Kobby loves 埼玉&レッズ

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伝説の司令塔(ポンテ)

2013-05-10 20:35:25 | 浦和レッズ
明日の浦和対鹿島戦はJリーグ創設20年の記念試合で、ゲストとして元浦和のポンテと元鹿島のアルシンドが来ます。ちょうどいい機会なので、浦和をACL優勝に導いてくれた司令塔、ポンテの思い出を書きます。

ポンテはドイツブンデスリーガの名門、レバークーゼンから28歳という全盛期に浦和に移籍してきました。レバークーゼン時代はドイツ代表MFバラックの控えでしたが、欧州CL出場の経験もあります。国籍が世界一代表争いが厳しいブラジルなので、代表経験こそありませんが、このレベルの選手がJリーグに加入するのは異例のことです。

ポンテと聞けば思い出すのは、チームが苦しいときを救ってくれたミドルシュートです。浦和がACLに挑戦した2007年、グループリーグの2戦目のアウェイ、シドニーFC戦は最初の壁でした。最初から激しいプレスを掛けてきたシドニーFCに前半で2点を取られたときは、これが世界の壁かと絶望的な気持ちになりました。

しかし、もっとレベルの高い欧州CLを知るポンテは落ち着いていました。これくらいでカルチャーショックを起こすなとチームに喝を入れたミドルシュートをきっかけに、浦和は同点に追い付き敵地で貴重な勝ち点1を持って帰ります。

ACL決勝のセパハンとのアウェイ戦も印象的です。当時の浦和は信じられないほど悪いゲーム内容で、当時のオジェック監督が「このグランドコンディションでは仕方ない」と選手をかばうほどの試合でしたが、そんな試合を引き分けに持ち込んだのはポンテのミドルシュートでした。

パスを出す能力も高い選手でした。ACLのグループリーグ最終戦のホームのシドニーFC戦も苦しい試合でした。この試合のMVPこそ相手のエース、ズドリリッチを抑え切った堀之内だと思いますが、ワシントン、ポンテ、小野伸二でパスを回して前で時間を使えたからこそのスコアレスドローでした。

ポンテ時代はすなわち浦和の黄金時代でした。なかなか勝てなかった日本平の清水戦で、CKでさまざまなコースを狙い、相手DFとの駆け引きに勝って阿部勇樹のゴールを導いて1-0と勝利したことも思い出せます。

負傷明けのフィンケ時代こそ、力が落ちていましたが、彼が浦和にもたらしたものは忘れません。ポンテがいたからこそのACL優勝だったと、当時を振り返るきっかけになりました。
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大相撲夏場所プレビュー

2013-05-10 18:37:36 | 他スポーツ
来週の日曜日、両国国技館で大相撲夏場所が初日を迎えます。私は初日のチケットを持っています。何度も国技館に行っていますが、初日は初めてで、事前の情報が何もない状態で国技館の椅子に座っているとどういう気分になるのだろうと、当日の心理状態が予想できません。

両国国技館に行けば、国技館でなければできない経験ができる可能性があります。初場所に行ったときは栃ノ心が自分の横を歩いていたり、松鳳山が電車に乗っているのを見たりしました。元高見盛の振分親方がハイタッチをするという未確認情報もありますが、何日目にやるか、希望者は誰でもタッチしてくれるかはわかりません。

夏場所の注目は朝青龍と並ぶ外国出身力士の最多優勝記録がかかる横綱白鵬です。先場所の優勝で24回の北の湖に並び、朝青龍の25回を超えればあとは大鵬(32回)、千代の富士(31回)しかいない領域です。今場所のチケットを取った理由が初場所買い損ねた白鵬のサイン色紙を買うことで、横綱最高勝率を誇るこの力士の伝説を見届けたいと思います。

江戸の昔から続く大相撲ですが、競技のルールこそ変わっていませんが、江戸時代になかったものもあります。その一つが優勝で、明治時代の導入です。強かった江戸時代の雷電や谷風が優勝で話題にならないのは制度がなかったからです。

また、明治時代は優勝決定戦がなく、同じ成績なら番付上位の力士の優勝というルールでした。優勝決定戦は相撲の伝統の割には比較的新しく、戦後できた制度です。年6場所制も戦後で、69連勝の記録を持つ戦前の横綱双葉山の時代は年2場所なので、大鵬や千代の富士と優勝記録が比較できないのは残念です。

十両も相撲草創期にはなかった番付です。幕下の頭10枚目に十両以上の給金を与え、関取扱いにしたことで「十両」の俗称で呼ばれますが、正式名称は「十枚目」で各段優勝の表彰式のときに賞状を渡す親方がこの呼び名をします。今でも番付表では十両と幕下は同じ段に書かれ、十両は太字、幕下は細字と差はつけてありますが、以前は十両がなかった名残です。

また、横綱が番付に載るようになったのは明治時代です。それ以前の番付では大関が最高位で、大関の中で強い力士に横綱免許を与えるという制度でした。そのため、どんなときでも大関は必要な地位で、一人大関だった千代の富士が横綱に昇進したときに大関が空位になったことがありますが、当時の番付は横綱が大関を兼ねる、異例の「横綱大関」という地位が番付に載りました。
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