まで、ネコの首輪は確認されていない。おそらく夕闇の迫るころか夜間の行為で、暗くてカメラでは認識されない時間帯。あるいはカメラが設置されていない場所だったのでしょう。彼が島から帰る姿はやはりNシステムではっきりしています。3時半までに付けられたという証拠がなければ、またPC内に遠隔操作の痕跡が発見できなければ、彼も誤認逮捕になってしまいます。度々の捜査の不手際は許されるものではないでしょう。
 なお国際的な犯罪や極秘行動なども、夜間に実行されます。偵察衛星が宇宙から常に監視しているからです。しかし夜は天空からは見えません。北朝鮮でも軍隊などの移動はいつも夜間。ミサイル運搬も然りです。闇は最新式遠隔カメラにも大敵なわけです。

 近ごろ、盗撮カメラのことがよく話題になります。猫男さんも逮捕前、警察からリークされたTV局に日常生活を盗撮されていました。それも複数社が四六時中です。本当の犯人だったら気付いて証拠隠滅を計るでしょう。いや冤罪なら、とてつもない人権侵害です。
 盗撮ですが、小学校の教員が校舎の女子トイレに、超小型のキーホルダー式カメラを仕掛けていたのが、また発覚しました。なんとも情けない。男性の入れないスペースの入り口天井には、きっとその内に外向き監視カメラが取り付けられ、こそっと入室する男をマークすることでしょう。当然ですが、夜間も照明はつけるべしです。
<2013年3月1日 南浦邦仁>


<追報 3月2日>「弁護士ドットコム」は3月1日に次のように報じました。タイトル「遠隔操作事件の弁護人『ハイジャック防止法で立件』報道を批判」。遠隔操作の威力業務妨害立件をあきらめ、ハイジャック防止法に切り替えるのであれば許せません。それは非道な暴挙で、自らの大失態である誤認逮捕を隠そうとする許せない極悪犯罪です。明日3月3日が注目されます。以下、ドットコムからの引用です。

パソコンの遠隔操作事件では、2013年2月10日に被疑者の男性が威力業務妨害罪で逮捕された。だが、勾留期限が3月3日に迫っている現在、取り調べは止まったままと伝えられている。このような中、弁護人を務める佐藤博史弁護士が3月1日午後、被疑者が勾留されている警視庁東京湾岸署の前で記者会見を行った。
同日、1時間ほど被疑者と接見した佐藤弁護士によると、依然として取り調べのない状態が続いているという。「呼び出しは受けるが、『出ることを拒否します』ということで、取り調べは全くなされていない」。また、佐藤弁護士に対して被疑者は「3月3日にはここを出られると思っている」と語ったとのことだ。
●「一番肝心なことが報道されていない不十分な記事」
一方、佐藤弁護士は取り囲んだ記者たちに向かって、今朝(注3月1日)の日本経済新聞の報道に対する批判を口にした。その記事は「警視庁などの合同捜査本部が、被疑者が関与したとみられる昨年8月の航空機爆破予告について、ハイジャック防止法違反(航空機の運航阻害)容疑での立件を検討している」というものだ。
「日経の記事では、本件(威力業務妨害罪)で起訴されるかどうかという一番肝心なことがことがまったく報道されていない。はっきり言って、非常に不十分というか、取材不足というか、意味のない記事だと私は思う」
このように佐藤弁護士は厳しい口調で指摘した。
ハイジャック防止法違反で有罪となった場合、1年以上10年以下の懲役が課せられることになる。この罪で立件され、有罪となれば、威力業務妨害罪(3年以下の懲役または50万円以下の罰金)よりもさらに重くなるということを意味する。
佐藤弁護士は、「今回の事件で、さらに再逮捕されるようなことを、この時期に根拠もなしにいたずらに書くことには厳重に抗議する」と日経新聞に伝えたことを明かした。また、佐藤弁護士がこの報道を被疑者の男性に伝えたところ、相当なショックを受けていたという。


<再び追報 3月4日記> 昨晩NHKテレビでわたしが見たのは19時のニュースだったようです。「毎日jp」記事を転載します。興味深いのは容疑者がずっと要求しているのは、取り調べの可視化です。監視カメラを部屋に付けてくれと叫んでいるのです。あまりにも皮肉です。

「PC遠隔操作:片山容疑者再逮捕 ハイジャック防止法違反」
毎日新聞 2013年03月03日 16時22分(最終更新 03月03日 21時14分)
片山祐輔容疑者=東京都江東区で2013年2月11日午後、梅村直承撮影 拡大写真(省略)

 パソコン(PC)遠隔操作事件で、警視庁などの合同捜査本部は3日、誤認逮捕された大阪府の男性のPCから2件の犯罪予告を書き込んだとして、IT関連会社社員、片山祐輔容疑者(30)をハイジャック防止法違反(航空機の運航阻害)と偽計業務妨害の疑いで再逮捕した。警察が誤認逮捕した事件での立件は初めて。合同捜査本部によると、片山容疑者は「身に覚えがありません」と否認しているという。
 再逮捕容疑は、昨年8月1日午後1時20分ごろ、ウイルス感染させた男性(43)のPCを遠隔操作。成田発ニューヨーク行きの航空機に「爆弾を持ち込んだ」とのメールを日本航空のホームページ(HP)に送信し、引き返させたとしている。
 また、同じPCから昨年7月29日午後9時45分ごろ、大阪市のHPに「ヲタロードで大量殺人する」と書き込み、警戒を強化させたとしている。
 男性は片山容疑者が作成した無料ソフトをネット掲示板からダウンロードした際、ウイルスに感染している。捜査関係者によると、このソフトやウイルスのソースコード(設計図)が、神奈川・江の島の猫の首輪に付いていた記憶媒体から見つかったという。
 東京地検は3日、愛知県の会社のPCから殺人予告を書き込んだとされる威力業務妨害容疑について処分保留とした。【小泉大士、喜浦遊】
◇「不当逮捕」弁護人が警察批判
 「不当逮捕だ。大阪の事件では誤認逮捕しているのに、警察は恥の上塗りをした」。片山容疑者の弁護人を務める佐藤博史弁護士は、報道陣に再逮捕を厳しい口調で批判した。
 佐藤弁護士は、最初の逮捕容疑が処分保留となったことに触れ「証拠がないということ。検察は正しい判断に一歩近づいた」と指摘。片山容疑者も3日の接見で「処分保留になってよかった。再逮捕は落ち着いて迎えることができた」と話したという。
 佐藤弁護士によると、片山容疑者は「私がウイルスを作るのは不可能」と一貫して容疑を否認。一方、合同捜査本部の幹部は「客観的な証拠はそろっており、有罪は揺るがない」と自信を見せる。
 弁護側は取り調べの録音・録画を要求。先月19日以降、聴取を拒否しており、再逮捕後も、片山容疑者は「録画がされなければ、応じません」と拒んでいるという。【松本惇】


<3月8日>次々追加です……。花水木法律事務所ホームページ(3月8日付)から転載します。映画をみていますと米CIAでは、顔や手指の部分写真から探索している人間を特定できるそうです。逃げようがありませんね。

タイトル「監視カメラによるデジタルサイネージ」
株式会社日立ソリューションズは3月4日、監視カメラと顔認識技術を利用したデジタルサイネージソリューションの提供を開始すると発表した。
概要は、店舗の入り口に設置されたカメラで客を撮影して、性別や年齢層を判定するなどして、顧客の関心にあったイベントやキャンペーンの案内などを電子看板に表示するというものである。
たとえば、20代の女性が店に入ると、正面のモニターに、20代の女性に向けたセールの案内が表示される、というものである。
デジタルサイネージの未来形と言えば、映画「マイノリティ・リポート」の一場面が有名だ。これは、町中に設置された虹彩認証装置が個人を特定し、たちどころに店舗の壁面に広告を表示する仕組みである。逃亡中の主人公は、行く先々でデジタルサイネージから名前を呼ばれてしまうため、追っ手をまくために、目玉を闇医者に交換してもらうことになる。
さて、日立ソリューションズの発表は、もちろん、映画ほど先進的な仕組みではない。顔認証と行っても、性別と10歳刻みの年代を判定されるくらいのことなので、プライバシー権侵害の問題は発生しない。撮影した顔画像を録画してマーケティング等に使用する場合には、プライバシー権の問題が発生するけれども、顔画像は録画しないようである。
もっとも、顔画像は録画しなくても、来場者一人一人を特定するほどの分析値を保存し、リピしたときに分かるようにする、というのは、氏名等まで特定しなくても、プライバシー権侵害の問題は発生しうる。
また、この種のデジタルサイネージは、行き過ぎると一種の「お節介」になる。たとえば、ある種の女性が行く先々で「大きいサイズの婦人服売り場」を案内されたり、ある種の男性が養毛剤の広告ばかり見せられたりする場合だ。このとき客が感じる不快感は、今のところ法的問題とは認識されていないが、将来的には、検討の余地があるかもしれない。







コメント (4)
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