ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

京都府立総合資料館

2007-09-30 | Weblog
 比叡山は見る方角によって、ずいぶん姿がかわります。すきなのは、北山通りに面する府立総合資料館や、その西の植物園、賀茂川べりあたりから望む比叡の雄姿。
 ぱっきりしないというか、よくその姿が見えない、近江、琵琶湖側からの形は、何とも頼りない。
 先日、久しぶりに総合資料館に行きました。ふつうの図書館と違って、本を貸し出してくれない。自主学習に通う学生と、調べものをする大人がほとんどなので、だいたい至って閑散としており、静かでいい雰囲気です。
 また京都関係の資料がよく揃っている。歴史、地誌、美術工芸、行政資料などなど。文書も多い。これまでいろいろ助けてもらった。
 ところで本館の中庭をこれまで意識することがなかったのですが、今回はじめて2階の踊り場の看板に気づいた。「天橋立」を見立てた設計とのこと。なるほど、じっと見ると、松林、水の浅深を砂利の色で表現した海、味わいのある庭である。
 さてこの「京都から」ブログ、ですが、だれにもPRしていません。さっぱり知られていません。訪問者数・閲覧者数というのがパソコン画面に表示されるのですが、毎日3人とか7人とか、ほそぼそ一桁が続いています。しかし本当に、わずかでも数人がご覧になっていればうれしいのですが、コンピュータ検索ロボットが出入りしているとも聞きます。閲覧者はロボットだけ?
<2007年9月30日>
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車石・車道

2007-09-24 | Weblog
 この8月、友人に誘われ、京都駅前のキャンパスプラザで開催された「車石・車道研究会」に行ってきました。
 「くるまみち・くるまいし」と最初に聞いたとき、字が思い当たらず「???」でした。キーワード「車石・車道」から研究会のホームページをご覧になれば詳しいのですが。
 江戸時代、近江の大津から、京の三条大橋の手前まで、牛の引く荷車のために、道路を石で舗装し、車輪の通るわだちにあわせて溝を彫り、ぬかるみにも大丈夫なように工夫した道路が車道。敷かれた石が車石なのだそうです。
 旧三条通り、すなわち京都三条鴨川から近江大津までの旧東海道西端は、逢坂峠を越える長い道のりです。石舗装の工事にはたいへんな労力がかかったことでしょうが、この道のおかげで、琵琶湖の水運を使って大津に集められた米などが、無事に大消費地の京の都に運ばれました。
 この石道のほかにも、伏見港(大坂から淀川で運ぶ水運路の終点の河港)から都に向かう、竹田街道や鳥羽街道にも同様の舗装路があったとのこと。
 それにしても、車道車石などというマイナーなテーマに、研究会では市井のたくさんのみなさんが、真剣に取り組んでおられるのに感心しました。これぞ京町衆の心意気でしょうね。わたしも見習います。
<2007年9月24日>
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伊藤若冲と阿弥陀寺<若冲連載2>

2007-09-17 | Weblog
上京区寺町通今出川上ル、御所御苑の東北、相国寺の東。徒歩数分のところに浄土宗・阿弥陀寺があります。
 上ル(あがる)とは、ふたつの交差する道路、ここでは今出川通と寺町通の交差点を北へ、という意味。道路が格子の形で連なっている京都市中ならではの表現です。ちなみに下ル(さがる)は「交差点を南に」。東入ル、西入ルは同様に、交差点を東あるいは西へという意味です。
 京都では町名は地元の方でもあまり言わず、また知りません。通り名をふたつ言って、上下、東西でこと足りるのですから、町名よりも道路の名を覚えることのほうが大切なのです。子どものときから、通り名を読み込んだ童歌で、覚えます。
 話が横道にそれてしまいましたが、阿弥陀寺の墓地が、実に興味深い。いちばんは、織田信長一族の墓です。広い墓地ですが、入口をまっすぐ東に向かうと、織田氏や、森蘭兄弟など家臣の古い墓が何基も固まり並んでいます。いずれも決して大きくはなく、何より古色豊かで、不思議な光景です。
 明智光秀が本能寺に信長を急襲したとき、阿弥陀寺の清玉上人は同寺に駆けつけ裏口より境内に入った。清玉は信長とは別懇の間柄だったといわれています。上人は信長の家来から遺骨を預かり、本能寺の僧たちにまぎれて本能寺から逃げ帰った。また光秀の許可を得て、織田信忠の遺骨も得たといわれています。
 京都の古い墓地を巡るのは面白い散歩ですが、阿弥陀寺には、伊藤若冲の同時代人でもある、文人・皆川淇園の立派な墓があります。墓地の南西の一角が皆川家の墓域です。淇園の墓碑銘文は弟子の松浦静山が記しています。松浦は『甲子夜話』の著者で、平戸藩主だった文人です。
 淇園は画家の円山応挙、呉春らと一緒に、石峰寺を訪れています。天明8年(1788)正月28日のことです。若冲は留守でしたが、「応挙の案内で石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物した」と淇園はそのときの石像群のことを詳しく記しています。しかしその2日後、正月30日晦日、京都は大災に襲われます。天明の大火です。京都市中の8割以上が灰燼に帰してしまいました。若冲も応挙も淇園も住居を失い、また相国寺も阿弥陀寺も火難に遭いました。
 墓地には、阿弥陀寺帰白院住持だった蝶夢和尚の墓もあります。彼も若冲と同時代人。俳句で知られた俳僧ですが、大典和尚や皆川淇園などとも親しく交流した当時の京都を代表する文人のひとりでした。
<2007年9月17日 南浦邦仁>
 



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伊藤若冲と石峰寺<若冲連載1>

2007-09-16 | Weblog
深草伏見稲荷は、お稲荷さん、赤鳥居で有名な大社です。ここから南東に徒歩10分足らずのところに、黄檗宗の寺・石峰寺(せきほうじ)があります。
 この寺には、江戸時代の画家・伊藤若冲の墓があります。京都市上京区、御所のすぐ北にある相国寺にも若冲の墓があり、なぜ2箇所に?
 相国寺の墓は、「寿蔵」といって若冲生前に建てられたもの。本人の希望で、相国寺の学僧・大典に願って造られた生前墓です。大典は若冲の親友でした。
 若冲は晩年、60歳のころから亡くなる85歳まで、30年近い歳月を石峰寺のために全力をささげました。没後に葬られたのは石峰寺の墓地です。寛政12年(1800年)9月10日のことです。
 いまも若冲が全体を構想し指揮設計に当たった石造五百羅漢は見ごたえがあります。同寺の裏山を覆う石像群は、かつて千体をこえたといわれています。
 そしていまは取り壊されてもうないのですが、明治初年までは、若冲の尽力で完成した観音堂がありました。そして堂の天井には、おそらく168枚の花卉図が飾られていました。絵はその後、東山区の別の寺に移っていますが。
 なぜ若冲が晩年、石峰寺の門前に居を構え、全力でこの寺のために尽くしたのか? これまであまり考察されてこなかったようです。
 「京都から」連載では、このテーマも追っていこうと思っています。気ままにスタートです。
<2007年9月16日 南浦邦仁>  
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