ふろむ京都・播州山麓

京都の西山&播州山麓から、気ままな雑話をお送りします。長期間お休みしていましたが、復活近しか?

戦時中の動物たち №2

2008-12-30 | Weblog
 高島春雄著『動物渡来物語』(日本出版社刊・昭和22年3月発行)。現代語表記にあらためて、同書「猛獣渡来考」からの再録、二回目です。

 わが軍がアリューシャンのキスカ島から撤収するときに連れて来た若い北極キツネの一頭が、上野動物園に寄贈され、昭和18年8月24日から公開された。北極キツネはわたしの子どものころ、一度飼われたきりで、わたしもその当時の記憶はまったくなく、初対面も同様であるから公開七日目の8月31日に、見物におもむいた。先般生まれたヒョウの子も見たいと思い、猛獣の檻に来てみたら、「工事中につき当分閉鎖」という札を掲げ、森閑としている。
 工事はしたくとも、[この戦況では]容易にできない実状にあるのに、何を工事しておるのかと、いぶかしく思った。それから一両日して、「非常時に際しての万一の場合を考慮し、上野動物園に飼育する最も危険な猛獣を、このほど懇切に処置した」旨の挨拶状が東京都公園緑地課から発せられた。
 この猛獣というのが実は、ライオン、トラ、ヒョウ、チーターなどの大型食肉獣だけでなく、インド象、アメリカ野牛、ニシキヘビ、ガラガラヘビにまで及んでいる。わたしたち動物園愛好家は限りなき愛惜を覚える。動物園に多年飼われているのだから、すでに猛獣性は萎縮し、非常の場合にも暴れ出す恐れはないだろう、などと考えるのは軽率である。
 昭和18年9月4日午後2時から、園内の動物慰霊塔前で、殉難動物慰霊法要が営まれた。同じころ、大阪市動物園でも猛獣類を時局に殉ぜしめた。
<2008年12月30日 続く>
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦時の動物園 №1

2008-12-28 | Weblog
 いい本に出会いました。高島春雄著『動物渡来物語』(日本出版社刊・昭和22年3月発行)。著者の高島さんは、明治40年(1907)東京生まれ。昭和11年に東京文理科大学卒業後、同大講師をつとめ、後に山階鳥類研究所研究員、早稲田大学講師をつとめられました。動物学・博物学者。昭和37年5月31日(1962)逝去。
 『動物渡来物語』は昭和19年10月までに原稿を書き終えられていたのですが、戦争末期に動物の物語など出版が不可能です。結局22年の刊行になったのですが、本文を読むとどうも敗戦の年、昭和20年の暮れには脱稿しておられる。
 この本を入手することはいまでは困難です。何人かの方に読んでいただきたく、今日から6回連載の予定で、一部抜粋で転載させていただこうと思っています。なお文は現代語に、またいくらか書きかえました。

[まえがき]
 本稿は昭和19年10月までに完稿。同年末に出版企画届なども提出されたのであるが、戦勢日ごとによろしからず、出版できぬままに満一年が経過してしまった。この間の世の変革は、こころも言葉も及ばれない。
 20年3月14日、大阪の第一次大空襲で、この本を出版する予定だった日本出版社は、大阪の本社も倉庫も工場も全焼という憂き目をみられた。東京本郷のわたしの家は、4月13日夜の帝都西北部大空襲の際烏有に帰し、多年蒐集のそれこそ万巻の文献を駄目にしてしまった。
 そして5月25日夜の東京空襲には東京文理科大学が危急に瀕したが、幸いにも本建築の大学枢要部は助かった。本稿ははじめから、文理科大動物学教室に置いてあったので自宅の災厄のときもまったく無事であったが、5月25日の夜には偶然にもわたしは宿直で、教室の非常持ち出しの書類とともに本稿も忘れずに抱えて火中を彷徨し、一時は逃げ場所を失うなどのひどい目に会った。
 続いて佐藤井岐雄博士は8月6日の広島市原子爆弾攻撃の時、重傷を負い数日の後、他界なされた。これこそ取り返しのつかない大損失で、わたしは限りなく悲しい。
 動物渡来に関する諸資料はすべて拙宅に集結させてあったために、4月13日の晩に全滅した。これを復旧させるのは容易ではない。しかしわたしもまだ5年や10年で命数尽きるとも思えないので、今後10年計画で復興にかかることとし、[蔵書資料蒐集に]すでに着手した。
 終戦になって、行誠上人の悟りの歌「何事もきのふの夢ときゝながら なほさめかぬる我が心かな」のような気持ちでいるが、これからは諸外国からまたいろいろな珍奇動物が舶来されるようになろうと考えると、悲観どころか新しい元気が出てくる。いつの日にか「続動物渡来物語」を携えて、ふたたび諸賢にお目見えしよう。
 昭和20年12月下浣[下旬] 老父母の健在を慶びて 著者重ねて識す

[注]この本の巻頭には「此の書を 廣島市にて戰災死を遂[旧字]げられたる畏敬する先輩 故佐藤井岐雄博士の英靈に捧ぐ」。佐藤は広島文理科大学の教員だったが、サンショウウオ研究の権威。学校に置いてあった重要書類を疎開させるために、妻とともに広島市に戻ったがために被爆した。8月8日、被曝の二日後には教授に昇進する予定であった。
<2008年12月28日>


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲 五百羅漢 №8 <若冲連載27>

2008-12-25 | Weblog
江戸時代の石峰寺五百羅漢(2)

『拾遺都名所圖會』
 『都名所圖會』再刻版発行の翌年、天明七年(一七八七)には『拾遺都名所圖會』が刊行されました。都名所図会がたいへんなベストセラーになったため、柳の下のドジョウを狙って、続編が出たわけです。このあたりの思惑は、現代の出版事情とかわりません。以下本文を意訳します。なお図はない。
 「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、まわりに十六羅漢、五百の大弟子が囲み、釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)において法を説きたまう体相である。羅漢の像おのおの長さ三尺ばかり。いずれも雨露の覆いなし。近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」
 安永年間は十年間であったので多分、安永五年(一七七六)ころでしょうか。若冲六十一歳、還暦のころに制作を開始したのです。昔の年齢は数えなので、還暦は六十一歳でした。
 そして天明のはじめ、六十六歳か六十七歳の時、おおよそ五年か六年ほどの歳月をかけて、第一期の造作を完了したと思われます。
 石峰寺の石像群は五百羅漢と呼ぶにふさわしくない。このことは何人もの先学が指摘しておられます。明治期以前には千体以上の石像が後山にあったのですが、それを五百羅漢と称した原因は、最初に若冲が完成させた初期石像群が、上記のごとく、五百体余であったからでしょう。
<2008年12月25日 若冲屏風絵「象と鯨」を考える日々>

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲 五百羅漢 №7 <若冲連載26>

2008-12-21 | Weblog
江戸時代の石峰寺五百羅漢(1)

『都名所圖會』再板版
 ここで石峰寺の五百羅漢が造られて以降の江戸期の記述を、時系列でみてみましょう。初出は天明六年(一七八六)に刊行された『都名所圖會』再刻版です。その六年前に発行された『都名所圖會』初版が、まず大ベストセラーになり、若干の変更を加えて後に再板再刻発行されました。
 初版刊行時には、羅漢建造は進行中でした。そのため図にも本文にも羅漢の記載はありません。ところが天明版再版では、「近年当百丈山には石像の五百羅漢を造立し霊鷲山のここにうつれ」と山上の図の余白に記され、羅漢が並んでいます。
 この記述は、意味のわかりにくい文ですが、「近年、百丈山・石峰寺に石像五百羅漢が建立された。お釈迦様がかつて仏法を説いたところの霊鷲山(りょうじゅせん)よ。インド・天竺よりここに移り来たれ」という意味でしょうか。
 このページに、石峰寺の朱印がふたつ押されている『都名所圖會』再刻版を発見しました。筆者が偶然、京都府立総合資料館でみつけた押印本『都名所圖會』再板全六卷ですが、持ち主はかつてこの本を御朱印帳として利用し、京の各寺を巡っておられた。面白い発想だと思います。全冊に押された印を調べてみましたが、寺社等の数は六十八、印判は百六十六個にのぼります。印章から推定するに、押印の時期は残念ながら江戸時代ではありません。後世それも昭和十年ころの、巡礼行脚だったようです。寺社以外にも、宇治橋の通圓茶屋、一条戻り橋の御餅屋山口五兵衛、方広寺大佛前の餅屋隅田屋の印まで押してあります。相当の甘党だったのでしょう。ところでこの本は、傷みの少ない美本です。持ち出すときには大切に扱い、自宅では仏壇に納めておられたのではないかと想像します。
 ちなみに画家・池田遥屯さんが生前に寄贈された『都名所圖會』全冊も、総合資料館でみることができます。おそらく画作の参考に、この本を利用されたのでしょう。本には直筆の栞がはさんでありました。遥屯先生の孫、画家の池田良則さんにもこのことをお知らせし、喜んでいただきました。蛇足まで。
<2008年12月21日>



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲 五百羅漢 №6 <若冲連載25>

2008-12-14 | Weblog
椿山荘の羅漢 (4)

 ところで椿山荘ですが、もとは上総国久留里藩黒田家の下屋敷でした。明治十一年(1878)に公爵山縣有朋が入手し、もとの地名「椿山」にちなんで椿山荘と名づけます。なお彼の別邸は京都に無隣庵が新旧二庵ありますが、いずれにも羅漢の痕跡は見当たりません。
 椿山荘は大正七年(1918)に、山縣から藤田組二代目の男爵藤田平太郎に譲られました。理由は、晩年を過ごすには広すぎるから。また丹精をこめて造りあげた名園を永久に保存してくれる人物として、同じ長州出身の故藤田伝三郎の長子、平太郎は適任であったのです。
 藤田平太郎の妻、富子は『椿山荘記』に記しています。椿山荘にはかつて一休禅師の建立という開山堂があった。山城国相楽郡の薪寺から移築したものですが、「堂のまわりは熊笹の丘で、石の羅漢仏十数体を点々と配置してあります。この石仏は若冲の下画と称し、古くより大阪網島の藤田家の庭園にあつたものを移した。」
 富子は伯爵芳川顯正の三女として明治十五年に生まれました。父顯正は幕末、伊藤俊輔、のちの伊藤博文に英語を教えたひとです。明治期には東京府知事、文部大臣、司法大臣、逓信大臣、内務大臣などを歴任しました。彼も長州閥に属したひとです。
 平太郎が富子と結婚したのは明治三十四年二月です。網島のふたりの新居は、日本郵船の大阪支店長だった吉川泰次郎の屋敷を、藤田伝三郎が明治十九年に購入し、まわりの地を買い足した広大な敷地でした。富子は結婚当初から網島の豪邸で暮らしました。大阪網島は近松門左衛門『心中天の網島』で知られます。
 小松宮が羅漢を所望したのは明治三十三年でした。その翌年に結婚した富子は「羅漢は古くより大阪網島の庭園にありました」と記しています。椿山荘の羅漢たちはかなり以前に、宮とは別の経路を通じて、深草石峰寺から大阪網島をへて、大正年間に東京椿山荘へ移されたのでしょう。
 それと、もと高麗橋通にあった藤田旧邸から網島に移った可能性も考えられます。また吉川泰次郎の庭に、明治十九年以前からあったのかもしれません。移動経路は不明ですが、石峰寺から明治のはじめ、廃仏毀釈のころに出たに違いありません。江戸時代には、若冲石像が石峰寺から流出したという記録は一切ありません。
 ちなみに網島の旧藤田本邸は現在、藤田観光太閤園、藤田美術館、大阪市長公館、藤田邸跡桜之宮公園などが並ぶ地です。なかでも藤田伝三郎が親子二代にわたって集めた美術品は、大阪空襲にも幸い耐え残りましたが、質量ともに実に見事です。昭和初年の金融恐慌時にいくらか売却され散失しましたが、それでも同家所蔵品は数千点、うち国宝重要文化財は五十点をこえます。それらを収蔵する財団法人藤田美術館の設立に尽力したのは富子と義妹の治子でした。昭和二十九年に開館した同館初代館長は、藤田富子がつとめます。
<2008年12月14日>
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都御苑 2

2008-12-07 | Weblog
 「京都御苑 歴史散策の集い」という市民参加の企画が、今日ありました。1時に閑院宮(かんいんのみや)邸跡に集合。寒風のなか、おおよそ500人ほどのひとたちが集まりました。主催は環境省京都御苑管理事務所、実働メンバーはNPO法人京都観光文化を考える会「都草」。
 御苑は広い。東西700メートル、南北1300メートル。1周すると4キロメートル。徒歩で1時間ほどもかかる。
 まず閑院宮で、関係者のよるご挨拶がありその後、参加者は御苑内に散る。北に向かうひと、東に向かうひと。要所要所、おおよそ20数ヶ所にボランティアの方々が立ち、訪ねるわたしたちにそのポイントの歴史を解説してくださる。
 要所の一部を紹介すると、賀陽宮邸跡、西園寺邸跡、蛤御門、近衛邸跡、中山邸跡(明治天皇産屋・初公開・行列が延々と続き素通り)、橋本家跡(和宮誕生)、学習院跡、鷹司邸跡、九条邸跡・・・。
 あまりに解説場所が多く体も冷えるので、はしょってしまいました。行ったのは数ヶ所・・・。それでも約2時間弱の行程でした。
 たまに歩く御苑ですが、風化のなかに数多くの「跡」を踏みしめてきました。御苑を歩くときには、じゃり道よりも、芝生雑草の土を踏みしめるのが心地よい。散り初める楓と、冬の松緑が斜陽に染まって鮮やかでした。
 ボランティアのみなさん、ご苦労さまでした。


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都御苑

2008-12-06 | Weblog
 急な話で申し訳ありませんが、友人から京都御苑、散策会の案内が、本日届きました。明日7日日曜日です。急なことですが、行ってみようと思っています。御苑は、歴史も自然も面白い。ご興味ある方は、お越し下さい。といっても、わたしの案内ではありませんが。以下、案内文の転載です。

 12月7日の昼、1時から4時までの予定で「京都御苑歴史散策の集い」があります。時間あれば、ぜひ参加されますように。
 主催:環境省京都御苑管理事務所
 京都御苑内を散策しますが、午後1時から20分程度の予定で、閑院宮邸跡庭園湖畔で、主催者の説明があります。
 烏丸丸太町の交番に近いところから、御苑に入り、直ぐのところです。無料。問い合わせは、電話075-451-8146へ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする