ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

桂女 かつらめ

2007-10-28 | Weblog
桂女という女人のことは、謎に包まれています。京の町に、桂川をこえて鮎や飴を売りに来る販女(ひさめ)というのが、あたらしい、といっても明治初期までの記憶です。
 もっとも古い伝承は、神功皇后につかえ、三韓に出征した岩田姫を祖とするという。皇后の子、応神天皇の産に携わり、妊婦の岩田帯はここからおこるとする。桂女独特の頭に巻く白い麻布の鉢巻「桂包(かつらづつみ)」は、まるで巻貝のようですが、この帽子は、皇后からいただいた旗布であったいう。おそらく桂女は後世、妊婦たちに霊験あらたかな白い帯、犬印(犬字または×字を描いた)腹帯・岩田帯を巻くことを生業としたのであろうと思います。
 彼女たちは代々、桂川西岸の桂の地を中心に古くから住む、女系相続を明治期まで続けた巫女(みこ)・シャーマンの一族集団でした。もともとは産婆として安産の祈祷にかかわったのでしょうが、おそらく平安時代の後期から鎌倉時代、桂女は朝廷に鮎を献ずる供御人(くごにん)を兼ねます。「上桂供御人」の記録がありますが、彼女たちの呼称でしょう。夫たちは鵜飼に携わり、また特権を朝廷から与えられ、山城一帯の河川を自由に往来し、水上交通に大きな力を持ったという、鎌倉時代の記録もあるそうです。
 彼女たちは、桂が「かつ」に通じ、何よりその呪術が信じられ、戦国時代には御陣女房・御陣女郎として戦地にも赴きました。戦場で、桂女たちの勝利を祈る呪声が響き渡ったことでしょう。一説では、打ち落とされた敵将の首を洗い清め、死化粧を施し、怨霊を鎮めたともいいます。桂女の巫力だからこそ、御霊の魂鎮めも可能だったのです。後には、豊臣秀吉の朝鮮出兵、徳川家康の大坂・夏の陣にも彼女たちはかかわっています。お産に与する能力は、あの世とこの世をつなぐ、霊力を操ることであり、彼女たちが非常に強力なパワーを持ち合わせていると信じられたことが、巫女のはじめだったのだと思います。話はずれますが、最近の産科のお医者さんもたいへんだろうと思います。
 しかし江戸時代、世が平安になり、天皇家も没落し、それとともに桂女は、特定の宮家や所司代に、年賀や八朔の賀に挨拶に飴や栗柿を持って訪れ、慶賀の祝いを述べる。また邸宅新築や婚礼を寿ぐ、子どもの成長をまじなう、一条や五条の橋のたもとで辻占(つじうら)をする。そして町中へ鮎、鮎肝の塩漬け(うるか)、桂飴を売りに行く、単なる行商の女になってしまいます。そのころには、かつての栄光の巫女の記憶も薄れ去ってしまいました。
 柳田国男は、没落しながらも「とにかく十軒の桂女が、どうにか退転もせずに、明治遷都のときまでは続いた」と記しています。遷都とともに天皇、公家、武家もほとんどが江戸東京に行ってしまった。彼女たちの生活は、鮎と飴だけでは成り立たなかったのでしょう。時代祭に桂女の集団が参加するのは、あるいは遷都とともに滅び去った旧習を、あえて残そうと、当時の祭の主催者が考えたからかもしれません。
 桂女十家ですが、その苗字をみると、大八木姓がいちばん多い。ラグビーの大八木さんもこの一族です。彼のかつての超人的バイタリティを思うに、桂女の巫力はいまだに受け継がれ、桂男にも健在であると断定できます。
<2007年10月28日 南浦邦仁>


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時代祭の大原女・白川女・桂女

2007-10-27 | Weblog
時代祭の行列は、京都御苑、御所の建礼門前を出、烏丸通から御池通、三条通、神宮道から平安神宮にいたる。維新の列からはじまって、平安時代を模した列まで、時代祭は過去へ昔へさかのぼる、各時代の風俗を描くユニークな行列祭です。
 祇園祭、葵祭とともに京都三大祭といわれていますが、この祭の歴史は意外と新しい。明治28年のことです。桓武天皇による平安遷都1100年記念に岡崎に平安神宮が造営された記念祭がはじまりだそうです。
 この10月22日、お世話になっている御苑の関係者にお誘いを受け、はじめて時代祭を着席で、見物しました。席は建礼門前、ちょうど行列のはじまる位置でした。延々、二時間。12時の維新勤皇隊スタートから、2時前発の神幸列と弓箭隊まで、二千人を越す参列者、2キロにわたる大行列を見物しました。
 歴史上の有名人が多数登場します。著名人のすぐ前には、名札を捧げたひとが歩き、「ああ織田信長か、背の高い豊臣秀吉だなあ」と感心したり、維新の志士だと、桂小五郎、西郷隆盛、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉田松蔭、高杉晋作は納得するとして、吉村寅太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、橋本左内、平野国臣なども登場します。現代の感覚からすると、人選に少し違和感がなきにしもあらずですが、この選定が明治中期のことであったとするなら、納得がいきます。そのころには幕末維新で活躍したひとたちが、政府の中枢で活躍していたわけです。彼らが、人選にかかわったと思えば、適切な配役であったのでしょう。
 女性もたくさん列をなしていました。徳川家に嫁した和宮、歌人の蓮月と梶、京銀座の大富豪・中村内蔵助の妻、池大雅の妻・玉蘭、吉野太夫、出雲阿国、巴御前、静御前、常磐御前、小野小町、清少納言、紫式部、淀君などなど。時代順の記載でなくて混乱し、申し訳ないのですが。
 ところで、女性列のなかでも筆者の目をひいたのは、大原女(おはらめ)、白川女(しらかわめ)、桂女(かつらめ)が連なる庶民の一団でした。
 大原女は洛北、八瀬や大原の女性たち。頭上に薪や炭を載せ、京の街に売りに出ることを生業とした販女(ひさめ)です。小原女とも記すという。炭は重いが、自分の体重と同じ量を載せることができれば一人前といわれたそうで、きびしい重労働でした。
 白川女はいまも京の街中でときどき見かけます。頭の上ではなく、リヤカーで花をお得意さんに届ける現役のおばあさん、おばさんたちが、現在も絣の着物姿で活躍しておられる。また時代祭の行列は、「白川女保存会」が仕切っておられる。旧習を守り、またなじみの古い付き合いを大切にする町衆に支えられ、たぶん数百年の伝統に生きる女性たちの行商の花業には頭が下がる思いがします。
 ところで問題は、桂女(かつらめ)です。この女人たちのことはいまでは風化してしまい、地元洛西の桂でも知るひとは少ない。次回は、桂女のことに触れてみましょう。
<2007年10月27日 みな>



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竹林ちくりん公園

2007-10-16 | Weblog
 京の西は洛西。西京区北福西町の丘に、竹林公園があります。知るひとぞ知る。地元でも知るひと、行ったことのあるひとの少ない、風情あふれるかわいい庭園です。洛西一帯は、筍の名産地。大枝(おおえ)のタケノコは京いちばんの名物です。
 公園は名の通り、植えられている竹の種類がすごい。まず太い孟宗竹、京にはじめて移植されたのは、伊藤若冲の没年である西暦1800年、わずか208年前のことです。つぎは淡竹はちく、パソコンではつい破竹と書いてしまう、勢いの強い竹です。そして矢竹、竹の矢は現代では死語。竹の種類をこれくらいは知っていますが以下、珍しい竹を列挙してみましょう。黄金竹、緑竹りょうちく、幹・稈の模様が甲羅のような龜甲竹きこうちく、布袋竹、寒竹かんちく、鳳翔ほうしょう竹、業平なりひら竹、皮白かしろ竹、陰陽いんよう竹、大福竹、蘇枋すほう竹、蓬莱ほうらい竹、銀明ぎんめい竹、白夾はっきょう竹・・・・・・。
 開園時間は、9時~17時(入園は16時まで)入園無料。水曜日がお休み。北福西町2丁目の小高い丘のうえ。
 小さな即売コーナーで竹細工品を売っていますが、おすすめは竹筆。竹の先を細かく切り込みたたき、筆にしたもの。太筆3400円、中太筆2200円、細筆1200円。いずれも税込み。これまで何人かの書道や画をたしなむ方にプレゼントしたり、頼まれて買いに行ったりしました。硬(剛?)筆(ごうひつ)という固くて癖のある筆ですが、みなさんに好評です。書画に達者な作家・水上勉先生も、ここの竹筆三本を愛用されました。
 ところでこの筆は、あまりに値が高いので、理由を聞きました。「穂先をつくるとき、竹を立てて上からそっと小刀で何回も細かく割るわけですが、パンと節が割れてしまって、失敗することが多いからです。材料費は安いのですが、一本をつくるために細心の注意と、かなりの時間が必要です。また日本には、もう竹筆を作る職人がほとんどいません」。なるほど、納得がいきました。一本、じぶんで作ってみましょう。
 それから、竹や笹を楽しむだけでなく、この公園には織田信長の遺跡・石像物が多いのがユニークです。彼が永禄12年(1569)に将軍足利義昭のために建てた旧二条城、別名二条御所。場所はいまの二条城とは離れ、丸太町烏丸の西北、御所のすぐ西隣にありました。その遺構が地下鉄建設の折に発掘された。石仏、供養塔、五輪塔、墓石などがぞろぞろ出てきたのです。それらが約百石、この竹林公園に移されたのです。信長はこれらを二条城の石垣に使った。神仏石像に日夜石垣で囲まれた住人の足利義昭にとって、さぞや寝心地の悪い城だったろうと思います。
 当時、信長と親交のあったキリスト教イエズス会の神父・フロイスは『日本史』に記しています。
「信長は多数の石像を倒し、頸に縄をつけて工事場に引かしめた。都の住民はこれらの偶像を畏怖していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖を生じしめた。」
 信長の神仏を恐れぬ合理主義はすさまじい。近江の安土城の天主に向かう石段にも、いくつもの石の仏像が、石ころのごとくにいまも横たわっています。後の江戸時代、キリシタン禁制のときに踏絵がありました。信長の時代、たくさんのひとが、階段に転ぶ石の仏を踏み登り、単なる石材としてそれらを扱わされたのです。常識や固定観念を超越した天才革命児・信長の思考と精神には驚嘆するしかありません。それらは、単なる加工された石にしか過ぎないのです。
<2007年10月16日>









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大枝の柿

2007-10-14 | Weblog
 京都の柿の産地は、大枝(おおえ)が有名です。国道9号線を亀岡に向かうと、老(おい)の坂の手前、京都市立芸術大学を過ぎ、最初の信号を左に曲がる。農家が玄関先で柿や野菜などを直売する小さな店が10軒ほど並んでいます。
 今日、車で行ってきましたが、早稲の小さなひねた柿が並ぶばかり。「富有柿はまだちょっと早いです。今月下旬にまた来てください」。店のかわいいお嬢さんにいわれました。店の前を南北に走る街道の名を教えてもらいましたが、「大山崎街道」。別名、柿街道ともいうらしい。ちょっと眉唾の気もしないわけではないが、この季節、柿街道は粋な名とも思う。
 大枝は明治期に3村が合併して、大枝村になったそうです。塚原、沓掛、長野新田。明治十年代の物産記録をみると、塚原は筍二万貫、製茶千斤、菜種二十石、大根三石。沓掛では、菜種十石、筍五千五百貫、竹六百束余。長野新田は、甘藷七百三十貫、筍八千貫、大根五石、竹四百束以上。筍は特産品としてよく知られていますが、意外と柿がみられない。
 昭和13年の記録では、大枝村では、富有柿十八町歩、六千二百貫、四千数百円。
栗は六十町歩、二万三千三百貫、二万二千二百円。また筍は百六十町歩、百十二万四百貫、七万四千三百六十円。
 大枝はかつて山陰街道の峠(老の坂)入口としてそれなりに栄えたが、鉄道の開通のために衰える。山陰線に汽車が走ったのは明治32年のことであった。
 そして昭和初期の恐慌で、この地区は悲惨な貧農地帯になってしまった。米もほとんど作れない地域である。
 当時、地元で力を入れたのが、筍の缶詰加工、栗と柿の栽培である。栗はいまではあまり栽培されてないが、大枝の柿と筍は高い評価を得た。
 筍は孟宗竹だが、江戸期1736年に薩摩藩の島津吉貴が中国から輸入。1800年頃、朝田文二郎が洛南八幡から洛西の長野新田にもってきて植えたといわれています。
 柿も筍も、意外と歴史は浅いようです。いずれにしろ、どちらもおいしい。今月末が大枝富有柿の旬。ぜひ、訪れてください。
(追記:新しい道路が開通し、今では近くの様子が一変してしまいました。9号線を左に曲がって、3番目の信号を左斜めに入っての旧道沿いです。2013年11月7日)
<2007年10月14日>



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京都・花の名所

2007-10-13 | Weblog
 花の名所といえば、まず桜を思う。花ではないが、紅葉も同様。見ごろ時、京都には観光客が押し寄せ、車道は交通渋滞で、地元民は毎年の恒例とあきらめてはいるが。
 京西山のカタクリ花の名所に行ったことがある。急な勾配を登り続けての花との出会いであったが、見物の登山者がたくさん訪れるため、地面は踏み荒らされ、残念ながら自生地は絶滅寸前であった。
 萩、椿、藤、百日紅、さつきなどなど、好きな花名所は何箇所もある。郊外に出れば、コスモスやヒマワリなど、群生が美しいスポットも増えた。ヒマワリ園には迷路が作られたりしている。
 ところでこの秋、美しいと思ったのが、ヒガンバナである。彼岸花、マンジュシャゲ(曼珠沙華)、シビトバナ(死人花)、テクサレ(手腐れ?)ともいう。あまりいい名前がついていないが、球根(石蒜せきさん)には猛毒が含まれている。民間薬として外用されるのだが、そのまま食べると劇薬である。ユリの根感覚で茶碗蒸しなどにして、間違っても食べてはいけない植物である。昔、飢饉のときには、根をすりつぶして、よく水にさらして食した。調理に失敗して亡くなったひとも多かろう。救荒植物といわれ、飢饉の言い伝え、中毒死者の古い記憶、また毒々しげにみえる朱色の花、それらが不吉な名の原因であろうか。
 しかし彼岸過ぎに田畑の畦や、川の堤防、電車の線路際などに群生しているヒガンバナの集団は美しい。近ごろは街のなかでもみられる。球根を移植したひとがいるのかもしれないが、ブラックバスの放流と違って、いきな行為だと思うが、みなさんいかがであろう。
 今秋、いちばん気に入った京都街中のヒガンバナ・スポットは、川端通り、鴨川の東岸の街路樹・植栽の足元を飾った花たちである。七条から六条にかけてが、きれいだった。もう花の盛りを過ぎてしまったので、1年後を楽しみにしていただきたい。
 ところで、今年の開花は例年よりも遅かった。秋のお彼岸に咲く彼岸花は少なく、これも地球温暖化の影響かと心配になった。それとデジタルカメラに花を収めて、このコーナーで紹介したかったのだが、残念ながらやりかたがわからない。近いうちにチャレンジしてみよう。
<2007年10月13日>

 
 




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山中越 やまなかごえ

2007-10-08 | Weblog
 京の荒神口(河原町通荒神口)、荒神橋が鴨川に掛かっているが、ここからいまの京都大学の敷地内に道路が北白川に走っていた。そして東山山中に入り、白川に沿って山中村を抜け分水嶺、比叡山を越えて近江国志賀郡(大津市)にいたる。この道を、山中越とか志賀越という。
 山中村という集落名からついた名で、山の中を抜ける道という意味から出た名ではないようだ。山中村は壬申の乱で破れた兵たちが開いた村という。1300年以上前のこと。古い村である。
 この道をはじめて整備したのが織田信長。永禄十三年(1570)の記録には、近江を平定した信長が、山中という所を通り、白川へ出、東山の辺りを通る「新路」を建設させた、とある。
 そして安土城が完成した後、織田信長公、江州安土城の御座し時、京より通る人、この道を出て、志賀の山越を過ぎ、東坂本より湖水を渡り、安土行しとなり。
 山中越を車で走るとき、織田の軍団がともに駆け抜けて行くような気配を感じる。また比叡山は信長が壮絶な焼き討ち惨殺を行なった山である。歴史は山の中にも凝縮している。
<2007年10月8日>
 
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比叡山のコンビニ

2007-10-07 | Weblog
 滋賀県と京都市を結ぶ道にはいろいろありますが、いちばん好きな道路は「山中越」です。湖西道路の近江神宮のあたりから北に折れ、比叡の山道を抜け、北白川まで続く道。道幅の狭いところは、対向車に要注意だが、緑の街道はここちよい。
 ところで比叡山ドライブウェイの料金所を過ぎて、下り道をすこし行くと、コンビニ・サークルKがあります。この店のユニークなのは、ポールの上の看板が黒字であること。サークルkの目印は、赤とオレンジ色の2重の丸のなかに、赤字のkの字がある。滋賀県大津市から車で走ってきて、真っ黒な看板にはじめて出合ったときには、少し驚いた。
 京都市は看板の規制がきびしい。コカコーラは赤地に白字がふつうだが、京都市では白地に赤字だという。大きな赤い看板は目立ちすぎ、敬遠される。しかしサークルKの場所は京都市との境界ちかくだが、大津市に属しています。比叡山が国定公園なので規制されたのでしょうか。それとも緑に囲まれた一角では、真っ赤な看板は違和感があるとして、自主規制されたのでしょうか。今度、この道を通るとき、店の方に理由を聞いてみようかな、と思っています。
 それと山中(やまなか)という山中の集落から着いた街道名ですが、この道には歴史的にも興味がひかれます。次回は山中越を取り上げようと思います。
<2007年10月7日>
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