三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ケータイとファシズム

2005年07月16日 | 日記


今は昔の物語、いつぞやデパートのエレベーターに乗った時のこと。
誰かの携帯が鳴り出した。
すると、女の人が携帯を取りだし、普通の声でしゃべり出した。
これには驚いた。
小さい声で話すとか、横を向いて、携帯を手で覆うということはしない。
人の話に聞き耳を立てているようで、私のほうがなんだか恥ずかしくなった。

こんなこと、日常の一コマで、もう珍しくも何ともなくなってしまった。

私も驚かない。
「馬鹿が」と思うだけである。

電車に乗ってて化粧を直す女性を非難する人がいる。

もっともな非難であるが、しかし、非難する人は歩きながら携帯を使わないのだろうか。
日本の恥の文化は消滅してしまった!

私は携帯を持っていない。

というのも、携帯を買っても、どうせ電話もメールも来ないのはわかっているからで、寂しい人生です。

携帯を持っていないからだろうが、気になることが多い。

講演、会議、研修会、葬儀、映画などの最中でも、着信音が高らかに鳴りだすことは日常茶飯である。
音はしなくても、携帯を取り出してメールを見る人、立ち上がって外に出る人がいる。
腹が立つ。
あるいは、誰かと話をしている時、相手が携帯をさっと取り出し、メールを読み、そして何もなかったように話を続けることがある。
私としては楽しく話をしているつもりなのに、これまたムカツク。

『ファシズムの現代』という本に、ファシズムの例として自動車が論じられている。

自動車がどうしてファシズムと通じるのか、風が吹けば桶屋が儲かる理屈みたいだが、そうではない。
私はまさに膝を打つ思いだった。
もっとも、どういう論だったかは忘れてしまった。
かすかな記憶を頼りとして、自動車と携帯、ついでにテレビについて、共通の問題点を述べてみましょう。

1,みんなが同じ方向を向いている。

目と目とが見つあう対面関係でない。だから、横のつながりがない。

2,密室である。

自分の世界に閉じこもっている。他者を見なくなる。他者が見えなくなる。ウォークマン以後その傾向が強まっているが、携帯で一層、拍車がかかった。

3,日常に突然、侵入してくる 

携帯は言うまでもありません。自動車も、歩いていたら、後ろからププーと鳴らされるでしょ。

4,速度が速い

人間の生活リズムからしたら、車の速度が速すぎる。テレビは世界の裏側の情報もすぐわかる。携帯も、伝えたいことをしばらく保つことなく、すぐに伝えてしまう。
屁理屈をつければ、ほかにもいろいろある。

と言いつつ、実のところ私はうらやましくてたまらない。

繁華街に出かけると、大勢の人がいて、ああ、みんな楽しそうにしてる、それに比べて自分は・・・、といつものように自己嫌悪。

そういう話をバイオリンの先生にしたら、「みんなそう思ってるんですよ。一人でおれないから群れようとしたり、しょっちゅう携帯せずにはおれないんです」と言われた。

私は一人ではないんだ、仲間がいるんだ、こんなに楽しんでいる、ということを、まわりの人に顕示し、自分自身でも確認しているわけなのか。
なるほど。
となると、携帯を手にしたとたんに、自分だけの世界に閉じこもり、まわりにいる人たちは単なるモノ、風景になってしまう、と言われているが、そうではないのかもしれない。
まわりの人を無視しているようでいて、実は自分の存在を証明してくれる大切な観客として意識している。
観客がいるからこそ、演技ができるということか。

しかしまあ、群れることのできる相手、メールをする相手がいるというのは、これはこれで悪くはないとも思う。

池袋通り魔殺人の犯人は、「自分は真面目にやっているのに、少しも報われない。平日の昼間からちゃらちゃら遊んでいる者が許せなかった」ということを言っている。
もしもメル友がいて、群れる仲間がいたら、こうした事件を起こさなかったかもしれない、という気がする。

コメント (4)
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