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ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

進駐軍のデペンデントハウス 前編

2012-07-14 | Weblog
戦後の連合国軍占領時代のお話しです。アメリカ軍将校家族住宅、デペンデントハウスDHについて以前にこのブログで少し書いたことがあります。広大な京都府立植物園が接収され、戦後おおよそ百棟もの住宅が建っていました。その後、訳があっていくらかDHのことを調べました。2回連続で紹介しようと思います。

 日本全国に建てられたDH住宅地区は立ち入り禁止で、GHQの発行した許可証パスポートを持っていないと日本人は入れません。入場できた日本人はクラブハウスで働く従業員とか、家族住宅で働くメイド、作業員とか以外の日本人は敷地内の建物を見たこともありません。京都の植物園周囲は森のように高い木が取り囲み、鉄条網で隔絶されています。外からはなかの様子を知ることもできません。そんな時代があったということで、あえて書いておきたいと思います。
 昭和20年暮れ、GHQは日本政府にDH2万戸の建設を命じました。国民は住む家もないときです。当初は日本住宅、なかでも大きな洋館とか日本式豪邸、ホテルなどを住宅用に接収していましたが、21年ころからは将校の家族が続々と日本にやって来ます。接収住宅だけでは建物が足りません。アメリカ軍は少尉以上の将校は、どこの国に赴任しようが家族と同居します。前線は別ですが、安全が確保されると家族がみなやって来ます。ただし妻や子が特別な事情で国を離れることができない場合は別ですが。単身赴任を強いられる日本とはずいぶん異なります。
 ところでDEPENDENTはインデペンデント「独立」の反対の語で、「扶養家族」「依存する」とかに訳されます。かつてヨーロッパから未知の新天地に家族そろって移住し、また幌馬車に家族全員が家財道具を積み込んで、危険な荒野を渡って行ったアメリカ人です。家族の絆を第一に考えて生活する彼らを象徴する言葉DHのように思います。
 独身者や単身者は、ルームサービスや食事のついているホテルに住みました。家族連れはホテルでは部屋数も少なく狭く不便です。当時の日本人なら、家族4人か5人でも狭い平家で二間の居間と小さな台所、風呂なしで便所があれば十分恵まれていました。そんな狭いけれども極楽のような住まいに、たとえ賃貸であろうが住むことが日本人家族の夢だったのです。日本の都市はほとんどの住宅が、空襲で燃えてなくなっていたのですから。
 GHQが要求した2万戸のDH建設は、当時の日本にとってとてつもない要求です。建築資材は不足していますし、建設費や調度品費などすべて政府の戦後処理費が当てられるのです。復興に全力を注ぐべき時期にこの要求です。
 現在の駐留米軍基地も同じです。思いやり予算とかいう名目で、日本政府は米軍のために国民の税金を費やしています。特に沖縄県のいまも続く実質の占領状態は、戦後間もなくとほとんど変わっていないと思います。日本国中にいまも米軍人が5万人近くも住んでいますが、全基地の74%が沖縄にあります。
 もしもオスプレイが沖縄に配備され、悲惨な墜落事故でも起きれば、米軍は日本国民に向かって攻撃を加えているとみなすべきです。

 さてDHですが、東京に駐留する連合軍が圧倒的に多いですから、有名なDH街がたくさん誕生しました。主なものをみてみますと、まず代々木練兵場跡につくられたワシントンハイツ。敷地は28万坪近くもあり、827戸が建てられました。昭和39年の東京オリンピックのときには選手村になりました。
 ほかにも東京都内ですと、三宅坂のパレスハイツ、国会議事堂前のリンカーンセンター50戸。現在参議院宿舎のある場所にはジェファーソンハイツ70戸。成増飛行場跡60万坪、いまの練馬区光が丘のグラントハイツには1262戸。立川に410戸。横田は405戸。東京都内のDHは全部で5437戸。
 全国のDHをみると札幌277戸、仙台959戸、横浜2449戸、名古屋570戸、京都399戸、大阪976戸、呉729戸、福岡1322戸など。たいへんな数の将校用家族住宅がありました。昭和25年の記録「占領軍家族住宅内訳」では全国合計13118戸が記されています。京都の植物園には約100戸ほどの住宅がありましたが、1棟2戸~4戸のテラスハウス、米語のロウハウスも多かった。200世帯以上が居住していたようです。クラブハウス(昭和館)のすぐ横の大正天皇即位行記念に建てられた大正館も2世帯が使用していました。
 ところで全国集計13118戸の内、新築DHは9609戸で残りの3500戸ほどは接収住宅などを改修したものです。新築2万戸計画は結局、半数ほどに縮小されたかのようにみえます。
 しかしこのリストをみると、地方都市のDH数が記されていません。たとえばDHは滋賀県大津の皇子山にも多かった。これは皇子からプリンスハイツとよばれました。また小規模ですが軍港の舞鶴や、空軍が駐留していた小松などにもありました。実数はもっと多かったはずです。接収住宅も含めれば、やはり2万戸近かったのではないかと思います。
<2012年7月14日 続く 南浦邦仁>
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