「ラスト サムライ」 2003年 アメリカ
監督 エドワード・ズウィック
出演 トム・クルーズ ティモシー・スポール 渡辺謙
ビリー・コノリー トニー・ゴールドウィン 真田広之 小雪
小山田シン 池松壮亮 中村七之助 菅田俊 福本清三 原田眞人
ストーリー
明治維新直後の1870年代。
政府は軍事力の近代化を図ろうと西洋式の戦術を取り入れることを決断。
一方で前時代的な侍たちを根絶させようと企んでいた。
そんな中、政府は南北戦争の英雄ネイサン・オールグレン大尉を政府軍指導のため招聘する。
だが彼はアメリカ政府のやり方に失望し、また自分が果たしたインディアン討伐を悔いており、魂を失っていたのだった。
オールグレン大尉はさっそく西洋式の武器の使い方などを教え始めるが、勝元盛次率いる侍たちの不穏な動きに焦る政府は、オールグレンの忠告を無視し、急造軍隊を侍掃討に送り出す。
しかし、経験不足の兵士は侍たちの反撃になすすべなく後退、ただ一人最後まで闘い続けたオールグレンは侍たちに捕えられ、山深い彼らの村へと連れて行かれる
そこには旧士族の勝元盛次がいて、彼は近代化の波によって自分たちの信じる武士道が崩壊しかけていることを感じていた。
勝元や彼の妹たか等と共に武家で生活することになったオールグレンは、外国文化を嫌う武士の氏尾らと対立しつつも、武士道に惹かれ、やがて侍たちとの絆を深めていく。
そして侍たちが、政府軍を相手にした最後の戦いに臨む時、オールグレンもそこに参加。
侍たちの反乱軍は圧倒的な数の政府軍に対し善戦するものの、結局は壊滅させられる。
戦いの中で倒れた勝元は、名誉の死を望み、オールグレンに腹を刺してもらい息絶えた。
そして生き残ったオールグレンは、亡き勝元の刀を明治天皇の下に届けるのだった。
寸評
七騎兵隊全滅が1876年で西南の役が1877年なので本作品はこの頃を時代背景としている。したがって見ていて勝元は西郷隆盛で氏尾(真田広之)は桐野利明、大村は大村益次郎を連想させた。連想させると言えば、この映画は日本版「ラスト・オブ・モヒカン」だと思わせた。
だと思わせたと言う事は「ラスト・オブ・モヒカン」の方が映画的にはいいと言う事につながってしまう。
「ダンス・ウィズ・ウルブス」と対比している人もいるが、僕は単純に「ラスト・オブ・モヒカン」を連想した。
まさか長篠の合戦でもあるまいに、明治維新もなって10年にもなるのに鉄砲隊と騎馬武者の戦争はないだろうと野暮な疑問は持たないでおこう。
そんな見方をしたらいくらでもおかしな所はあるのだけれど、この映画が最高だと言えないのはそんな時代考証が問題ではなくて、なんとなくテーマが希薄なところにある。
そもそもオールグレン大尉とバグリー大佐(トニー・ゴールドウィン)の確執が説明不足だから、最後の決戦での両名の対決が盛り上がりにも掛けてしまっている。
そしてもう一方の主人公である勝元=渡辺謙が、一体何のために戦っているのかの説明が不足しているから、これまた政府軍と戦うときの意気込みの伝わり方が希薄になっているのではないかと思った。
古きよき時代の善玉と、近代化の中でその者たちを滅ぼしのし上がろうとする新しい階級=悪玉、と言う単純な図式はまるでかつての東映ヤクザ映画なのだけれど、政府軍(悪玉)の彼等村人(善玉)への虐待がないから憎しみも湧いてこない。
そしてオールグレンが名誉だとか誇り、そして死ぬために生きているサムライの世界に目覚めていくプロセスも描ききれていないので、僕としてはトム・クルーズ=オールグレンにどうしても同化できなかった。そんなわけで、勝元=渡辺謙の好演がとても惜しい気がした。
しかし、ハリウッドが日本の武士社会を描いた映画としては良く出来ていると思うし、決して駄作に入る作品ではない。よく見受けられる陳腐な描き方は無かったので十分堪能できた。
敵である政府軍の指揮官が大村の命令を無視して射撃を止めさせ、勝元の自決を見守り、その崇高な死に礼を尽くすシーンなどは涙物だった。
最後の突撃で成すすべも無く近代兵器の前に倒れる氏尾=真田の描き方なども、むしろ一連の流れの単なる一コマとして描かれ、かえって良かったと思う。
この映画は日本の武士社会に姿を借りているけれども、実は自然と神に感謝し、名誉と誇りを重んじ、勤勉で心身を鍛練し、死を恐れぬ勇気をもっていたインディアンを殺戮していった自らの歴史に対する懺悔なのかもしれない。信忠(小山田シン)が髷を切られるシーンとか、最後の決戦に向かう時の真田広之のメイクなどは多分にインディアンを連想させた。
前述の渡辺謙の好演にたいする褒賞なのか、最後のクレジットタイトルではトム・クルーズを差し置いて、KEN WATANABE が真っ先に流れていた
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