江戸時代の石峰寺五百羅漢「皆川淇園、円山応挙、呉春の梅見 前編」
天明八年正月二十八日、当時の京を代表する儒学者・文人の皆川淇園(きえん)が石峰寺を訪れた。伏見に住む門人の寅こと米谷金城と、誘い合わせた画家の仲選、すなわち円山応挙や呉月渓らと連れ立って伏見に梅見に出かけたのである。途次、応挙の案内で、深草の石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物した。ところで呉月渓とは画家の呉春である。後に応挙の円山派をしのぐほどの評価を得、四条派と称される。
なおこの日、若冲は不在であったが、淇園が釈若冲と記しているのが興味深い。淇園も応挙も、若冲を出家者・僧とみなしているのである。釈は釈迦の弟子であり出家僧をいう。淇園の「若冲五百羅漢」感想記の大略は、
境静かにして神清み、本堂後ろの小山の上に「遊戯神通」と扁した小さな竹の門があり、通りを過ぎると曲がりくねった小道があって、渓には橋を架け、その周囲に三々五々、みなその石質の天然を活かし、二三尺ほどの石に簡単な彫工を施している。その殊形・異状・怪貌・奇態、人の意表を衝いてほとんど観る者を倒絶させるような石羅漢が配置してあった。造意の工、人をして奇を嘆ぜしめざるものなしと、淇園はいう。
この原文は、これまでほとんど紹介されていないので、長いが参考までに次回に掲載しよう。<皆川淇園著「梅渓紀行」>
<2009年2月22日 南浦邦仁>