ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

フリーランサー

2012-06-26 | Weblog
 会社をやめてフリーになってもう半年が過ぎました。はじめて会った方から「お仕事は?」と聞かれ「フリーターです」と答えたら妙な顔をされ、しげしげとわたしの目をみつめておられた。「自由人」の意味でいったのですが、伝わらなかったようです。
 まずいのかなと思ってウェブ辞書をみますと、「フリーター」は「フリーアルバイター」の略で定職につかずあるいはつけず、アルバイトなどで生活費を得ている人。あるいはパート・アルバイトを希望しているが無職の人。この定義はわたしにはしっくりしません。むしろ年金生活者なら該当します。
 また内閣府と厚生労働省の定義では、年齢が15歳~34歳で学生と主婦は除くとありますね。わたしは年齢的に除外されてしまいます。
「ニート」に近い語ですが、フリーターはたとえ無職でも労働意欲がある点が異なるようです。わたしも会社はもう十分ですが、働く意欲だけは強いです。

 『フリー』はクリス・アンダーソンの名著で、わたしもかつてこの本から大きな影響を受けました。無料と自由を意味するフリーですが、営利組織に所属せず束縛も受けず自由気ままに生きる。わたしのかねてからの目標でした。
 しかし「お仕事は?」と聞かれて、「フリーです」とか年金生活者と答えるのもしゃくですし本意は伝わりません。「フリーランス」や「フリーランサー」がいいかなとも思います。自由契約者で会社や硬直した組織に所属せず、その都度の仕事や課題に応じて自由に契約する。おそらくこれがわたしの気持ちにいちばん合っているようです。しかし会社をやめて1匹狼あるいは迷える小羊ちゃんとして、社会の大海に所属や肩書きを消して出て行くのは、天気晴朗なれど波高しの気分です。

 退職直前に新名刺をつくろうとしましたが肩書きがない。知り合いの建築設計会社の社長に電話して「顧問ということにしてくれませんか。お手当は当然不要ですし迷惑は一切かけません。名刺をつくるのに窮したもので」。彼は高笑いしながら「どうぞご自由に」
 その社の名は株式会社○○設計。それでわたしは設計顧問になってしまったのですが、友人に新名刺を渡すと「一体何を設計しているのですか?」。わたしは苦し紛れに「老後設計」。爆笑しておられました。
 この1行だけではさみしいかと思い、「ブログふろむ京都」好評連載とか、友人仲間の勉強会の事務局と入れてみたりし、四行を並べて印刷してもらいました。だがさっぱり何のことか意味不明。アイデンティティの体もなしません。

 ところでこの1月から自営業者、個人事業主として税務署に届けました。事務所は自宅で従業員は妻だけですが、助手は愛犬のようです。屋号は「京都ちんからりん企画」。業務内容は内緒の○○と、「文筆出版企画」とずいぶん生意気なことを届け出書に記しました。
 税務署からときどき郵便とたまの電話があります。いつもうれしいことに屋号からまずはじまって個人名へと続きます。屋号とわたしのいまの仕事を認知してくださっているのは、どうも税務署だけのようです。
 つい先日のこと、署からの電話で「申告初心者のための納税勉強会を開催しますので、ぜひご参加ください。ところで失礼ですが、文筆出版の方はあまり所得が期待できないのではないでしょうか」。的を射たお声に当方は笑ってしまい「そうです。市販のPC納税申告ソフト『弥生』を買って独習しようかと思ったのですが、家計簿みたいなのを手書きでいくらか記帳しましたが、それでやれそうです」。なかなか良心的な担当者のようで「そうですよ。PC研修など受けずに手書きだけで十分ですよ。不得手なことに時間を使わず、本業に力を注いでください」。一瞬涙がにじみそうになりましたが、アドバイスは延々小半時間。もしかしてわたしを調査しておられたのでしょうか。
 ところで自営業者として公認されたわけですから、もし何か事件に関係して新聞の社会面に名前が出てもわたしは「無職」でなく、「容疑者 A(●歳)自営業」であって「自称自営業」や自称プロ○○や無職ではありません。念のため。

 ところで京都新聞夕刊連載のコラム「現代のことば」があります。たくさんのメンバーが輪番でいい文章を寄せられます。わたしもファンで毎日、夕刊を楽しみにしています。
 このブログを読んでくださっている奇特な方に、職人の原田多可司さんがおられます。「肩書きのため息」と題して、6月8日付け「現代のことば」に愉快な文を寄稿しておられました。
 原田さんの名刺の肩書きは「檜皮葺師 柿葺師」だけだそうです。職人や農業、医師や僧侶…みな定年がありませんから、職業は実にはっきりしています。ところがやっかいなのが月給取りです。退職したらたいていのひとが、たかが紙きれの名刺ひとつに悩んでしまいます。偉そうなことはいえません。わたしもそうでした。
 試行錯誤した肩書き所属の結論は、一行だけを選びそれをシンプルに表示すればいいということです。名刺の本来の機能は、自慢することでも相手を驚かせることでもありません。はじめて会った後に電話がある、手紙やEメールが届くさらには再度お会する。名刺はそのためのコミュニケーション・ツールのはずです。関係性のスタートが名刺です。
 名刺をつくり替えました。ただの一行は「京都ちんからりん企画 代表」。税務署だけが公認してくださっている屋号です。
 さて企画代表は日々何をやっているか? フリーなフリーランサーです。脱法行為以外、できることとやりたいことを自由にやっています。また新しい自由契約を歓迎しています。名刺交換をいたしましょう。
 なお「ちんからりん」は、ロバのパンのテーマソング歌詞から借用しました。「♪ロバのおじさん チンカラリン チンカラリンロン やって来る~」。歌は近藤圭子さんです。
<2012年6月25日 しばらく旅に出ます。1週間か10日ほど駄文はお休みにします。>
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キュートな警察犬が登場!

2012-06-23 | Weblog
 京都新聞に実に愉快な記事が出ました。「京都にキュート警察犬 爆発物捜索トイプードル」
 なんとも素晴らしいこのワンコは4歳のオス「モッチ」君です。ずいぶん賢いそうですが、わたしと同じ京都市西京区在住。飼い主は昨年、警察とは無関係な家庭犬競技会に出場させたそうです。するとモッチは超優秀な成績をおさめました。
 この活躍を知った警察犬訓練士が、ボール遊びが好きなモッチを、爆発物捜査犬に育て上げることを飼い主に提案しました。体の小さなトイプードルですから、ふつうの警察犬が入っていけない狭い場所でも捜索できます。
 ボールに火薬の臭いをつけて、球探しゲーム感覚で訓練しました。そして半年ほどで嘱託警察犬の競技会で見事合格。新聞には小さな警官服を着たモッチの写真も載っています。照れたような表情で、金肩章に金ボタン、白シャツに紺のネクタイがよく似合っています。なんともほほえましい雄姿です。
 嘱託勤務なので、これからは毎週2回の定期訓練を受けるだけだそうですが、任期はわずか1年間のみ。果たして任期中に爆発物捜索の出番はあるのかしら? と心配してしまいましたが、「要人の宿泊施設などで爆発物の捜索を担う」
 そりゃ大変です。京都御苑には御所と迎賓館がある。度々重要人物がやって来ます。たった1年でも多忙です。ムキニならずほどほどの勤務をモッチには期待します。ちなみにトイプードルの嘱託警察犬は全国で3匹目だそうです。

 わが家の愛犬も、先代が黒トイプードルの「ココ」、いまは同じ茶トイの「のんちゃん」です。彼女はまだ生後9カ月ですが実に賢い。近所で遊んでいる人間のチビたちにも負けていないと、馬鹿な父親のわたしは確信しています。のんもボールや玩具で遊ぶのが得意です。いまの内から素養を磨き、モッチ同様の嘱託犬に育て上げようかと思っています。もし実現すれば、わたしは保護者として御苑のどこへでも愛犬に同行して堂々と入門できそうだからです。
 えへへ、いいアイデアだと愛犬に話していたら、家人が気づき「あんたは危険人物と判断されて、そんな要人宿泊所に入れてもらえるはずがない」
 それはなるほどと納得しあきらめました。子ども用の花火を買って来てバラし、火薬臭をボールにつけようと計画していたのですが残念です。買わなくてよかった、と反省もしています。
<2012年6月23日>掲載紙 京都新聞6月19日朝刊
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21年後のノーベル平和賞受賞演説

2012-06-19 | Weblog
ビルマ(ミャンマー)のアウンサンスーチー氏がノーベル平和賞受賞演説を行った。受賞は1991年のこと。21年ぶりにノルウェーの首都オスロで晴れの舞台に立った。6月16日のことです。
 彼女は今月末まで訪欧中だが、国外に出たのは24年ぶり。自宅軟禁のため外出ができず、またもし一度国外に出ると再入国を軍政は認めなかった。

 ノルウェー訪問について「この日が来るのを信じていた。一度も疑ったことはなかった」と喜びを語った。
 ノーベル平和賞は、孤立させられていた彼女を世界に再び連れ戻し、現実感を回復させてくれた。「自宅軟禁のときは自分が現実の世界に生きていないような気がいつもしていた」。しかし受賞という励みで「自分の意志で選んだ道を1人で進むことが寂しくなくなった」「ノーベル賞委員会が私を選んでくれたことで、私が自ら選んだ道は孤独を感じないものになった」。また「ビルマの民主化や人権のための運動に、世界の関心を引き付けることができた」と振り返り、感謝の言葉を述べた。
 またミャンマーのテインセイン大統領が国家に新たな道を開く意向であることを確信している。大統領が進める「民主化に向けた努力がこの1年、実を結びつつある」が、民主化への完全な移行にはいまだ遠い所にあると指摘した。「民主主義と人権を重んじる人々による努力が実り始めているという兆し」が現れてきたとして、「前向きの変化」を強調した。同時に、手放しで喜べる状況ではないと述べ、「ビルマで民主主義のために闘い続けるのは、人権を保障するために欠かせないからだ」
 同国北部の民族紛争や、西部ラカイン州で悪化している仏教徒とイスラム系少数民族の対立がその試金石になるとした上で、対立激化の背景は法の支配の欠如にあると非難した。「国民民主連盟NLDとわたしは、国民和解のプロセスでどんな役割でも担う準備がある」。そして、平和に反する動きは今も世界各地で続いていると語った。
 スーチーは同国で依然拘束されている政治犯全員の早期、無条件釈放を呼び掛けた。著名な政治犯が解放される陰に隠れて「無名な政治犯が忘れ去られてしまう恐れがある」と懸念を示した。「いまだに釈放されていない政治犯がいることを警戒すべきだ」
 そして「亡命ビルマ人が母国に帰れるよう、皆さんに手助けしてほしい。彼らは母国に帰れるようになるべきです」
 「究極的に目指すべきは、どこで暮らす人々も<自由や平和を享受できる世界>をつくりあげることだ」「完全な世界平和の実現は到達できない目標だ。でも、私たちは救いの星に導かれる砂漠の旅人のように、平和をめざして旅を続けなければならない」。世界平和を実現するための努力が「個人や民族を信頼と友情で結びつけ、我々の社会をより安全で優しいものにする一助となる」

 彼女が語った「自由や平和を享受できる世界」にわたしは注目したい。日本人ならば、自由と平和はほとんどのひとが大切であると思いもしない。とっくに達成した当然過ぎる言葉であろう。
 しかしスーチーは演説に先立つCNNとのインタビューで「平和が意味するのは、暴力や戦争を終わらせることだけではない。平和を脅かす差別や不平等、貧困などの要因すべてを排除することだ」。自由のことはさて置いても、平和ボケの日本では彼女のいう「平和」はまだ達成されていない。
<2012年6月19日 南浦邦仁>
追記 2010年にノーベル平和賞を受章した中国の民主活動家、劉暁波氏もオスロを訪れることができなかった。ノーベル賞委員会のヤーグラン委員長は同じ16日に「劉氏の早いオスロ訪問を期待する」と語った。
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大農庭園

2012-06-12 | Weblog
 自宅ベランダにたくさんの木や花や野菜が育っています。最近加わった新顔だと、トウガラシ4種各1本、ミニトマト2種これも1本ずつ。どれも緑の小さな実を重いほどにつけています。ほかにトウモロコシ2本、脱法ではないハーブが4種など。
 盆栽は少しですがケヤキとモミジ。前々から居座っているのが葉サンショウ、アジサイ3種。毎年春になると芽を出すキキョウ株はもう1メートル超にまで伸びました。この桔梗は植えて5年にはなります。
 書き出すとまだまだ切りがないので、この辺でやめておきますが、自慢は種から育てているサクラとカンキツ類のハッサクの幼木です。八朔は知人宅を訪れたとき、玄関先に鈴なりでした。5年ほど前のことです。完熟の実を1個いただき持ち帰り、包丁で2等分して半分は食べました。残りは半球部皮を上向きにしてプランターの土の上にかぶせておきました。すると見事なことに、ほとんどすべての種が芽を出したのです。何本かを友人や親戚にプレゼントし、いま2本が残っています。背丈はまだわたしの膝あたりですが、いつか賞味するのが楽しみです。

 自慢のもう1本はサクラ。近所の公園に赤紫色のごく小さな完熟サクランボがいっぱい落ちていました。それを何粒か拾って帰り植えたところ、1本だけが育ちました。驚いたことに、近ごろはこの桜の成長がベランダ庭園でいちばんのスピードなのです。信じられないほどの速さで背丈を伸ばせます。ほかの野菜をしのいで、上へ上へと成長しています。
 種からわずか2年ほどでもう、わたしの腰近くまで育ちました。大きな葉は1枚長さ20センチ近い。小さな植木鉢のなかで過栄養のようです。幹はまだ茎のようにか細いのですが、メタボサクラと名づけました。しかしこの場所は天井高3メートル弱。それ以上に育ちようがありません。
 友人に話すと「黄色いサクランボがなるといいですね」
 しかし高さ制限を思うと、花一輪を咲かす前にどこかへ嫁入りさせねばならないかもしれません。淋しい次第ですが、嫁いだ娘に花の季節に会いに行くのも、それはそれで楽しみかもしれません。この木に実がついたら持ち帰り、孫同様に育てるのも老後の楽しみですね。

 こんなことを書き連ねておれば、どれほど広い庭園か畑かと錯覚されそうですが、わずか畳2枚分ほどのスペースです。ベランダは洗濯物を干すのがまず最優先。けれども遊べます。ある居酒屋の額に「葉葉起清風」とありました。猫の額ほどであっても、遊休不動産の有効活用をおすすめします。
<2012年6月12日>
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タイタニックの日本人(5)

2012-06-07 | Weblog
タイタニック沈没は100年前、1912年4月15日でした。当然この大事故は各国で報じられ、日本でもおおきな話題になったことはいうまでもありません。乗客で唯一の日本人、細野正文が助かったことも4月21日の新聞で「鉄道院技師細野正文氏は助かりしものゝ内にあり」
 5月20日の時事では、細野が「万死に一生を得て無事なりし事を聞き、一同愁眉を開きたる由」と祝福もされました。
 しかし当時の記事には、婦女子を優先させ男子は引き下がったという記事もあります。そのあたりから細野の決して卑怯ではなかった行為が誤解され、「日本人の面汚しだ」という痛罵非難までもが起きたという。
 
 宮沢賢治はこのとき、盛岡中学4年になったばかりでした。彼はタイタニック事件に衝撃を受け、後に『銀河鉄道の夜』に事故で亡くなった3人の乗客を登場させます。
 少女「かほる」、弟の「タダシ」そしてふたりの家庭教師の青年です。注意すべきは姉と弟の名前「かほる」「タダシ」。この物語に登場する人物はみなラテン系の名をもつ。ジョバンニ、カムパネルラ、ザネリ、マルソ。
 
 『銀河鉄道の夜』に登場する人物全員を出る順にならべてみました。ほとんどの人物には名がありません。個人名をもつのは6人だけです。

1.ジョバンニが住む町のひとたち
「カムパネルラ」(主人公のジョバンニとともに銀河鉄道で行く友人)
「ジョバンニ」
先生(ふたりが通う学校の教師)
青い胸当てをした人、白い服を着た人(ジョバンニがアルバイトをしている活版所のひとたち)
「ザネリ」(同級生)
年老(と)った女の人(牛乳屋)
ジョバンニのお母さん

2.銀河鉄道列車内とその周辺
旅人と、せいの高い黒いかつぎをしたカトリック風の尼さん(銀河鉄道の列車内)
学者(大学士)らしい人と助手らしい人たち(銀河プリオシン海岸)
赤髭のせなかのかがんだ人(鳥捕り)
鍵を持った人(燈台看守)
せいの高い車掌(列車内)
つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子「タダシ」(たあちゃん)車内
黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年(姉かおると弟タダシの家庭教師)車内
十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子「かほる」「かおる」(かほる子)車内
 <登場はしませんが、故郷でふたりを待っているのは上の姉「きくよ」>
寛(ゆる)い服を着て赤い帽子をかぶった男(信号士)
としよりらしい人(車内)
インデアン(銀河のまっ黒い野原)
みんな(列車内)
ひとりの神々しい白いきものの人(天の川をわたって来る神であろう)

3.ジョバンニが戻って来た町で起きていたカムパネルラ水死の報
白い太いずぼんをはいた人(牛乳屋)
町かどや店の前に立つ七・八人の女たち(橋の近く)
川沿いに集まった近くの人たちと白い服を着た巡査
「マルソ」(ジョバンニとカムパネルラの同級生)
カムパネルラのお父さん(博士)

 1912年のタイタニックの事故後、12年たってから1924年に賢治は『銀河鉄道の夜』執筆を開始したといわれています。そして度々の改稿を繰り返すも脱稿することなく1933年に亡くなりました。『銀河鉄道の夜』は12年間あたため、9年間延々と書き続けた未完の物語でした。

 ラテン系の名前ばかりが連なる物語に、タイタニック遭難者だけが日本名をもつことについて、山根知子氏はつぎのように記しておられます。
 タイタニック唯一の日本人生存者、細野正文について「一日本人の卑劣とされた行為をやはり批判的に捉えてと想像するならば、そのことが『銀河鉄道の夜』に取り込むなかで、タイタニック号を素材としたこの個所で、『とてもみんなは乗り切らない』という救命ボートに人を押しのけることをしないで信仰深く死んでいった日本人男性(と姉弟)を描くことが賢治にとって必要とされたのだといえないだろうか。」

参考 『宮沢賢治 妹トシの拓いた道―「銀河鉄道の夜」へ向ってー』山根知子著 2003年 朝文社
<2012年6月7日 南浦邦仁>
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タイタニックの日本人(4)

2012-06-04 | Weblog
タイタニックの生存者をみて指摘すべきなのは、乗務員の生存率が異常に高いことです。全乗組員885名、ほとんどが男性ですが212名が生き残りました。生存率は24%にのぼります。
 全乗客の生存率は、男性16.8%、女性66.2%。合計では37.1%。船員の生存率は男性乗客よりも高いのです。
 救命ボートで脱出するには1艇あたり船員2名の同乗が必要でしょう。ボートは全部で20隻ですので、40余名あるいは1隻3名で60人くらいの生存はわかりますが、212名もの船員が助かっています。
 あたりの海は極寒で、水に落ちればまず数分で命はないといいます。低体温症や心臓麻痺などで亡くなる。また海上のボートは転覆の恐れがあるため、水面に浮き救いを求める人たちを原則救わなかった。

 卑劣な手段で生き残った客は確かに皆無ではないと思います。男性客で助かったひとは146名です。唯一の日本人、細野正文氏が決して恥ずべき行為をとってはいないことは前回にみた通りです。しかし、ほかの男性乗客の行動をいまさら追うことには、100年もたった現在では意味もなさないと思います。
 だが、最後まで責任をもってお客さまの救出なり対応に全力で尽くすべき従業員が、われ先にと逃げたのであれば容認はできません。客の行動を詮索するよりも、乗務員の卑怯や理不尽を指摘すべきです。
 また3等船客たちの悲惨。1等客は超々VIPで、2等もVIP扱いでした。ところが荷物同然のような扱いを受けたのが、移民の多い3等客の彼らでした。8割近いひとたち、555名が亡くなっています。子どもも7割近い52名が犠牲になりました。1等と2等の子どもは、あえて両親とともに船にとどまったロネーヌ以外、30名全員が助かっています。命の重みは財力に比例するかのようです。

 庄司浅水著『海の奇談』には、つぎのように記されています。
 もっとも責任の地位にある、ホワイト・スター汽船会社(タイタニック所有)のブルース・イズメイ社長は、船客になりすまして、救命艇Cに乗り移り、生命をまっとうした。その後、かれはホワイト・スター汽船会社を退き、アイルランドの海岸に広大な土地を買って、1937年に死ぬまで、事実上の隠遁生活を送ったということだ。

 何もイズメイ氏(1862~1937)をいまさら責めようというわけではありません。タイタニック事故の残した教訓は数多いでしょうが、業務当事者は最後の最期まで責任を忘れず、義務を完遂しなければならないという例として、わたしは覚えておきたいと思っています。
<2012年6月4日 南浦邦仁>
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タイタニックの日本人(3)

2012-06-02 | Weblog
昭和29年9月26日(1954)のこと、台風15号直撃のため青函連絡船の洞爺丸が転覆した。死者は1100人をこえる日本艱難史上最悪の惨事になった。
 事故の数日後、作家の木村毅は新潟日報に寄稿し、タイタニック事故をひきあいに、醜名を世界にさらした日本人として細野正文のことをとりあげた。当時、正文は故人で次男の細野日出男は「事実に反する」と反論した。
 そして数度にわたる両者のやりとりを読んだ一読者の声「タイタニック号遭難の実相」が、同紙に掲載された。寄稿者は長岡市在住の長尾政之助(当時74歳)である。以下引用。

 1912年5月(事故の翌月)だったと思いますが、私がスタンフォード大学に在学中のことです。ちょうど、家兄の不幸で、一時帰朝するため、サンフランシスコにまいったとき、細野というタイタニック号で助かった、ご本人の話があるというので、当時、サンフランシスコの日米新聞社長、安孫子久太郎氏のお供をして、日本人経営の小川ホテルに行き、親しく実際の話を承わりました。
 世界一を誇った巨船タイタニックも、いよいよ最期という場面、ボートを争って押し合い、混乱する人びとをおさえ、甲板の舷側には、船員がロープを張り、中央に立った船長はピストルを擬して、「婦人と子供だけはボートに乗れ、他は一切ならぬ」と厳命した。細野氏はいつのまにか、押され押されて、このロープのいちばん端に来ていた。そのとき、ボートから「ツー・モーア」(もう二人!)と呼ぶ声があり、その声とともに、ひとりの男がとびこんだ。瞬間「ジス・ボーイ」(この男)と、背後から細野氏を、ほとんど押し落とすかのごとくに突きだすものがあり、細野氏も無我夢中で、ボートにとびおり、それで助かったということだった。…
 なお、私の申し上げたいことは、翌々朝のサンフランシスコ・クロニクル紙は「ラッキー・ジャパニーズ・ボーイ」(幸運の日本人)の見出しで書き立て、祝福してくれたことです。…
 私はその年の10月、再渡米して大学に帰り、当時、日本国内で、細野氏が悪口をいわれたことなど、まったく知りませんでした。こんどの新聞(新潟日報1954年10月)を見て、はじめてそれを知った次第です。

 細野正文の汚名は、この寄稿文で晴れたと、わたしは思います。アメリカで非難されたのではなく、幸運な日本人としてマスコミに祝福されたのです。やましい行為がもしあったなら、アメリカ人は祝ってなどくれません。事故のわずか1ヶ月ほど後のことです。ボートの同乗者という証人も、全員が健在だったのですから。

 ところで、タイタニックはたびたび映画化されています。レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの映画「タイタニック」(ジェームズ・キャメロン監督)が有名ですが、先日、別のDVDをみました。「ザ・タイタニック 運命の航海」。1996年のアメリカTV映画で監督はロバート・リーマン。
 この映画でスミス船長はこう語りました。新聞が書いた「神でさえこの船は沈められまいと。船名の由来は神に戦いを挑んだタイタン、思い上がりだ。彼らは地獄へ落とされた。」
参考 『海の奇談』庄司浅水著 昭和36年 現代教養文庫
<2012年6月2日 南浦邦仁>
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