ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

美しい京都の私

2008-04-29 | Weblog
 川端康成がノーベル文学賞を受賞したのは、昭和43年(1968)のことである。12月10日、ストックホルムでの授賞式で「美しい日本の私―その序説」講演を行なった。サイデンステッカー訳「JAPAN THE BEAUTIFUL AND MYSELF」で、その序をみてみよう。

 In the spring, cherry blossoms, in the summer the cuckoo.
 In autumn the moon, and in winter the snow, clear, cold.

 道元禅師の歌であるが、
 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり

 受賞の翌々年、韓国ソウルで国際P・E・N大会が開かれた。川端は日本ペンクラブ会長を、昭和23年から18年間つとめたひとである。ソウルにゲストとして招かれ、大会初日に祝辞を述べた。
 「…文学会議は常に必ず成功をあらかじめ祝っていいと信じます。政治の会議は時に失敗することもありますが、文学会議は失敗することはありません。…」

 真下五一もソウル大会に出席し、講演「京都の心」を語った。そして、その夜のことであった。
 現地の料亭に、世界の作家たちが招待された。真下の隣席は、川端であった。料亭の女主人のアン・ソン・エが、川端に揮毫を望んだ。彼が一筆したためたあと、アンは真下にも同じ一枚の白布に墨書を迫った。
 真下は筆は大の苦手なのでといい、「折角の川端さんの書を汚してしまうことになる」と断る。すると川端は「ぜひ書いておあげなさいよ」と強くすすめた。最初から川端は真下にも横に書いてもおうと考え、絹紙の左面は余白であったのであろう。
 ついに真下は覚悟し「美しい京都の私」と書いた。この書はアン女史の手元にいまも当然、残っているであろう。川端は何と書いたのか? どこの料亭かは不明だが、ふたりの一書をいつかソウルでみてみたい。
 川端『古都』完成には、真下の協力と励ましが大きかった。ノーベル賞受賞の一助でもあった。ふたりの友情、川端の感謝のこころが伝わってくる。
<2008年4月29日 真下五一著『京都の心』参照>
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アメリカヤマボウシ、別名ハナミズキ

2008-04-27 | Weblog
 桜花は八重のほか、まずほとんどが入寂してしまった。花に入滅はないだろうが、また一年待たねば逢えぬのかと、ついそのような感慨を抱いてしまう。
 しかしあまりの感傷は、桜の精から小言を頂戴するはめにおちいるかもしれぬ。謡曲「西行桜」、西行法師の西山の閑居へ騒がしい花見客がつぎつぎ訪れる。彼はつぶやいた。
 「花見むと 群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎(とが)には ありける」
 これを聞いた老木の桜の精、白髪の翁があらわれる。そして西行の失礼千万な言の葉に苦言を呈す。
 「桜の咎はなにやらん。…非情無心草木の、花に憂き世の咎にあらじ」
 花はこころなき草木である。憂しとか厭わしきとか思うのはひとのこころ次第。花に罪のありようはずがない。

 ところでこの頃では、ハナミズキ(アメリカヤマボウシ)の花が、大手をふっている。だがあの花は、実は「葉」であるらしい。総苞片(そうほうへん)と呼ぶ。白とピンク、触ってもみたが、わたしなどには花としか感じられない。
 この木はアメリカから九十年ほど前に贈られ、戦後の高度経済成長とともに日本全国を風靡した。1912年に尾崎行雄東京市長が、桜の苗木を首都ワシントンにプレゼントした返礼であった。日米親善大使の役割を二種の花樹が果たしたのかと思うと、その後の大戦があまりにも痛ましい。

 桜満開のころ、高瀬川沿いの居酒屋での思い出がある。フロリダから入洛されたひとと一献交わす機会があった。アメリカの桜事情を聞いてみた。お答えは「フロリダあたりは暖かくて、四季のない地方ですから、日本の桜は咲きません」
 一方のハナミズキは寒暖をいとわぬ強い樹である。桜をしのぐほどの勢いで戦後、日本国中を席巻している。舶来山法師の拡がりは、かつてコカコーラ、その後のマクドナルドやスターバックスなどと同様。いつかは古来からの桜も、隅に追いやられてしまうのであろうか。桜の翁は、何と答えるか。

 府立総合資料館の庭に咲くハナミズキが好きだ。大きく四方に腕を伸ばしたかのように、長すぎるほどの豊かな枝を張り、白とピンク、交互にならぶ。その悠然とした姿は、比叡を借景に見事である。山法師は叡山の僧兵であったか。

※ この原稿を書いている最中に、アメリカにいま行っている家族のひとりから携帯メールが届いた。「ワシントンD.C.に着いた」。あまりの偶然に「ポトマックの桜は?」と聞いてみたら「夜なのでわからないけど、かなり暖かく、雨脚強し」。すでに散ったか。
<2008年4月27日 米国山法師>
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京言葉の寝言

2008-04-23 | Weblog
川端康成と真下五一、京ことばを巡るふたりの交流のことは書いたが、真下の京ことば観を紹介してみよう。

 大阪弁で書かれた小説は数多い。谷崎潤一郎、織田作之助はじめ、たいていはみな成功している。ところが京言葉で書かれたものは少いし、またほとんどが失敗している。なぜだろうか。
 京言葉を文字にすると失敗になりがちなのは、作家の責任によるというばかりではない。もともと京言葉は、そのアクセントのやわらか味で生きている。それがアクセントの効きがたい文字となっては、思うようにいかないのも当然である。

 真下が昭和三十一年に書いた『ねごと随筆』から「京言葉の寝言」原文を紹介してみよう。

 ついタライマまでオーデーダシキでさわいでいたコロマラチが、ソドソド飽きがきたのか、カデが止み、ハデれてきたのをみると、いきなりカロへ飛出して、シド地にアカーのハターをなびかせ、ダッパを吹いて、それ、ハシデハシデと、駈出していく。

 なんとも難解な文章だが、標準語に直すとこうなる。
 つい唯今まで大勢座敷で騒いでいた子供達が、そろそろ飽きがきたものか、風が止み、晴れてきたのをみると、いきなり門へ飛び出して、白地に赤の旗をなびかせ、喇叭(ラッパ)を吹いて、それ、走れ走れと、駆け出していく。

 真下はこのような話し言葉を、何枚ものレコードに録音して残したかった。京ことばは、一種ひとつではない。室町を中心とした商家ことば、職人の西陣ことば、花街の色町ことば、大宮ことば(御所・女房・公家ことば)、北白川や高尾そして大原などの農家ことばなど多様である。
 レコード化するなら、それらの言葉は「時代に分かれて正確に整理され、上流中流下流と、各層に会話も厳選されて、男同士、女同士、男女の対話、又老人や子供もまじえての、系統立った本格的なものに仕上げなければならないだろう。随分、発音矯正や台本の作成、と相当長期にわたる訓練も必要だろうが、大がかりにやれば人材が得られぬこともなかろう。唯、相当な経費も入用のことだろうから、京都市自体が、音頭とりになってくれれば結構だが、あるいは、大学とか放送局あたりが主になって、やってみても面白いのではないか」
 そして真下は語る。微力なわたしには、京言葉のレコード化事業など手のつけようもなく、文字通り寝言の夢に等しく、そのまま寝言を録音ならぬ文字に記して、夢でもみることにいたすより、いまのところいたし方がない。
 その寝言の夢文が、先に紹介した子どもを描いた「京言葉の寝言」である。真下いわく、「まことに、こまった夢の中の遊びである」
 しかし何年も後、彼の夢の一端がかなう。ただの一枚だが、執念の京ことばレコードは完成する。1975年、真下没の三年前、まもなく七十歳に届こうとする年であった。
<2008年4月23日 夢の一滴 南浦邦仁>
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『古都』の京言葉

2008-04-22 | Weblog
貴船鞍馬の花紀行のことは前回に書いたが、いちばん印象に残ったのは、岩間で可憐な紫花を開くスミレだったかもしれない。
 ところでスミレといえば、川端康成『古都』を思う。京を舞台にした二十歳のヒロイン、千重子の物語だが「すみれ」がキーワードである。
 先週、ひさしぶりに再読した。ところが、どの場面でもデジャビュが起きない。ずいぶん昔に読了したはずの本だが、実ははじめて読んだのかもしれない。驚いたことに、すでに読んだ本かどうか、さっぱり記憶も自信もない。物忘れのいいのはいくらか自慢だが、物覚えの悪いのには、いつも閉口してしまうわたしである。
 小説『古都』の序章は「春の花」。千重子の家の庭には太いもみじ樹がある。木の上段のへこみ、そして一尺ほど離れた下の窪みに、二株のスミレが年ごとに咲く。出だしの文を引用してみよう。

 もみじの古木の幹に、すみれの花がひらいたのを、千重子は見つけた。
「ああ、今年も咲いた。」と、千重子は春のやさしさに出会った。……
「上のすみれと下のすみれは、会うことがあるのかしら。おたがいに知っているのかしら。」と、思ってみたりする。すみれ花が「会う」とか「知る」とかは、どういうことなのか。……
 自然の生命のいっせいにふくらむ春の日のなかに、このささやかなすみれを見ているのは、千重子だけであった。

『古都』は春のスミレ花にはじまり、「冬の花」と呼ばれる北山杉、台杉の山里に降る初雪に向かって帰る娘のうしろ姿で、この物語はおわる。一年の京を、大阪出身者とはいえ、あまり京都をご存じないはずの川端康成が、京言葉をたくみに駆使し、町と行事、季節の移ろいなどを、見事に描かれたことには驚嘆するほかない。
 京言葉は、とくに女性が話すと実にここちよく響く。しかし文字に直そうと試みると、作業は実に至難の技である。
 川端はなぜこのように難儀な京言葉を美しく表現できたのか、不思議だったのだが、やっと謎がとけた。彼はまず長編小説『京都の人』と『京都物語』を読んだ。著者はいずれも真下五一(ましもごいち)である。
 真下は明治三十九年、京都に生まれた。小説家だが、京都研究、そして京ことば保存に情熱を傾けたひとである。彼の数多い作品中でも長編『京都の人』は異色である。会話部分だけでなく、全編すべてを京言葉で埋め尽くした小説である。

 川端は真下について語っている。京言葉はもとより、京都の生活風習についても彼から教示を受けた。『古都』執筆のさいには、数度にわたって京と言葉の表現について、助言を求めた。
 この小説を朝日新聞に連載中、川端は真下に話した。「京ことばの使い方が違うといって、方々から注意の手紙が新聞社を通してこんなに来ている。こわいようなことだ」
 真下はこう記している。川端康成さんが『古都』を執筆中、京ことばには苦労されたものだ。ことばが間違っているという投書には「先生もずいぶん神経をいためていられた様子だった。京都のお隣の大阪弁を知っていられるだけに、かえっていっそう京ことばの純粋なニュアンスには苦労された」

 川端が「古都」連載をおえたのは、昭和三十七年一月二十七日のことであったが、彼はその直後に突然倒れる。十日間の昏睡ののち、だいぶ日をおいて回復した彼は、『古都』単行本化のため大幅に書き直した。自身の作品に「あとがき」など書かなかった川端だが、連載の文章をこの本ではずいぶん直したので、その理由を書きそえるために、『古都』にはあえて「あとがき」を記したという。
「この本になって面目を一新しているのは京言葉である。京都のひとに頼んで直してもらった。会話の全体にわたって懇切丁寧な修正の加えられて来たのを見て、これは容易でない煩労をかけたと思ったが、第一の難点の京言葉が改まって、私は安心した。しかし私の好みで修正に従わなかったところもある」
 会話文の訂正を助けた「京都のひと」とは、もちろん真下五一のことであろう。わたしたちがいま読む『古都』は、いうまでもなく川端の作品だが、真下の大きな助けをえて、輝きをいちだんと増した。
 ところで『京都の人』は真下の異色作品の題名である。京都の友人なり、真下の名をあえて記さず、「京都のひと」としたのには、遠慮や気遣い、そして暖かいユーモアがあったのではないか。きっとふたりは、あとがきの記載をめぐってもやり取りしたことであろう。このことを、真下はどこにも書いていない。
 あとがきからは、川端のやさしさや正直さなどとともに、こだわり、頑固な一面もちらりとみえる。ほほえましく感じた。

 その後、真下は思った。活字だけでは京言葉を表現し尽くせない。この想いがつのり、生の声で京言葉を残す事業に熱意をかたむける。膨大な資金を必要とする、個人にとっては大事業であるが昭和五十年、彼はついにLPレコードを完成させる。日本コロンビア『京都 京ことばと古都の風物詩』。
 このレコードは京都府立総合資料館にいまも一枚ある。しかし同館にはレコードプレイヤーがなく、また資料の貸し出しをしない。テープに落として聞かせていただきたいと過日、わたしは資料館に申し出た。数十年も昔、真下、川端両氏の想いのこもった声が聞けることを、こころから願っている。
 川端先生は昭和四十七年、真下先生は昭和五十三年に鬼籍にはいられた。ともに七十を少し過ぎたばかりの歳である。
<2008年4月22日 花盛りのなか 南浦邦仁>
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鞍馬の桜

2008-04-20 | Weblog
 貴船と鞍馬を歩いた。前の日曜十三日の朝、叡山電車の出町柳駅で友人と待ち合わせ、京男三人の日帰り豆旅であった。
 この三月から四月にかけて、あまりにも仕事が忙しく、友人のひとりが口走った。「温泉に行きたい!」。これが発端である。
 この季節、連休もとれないので一泊の旅もできない。ならば鞍馬温泉にでも日帰りで行こうか、ということになった。
 コースは叡電貴船駅で降り、川沿いを歩いて貴船神社を目指す、それから山を登り、鞍馬寺本殿から仁王門に至り、門前でビール昼食をとる。そして温泉の露天風呂につかる。そのような計画であった。

 叡電の車窓から見る桜は、格別であった。出町柳の周辺、鴨川や高野川の土手あたりは、ほとんど若葉桜になっている。一分か二分かの残り咲きとでもいおうか。ただ八重桜と紫紅の枝垂桜だけは、花が多い。しかし電車が北山に向かうとともに桜花が増える。比叡山中腹には白い花の繁みがあちらこちらに見える。あまりにも遠いので咲き具合ははっきりとはわからないが、ほぼ満開なのであろう。
 電車が岩倉を過ぎるあたりから、満開を過ぎたばかりで、いくらか葉の出た桜が増える。二軒茶屋、市原、二ノ瀬と奥に行くほどに、にぎやかである。町なかとはよほどの温度差があるのであろう。

 そして貴船。川沿いのゆるやかな道の横にならぶ桜は、いずれも早咲きの山桜ばかりであった。花はもう、ほとんどない。虚子の句、
  遅桜 なほもたづねて 奥の宮
 この句を楽しみに貴船神社奥の宮に来てみたが、桜花はどこにもない。かつて境内に遅咲きの桜があったのであろうか。いまはない。貴船の花は、藪椿と岩間に咲くスミレが眼に鮮やかであった。
 それから来た道を少し引き返し、左に折れて貴船川を渡り、急坂を登る。杉の根がまるで数千数万のタコの足のように絡まり地を這う。木の根道は何度歩いても好きだが、息が切れる。歳であろうか。いや仕事が忙しすぎたからと、もうひとりの自分がなぐさめたりしてくれる。
 さてついに鞍馬寺金堂前に辿りついたが、境内に数十本ある桜がみな満開。洛中の桜より、一週は遅い。クラマウスザクラと呼ぶそうだが、数本はまだつぼみが固い。虚子の句は、鞍馬山に似合う。
 貴船鞍馬のことは、いつかまた書こう。
<2008年4月20日 書くのが一週も間延びした花紀行>
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山崎の斎藤道三

2008-04-12 | Weblog
戦国時代の梟雄・斎藤道三、別名マムシの道三の出身地は、いまの京都府乙訓郡大山崎町あたりといわれています。
 司馬遼太郎『国盗り物語』は彼を主人公とする、美濃一国を盗み取る物語。山崎の油商人、若き松波庄九郎が知略でもって途方もない夢を叶える。五十歳ほどにして美濃国の戦国大名になり遂せる。数十年ぶりに『国盗り物語』を読み返してみたが、実におもしろい。
 中世期、山崎は灯明・エゴマ油の独占製造販売権を朝廷と幕府から公認されていた。道三は油座の特権や財力を活かして、大きな目標に向かってひた走る。
 山崎の油商人からこのような奇才が誕生したことは、実に興味深い。話は少し脱線しますが、山崎と大山崎への関心から、斎藤道三の若き日のことを小記してみようと思います。

 彼の生年には二説あるそうですが、1500年の前後。幼名は峰丸といった。先祖は代々、御所に仕える北面の武士であったらしい。父の名は、松波左近将監基宗といった。だが何かの事情で父は浪人となり、大山崎辺りに移り住む。
 少年峰丸は十一歳の春、京都の法華宗の寺・妙覚寺に入り法蓮房といった。しかし青年期に還俗し、松波庄九郎と称す。里に戻った彼は、燈油屋の奈良屋又兵衛の娘を妻とし、山崎屋と号して油商人となる。
 燈油行商で美濃まで出向いていた庄九郎は、かつて寺にいたときの兄弟弟子・日運上人の推挙で美濃国重臣の長井氏、斎藤氏、そして守護職の土岐家に接近する。上人はいまの岐阜市、法華宗の常在寺住職であった。
 庄九郎は謀略をめぐらせ、五十歳ほどにして、美濃一国を盗み取ってしまう。山崎の一介の油屋が、である。

 庄九郎は新しいことを考えるのが好きであった。彼が美濃に行く前のこと、山崎屋の土間に、従業員の手代や油の売り子などを集めた。司馬遼太郎『国盗り物語』の有名な一節を紹介してみよう。

「こういうのはどうじゃ」
 と、永楽銭一文をとりだした。
 銭の真ン中に、四角い穴があいている。
 庄九郎は、まずマスに油を満たしそれを壷にあけるかとみたが、
「さにあらず」
 と、ニヤリとした。永楽銭をつまみ、その上からマスを傾けてたらたらと注ぎはじめたのである。銭の下に壷がおかれている。
「あっ」
 とみなが声をのんだのは、マスからこぼれ落ちる油は、一すじの糸をなし、糸をなしつつすーっと永楽銭の穴に吸いこまれ、穴を抜けとおって下の受け壷に落ちてゆく。
 銭は、ぴたりと庄九郎の二本の指で、空間に固定されている。
「さあさ、お客衆、ご覧じろ」
 と、庄九郎は、ずらりと手代、売り子の群れを見まわした。おどろいたことに、庄九郎の両眼は、「お客衆」を見まわしているばかりでマスをもつ手や永楽銭をもつ手を監視しない。だのに油はマスから七彩の糸になって流れおち、永楽銭の穴に吸いこまれてゆく。
 至芸である。

<2008年4月12日 南浦邦仁>
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国境の山崎

2008-04-06 | Weblog
京都の南に位置する天王山あたりは、豊臣秀吉と明智光秀の山崎合戦で有名な地である。「天下分け目の天王山」から戦名「天王山合戦」ともいうが、実際の戦闘は山麓、大山崎の平地や桂川べりで展開した「山崎合戦」である。いまJR山崎駅と阪急電車大山崎駅のある狭隘な地から北にかけての平野で戦闘は繰り広げられた。
 山崎(やまざき)あるいは大山崎(おおやまざき)といわれるこの町は、山城国と攝津国の境界地である。JR山崎駅の木製標識がおもしろい。矢印の右が大阪府、そして左が京都府。この標示は大阪行きプラットホームの運転席寄りにある。各駅停車に乗車されたら、この駅で下車して標識をご覧になることをおすすめする。ちょうど真前でドアが開けば、発車前に車輌にもどることができる。しかし少しずれておれば、次の電車を待つことになってしまう。暇な日には、数分の遊びになるかもしれません。
 昔の国境(くにざかい)はだいたいが、大きな河とか峠などで決められていたのでしょう。ところが、山崎にはそのような川も峠もない。南北境界の線引きは、幅わずか1メートルほどの小さな沢のごとき「西谷川」である。
 この谷川は天王山の谷を下り、山崎駅のホームの地下を流れている。というかふだん、水量はほとんどない。小さな枯れた溝があるだけといってもよい。プラットホームの下の西谷川に沿って、駅を横断するトンネル歩道がある。天井が低いので頭上要注意だが、国境をいくこの歩道は愉快である。
 ところで山崎の地はかつて、岩清水八幡宮の神人(じにん)、油座の商人たち社家が統治する自治都市であった。大阪の堺ほど大きな都市ではないが鎌倉期以来、江戸時代まで、権力から公認された油商人の町・神領である。
 ちなみに堺も、摂津国、河内国と和泉国の三国にまたがる境界域にある。はじめ「境」と呼ばれたが、後に「堺」になったという。国境の山崎も、ともに自由を謳歌した自治都市である。国と国の境界には往々、治外法権の地域が誕生するのだろう。
 摂津の北境、山城国南境、ともに山崎であり大山崎。離宮八幡宮に属する聖地とみなされていた。ところが明治初年、ふたつの行政区に分断され、ただの町になってしまったのである。
 山崎の歴史は油業とともにあった。中世以来、大山崎の油商人たちは油座を組織し、全国の油専売権を握っていた。司馬遼太郎『国盗り物語』の斎藤道三もかつて、一介の山崎の油売商人であったされている。
 次回は大山崎の油のことでも書いて、油を売ろうかと思う今日このごろ。
<2008年4月6日、JR山崎駅舎に無事帰還した燕を祝う 南浦邦仁記>
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京のモンシロチョウ                

2008-04-05 | Weblog
♪ちょうちょう ちょうちょう 菜の葉にとまれ 菜の葉にあいたら 桜にとまれ 桜の花の 花から花へ とまれよ 遊べ 遊べよとまれ
 唱歌「ちょうちょう」だが、字面を追うと、この歌詞はどこか変である。モンシロチョウが卵を産むために菜の葉にとまるのはわかるが、桜の花から花へ飛ぶ紋白は、まずいないのではないか。
 戦前の原曲は「桜の花の さかゆる御代に」という詞だったそうだ。それが戦後に「花から花へ」に改編されてしまった。ために実に不自然な歌詞になってしまったのである。蝶もたいへんな迷惑をこうむって、うろたえフラフラしているのではなかろうか。
 しかし満開の桜花の下を優雅に舞う蝶はいる。ひらひらと飛び舞う花びらに、負けじと上下左右にゆっくり飛翔するモンシロチョウは、実にうつくしい。

 ところで、モンシロがいつから日本本土に住んでいるのか、不明だそうだ。原産地はヨーロッパ地中海辺だが、アメリカ大陸では1860年にはじめて採集されている。キャベツにまぎれての密入国であろう。
 ニュージーランドでは1930年に初確認され、オーストラリアは1939年、台湾では1961年に発見されている。日本でも沖縄は1925年、奄美大島では1927年からである。どの記録も意外と新しいが、日本列島へいつ来たのか、謎である。縄文後期か弥生時代との説もあるが、せいぜい数百年ともいう。

 日本最古のモンシロチョウの標本は、江戸時代のおわりころに数点が作製されている。なかでも面白いのが慶応2年(1866)、関東地方で採集された虫たちである。翌年にパリで開催される万国博覧会に出品するため、幕府学問所の役人であった田中芳男が五人の部下を従え、数ヶ月かけていろいろな昆虫を採取した。田中が捕虫網を振り回していたちょうどそのとき、徳川幕府は第二次長州征伐で悪戦苦闘している。
 虫たちは56個の絹下張りの桐箱に収められ、船でフランスに運ばれた。そのなかにモンシロチョウもいた。パリでは昆虫学者の注目を集め、ナポレオン三世から田中の標本は銀賞を授与される。慶応3年のモンシロチョウは、ヨーロッパに里帰りを果たした洋行蝶である。ちなみに田中芳男は帰国後、明治新政府に仕え博覧会や博物館事業にかかわり、上野動物園の初代園長も兼務している。

 標本以外の蝶で、もっとも古いとお墨付きを得た紋白蝶は、230年ほど前に円山応挙が京都・四条通の画室で描いた蝶「写生図」(東京国立博物館蔵)とされている。安永元年から同5年(1772~1776)の間に描かれた。彼は写生を重視した画家だが、日本最古のモンシロチョウは、応挙の写生帖で証明されたとされている。ご本人は、まさか後世に生物学者から認知され、「すごい!」と評価されるとは思いもしなかったようだ。
 蝶の古画は不思議だが少ない。また描かれた「てふてふ」をみても、装飾化されすぎていて、蝶の種類が特定できない。白蝶であっても、スジグロチョウなのかエゾスジグロチョウなのかモンシロチョウなのか、わからない。ところが応挙は、ものを忠実に写す写生を絵の基本に置いた。その成果が、モンシロチョウの特定につながったのである。

 円山応挙は亀岡市穴太の貧しい農家の出身だが、少年のときに京の商家に奉公に出る。四条通富小路西入にあった玩具商「尾張屋」中村勘兵衛方で働きながら作画を学んだ。彼はその後、住居を四条通麩屋町東入、同西入、堺町東入、高倉東入などとたびたびかえたが、四条通に居を構えたことが知られている。そしてずっと四条に晩年まで住み続けた。四条通の画室、おそらく麩屋町東入奈良物町の自宅で、一所懸命に紋白蝶をはじめ座敷に居並ぶ虫たちを写生する応挙の姿を想像すると、なんともほほえましい。
 ところで、応挙の蝶図は東京国立博物館に収蔵されている。だが、この画がいつなぜどのような経路で入手されたのか、博物館に確認してもらったが、記録は失われ不明である。ただ明治の早い時期ということは明らかであるが、たぶん同館の実質第二代館長をつとめた田中芳男が関与したことは間違いないであろうと、わたしは確信している。それと初代館長の町田久成も関わったであろう。彼は近江の応挙寺と呼ばれた三井寺・円満院と密接であった。田中はさきほど述べた、蝶たちをヨーロッパに運んだ人物である。

 と、このような文章を書いたのは、およそ五年前であった。モンシロや応挙や田中芳男のことなどかなり調べ、正確でいい文を発表できたと自画自賛していた。ところが最近になって驚いた。上記の文章はでたらめであり、大変な間違いを仕出かしている。
 ひとの文章を読んでいて、著者の間違いに気づくと「ふふん、これおかしいでしょ!」といつも微笑む、悪い癖をもつわたし。ところが今回は、自分の文に決定的なミスを犯していたのである。実に複雑な心境であるが、世間の定説を覆しておかねばならない。
 モンシロチョウを最初に描いたのは、応挙ではなく、実は伊藤若冲であった。

 京都の細見美術館所蔵「糸瓜(へちま)群虫図」に描かれていた。この作品を若冲が制作したのは、宝暦2年(1752)のことである。応挙の蝶図より二十年は古い。ほかにも、若冲の「動植綵絵」や「菜虫譜」などにも紋白は散見される。いずれもあきらかにモンシロチョウである。
 宝暦2年のこの年、応挙は若冲が住む錦市場のすぐ近くの四条に住まいしていたが、年齢は二十歳。作画修行中の身であり、「応挙」と名乗るのは三十四歳からである。
 ふたりが描いたモンシロを比較すると、決して正確でない羽の紋印まで、間違い方が非常に似ている。これからみても、若き応挙は隣人の若冲から影響を受けていたのでは、と思ったりしてしまう。ふたりの住居は、徒歩数分の圏内である。若冲は応挙より十七歳年長であった。
<2008年4月5日 覆しの醍醐味 南浦邦仁記>
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