三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「人間・罪を生きる~「死刑」と「裁判員制度」を考える~」1

2009年12月08日 | 死刑

「真宗」10月号に、「人間・罪を生きる~「死刑」と「裁判員制度」を考える~」をテーマに行われたシンポジウムの抄録が載っている。
パネリストは大谷昭宏氏(死刑存置派)、森達也氏(死刑廃止派)、一楽真氏。
なぜ死刑が必要か、大谷昭宏氏の主張は被害者が死刑を求めるからというもので、同じことのくり返しになるし、あらためて取りあげるまでもないと思いつつ、せっかくなので。

大谷昭宏氏は足利事件の菅家利和氏と食事をしながら話をしているにもかかわらず、
「冤罪の可能性があるから、死刑という制度をまったく廃止してしまっていいのだろうかということも、あらためて考えてみるべきだと思うのです」とまず言う。
その理由は被害者が死刑を望むから、という一点である。
そして、国民の多数が死刑制度に賛成していること、刑罰は教育刑ではなく応報刑であるべきこと、犯罪抑止といったことも。

「どうしても死刑制度の廃止ということには踏み切れない。あるいは踏み切ってはならないのではないかという思いがあります」
というのは、名古屋闇サイト殺人事件の被害者の母親Aさん。
「私たちはAさんに対して、死刑を望むべきではないということが言い切れるだろうか」
「私は四十年間、大勢の被害者と出会ってきました。子どもを殺された親で、死刑でなくてもいいとおっしゃった方は今まで一人もいません」
そして、大谷昭宏氏は闇サイトで呼びかけた張本人に面会している。
「彼は、まったく反省していないのです。「名古屋市の人口が一人減っただけではないか」とまで言っているのです。
そういうなかで、今私たちが国民の七割、あるいは八割が残してくれと言っているこの死刑制度を、なぜなくさなければならないのか」

たしかに被害者の死刑を望む声を聞き、主犯がけろっとしているように見えたら、こんな奴は死刑だ!という気持ちになる。

だけど、大谷昭宏氏は「公訴のなかでこの死刑制度はなくしますと言う権利が、はたして私訴を認めない国家にあるのだろうかということからすると、到底この制度を廃止することは許されない」とも言う。
どういうことかよくわからないのだが、「私訴」とは私人訴追ということで、国家訴追主義だから死刑を廃止することは許されないとはどういう意味か。
国が私人に代わって死刑という形で復讐を認めるべきだという意味だとしたら間違いだと思う。

森達也氏の主張は大谷昭宏氏への反論として聞くことができる。
まず被害者の気持ちについて、森達也氏は「もし仮に被害者遺族になった場合、特に自分の身内が強く応報感情を持っているときは、きっと僕はその応報感情を和らげようとすると思うのです。なぜならば、人が死ぬことを願う人生は、やはりどこか内側から、その人を蝕むと思うのです。その人にとってもつらい人生だと思う」と言う。
これはその通りだと思う。
被害者が極刑を求めるのは当然だとしても、報復感情を持ちつづけることは本人のためにならないのではないかと思う。

そして、当事者ではない人が被害者感情を振りかざして死刑を主張することについて。
「「被害者の気持ちを知れ」とか、「遺族の気持ちを知れ」とか言う方もいます。
でも、やはり、同じことを突き返したい。「本当に遺族の気持ち、被害者の気持ちをあなたはわかっているのですか。想像できるのですか」と。おそらく想像できないと思います」

死刑賛成論者は被害者の気持ちがわかったつもりになって、死刑にしろと言い、しかし被害者の気持ちを想像できていないから、死刑になったら一件落着ですませてしまう。
「深い悲しみ、つらさを共有できていません。表層にある応報感情だけを共有しています」
「つらさや苦しさを共有できていない多くの人たちが、表層的な応報感情だけに共鳴して、「早く処刑してしまえ」と声をあげている。ですから、そういう応報感情を持つことは、あたりまえだけれども、できれば、やはり違う視点も持ってほしい」

という森達也氏の意見にはまたまたなるほどと思った。
私には死刑廃止派の森達也氏のほうが被害者のことを考えているように感じる。

第三者の厳罰を求める声が大きいことについて、大谷昭宏氏は「ペナル・ポピュリズム」には問題があると一応は言う。
「大衆は常に厳罰を望むということです。その流れは私たちメディアがつくり出している部分が確かにあろうかと思うのです。それを私は現にメディアを含めて慎むべきこと、やってはならないことと考えています」
だけど、
「被害者に応報感情を抑えなさいということが、はたして適切なことなのでしょうか」と、また被害者を持ち出してくる。
被害者感情で裁くことは罪刑法定主義(ある特定の罪に対して決まった罰を与える主義)の立場をとる近代司法を否定することになる。
森達也氏が「応報感情を根拠にすることは近代司法国家としてはあってはならない」と言ってることが正論だと思う。

大谷昭宏氏の意見はわかりにくいのだが、教育刑批判はその最たるもの。
「その揚々たる人生を断ち切られ、それでもなお、自分の意思でいのちを奪った人のいのちを奪ってはいけないというのであれば、あまりにも不平等ではないか。
刑罰とは、まさに「因果応報」です。「目には目を」はいけないという論理ももちろんあると思いますが、私は刑罰というのは応報刑であっていい。それ以上であっても、それ以下であってもならないと思います。
本来、刑罰とは教育刑で、人を立ち直らせるものであり、更生させるものである。あたかもそれは美辞麗句のように語り継がれていますけれども、例えば、俺は大統領になりたいだとか、この首相の考え方は違うのだとか、俺はこういう主張に基づいて犯罪を犯すものに教育刑を持ち込むのであれば、それは戦前と同じではないですか。
そうではなくて私は本来、刑罰というのは、人のこころのなかにまで入るべきものではないと思っています。それは応報の刑罰によって支えるものであって、国家が人間の考え方を変えるという方がよほど残酷であり、本来民主主義国家のなかであってはならないことだと思います。
だから、私は応報刑でいいと思います」
犯罪を犯した人が社会復帰できるよう刑務所で教育する必要はないということなのか。
厳罰に賛成する人は犯罪者は懲らしめればいいという発想しかない気がする。
刑務所で矯正教育を行なうことがどうして戦前と同じことになるのか、大谷昭宏氏には教育刑とは『時計じかけのオレンジ』みたいなもんだというイメージがあるのかなと思ったりしました。

コメント (8)
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