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ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲の年齢加算 №1 <若冲連載52>

2010-04-29 | Weblog
十八世紀後半の京都、学術文化芸術はルネッサンスを迎えました。空に輝く綺羅星のごとく、たくさんの才能たちが輩出し、大活躍しました。
 伊藤若冲もそのひとりです。彼は画を描くほかに能がない、不器用な生き方をした畸人といわれてきました。ところが新史料が発見され、錦青物市場存亡の危機には、若冲が先頭に立って大活躍したことが明るみになったのです。
 数多い若冲ファンはこの新事実を知って、心底から驚いた。不器用な畸人のはずが「一体、若冲とは何者か? どのような人物だったのか?」。これまでにほぼ確立していた人間「若冲像」は、いま大いに揺らいでいます。

 錦市場を危機から救った恩人・若冲の史料は、宇佐美秀樹氏(滋賀大学経済学部教授・日本近世経済史)によって紹介されました。「京都錦高倉青物市場の公認をめぐって」と題された論文です。学術誌「市と糶」<いちとせり 1999年8月号>に掲載されました。
 この研究にまず注目されたのが、近世美術史家の奥平俊六氏(大阪大学教授)でした。そして信楽の MIHO MUSEAM で開催された2009年「若冲ワンダーランド」展の図録に掲載された宇佐美氏「私の伊藤若冲」。この一文で一般の若冲ファンもが「若冲さん、あなたはどのような人物だったのですか?」
 ある人間に対して、人物評価を下すことはむずかしい。現代を生きているひとに対しても、「あなたはこれこれだ」と決定すること、人物評価を確定することは困難である。芸術家の作品についての評価も同様であろう。まして過去の人間に対して、わずかの史料や伝聞で判断することは危険である。それにしても若冲という人物は、知れば知るほど、深く魅力的である。

 4月16日のこと、京都文化博物館でレセプションがありました。翌日から開催の「冷泉家 王朝の和歌守展」の開会式です。会場で、近世美術・宗教史家の大槻幹郎先生に久しぶりにお会いしました。昨年の加藤正俊先生の葬儀、そして信楽の若冲展開会式以来です。この場で、わたしは若冲のことを話しました。
 特に若冲の年齢加算の問題です。彼は晩年、実年齢を一歳ずつ加算し、入寂年は実年齢85歳であったが、87歳あるいは88歳と作品に書き、また過去帳にも記されている。
 このことをはじめて取り上げられたのは、同志社大学教授の狩野博幸氏。「昔は還暦後は年なしとし、改元ごとに一年ずつ加算した」。この解釈がいまではほぼ定説になっている。確かに説得力のある加齢説であるが、はたしてそうであろうか。
 民俗学や文献史学にみえる「年違」<としたがえ>の記述をみていると、改元と年齢加算は無関係といえそうである。そのように、わたしは考え出した。大槻先生にこのことをお話ししたところ、「それをやりたまえ」といわれる。わたしは、唸ってしまいました。このテーマは、深くまた重い。資史料こそいくらか集めましたが先が、はっきりした結末がみえない。それも若冲を中心に据えての、2歳あるいは3歳の加算のことの証明の自信がわいてこないのです。
 ところが大槻先生は両三度、「そのテーマをやってください」。このようなマイナーなテーマ、しかも細かく裏付けを、中世近世そして近代にわたって集め考える作業が必要です。

 「ゆっくり、やってみようか」。わたしの結論です。幸いゴールデンウィークの連休が近い。集めるばかりで読み解くことの少なかった資史料を、読んでみよう。五月早々からの宿題です。
 しかし、このようなテーマに興味をもたれる方はごく少数です。またわたしの能力も乏しい。ゆっくり時々、連載「若冲の年齢加算」解明をはじめてみます。
 手法としては謎を一歩一歩、解きほぐしていく推理小説のような、そのような面白い文章が作れないものか。興味津々、書きながらまた読みながら、新天地を探検するような気分になる、チャレンジしてみたい新構想と文体のワクワク?連載です。まあ、ぼちぼちやってみます。
<2010年4月29日 南浦邦仁> [ 225 ]
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そっくりさん

2010-04-24 | Weblog
 世界にふたりか三人か、自分にそっくりなひとがいる。子どものころに聞きました。わたしたちは東洋人ですから、地球上にいるとしたら中国やモンゴル、朝鮮半島か東北アジア…やはり日本国内でしょうか。もしかしたらアメリカにでも移住している東アジア人、あるいは南米に暮らす日系移民三世あたりかも知れません。

 小学生の何年だったか、家族で日本海まで旅したことがあります。ずいぶん古い話しですが、汽車旅行でした。たしか機関車は「C11」だったと思います。蒸気機関車は、その後も数年間健在のころでした。「ポーッ」という汽笛とともに、家族五人は鳥取の温泉に向かいました。はじめて鳥取砂丘と紺碧の日本海を一望し、また温泉とやらに浸かり、感動したことを記憶しています。
 汽車ではトンネルに突入する前に、窓を閉めなければたいへんなことになる。黒煙が客室内に充満するからです。そして隧道を直前にして、大失態が起きてしまった。わたしが窓を降ろすのと、列車が穴に突っ込むのがほぼ同時。煙のなかに漂っていた石炭の小粒が、眼に飛び込んできたのです。激痛が走りました。眼の中にいれても痛くない云々というのは、ウソです。固形物は何を入れても、たまらなく痛い。
 車内の狭いトイレの手洗いで目を洗ってみましたが、効果もない。やっと到着した駅の前にあった薬局で目薬を買ってもらい、点眼してみたら粒はすぐに取れた。あまりに意外な結末に、眼薬の魔力を以降、畏れるようになったわたしです。
 ところで温泉からの帰路、列車で驚くべき大ショックをわたしたち家族全員は受けてしまいました。われわれの向こうには、見ず知らずの乗客が座っていました。父母と小学生の姉妹の四人連れだった。何とその姉は、わたしのすぐ下の妹と同じ顔なのです。そっくりどころではない。
 一卵性双生児の歌手「ザ・ピーナツ」をはじめてテレビでみたときの驚愕と、ほとんど同じでした。待望の白黒テレビがやっと家庭に入ったころ、よく故障するTVの天板をたたいたものです。すると不思議と直る。ザ・ピーナツをはじめて画面でみた子どもが「あれっ、また調子がわるい。顔が二重に写っている」といったのは実話です。その子どもも、きっとテレビをたたいたことでしょう。
 車内でのご対面で、当事者のふたりは当然、両家族の驚きはたいへんなものでした。驚愕仰天といってもいいほどのショックです。一体、彼女は何者か? ふたりの出生には、何か秘密があるのでは? しかし両方の父母をみても、単純な驚きを示しているにすぎない。双方あわせて親子九人は、ただただ唖然とするばかりでした。われわれはひとことも口をきかず、相手に話しかけるのも畏れ多く、時間だけが、静かに過ぎていきました。そして向こうの家族が先に下車。逃避したのではなく、目的の駅に着いたからのようでした。

 ところで今晩、友人ふたりがわたしの家、陋屋に泊ります。陋屋は「ろうおく」。「拙宅」よりもひどいあばら屋の表現ですが、この語をつかうとよく「牢屋」と勘違いされます。たしかに牢獄のような住まいですので、間違いではありませんが…。
 十日ほど前、東京の友人Tさんからメールがあり「ゴールデンウィーク前に奈良・京都に行くのだけど、宿をとるのがむずかしそう」。いまは平城遷都1300年と、平安京都の観光ピーク期です。
 ぼくは「遠慮せずに陋屋に泊ってください。時間を気にせず、深夜明け方まで、あれこれ話しもできますし」。彼は「遠慮」など無縁な男です。「それじゃ、よろしく」
 それでふと思い出したのが、大阪に住む友人のNさん。ふたりはこれまで、一度も会ったことがない。わたしは十年以上も前から、ご両人対面の機会を設けたかったのです。
 実は、ふたりは顔や体型が、そっくりなのです。「Nさん、前からいっていた東京のそっくりさんが、拙宅に泊ります。自分自身を鏡でみる気分で、会ってみませんか」。彼も即答で「宿賃かわりに旨い酒をさげて行きます」
 そんなそっくりさんご対面の式典が本日、まもなく挙行されます。今夕、JR桂川駅に三人が集合します。おふたりがどのような反応表情をされるか、いまからわくわくしています。 「朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや」。続編?はまた改めて
<2010年4月24日土曜 衝撃の日か> [ 224 ]
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容保桜 <かたもり桜>

2010-04-18 | Weblog
「花の命は短くて…」。林芙美子が好み、色紙などによく書いた言葉だそうです。ところがこの春、桜は狂を発したかのごとく、延々と咲き続けている。
 二日前の金曜日、所用で訪れた京都ノートルダム女子大正門脇の染井吉野の桜樹なぞ、八分咲きである。守衛さんに聞いてみました。「寒い毎日が続きますので、九分ほど咲いたころ、残りのツボミが開かなくなってしまいました。いくらか散り、葉桜になりましたが、いまも八分咲きのままです」
 17日は、東京でも41年ぶりの降雪記録。やはり、地球は寒冷化に向かっているのではないでしょうか。温暖化の心配は、不要かもしれません。
 アイスランドでは火山の大噴火が続き、たくさんの空港が使用不可になっています。このまま噴煙を吐き続けると、地球の広汎な地域は日照不足のために、農作物は不作で高騰し、輸入力の弱い国では飢饉がおきる…。杞憂であればいいのですが、そのような思いが走る今日このごろです。

 桜といえば、京都府庁の正門を入ったところに、旧本館があります。明治37年(1904)に建てられた洋館で、国の重要文化財に指定されている。中庭には古い桜樹が幾本かあり、狭い庭ですが、京桜の隠れた名所です。
 たとえば、円山公園に有名な枝垂れ桜があります。騒がしい夜桜宴客のいなくなるころ合い、ライトアップされたこの桜を訪ねると、体表に寒イボがたち、妖気に圧倒される。恐ろしい大老樹です。この妖木は二代目ですが、初代の孫木も府庁中庭に健在です。
 そして今年、京都で最大の桜の話題は、中庭のもう一本、「容保桜」と命名された山桜の突然変異種です。花が山桜より大ぶりで、樹皮がめくれた変種。16代目桜守、佐野藤右衛さん(81歳)は、前々からこの桜が気になっていたそうですが、ヤマザクラとオオシマザクラとの混交種と判断された。推定樹齢は80歳以上。藤右衛さんと同級生ほどの歳です。
 ところで名の「容保」<かたもり>は、幕末に京都守護職だった、会津藩主第9代の松平容保からとった。京都府庁のこの場所は、彼の屋敷のあった地です。
 幕府から京都守護職就任を依頼された彼は、何度も固辞しました。病弱でもあったのですが、藩がたいへんな危機を迎え、最悪はつぶれることを覚悟せねばならなかったからです。しかし容保が就任を受けてしまったと聞いたその日、江戸藩邸の会津藩士たちは、藩の決して遠くない日の破綻破滅を予感し、全員が号泣慟哭したといいます。死地に飛び込むことに決したのです。
 容保は藩祖である保科正之の遺訓を引き、みなに話しました。徳川の恩顧に報ゆるべし、「徳川宗家と盛衰存亡を共にすべし」。君臣一体、京を死地とする覚悟で就任したのです。そして会津藩の滅びの美は、文久2年(1862)にはじまりました。
 その後、慶応4年(1868)正月3日、鳥羽伏見の戦いから戊申戦争がはじまります。会津若松は新政府軍により、執拗で非情な徹底攻撃を受け、破壊されつくします。同年9月22日、会津藩は降伏。新政府は同月に、慶応を明治に改元しました。
 容保が京を去って36年。彼が居住した邸宅跡に建てられたのが、京都府庁です。彼は当然、後世の容保桜をみたわけではないのですが、容保と会津の兵や民のことを思うと、適地の桜に、いい名をつけられたものだと、わたしもしみじみ賛同いたします。なおこの命名には、松平家14代の現当主、松平保久さんもご了解されている。
 慶応3年春、容保は京の最後の桜花を楽しんだ。同じ年の11月、河原町の近江屋で絶命した坂本龍馬と中岡慎太郎も、この春が最後の桜華であった。龍馬年表から、最後の花見をみてみます。

慶応3年(1867)1月、龍馬は下関の阿弥陀寺町本陣の伊藤助太夫方に居住。このころ、自然堂と号す。
1月5日、京都より来訪した中岡新太郎と下関で対面。
1月9日、龍馬は下関を発し、11日に長崎に上陸。
12日ころ、龍馬は溝淵、松井周助の周旋で長崎榎津町の清風亭で土佐藩参政の後藤象二郎と会見し、意気投合する。
14日、龍馬は、木戸孝允あて書状に後藤との会見を報じ、「余程夜の明け候気色」、「昔の薩長土に相成り申すべく相楽しみ居り」
1月29日、朝廷は岩倉具視に入洛を許可。
2月10日、龍馬は1ヶ月ぶりに下関に帰る。長崎からお龍を伴い、以降は彼女を伊藤家に預ける。
2月16日、西郷隆盛は高知を訪れ、山内容堂に四候会議の必要を説く。また龍馬の実家・坂本家才谷屋の家族に会う。
2月、福岡藤次らの計らいで、龍馬と中岡慎太郎の脱藩罪赦免の藩議決定。
3月5日、上洛中の徳川慶喜は兵庫開港の勅許を奏請したが、朝廷は不許可。
3月14日、土佐藩参政の福岡藤次が、同藩士の門田為之助・岩崎弥太郎らとともに、藩船「胡蝶丸」で長崎に来着。龍馬と会談。
3月17日、慎太郎は大宰府に三条実美を訪う。
3月20日、中岡慎太郎は鹿児島より下関に立ち寄り、龍馬を訪う。
4月初旬、龍馬は脱藩罪赦免となり、土佐海援隊長に任じられる。
4月14日、下関で高杉晋作没。28歳。
4月19日、宇和島藩船「いろは丸」を借り、武器商品を満載し龍馬の指揮で長崎出港。出港に際し、後藤象二郎の計らいで、土佐商会の責任者・岩崎弥太郎より社中へ百円、龍馬に五十円が贈られる。
4月21日、中岡慎太郎ははじめて岩倉具視に京都で会う。
4月23日、瀬戸内海の備後、鞆の津沖で紀州藩船「明光丸」に衝突され、龍馬らが乗る「いろは丸」は沈没。
4月29日、龍馬は下関到着。
5月7日、「信友のものといへども自然堂まで不参よふ」と、龍馬は伊藤家に数カ条の依頼書を発し、万一の場合は「愚妻儀本国(土佐)ニ送り返」すよう三吉慎蔵に託し、非常な決心で8日に下関を出港。
5月13日、龍馬は長崎着。
5月15日、龍馬は紀州藩の高柳らと談判開始。
5月21日夜、京都御花畑の薩摩藩・小松帯刀邸で、薩摩土佐の要人、小松・西郷隆盛・吉井幸輔、板垣退助・谷守部(干城)・毛利恭助が集まり、薩土倒幕密約が成立。中岡慎太郎は同席し、紹介の労をとる。
5月22日、土佐藩参政の後藤象二郎と、紀州藩代表の茂田一次郎と、長崎聖徳寺で再会談。同日午後、龍馬は、後藤、由井、松井、岩崎弥太郎らと大浦英商オルト―に行き会飲。
5月23日、徳川慶喜が参内。
5月28日、龍馬は下関のお龍あて手紙に、「紀州もたまらんことになり」「やりつけ候」
5月29日、薩摩藩代表の五代才助(友厚)の調停で、紀州藩より賠償金8万3千両支弁を約し、いろは丸沈没事件は解決した(後に7万両に減額)
5月、龍馬の姪・春猪の婿養子、坂本清次郎(後の三好賜)が脱藩して、龍馬を訪ね海援隊に入る。
5月、龍馬は、後藤とともに「万国公法」の刊行を計画し、活字も揃えた。

 この年の花見は龍馬と慎太郎は多忙すぎて、さてどこで見たか? 容保は丸太町通川端東入ルの会津藩邸、守護職屋敷だった現府庁や、二条城や黒谷の桜などを愛でているはずです。西暦1867年4月1日は、慶応3年2月27日でした。
 ちなみに林芙美子の好きだった言葉は「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」
<2010年4月18日 南浦邦仁> [ 223 ]
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「住井すゑ年譜」連載 №5

2010-04-11 | Weblog
昭和38年 1963 61歳
2月、講談社刊の日本文学全集14に「夜あけ朝あけ」収録。
3月、『橋のない川』第3部を新潮社より刊行。
6月、『地の星座』を汐文社より刊行。『橋のない川』の児童小説版として被差別問題を追及。

昭和39年 1964 62歳
4月、『橋のない川』第4部を刊行し、ひとまず完結のかたちをとる。住井ははじめて巻末に「あとがき」を記した。その直後から拒食症になり、はじめて入院体験をする。体重は60キロから40キロに落ち、その後3年間ほど文章がほとんど書けなくなった。
5月、劇団葦が「向い風」公演。

昭和40年 1965 63歳
1月、『夜あけ朝あけ』新潮文庫版刊行。
7月3日より14日まで、文化座が「「向い風」公演。

昭和44年 1969 67歳
2月、今井正監督による映画「橋のない川」(ほるぷ映画社)の上映が、東京読売ホール封切からはじまり、全国で上映される。脚本は八木保太郎と依田義賢。撮影は中尾駿一郎。音楽は間宮芳生。出演は、北林谷栄、伊藤雄之助、長山藍子、小沢昭一、山村聡、原田大二郎、阿部寿美子、寺田路恵、加藤壽ほか。

昭和45年 1970 68歳
4月、今井正監督は映画「橋のない川」第2部を公開。
5月、解放同盟は差別映画であるとして、糾弾を決定したと発表。
11月、『橋のない川』第5部を刊行。

昭和47年 1972 70歳
7月、『夜あけ朝あけ』を『理論社の愛蔵版 わたしのほん』として理論社より再刊。

昭和48年 1973 71歳
11月、『橋のない川』第6部を刊行し、二度目の「あとがき」を記す。

昭和49年 1974 72歳
3月、『愛といのちと』を理論社より再刊。
4月、『向い風』を理論社より再刊。

昭和51年 1976 74歳
6月、共著『私の歩んだ道』(朝日ソノラマ)に「人間平等への願い」を収録。
10月、家の光協会刊『土とふるさとの文学全集』第13巻に「向い風」収録。

昭和53年 1978 76歳
自宅に「抱樸舎」を完成。
12月、書き下ろし長編『野づらは星あかり』を新潮社より刊行。
『長久保赤水』上下巻を筑波書林より再刊。

昭和54年 1979 77歳
4月、新潮社現代文学43『住井すゑ』を新潮社より刊行。「橋のない川」第一部、「夜あけ朝あけ」収録。
4月より翌年3月まで、雑誌「」に「牛久沼だより」を連載。

昭和55年 1980 78歳
12月、丸岡秀子ほか共著『嫁と姑』(農山漁村文化協会)に「私たちはお互いにもっと語り合いましょう」収録。

昭和56年 1981 79歳
2月から5月にかけて、『橋のない川』第1部から第6部までの新潮文庫版が刊行される。

昭和57年 1982 80歳
9月、抱樸舎で公開学習会がはじまる。
『向い風』新潮文庫版刊行。
10月、住井すゑとの絵本集1田島征彦絵『まんげつのはなし』を河出書房新社より刊行。
11月、同4滝平二郎絵『たなばたさま』
12月、同2『ピーマン大王』、絵はラヨス・コンドル(ハンガリー)

昭和58年 1983 81歳
1月、住井すゑとの絵本集3佐野洋子絵『かっぱのサルマタ』を河出書房新社より刊行。
5月、『橋のない川』の中国語訳『没有橋的河』の刊行がはじまる。遅叔昌訳。
6月、住井すゑとの絵本集5ハタオ絵『空になったかがみ』を河出書房新社より刊行。
7月、『農婦譚』上下巻を筑波書林から再刊。
8月、随筆集『牛久沼のほとり』を暮しの手帖社から刊行。
『野づらは星あかり』新潮文庫版刊行。

昭和59年 1984 82歳
7月、『愛といのちと』新潮文庫版刊行。
11月、『八十歳の宣言―人間を生きるー』を人文書院より刊行。

昭和60年 1985 83歳
8月、上坂冬子、佐藤愛子ほか共著『女たちの八月十五日』に「愛する故に戦わず」収録。櫛田ふき、石井あや子、矢島せい子との対談集『いのち永遠に新し』労働旬報社より刊行。
11月、『いのちは育つー抱樸舎からー』を人文書院から刊行。

昭和61年 1986 84歳
1月、灰谷健次郎との対談『われらいのちの旅人たり』を光文社より刊行。
4月、毎日新聞「女のしんぶん」に連載したエッセイ集『地球の一角から』を人文書院から刊行。
6月、童話『ふたごのおうま』を河出書房新社より刊行。絵はイワン・ガンチェフ。

昭和62年 1987 85歳
1月、斉藤公子との共著『女性は地球をまもる』を創風社より刊行。
11月、新日本出版社刊の日本プロレタリア文学集23『婦人作家集3』に、戦前に発表した短編・評論4作品「土地の代償」「搾取網」「土地の反逆」「農村雑景」を収録。

昭和63年 1988 86歳
5月、木村京太郎は清原美寿子(故西光万吉夫人)と牛久に住井を訪ねた。木村は6月11日に死去。
澤地久枝対談集『語りつぐべきこと』(岩波書店)に「女たちが地球をまもる」収録。
6月28日から、生前の木村京太郎の計らいで、住井と寿岳文章の3日連続対談が京都で行われる。
12月、『わたしの童話』を労働旬報社より刊行。

昭和64年 平成1年 1989 87歳
7月、『わたしの少年少女物語』を労働旬報社より刊行。
8月、福田雅子との対談『宣言を読む』を解放出版社より、『住井すゑ・初期短編集1「農村イソップ」』を冬樹社より刊行。
9月、寿岳文章との対談『時に聴くー反骨対談―』を人文書院より刊行。
10月、『住井すゑ・初期短編集2「土の女たち」』を冬樹社より刊行。
11月、牛久の住井宅で今井正と、映画「橋のない川」について対談。『今井正「全仕事」-スクリーンのある人生―』(ACT)に収録。
『わたしの少年少女物語Ⅱ』を労働旬報社より、ブックレット『さよなら天皇制』をかもがわ出版より刊行。

平成2年 1990 88歳
5月、エッセイ集『続 地球の一角から』を人文書院から刊行。
6月、『住井すゑ・初期短編集3「村に吹く風」』を冬樹社より刊行。
『橋のない川』英語版『The River with No Bridge』がチャールズ・E・タトルより刊行される。スーザン・ウィルキンソン訳。

平成3年 1991 89歳
1月、住井すゑ編『日本の名随筆99哀』を作品社より刊行。『食品汚染―食と健康からみた輸入農産物―』(若月俊一ほか共著)を労働旬報社より刊行。

平成4年 1992 90歳
2月、『地の星座』上下巻を汐文社から復刊。
5月、東陽一監督の映画「橋のない川」が東宝系映画館で公開される。製作はガレリア・西友共同。美術は内藤昭、撮影は川上皓、畑中孝二役には、幼年時代を中野聡彦、少年に藤田哲也、青年に渡部篤郎。兄の誠太郎に、少年の趙泰勇と青年の杉本哲太。母ふで役に大谷直子。祖母ぬい役は中村玉緒が演じた。
『橋のない川』新装決定版全6巻が新潮社より刊行される。
6月19日、東京の日本武道館で講演「九十歳の人間宣言―いまなぜ、人権が問われるのかー」を開催。8500人の聴衆が集まる。
6月、『二十一世紀へ託すー『橋のない川』断想―』を解放出版社より刊行。
8月、『わたしの童話』が新潮文庫に。講演カセットブック『九十歳の人間宣言』を新潮社より刊行。
9月、『橋のない川』第7部が新潮社より、ブックレット『九十歳の人間宣言』が岩波書店より刊行される。
フィリピンで『橋のない川』タガログ語訳『Ang Ilog na Walang Tu Lay』が刊行された。

平成5年 1993 91歳
2月、新潮カセットブック・講演『私はなぜ『橋のない川』を書き続けるのか』を刊行。
6月、東陽一監督の映画「橋のない川」のビデオ版を解放出版社が刊行。

平成6年 1994 92歳
4月20日、詩人・櫻本富雄のインタビューをうける。
5月、ブックレット『人間みな平等』を岩波書店より刊行。
7月、古田武彦ほか共著『天皇陵の真相―永遠の時間のなかでー』を三一書房より刊行。
8月、『橋のない川』第7部新潮文庫版刊行。

平成7年 1995
1月、聞き手・増田れい子『わが生涯―生きて愛して闘ってー』を岩波書店より刊行。
2月、小学館ライブラリー版『女たちの八月十五日―もうひとつの太平洋戦争―
』に「愛する故に戦わず」再録。
4月、『住井すゑと永六輔の人間宣言―死があればこそ生が輝くー』を光文社より刊行。
5月、増田れい子が『住井すゑ ペンの生涯』を労働旬報社より刊行。
8月、雑誌「論座」(朝日新聞社)が戦後50年特集「表現者の戦争責任」を組み、櫻本富雄「住井すゑにみる『反戦』の虚構」ほかが掲載される。
11月、若月俊一との対談集『いのちを耕す』を労働旬報社より刊行。

平成9年 1997 95歳
1月21日、住井は急に足腰が立たなくなり、牛久市内の愛和病院に入院した。
1月より『住井すゑ対談集』全3巻が労働旬報社から刊行はじまる。
4月、『いのちに始まる』を大和書房より刊行。
6月16日、住井すゑは自宅で逝去。
7月6日、「住井すゑさんと未来を語る会」が茨城県稲敷郡茎崎町の圏民センターで開かれた。

平成10年 1998
1月、増田れい子が『母 住井すゑ』を海竜社より刊行。
11月、新潮社刊『住井すゑ作品集』全8巻の刊行がはじまる。翌1999年8月に完結。

平成11年 1999
3月、福田雅子との対談『「橋のない川」を読む』を解放出版社刊。
5月、犬田章が『母・住井すゑの横顔』を大和書房より刊行。

平成13年 2001
6月、前川む一・増田れい子ほか共著『住井すゑの世界―その生涯と文学―』を解放出版社が刊行。

平成15年 2003
5月、北条常久が『橋のない川―住井すゑの生涯―』を風濤社より刊。

平成22年 2010
4月、昭和堂が犬田卯訳(増田れい子・斎藤征雄補訳)『民衆のフランス革命―農民が描く闘いの真実―』上下巻を刊行。
<2010年4月11日 5回連載「住井すゑ年譜」完> [ 222 ]
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「住井すゑ年譜」連載 №4 

2010-04-04 | Weblog
昭和21年 1946 44歳
春、二男の充が病床の父のために三本の桜の苗木を庭に植えた。
7月、憲法草案を読む勉強会で東京に行くが、天皇制の記載に納得せず、席を立つ。
7月25日、卯の病状が悪化する。
雑誌「婦人倶楽部」や「婦人と政治」などに作品を発表。

昭和22年 1947 45歳
5月、新潮社が創刊した童話雑誌「銀河」に作品を発表。その他の雑誌にも、執筆依頼があれば、いくらでもどこにでも書いた。
5月3日、日本国憲法施行。

昭和23年 1948 46歳
6月号「銀河」に掲載された童話「飛び立つカル」が、のちに三省堂の国語教科書に掲載される。当時、どの教科書でも掲載料が支給されなかったことに抗議し、これを切っ掛けに、以降すべての掲載作家に謝礼が出ることになる。

昭和24年 1949 47歳
雑誌「リベルテ」に短編をたびたび発表。
この年から、小学館の学習雑誌に児童文学を毎号発表。掲載は10年以上続く。同じ小学館の教育雑誌にもたびたび発表。

昭和25年 1950 48歳
3月、れい子は日本女子大学を卒業し、4月より東京大学国語国文科(3年制)に入学。

昭和26年 1951 49歳
雑誌「農民文学」に短編小説をたびたび発表。

昭和27年 1952 50歳
11月、小学館の児童雑誌への一連の仕事が認められ、「みかん」で第一回小学館児童文化賞(文学部門)を受賞。同時に賞をうけたのは奈街三郎と土家由岐雄で、土家は後に「かわいそうなぞう」を発表。

昭和28年 1953 51歳
4月、れい子が毎日新聞社に入社。

昭和29年 1954 52歳
6月、書き下ろし長編の児童文学『夜あけ朝あけ』を新潮社より刊行。現代児童文学の長編化の先駆け。
11月、『夜あけ朝あけ』で第8回毎日出版文化賞を受賞。その後、劇団民藝での映画化、文化座での劇化、NHKラジオ放送などで広く話題をまいた。

昭和30年 1955 53歳
8月、渋谷定輔が牛久に犬田夫妻を訪ね、卯の未刊の原稿「農民文学史」が話題になる。小田切秀雄の協力で後に、『日本農民文学史』(農山漁村文化協会・1958年)が刊行される。
10月、愛犬の太郎が老衰で死去したが、その直後に卯がけいれん発作を起こし、意識不明になる。
11月7日、卯は土浦市の後藤精神病院に入院。衰弱性神経症と診断された。すゑは病室に泊まり込んで、看病と原稿書きを続けた。

昭和31年 1956 54歳
2月、卯は退院したが、すぐに後藤病院に再入院。4月23日にやっと自宅に帰る。
『夜あけ朝あけ』が劇団民藝で映画化された。監督は若杉光夫。出演は、遠井慶子、吉田隆、乙羽信子、宇野重吉、北林谷栄ほか。

昭和32年 1957 55歳
7月21日、夕食後に卯は、「今夜は楽に寝れそうかな」と言ったとたん、すゑの腕のなかに倒れ、息を引きとる。享年66歳。
7月28日、無宗教による葬儀を行った。
10月、犬田卯と住井すゑ共著『愛といのちとーはだしの夫婦愛36年―』を大日本雄弁会講談社から刊行。ふたりの往復手記をすゑがまとめた。

昭和33年 1958 56歳
3月18日、犬田卯著『日本農民文学史』の印税を、東京青山の無名戦士の墓地拡張費に寄付。その縁で後に、夫の遺骨の一部が同所に納骨される。すゑはその足で解放同盟の東京事務所を訪れ、同盟の運動に文学方面で参加することを申し出る。
5月1日、京都の問題研究所を訪れる。5月4日5日、奈良市で開催された第3回全国婦人集会に参加し、はじめて問題研究所の木村京太郎に会う。木村の少年期の体験は『橋のない川』の主人公、畑中孝二の記述と重なる部分が多い。
6月、書き下ろし長編『向い風』を大日本雄弁会講談社から刊行。
7月、解放同盟の紹介で、和歌山県朝来(あつそ)に数日泊りこむ。教職員の勤務評定闘争で、血をみるほどの闘いがくりひろげられており、小中学生も同盟休校し、村の寺で勉学に励んでいた。そして田辺の町で映画「つづり方兄妹」をみて泣く子どもたちの姿から、はじめてすゑは「差別される人間の痛みの千分の一、万分の一かがわかったような気がした。わたしはこのうえは文字通りいのちをかけて……」と決意した。

昭和34年 1959 57歳
問題研究所の雑誌「」1月号から翌1960年10月号まで、小説「橋のない川」を22回連載。編集担当は谷口修太郎、挿絵は小栗美二。原稿枚数は400字詰めでのべ950枚。
4月、はじめて広島の原爆資料館を訪れた。

昭和35年 1960 58歳
2月5日、すゑの兄(三男)辰蔵死去。享年77歳。

昭和36年 1961 59歳
9月、『橋のない川』第1部を新潮社から刊行。
12月、『橋のない川』第2部を書き下ろし刊行。当初は全2部上下巻で完結の予定だった。以降、小説『橋のない川』はすべて書き下ろし。

昭和37年 1962 60歳
1月、問題研究所の所員が、京都東一条の旅館「しま」で『橋のない川』出版記念会を、すゑを招いて催した。
<2010年4月4日> [ 221 ]
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