江馬修『山の民』は、明治2年、高山で起きた「梅村騒動」と呼ばれる農民一揆を描いた小説(1938~1950年)です。
江馬修は小説を書くにあたり、古老に聞き取りをするのですが、夜這いについても聞き、小説の中に取り入れています。
いったい農家ではどこでも戸締りというものがなく、夜間の出入りはまったく自由だったし、物を盗まないかぎり、よばいどに対してあとから故障や苦情が出ることもなかった。しかし、どうかすると、家によっては頑固なおやじや年寄がいて、けっして若いものを寄せつけぬ所があった。そういう家のものは、当然若連中の憎しみの的となって、いろいろな仕方で制裁や復讐をうけることになる。(略)
もし拒否するものが親たちでなく、娘自身であるばあいには、彼女は若連中から一せいにハチブのあつかいをうける。だから彼女はおぼこ(処女)として嫁入りができるわけではあるが、「村の若い衆から誰にも相手にされなかった」という不名誉を甘受しなければならぬというわけだった。
赤松啓介氏(1909~2000)は夜這いの実体験と見聞を『夜這いの民俗学』などに書いています。
僕などの経験した結果からいえば遊郭や売春業者たちから手ほどきされるより、はるかに懇篤、かつ貴重な訓練であったというほかはない。
若衆入りは13歳か15歳、夜這いは若衆入りと同時にはじまる。
若衆入りの際の相手はどこでも後家さんが主体で、後家さんが足りないと40歳以上の嬶が相手をしてくれることになる。
娘は月経があってからというところがあるし、陰毛が生えてからというムラもある。
年長者による性教育というわけで、獅子文六『てんやわんや』に出てくる夜這いはこれですね。
当時、小作農の家は、だいたいが四間程度で、娘は奥に寝かされていた。
親も自分たちが夜這いしてきたから、娘のところに夜這いが来るのは当たり前と思っている。
娘の気に入っている男には、昼間、娘から誘うこともあったが、気に入らない男の足音がすると、戸を閉めてしまう。
やり方、相手などは字(あざ)ごとに多様である。
ムラの女なら誰に夜這いしてもいいところもあるし、未婚の娘と後家、女中だけを開放しているムラもある。
よそのムラの者はだめだとか、よその若衆なら嫁は許されないが、後家や娘はかまわないとか、字(あざ)ごとにならわしが違う。
戦前まで、一部では戦後しばらくまで夜這いは一般的に行われており、昭和30年代には神戸市の北部でまだ残っていたそうです。
赤松啓介氏は10歳で近所のオバハンとコタツで性交、11歳で射精。
「もう十一、十二になったら性交をやらせる教育しないとほんま子供がかわいそうだ」と過激なことを言っています。
ところが、山下惣一『一寸の村にも、五分の意地。』を読むと、そんな簡単なものではない。
山下惣一氏は1936年生まれ、中学を卒業してすぐに農業をついでいるので、昭和20年代のことでしょう。
先輩が娘の家に忍びこみ、一定時間がすぎると、かならず親父さんに追われて脱兎のごとく飛び出してきた。
一度だけ、侵入に同行した。
先輩は、じつに辛抱強く、父親のいびきや母親の寝息の変化に息を止め、動きを止めて長い時間をかけて目的地へ近づいていった。(略)
ところがいけない。娘さんのズロースを少しずつおろしはじめて、やっと股間の繁みがのぞけるほどになった時、なぜか、父親が大きなくしゃみをした。(略)その時、父親は一瞬目ざめたらしく「ん?」というようにつぶやいて頭をもたげた。
先輩は娘さんの足元の布団にはりついて息を殺していたが、何を思ったのか、あるいは思わずやったのか、「ニャーオ」と猫の鳴きまねをした。じつにうまくやった。
「なんだ、猫か」と父親がつぶやくのに、馬鹿な先輩は「はい」と返事してしまって、追われた。
なるほど、親と一緒に寝ているのに、娘の布団に入るのはたしかに難しい。
だから、ぼくらの世代になると、夜這いはすたれた。もっと効率のよい方法を考え出したのである。公民館でフォークダンスをはじめたのだ。娘たちは、夜の外出を許さない親の反対を押しきって、一人残らず集まってきた。
ダンスをやりながら「どう、今夜」と個別に交渉した方がはるかに効率的だし確率は高い。
今東光『好色夜話』にはこんな説明があります。
そこで大方の夜這いというのはあらかじめ女と示し合せ、門の鍵をはずし、雨戸も開き易くしておいてもらうので、うまうまと成功するのだ。女の手引きなくして成功することは困難なのである。
夜這いは簡単にできるものかどうか、赤松啓介説と今東光説、どちらが真実なのでしょうか。
ずっと以前、明治か大正生まれの人に「夜這いをしたことがありますか」と聞こうと思ったことがありますが、その勇気がありませんでした。
今から思うと聞けばよかった。