三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

大谷光真・上田紀行『今、ここに生きる仏教』3

2011年02月21日 | 仏教
信心と社会への関わりについて、信心とは自己を問うもの、自己のあり方を問題にするものであり、社会に関わるのは真宗の問題ではないという考えもあるが、社会と無関係に生きているわけではないから、「社会の中における自己の生き方を問うことが、自己を問うことになる」という平川宗信氏の考えはもっともだと思う。
信心をいただいたらそれでおしまいというわけではなく、いかに生きるかということが問われるはずだし、それは生きがい論みたいなお話で終わるものではない。

『今、ここに生きる仏教』の中で大谷光真門主はこう語っている。
「ある方のお説教を聞いていたんですが、おはずかしい凡夫であるということが強調されて、それで阿弥陀様に救われると。そこはいいんですけれど、その凡夫がもうちょっと世の中に何かできることはないかっていうようなお話がぜんぜん出てこないんです。凡夫が救われる、で終わっちゃった。私は、阿弥陀様のお慈悲を受けたらお裾分けするような行動をとりたいのです」
お裾分けが御恩報謝ということになる。
別のところでもこのように話している。
「「御恩」というのは、阿弥陀様に救われて仏になるという救いをいただいているということですね。それに対して「報じる」といっても、阿弥陀様にまっすぐお返しすることはできないというか、返してもしようがない。ですからその方向を変えて、世の中に向かって自分のできることを精一杯する。第一義的には、阿弥陀様に救われたという浄土真宗を、今度は周りに伝えていくということだろうと思いますが、必ずしもそこにとどまらなくて、社会的な活動でも何でも、自分がいいと思ったことをする」
仏恩報謝の念仏と強調するのは、見返りを求めての念仏ではないということであって、念仏を称えることが御恩報謝をだから、他のことは何をしなくてもいいということではない。
「実際、阿弥陀様に向かって「ありがとうございます」と言うのは大事なことですし、それはおろそかにしてはいけないと思いますが、そのことは、「身を粉にしても報ずべし」だとは、私には感じられない」と大谷光真氏は言う。
上田紀行氏は「仏さまからいただいた御恩を仏さまに返すのではなく、他の人に返す」ことが大切で、「仏さまからいただいた御恩も、それを仏さまに返すだけというのでは、閉じられた関係」になると言っている。
Aさんから何かもらったら、Aさんにお返しするだけでなく、Bさんにも返していく。
大学のころ、年上のイトコにおごってもらった時、「今度は○○(年下のイトコ)におごればいい」と言われたが、そういうことだと思う。

社会にどうお返しするかということだが、上田紀行氏の論は何か極論を大上段に振りかざしているように感じる。
『宗教と現代がわかる本2010』に高橋卓志『寺よ、変われ』の書評がこう書かれてある。
「多種多様な活動を展開し、「寺よ、変われと叫ぶ著者の姿勢は敬服に値する。だが、その一方で、こうしたバイタリティに溢れる著者の八面六臂の活躍は、果たして他の多くの「普通」の寺院や僧侶にもできるものなのかといった疑問も拭いえない」
お参りに行ったときに愚痴話を聞くとか、地道で日常的なことが基本だと思う。
その中でだんだんとすべきことが見えてくるかもしれない。

政治について大谷光真氏はこのような考えなんだそうだ。
「格差を生み出し、一部の人だけが利益をむさぼるようなやり方です(略)。私は二〇代の終わり頃までは、ほとんど政治に関心のない保守的な人生を送ってきましたが、年とともに世の中の政治に批判的な傾向が強くなって(笑)」
政治と宗教の関係もなかなか厄介ではあるが、格差の問題など教団が取り組む必要があると思う。
「私は実はブッシュさんに仏教を説いてあげないといかんなと思ったんです。ああいう単純な二元論では、次々と争いが広がっていくばかり」
日本の政治家についてはどう思っているか知りたいものです。

こんなことも大谷光真氏は言っている。
「たとえば徴兵制などは、国民が逃げないとわかっているから成り立つわけですね。そうでなければ、みんな国外逃亡してしまう。教団ではそういう枠組みがもう緩んでしまっているのだから、教団の体制を変えないと現代に適応できないというのが、私の感想です」
徴兵制がどうして成立するかについてはなるほどと思ったが、教団の体制を変えるというのが宗会の廃止になるのだろうか。
象徴天皇的存在はいやなのかもしれないが、下手すると独裁になると思う。
コメント
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