無意識日記
宇多田光 word:i_
 



で。大事なのは前回からの続きでな。『SCIENCE FICTION』が恐らく“Science & Fiction"から来ているとしても、しかし、そこからのヒカルは「いわゆるSF/エスエフ」にもしっかり踏み込んでいくのだ。だからちょっとわかりにくいのよね。

ここは今後のインタビューなどを待ちたいが、かなり早い段階でベストアルバムのタイトルが決まっていたのではないかと私は推理する。少なくとも、『Electricity』制作着手時点ではもう決まっていたように思われる。『何色でもない花』もそうかな。同時くらいかな? つまり、SFというコンセプトが出来上がってからそれに沿って歌詞を書きましたってこと。

ここの区別なんですよ。ヒカルが『SCIENCE FICTION』というタイトルを決める“まで”は、世に言う「いわゆるSF/エスエフ」が念頭にあったわけではなく、「私は科学も文学も好きだから、両方を併せてひとつの言葉(熟語)になってる“Science Fiction"がいいな。」とそう思っただけなのだが、ベストアルバムのタイトルが『SCIENCE FICTION』に決まった“あと”は、そうやって立ち上がった「SFというコンセプト」に沿ったクリエイトが始まったのだと。ジャケットのアートワークもそうだし、くまちゃんもしっかりSFになっている。そんなに気軽にワームホールが地球上に現れたらとっくに世界は滅んでるけども!


それはそれとして、今回は『Electricity』で歌われている例の話題の歌詞について触れたい。

『解明できないものを恐れたり
ハマる、陰謀論に
そんな人類みんなに
アインシュタインが娘に宛てた手紙
読んでほしい
愛は光 愛は僕らの真髄』

ここね。

ひとまず事実として、この「アインシュタインが娘に宛てた手紙」と呼ばれるものは、アルベルト・アインシュタイン本人が書いたものであるという証拠はない。社会的に正しくあろうとするなら、この手紙は偽物、虚構であると言う事になる。いや勿論、論理的に言うなら偽物だと言い切るのも問題があるのだけども、“分別ある社会人”としては、少なくとも本物と認めるわけにはいかない。しかし、だからこそヒカルはこのフレーズを『Electricity』に、引いては『SCIENCE FICTION』に採用したのだろう。人類の科学者の代表格たるアインシュタインの名と、それを冠する虚構。「科学的な虚構」ではなく、「科学“と”虚構」が隣り合っている。この状況こそ、ヒカルの元々の意図である“Science & Fiction"というコンセプトに相応しい。

そのコンセプトを援用してヒカルがこの歌で何を言いたかったかといえば…珍しいことに、ここでは他の歌を参照した方が早いのだ。そう、『何色でもない花』で

『確かめようのない事実しか
真実とは呼ばない』

と歌っていたそれをその“次の曲”である『Electricity』のこの部分で示してみせたのだ。もしかしたら、「あれ?『何色でもない花』のここの歌詞、あんまり意味が通じてない?」とか思って『Electricity』に反映させたのかもしれないね。

先程触れたように、「アインシュタインの娘への手紙」が本物だという証明はない。一方でまた、これが偽物だという証拠も無いのだ。証拠というか、「これ書いたの、アインシュタインじゃなくて私だよ。」って告白した人が過去に居ないっぽいのね。もしかしたらもう墓場まで持ってっちゃってるかもしれない。そうなると、本物か偽物か俄かには確かめようがない。

さて、ここで貴方はどうするか、ってのがヒカルの問いたいとこなんですよ。これをアインシュタインが書いたかどうかはわからない。だったら無意味なものだと棄却するのか、それともいやこれはとてもよいものだと称賛するのか。これに関しては、称賛するポーズを取る為に人類史上最高峰の科学者の一人であるアルベルト・アインシュタインの権威(彼が最も“持ちたくなかった”or"なりたくなかった"ものだね)を、威光を借りることはできない。自分で判断するしかない。そして、そこにだけ貴方にとっての「真実」があるのだ。『確かめようのない事実しか真実とは呼ばない』とは、こういうことなのだ。確かめられる事実の中に貴方の真実を見出すことは出来ない。(或いは、極めて難しい)

つまり、砕けて言えば、この手紙を読んで感動したのなら、その感動は貴方にとって紛れもなく真実なのである。これにもしアインシュタインという『名高い学者』の名がついているなら、それは貴方にとって真実の感動かどうかわからない。「なんか凄くえらい学者さんが言ってる事だから、これはいいものなんだと周りには言っておけばいいだろう。」と貴方が思っていないと、どうして言い切れる? そういうことは、日常茶飯事だ。あの人が言ってる事だからで事態をやり過ごす事の何と多いことか。

だからヒカルは「アインシュタインの娘への手紙」を選んだのだろう。本物か偽物かわからないものと接して欲しい、と。事実と虚構の間(あわい)にこそ、サイエンスとフィクションの間(between !)にこそ、真実が、このベストアルバム『SCIENCE FICTION』があるのだと、この『Electricity』の歌詞はそう教えてくれるのだった。


んだからなー、だったら出来ればこのベストアルバムには、『In My Room』を入れて欲しかったよね。

『ウソもホントウも口を閉じれば同じ』
『ウソもホントウも君がいるなら同じ』
『ウソもホントウも君がいないなら同じ』

これらの歌詞は、虚構(ウソ)と事実(ホントウ)と真実(君の存在=君という光)のあいだの関係性を、当時のヒカルがどのように捉えていたかを端的に表している。(その詳細は次回に回すか…流石に今回は既に長い…) つまり、ヒカルの歌う歌詞の真髄は、25年以上経っても全く変わっていないのだった。それがよくわかるのがこの最新曲『Electricity』の歌詞なんだろうと思うのでした。

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『SCIENCE FICTION』というタイトル、響きと見た目がカッコいい上に次から次へと出てきたニュートラックがどれもこのアルバムタイトル名に相応しいサウンドだったのでますますうってつけのタイトルになりつつあるが、未だにまだまだ馴染まないというかしっくりこないフィーリングも途切れない。理由は単純で、こちらが事前に持ってた「SF/エスエフ」のイメージと従来の宇多田ヒカルの音楽性や発言たちとはあまり直結しないからだ。

SF/エスエフという単語で何を連想するかはかなり千差万別だ。ヴェルヌやウェルズのような“正統的な”ものを思い浮かべる人もいれば、日本人ならアトムやヤマトといった漫画やアニメを想像する人もいるし、スターウォーズがそうだという人、寧ろスターウォーズこそが「SFではない」代表格だという人、本当に様々で、これを議論し始めると時間が幾らあっても足りないのでそこはおいておくとしても、たとえ明確な境界線が引けるわけではないとはいえ、「なんとなくあそこらへん」というイメージはあるだろう。例えば、突拍子もない例をとれば「はだしのゲン」はフィクションだがこれをSFと呼ぶ人はいまい。居たら是非名乗り出てほしい。本当に話を聞きたい。

そんな中、ネタバレになって申し訳ないがトレボヘでヒカルがSFの例として…でもないか、そういう話の流れの中で出した例がポーにCSルイスにトールキン…どれも日本の標準的な「エスエフ」からは程遠い名前だったのだ。それぞれ、「モルグ街の殺人」「ナルニア物語」「指輪物語」の作者名である。確かに、これら高名な作家の作品はその知名度の大きさと作品性の高さゆえエスエフというジャンルにも多大な影響を与えておりそれらの雑誌で取り上げられる事もあるかもしれないが、ジャンルとしてのSF作家さんたちではない。つまり、そもそもジャンルという概念から解き放たれている宇多田ヒカルにとっては「SF作品」という既存の先入観に囚われることなく“SCIENCE FICTION"という熟語を使っているものと思われる。

となると、『SCIENCE FICTION』というタイトルを「SF/エスエフ」として捉えるとマトが外れる。恐らく、このジャンルに何の思い入れも知識もない人の方が意味を正確に捉えやすいのではないか。ヒカルは科学と文学が小さい頃から好きだと言っている。大学では神経科学の分野に進む事も頭にあったようだし(将来おばあちゃんになってから携わるかもしれないしな)、作家としてペンネームが決めてある事は旧来のファンならご存知だろう、つまり作家になる夢をもったこともあるのだ。漫画は実際に投稿してるしな。で、その科学=SCIENCE で、文学≒虚構=FICTION ということで、好きなもの2つを並べただけのようなのだヒカルの口ぶりからすると。

つまり、『SCIENCE FICTION』というタイトルは、"Scientific Fiction" =「科学的な作り話」という形容詞と名詞の組み合わせではなく、"Science & Fiction" =「科学と虚構」という並列の2つの単語の組み合わせ、並べ合わせで作られてると解釈する方がよさそうなのよね。科学というのは真実や真理を追い求める人の営み、文学は空想とかたらればとかの虚構の世界を探究する営み。相反してるようでどちらも私の好きな営み、ということか。確かにこれで満足し切れるというところまでは行っていないが、そういう方向性の認識でいた方が少しは居心地がいいんじゃないかな。

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