おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

オーシャンズ11

2022-03-16 08:08:27 | 映画
「オーシャンズ11」 2001年 アメリカ


監督 スティーヴン・ソダーバーグ
出演 ジョージ・クルーニー
   ブラッド・ピット
   ジュリア・ロバーツ
   マット・デイモン
   アンディ・ガルシア
   ドン・チードル

ストーリー
保釈中のカリスマ窃盗犯ダニー・オーシャンは刑務所暮らしの4年間にとてつもない犯罪計画を練り上げていた。
それは、ラスベガスの3大カジノの現金がすべて集まる巨大金庫から、厳重な警戒とセキュリティシステムを破って現金を盗み出すというもので、その額なんと1億6000万ドル!
オーシャンは旧友のラスティに話を持ちかけ、計画遂行に不可欠な各分野のスペシャリストのスカウトを始める。
やがて、11人の選りすぐりの犯罪ドリーム・チームが誕生した。
こうして11人のプロによる、ミスの許されない秒刻みの史上最大の強奪作戦が始まった……。

ダニー・オーシャン(ジョージ・クルーニー)
  主人公。今回の強奪計画の立案者兼リーダー。
ラスティ・ライアン(ブラッド・ピット)
  オーシャンの右腕であり、計画の直接的な実行役。
ライナス・コールドウェル(マット・デイモン)
  黄金の指を持つスリと言われている青年。
フランク・キャットン(バーニー・マック)
  前科持ちのカジノのディーラー。
ルーベン・ティシュコフ(エリオット・グールド)
  資産家。オーシャンの駆け出しの頃の恩師でもある。
バシャー・ター(ドン・チードル)
  爆発物・兵器の専門家。
バージル・モロイ(ケイシー・アフレック)
  双子のモロイ兄弟の兄。
ターク・モロイ(スコット・カーン)
  双子のモロイ兄弟の弟。
イエン(シャオボー・チン)
  中国雑技団の曲芸師。
リヴィングストン・デル(エディ・ジェイミソン)
  電気・通信の専門家。FBIの下で電子技師をしていた。
ソール・ブルーム(カール・ライナー)
  往年の天才詐欺師。


寸評
懐かしい映画を思い出した。
リメイク作品なので当然と言えば当然だが、ずっと以前に見た「オーシャンと11人の仲間」。
どんなシーンがあったのかも思い出せないぐらい随分と前に見た筈の記憶がかすかに呼び起こされて懐かしい。
その映画で全く知らなかったフランク・シナトラ、ディーン・マーチン、ピーター・ローフォード、サミー・ディビスJrなどのいわゆるシナトラ一家を初めて知った。
覚えているのはサミー・ディビスJrの芸達者振りとカッコよさで、その後にサントリー・ウィスキーのコマーシャルで登場したときは感激ものだった。
記憶にないのだから比較のしようがないのだが、それでも前作のほうがなんか小気味良かったような気がする。
この映画、何よりもスリルがない。
かといって犯罪を進める上でのユーモアがあるのでもない。
また、1億6000万ドルもの大金を強奪する動機があいまいだ。
前半のメンバーを集めていくくだりも少し間延びしているような気がする。
犯罪そのものもスピード感が出し切れていないのでハラハラ・ドキドキももう少しと感じる。
じゃあ、面白くないのかと言ったらそうでもなく、案外と最後まで楽しませてくれる。
スティーブン・ソダーバーグ監督ってやはり職人監督なのだということを痛感した作品である。

この作品の第一の魅力はそのキャスティングである。
ジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット、マット・デイモンときて、相対するのがアンディ・ガルシアである。
さらにヒロインがジュリア・ロバーツときては、よくぞこれだけ集めたものだと思わせる。
そのキャスティングだけで一見の価値あり作品となっている。
それにしても、アンディ・ガルシア、ジュリア・ロバーツはやはりいい。
記憶に間違いがなければ、オーシャンとテスの話は前作ではなかったような気がする。
今回、この話の挿入で作品に奥行きが出ていて、中々のアイディアだったと思う。
この話がなかったら失敗作だったかも?

厳重の上にも厳重に守られた金庫から大金を奪う話なので、その荒唐無稽な手口はこの映画のだいご味でもあるのだが、一時的な停電を引き起こすくだりは余りにも奇想天外すぎないか。
作品を漫画的にしてしまったと思う。
オーシャンとライアンは一芝居打って仲間をもだますが、その意図が僕にはイマイチ理解できなかった。
それは観客をも欺く仕掛けだったのだろうが、観客がええ~っそうだったの、と驚くような巧妙な欺きが欲しかったところである。
それは辛うじて奪った現金を運び出す場面で展開されていた。
現金を強奪する作品は数多くあるが、金持ちから大金を奪う話においては貧乏人の僕はどうしても犯人側に肩入れしてしまう。
従って、犯罪であるにもかかわらず成功裏に終わることに抵抗がない。
普通は犯罪は割に合わないよという教訓を残したラストになるものなのだが。

大阪物語

2022-03-15 08:46:56 | 映画
「大阪物語」 1957年 日本


監督 吉村公三郎
出演 市川雷蔵 香川京子 勝新太郎 小野道子
   林成年 浪花千栄子 中村鴈治郎

ストーリー
元禄の頃。東近江の水呑百姓仁兵衛(二代目中村鴈治郎)は、年貢米を納められぬままに代官所の催促に堪えかね地主にすがろうと、女房のお筆(浪花千栄子)と二人の子供を連れ大阪へ夜逃げした。
一度は一家心中を決意した仁兵衛だが船から米俵を荷揚げする土佐堀川の岸で、こぼれ米を拾って露命をつなぐことを覚えた。
そして十年、それが積り積って仁兵衛は堺筋に近江屋を名のる茶屋を副業の両替屋に出世した。
吉太郎(林成年)、おなつ(香川京子)の二人の子供も成人、何不足のない仁兵衛だが貧乏の味をいやという程なめた彼は徹底したケチンボ。
花屋が取潰しになると早速後釜に入り鼻を明かすが、大店に移っても彼の守銭奴ぶりは変らない。
正月の門松が大き過ぎると番頭の忠三郎(市川雷蔵)を怒鳴り、年始めにお筆が髪結いを呼ぶと、それも追返す始末。
その仁兵衛は、ある日、近くの普請場で会った油問屋、鐙屋の女主人お徳(三益愛子)と意気投合、話の末に、お徳は伜市之助(勝新太郎)の嫁に、おなつをくれと縁談の申込み。
仁兵衛は快諾するが女房のお筆は大反対し、夫婦喧嘩に激情したお筆は喀血して病の床に臥す。
しかしケチな仁兵衛はろくに薬もやらず妻を死なせてしまう。
お通夜には鐙屋のお徳も市之助を連れてくる。
放蕩息子の市之助は気晴しに女でも買いに行こうと吉太郎を扇屋へ誘う。
その上、初めての経験に上機嫌の吉太郎につけこんだ市之助は、馴染みの滝野(小野道子)を身受けする金の工面まで頼む。
一方、鐙屋との縁談を嫌うおなつは番頭の忠三郎にかねての思いを告げ駈落ちを迫る。
そして吉太郎は蔵から市之助へ渡す銀を盗み出す。


寸評
タイトルが大阪物語となっているが、ケチ物語とでもしたほうが良いような内容で、中村鴈治郎のドケチぶりが何とも滑稽な喜劇である。
中村鴈治郎一家は赤貧の小作人で夜逃げをして、地主だった花屋という屋号の店に助けを求めるが、まったく相手にされず路頭に迷い、集積場に運び込まれた米のこぼれたものを拾い集め金に換える。
チリも積もれば何とやらで、10年間で使用人もいる店を持つようになる。
そこからの中村鴈治郎のケチぶりがすさまじくて可笑しいのだが、僕はケチぶりが過ぎて不愉快になった。
使用人に家々を回わらせ使ったお茶の葉を集めさせてくる。
それを乾かして本来のお茶の葉と混ぜて売るのである。
鴈治郎に言わせれば酒屋が水を混ぜて売っているのと同じだという理屈であるが、どちらもサギ営業である。
宴席は中座し、食べ残しは持って帰る。
正月の準備では門松も貧相なもので済ますし、娘や女房の髪結いも許さない。
女房の浪花千栄子が病気になっても、どうせ死ぬのだから高い薬は医者を儲けさせるだけだと与えない。
葬式では招いたわけではないと、お参りに来てくれた人への接待もしない。
質素倹約と言えば聞こえはいいが、ここまで来ると始末というよりケチである。

娘の香川京子の結婚相手を三益愛子の一人息子と決めるのだが、この三益愛子も鴈治郎に負けず劣らずのケチぶりで、二人の掛け合いが愉快である。
二人は建築中の家で出会うのだが、大工がいないことを良いことに切れ端の木を拾い集めている。
鴈治郎は風呂の焚きつけにすると言うのだが、三益愛子はこれを削って割りばしにして売るのだと言う。
ケチとケチが意気投合して香川京子の縁談をまとめてしまうのだが、結納金の額やら持参金の額で丁々発止のやり取りをするのは、まるで漫才を見ているようなもの出面白い。
僕はこの二人の絡みはもっとあって、ケチ合戦のやりとりがもっと描かれても良かったように思う。
兎に角、中村鴈治郎が際立っていて、「座頭市物語」でブレイクする前の勝新太郎も、スターとして売り出された市川雷蔵も影が薄い。
中村鴈治郎は上方の歌舞伎役者だったが、上方歌舞伎の凋落がいちじるしかったこともあって、もっぱら映画に活躍の場を求めており、僕は映画における中村鴈治郎しか印象にない。
独特の雰囲気を持った演技は冴えており、市川崑の「炎上」や「鍵」、小津安二郎の「浮草」や「小早川家の秋」、黒澤明の「どん底」、川島雄三の「雁の寺」など大物監督の作品で名演技を見せている。
大阪生まれなだけに大阪を舞台にした映画にはうってつけの役者で、この映画でも同様の浪花千栄子との会話が造られた大阪弁ではない心地よさがあった。

最後は子供たちに見捨てられて発狂するが、三益愛子がお金は持って死ねるわけではないと言うのに対し、鴈治郎はあくまでもこの金は自分の物だと譲らない。
最後の姿は金の亡者への警告なのだろう。
息子の吉太郎は市之助の為に300両を持ち出したのだから、自分たちが家を出るにあたってもっと持ち出しても良かったのにと、家を飛び出した三人の行く末が少し気にかかった。

大いなる決闘

2022-03-14 09:31:57 | 映画
2019/2/10から「オーバー・フェンス」「オールド・ボーイ」「大阪物語」「王将」
「大鹿村騒動記」 「王手」「おくりびと」「お葬式」「おとうと」
「男たちの大和/YAMATO」「男と女」「男はつらいよ 望郷篇」
「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」
「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」「大人は判ってくれない」「お引越し」
「ALWAYS 三丁目の夕日」「俺たちに明日はない」 を紹介いたしました。
2020/11/21からは「お熱いのがお好き」「黄金」「黄金の七人」「大いなる西部」
「狼たちの午後」「狼は天使の匂い」「オーメン」「おかあさん」「幼な子われらに生まれ」
「お嬢さん乾杯」「お茶漬の味」「女と男の名誉」「お日柄もよく ご愁傷さま」
「おみおくりの作法」「女が階段を上る時」 を紹介しております。
興味のある方はバックナンバーからご覧ください。

少し間口を広げて「お」を紹介していきます。

「大いなる決闘」 1976年 アメリカ


監督 アンドリュー・V・マクラグレン
出演 チャールトン・ヘストン
   ジェームズ・コバーン
   バーバラ・ハーシー
   マイケル・パークス
   ジョージ・リヴェロ
   ラリー・ウィルコックス

ストーリー
1909年。開拓時代のアリゾナ地区。
バーゲードは鉄の意志と冷徹な頭脳の鬼保安官として鳴らした男であったが、年をとるに従い暴力の世界がいやになり遂に引退を決意し、妻と死別した彼は一人娘のスーザンと暮していた。
彼の長い保安官時代に、ナバオ・インディアンと白人のハーフで列車強盗の常習犯プロボを逮捕した時、過ってプロボの妻を殺したのがバーゲードのシコリとしていつまでも胸に残っていた。
一方、刑務所にいるプロボは復讐の鬼となり、脱走の機会を待っていたが遂にその機会がやって来た。
プロボが脱走したのを知ったバーゲードは、自分が保安官をやめようとやめまいとプロボに狙われるのを知ったが、プロボも相手が並々ならぬ敵である事は知っている。
プロボは、まずスーザンを誘拐してバーゲードを誘い出す手を打ったことで、バーゲードの追跡が始まる。
スーザンに心を寄せる若者ハルと、ノエル保安官が助っ人に出た。
一方、プロボには凶悪犯シーザーという味方がいる。
アリゾナ山間地帯を、プロボと彼に捕えられたスーザンの厳しい旅が続いた。
バーゲードは一行をやっと捜しだしたが、プロボの復讐は残忍をきわめた。
まず、父親であるバーゲードの目前で、スーザンを強姦しようとする。
たえるハルだが、バーゲードの銃口は、今にも火を吹かんばかり。
彼は枯草に火を放ち、一面を炎の海とし、プロボをいぶり出そうとする。
だが逆に、炎に巻かれたバーゲードとハルは、目の前で強姦されるスーザンをどうにもできなかった。
やがて、怨念にもえる男と男の宿命の対決は、白熱の銃撃戦出プロボ一味を倒したのち、ついにクライマックスの両者の決闘へと迫っていった。


寸評
追跡物の西部劇は色々あるがこの作品もその内の一つである。
追われる側は脱獄を果たした凶悪犯なのだが元保安官の娘を人質として連れている。
凶悪犯には愛する妻を殺されたので元保安官に復讐するという目的がある。
自分を刑務所に送った相手に復讐するという単純動機にはしていないのだが、相手が凶悪犯となればその動機も正当化されるものではない。
自分を監獄に送った元保安官に凶悪犯が復讐に来るものに「真昼の決闘」という傑作があるが、あちらは孤立無援で戦っているのに対し、こちらは新任の保安官が協力している。
しかし先住民の居留地に逃げ込まれたことで、保安官たちは管轄外だと離脱していく。
一方のプロボは先住民を母に持つ男という特異な設定となっている。

この映画で特徴的なエピソードは父親のバーゲードと婚約者のハルをおびき出すために二人の前でスーザンがレイプされ、助けようとした父親をハルが罠にはまるからとなぐり倒して止めることだ。
通常の西部劇では何らかの理由でスーザンはレイプから逃れるのだが、ここではそうはならず婚約者のハルが「命あってのものだねだ」と助けに行かない。
そうであれば当然最後にはその事に関するハルとスーザンの間に慰め合うシーンがあるものなのだが、ここで終わらせるのかというラストシーンになっていて、それも特異なものとなっている。

ちょっとひねった西部劇なのだが脚本的には荒っぽいところがある。
服役中のプロボは鉄道の敷設作業に駆り出されていたところで監視役を殺害して逃亡するのだが、強いものだけを連れて行くと言って7人の囚人を味方につける。
しかし、このあたりの地理に詳しいという一人を除いて7人が選ばれた理由が分からない。
プロボ゙には腹心のシーザーという男がいるのだが、この二人の関係もよく分からない。
女好きの男とスーザンをかばう若者だけがわずかに必要人物と感じるだけで、キャラクターの描写不足がある。
プロボの母親が先住民であったということも上手くいかされていたとは言い難い。
わずかに逃げ込んだ居留地には顔見知りの先住民がいた程度となっている。

バーゲードが現役保安官としてプロボを逮捕した時と時代は変わっていて、電話もあれば自動車もある。
化学肥料を使って農業をやることに夢を抱いている若いハルに対し、バーゲードは肥料は馬糞だと言うことで時代の移り変わりを描いていたと思うのだが、そうであれば長い年月を服役していたプロボにも同様の戸惑いが生じても良いはずだが、時の流れに関するエピソードはそれ以外には登場しない。
保安官に時代の進歩を語らせ、ハルに近代農業を語らせた効果は出ていないように思う。

バーゲードはプロボが自分に一方ならぬ憎しみを抱いているから簡単に殺すことはないだろうと事前に語り、そこにスキが出来るとも言っていて、それが最後の対決に活かされている。
バーゲードの命は助かるのだろうが、ハルとスーザンはどうなるのだろうと思わせるラストシーンとなっている。


煙突の見える場所

2022-03-13 10:39:12 | 映画
「煙突の見える場所」 1953年 日本


監督 五所平之助
出演 上原謙 田中絹代 芥川比呂志 高峰秀子
   関千恵子 田中春男 花井蘭子 浦辺粂子
   坂本武 三好栄子 中村是好 小倉繁

ストーリー
東京北千住のおばけ煙突、それは見る場所によって一本にも二本にも、三本にも四本にもみえる。
界隈に暮す無邪気な人々をたえずびっくりさせ、そして親まれた。
足袋問屋に勤める緒方隆吉(上原謙)は、両隣で競いあう祈祷の太鼓とラジオ屋の雑音ぐらいしか悩みがない平凡な中年男だが、戦災で行方不明の前夫をもつ妻弘子(田中絹代)には、どこか狐独な影があった。
だから彼女が競輪場の両替えでそっと貯金していることを知ったりすると、それが夫を喜ばせるためとは判っても、隆吉はどうも裏切られたような気持になる。
緒方家二階の下宿人、ひとのいい税務署官吏の久保健三(芥川比呂志)は、隣室にこれまた下宿する街頭放送所の女アナウンサー東仙子(高峰秀子)が好きなのだが、相手の気持がわからない。
彼女は残酷なくらい冷静なのである。
一家の縁側に或る日、捨子があり、添えられた手紙によれば弘子の前夫塚原(田中春男)のしわざである。
戦災前後のごたごたから弘子はまだ塚原の籍をぬけていない。
二重結婚の咎めを怖れた隆吉は届出ることもできず、徒らにイライラし、弘子を責めつけた。
泣きわめく赤ん坊が憎くてたまらない。
夜も眼れぬ二階と階下のイライラが高じ、とうとう弘子が家出したり引き戻したりの大騒ぎになった。
騒ぎがきっかけで赤ん坊は重病にかかり、あわてて看病をはじめた夫婦は、病勢の一進一退につれて、いつか本気で心配し安堵しするようになった。
健三の尽力で赤ん坊は塚原の今は別れた後妻、勝子(花井蘭子)の子であることがわかり、当の勝子が引き取りに現われた時には、夫婦もろともどうしても赤ん坊を渡したくないと頑張る仕末である。
彼らはすつかり和解していた。
赤ん坊騒ぎにまきこまれて、冷静一方の仙子の顔にもどこか女らしさがほのめき、健三は楽しかった。


寸評
4本の煙突と同じように主要な四人が登場して小市民の生活が繰り広げられる。
あばら家のような2階建ての借家に住んでいるのが上原謙と田中絹代の夫婦で、2階の二部屋を芥川比呂志と高峰秀子にまた貸ししている。
そのこと自体に不思議なものを感じてしまうが当時はそれも有りだったのかもしれない。
煙突が見る場所によっては一本にも二本にも、三本にも四本にも見えるように、登場する人々は時と場合によって違った態度を見せる。
上原謙は平凡な人のよさそうな中年男で妻の田中絹代と仲睦まじい生活を送っているが、田中絹代が自分に内緒で競輪場のアルバイトをしていたことに立腹する。
おまけに赤ん坊が登場してからは田中絹代に辛く当たるようになり、パチンコ通いをするダメ男になる。
赤ん坊の大きさと弘子との結婚生活の時間を考えれば、弘子の子ではないことは明白だと思うのだが、この男の慌てぶりは何処から来るものなのかと思ってしまう。
田中絹代は不幸な過去を忘れるように今の生活を幸せと感じていて夫に感謝し愛しているが、赤ちゃんが登場してからの夫の変節ぶりに離婚を決意し自殺を試みたりしてしまう。
しかし謄本を見る限り塚原との間には子供がいたようで、一体あの子供はどうなったのだろう。
弘子は子供を捨ててきたのだろうか、死んでしまったのだろか、弘子はその子のことをどう思っていたのだろう。
高峰秀子は一番しっかり者で、優柔不断な人たちを叱ったり元気づけたりする頼りになる女性だが、家主夫婦が宵の口からイチャついている場面に出くわすと黙って睨みつけたように潔癖すぎる性格でもある。
税務署に勤める芥川比呂志は正義感は強いのだが、問題解決する能力や忍耐力には欠けていそうな男だ。
それぞれが人として相反する気持ちや言動を見せるのだが、それこそ人間そのものであろう。

芥川比呂志は上原謙夫婦の為に、「これはもはや個人の問題ではない、正義の問題なのだ」とおせっかいを焼くことになるが、当の上原謙はそんなことはお構いなしにパチンコで景品をせしめていい気になっている。
感謝がないと愚痴る芥川比呂志に、「正義の問題なんでしょう?家主らの感謝の有る無しは関係ないじゃない」と高峰秀子がぴしゃりと言い放つ。
そうなのだ、感謝がないことを愚痴るくらいならしなければいいのだ。
人に対して良かれと思ってやったことに対して、返礼やら感謝を求めてはいけないのだ。
なになにしてやったのに、という思いは親切を押し売りする人の奢りだ。
主要人物の他にも高峰秀子の友人の女性、赤ん坊を捨てた別れた夫婦なども登場するが、がけっぷちの生活ながら何とか踏ん張っている人たちである。
いつも聞こえるのは赤ん坊の鳴き声で、それは生きようとする力の表現である。
田中絹代が自殺未遂を起こし泣き崩れた時に、それまで泣き叫んでいた赤ん坊が泣きやむ。
大人と赤ん坊が逆転した瞬間だった。
カメラワークとして顔の超アップが随所で見られる。
手前に画面からはみ出しそうな顔のアップがあり微妙な表情を見せ、その奥にいる人物が映り込んでいる。
オーソン・ウェルズが「市民ケーン」で見せたパン・フォーカスの日本版のようなカットで新鮮味があった。
最後は全てがハッピーエンドとなるのだが、人間のエゴと心変わりを描いた良質な風俗映画である。

“エロ事師たち”より 人類学入門

2022-03-12 09:43:35 | 映画
「“エロ事師たち”より 人類学入門」 1966年 日本


監督 今村昌平
出演 小沢昭一 坂本スミ子 佐川啓子 近藤正臣
   田中春男 ミヤコ蝶々 殿山泰司 中村鴈治郎
   菅井きん 西村晃 菅井一郎 加藤武

ストーリー
人間生きる楽しみいうたら食うことと、これや、こっちゃの方があかんようになったらもう終りやで。
スブやんこと緒方義元(小沢昭一)は、いつも口ぐせのようにこうつぶやくと、エロと名のつくもの総てを網羅して提供することに夢を抱いている。
スブやんは関西のある寺に生れたが、ナマグサ坊主の父親(菅井一郎)とアバズレ芸者の義母(園佳也子)の手で育てられ、高校を卒えて大阪へ出て来たスブやんは、サラリーマンとなったが、ふとしたことからエロ事師の仲間入りをしたのがもとで、この家業で一家を支えることになった。
彼の一家とは彼が下宿をしていた松田理髪店の女王人で未亡人の春(坂本スミ子)と彼女の二人の子供、予備校通いの幸一(近藤正臣)と中学三年生の恵子(佐川啓子)である。
スブやんは春の黒髪と豊満な肉体に魅かれてこうなったのだが、春にとっては思春期の娘をもって、スブやんを間に三角関係めいたもやもやが家を覆い、気持がいらつくばかりだ。
そして、歳末も近づいた頃、遂に春は心蔵病で倒れた。
仲間の伴的(田中春男)は暴力団との提携をすすめたが、スブやんは質の低下を恐れて話を断わる。
その8ミリエロ映画製作とは実の親が娘を犯すといったもので、さすがのスブやんも考え込んでしまった。
スブやんはニュタイプの器具から足がついて、警官に拉致された。
その頃、春の病状は思わしくなかったが、幸一のバリ雑言の中で、春はスブやんの仕事を信じていた。
出所したスブやんにまた生気がよみがえってきた。
数日後、酔いつぶれて帰って来た恵子に、スブやんはいとしさがこみあげて来た。
事の成りゆきを知った幸一は家出した。
四月、春はスブやんの子供を妊ごもったまま、恵子の写真を針でつきながら死んでいった・・・。


寸評
小沢昭一演じるエロ事師のスブやんは、アダルトフィルムやいかがわしい写真を撮影して売りつけたり、売春婦の斡旋をして生計を立てている。
これだけだったら、特殊な風俗産業に取材した内幕物の風俗映画で終わったかもしれないが、今村はこれに小沢の異常な私生活を絡めて人間ドラマに昇華させている。
スブやんは夫を亡くして間もない二人の子供がある女と同居しており、その女を愛する一方で自分の性欲が自然な高まりを見せてくると、まだ中学生である娘と情を交すようにもなる。
ところがスブやんは、単なるスケベ親爺ではなくて、いちおう分別を備えた人間として描かれていて、自分の行為を客観的な目で反省するし、子育てに関しては随分まともな意見を述べるのである。
しかしスブやんは彼の持つ真面目な部分は生身の女の体の前では形をなさなくなって、つい本能のままに行動してしまう弱い人間でもある。
それは男女の関係が理屈では割り切れず、自分ではどうしようもない本能のような力によって動かされているからだと、まるでスブやんの行為を正当化するような描き方である。
多分にこの映画が風刺喜劇的であることでそう感じるのだろう。

この映画は大阪がよく似合うし、話される大阪弁が心地よく長回し的に撮られるシーンでの会話が楽しめる。
出演者もミヤコ蝶々や中村鴈治郎の芸達者を据えて雰囲気を出し、小沢昭一、坂本スミ子、田中晴夫が持てる魅力を存分に発揮している。
とにかく小沢昭一の演技が迫力を感じさせる。
小沢は多芸の人でバイプレーヤーとして映画出演も多くの本数を数えるが、主演作でもあるこの作品が彼の出演作品の中では一番だろう。
小沢の相手の女を演じた坂本スミ子もすさまじい迫力だ。
坂本スミ子は出発が歌手で、僕はテレビ番組の「スミ子と歌おう」をよく見ていて彼女のファンになった。
御堂筋を唄った歌として欧陽菲菲の「雨の御堂筋」が有名であるが、僕にとっては坂本スミ子の「たそがれの御堂筋」が一番で、その後に出た「大阪の夜はふけて」も好きな一曲なのだが、レコードを処分してしまった今となってはネット上でもこの曲を聞けないでいる。
この映画では小太り気味の体から小さな目をギラギラさせて小沢昭一と五分に渡り合っている。
発狂したときの演技などは動物園のオリに閉じ込められた猛獣が吠えているような迫力を出している。
登場する人物たちの描写は魅力的である。
暴力団とは違う裏社会に生きている人たちで、決して小市民というべき人種ではないが、必死に生きている人間たちであることは確かで、スブやんの仕事が汚いと言う恵子に食って掛かる場面は生きる力を感じさせた。
ダンナが死んで間もない春が下宿人のスブやんに「ダメ、ダメ」と言いながら誘惑するシーンは可笑しい。
春が死んでスブやんが乱交パーティを開催するシーン辺りから作品内容が芸術性を帯びてくる。
船が大海に流れ出していることに気が付かないほどスブやんはダッチワイフの制作に没頭していて、カメラがグーンと引いて映像が小さくなった所で終わるのに少々の違和感がある。
風刺喜劇のラストシーンとして最後のパンチを繰り出して欲しかったが、描き方は思いつかない。
スブやんの生き方を僕は出来ないが、彼の存在は理解できるものがある。

エロス+虐殺

2022-03-11 08:51:53 | 映画
「エロス+虐殺」 1970年 日本


監督 吉田喜重
出演 細川俊之 岡田茉莉子 楠侑子 高橋悦史
   八木昌子 稲野和子 原田大二郎 川辺久造

ストーリー
(1969年3月3日)ベッドに裸で横たわる永子に畝間が愛撫をくりかえすが、永子の眼は醒めきっている。
(大正5年春3月)大杉栄は同志幸徳秋水らが殺された春を、伊藤野枝は青鞜の運動に感動し、故郷をあとにして新橋駅に降りたった十八歳の春を想い起していた。
辻潤をたよって上京した野枝は青鞜社に平賀明子を訪ね、編集部員として採用されて正岡逸子に会った。
(1969年3月7日)畝間のスタジオに刑事が訪れ、永子を売春容疑で訊問した。
(大正5年2月11日)辻潤は野枝の行動力を評価しながらも、育児ひとつ出来ない野枝に不満を抱いていた。
社会主義運動が行き詰ったこの時代、大杉はそれをつき抜けるものとして、恋愛を考えていた。
妻保子があり、女流記者正岡逸子にうつつをぬかし、野枝との恋愛関係にある大杉を同志たちは悲難する。
(大正5年3月末)大杉は、正岡逸子に野枝と恋愛関係にあることを報告。
(1969年3月31日)永子は刑事に自分が売春を仲介したことを話した。
(大正5年4月某日)野枝の心は辻への執着と大杉との新しい恋に引きさかれていた。
野枝はある日、義妹千代子と辻が抱き合っているのを見てしまった。
野枝は辻とも大杉とも別れようと思ったが、逸子は二人から自由になることなど出来ないときめつけた。
(1969年4月1日)和田は永子に別れようと話しかける。
(大正5年11月6日)野枝は大杉に従い日蔭の茶屋に入り、大杉を疑っていた逸子がその夜訪れた。


寸評
僕はATG館(北野シネマ)で上映されたこの作品をリアルタイムで見ている。
「エロス+虐殺」という大層なタイトルでありながら美しいタイトルでもあり、このタイトルだけで僕の映画遍歴のなかでも記憶に残る作品となっている。
くだらない作品ではないが退屈な作品でもあり、見ていて何度も眠くなった記憶が残っている。
昔見た映画を再見すると新たな発見があったり、当時の印象と違った思いが湧いてきたりもするものだが、この映画を再見しても当時から抱き続けていた印象とあまり変わらなかった。
上映時間の長さに加え、関係をこじらせまくった登場人物、哲学的というか観念的というかしんどくなる台詞回し、露光オーバーのハイキ―な映像、上から見下ろし下から見上げるカメラワーク、当時あったATGの最盛期を誇るような実験的な演出などによって疲れる映画である。
しかし同時に磨き上げられた完成度の高い映画だと感じさせるパワーも持ち合わせている。
大正時代の愛憎劇に現代劇を組み込んで複雑化しているような印象を受けるが、本筋はアナーキスト(無政府主義者)大杉栄を巡る3人の女性の愛憎劇である。

大杉栄は自由恋愛主義者である。
深尾韶と婚約していた堺利彦の義妹堀保子を強引に犯して結婚した。
だが、大杉栄は保子と入籍せず、神近市子(映画では正岡逸子)に続き、伊藤野枝とも愛人関係となった。
伊藤野枝は長女魔子を身ごもり、野枝とその子供に愛情が移ったのを嫉妬した神近市子によって刺され大杉は瀕死の重傷を負った(いわゆる日蔭茶屋事件である)。
憲兵隊ににらまれていた大杉は関東大震災直後、憲兵隊司令部で雑誌『青鞜』で活躍し愛人でもあった伊藤野枝と共に不慮の死を遂げた(甘粕事件)。
映画はそれをベースに脚色されていて、登場人物名として平塚らいてうは「平賀哀鳥」、荒畑寒村は「荒谷来村」、神近市子は「正岡逸子」となっているが、すでに鬼籍に入っていた大杉栄、伊藤野枝、辻潤、堀保子、堺利彦は本名のまま登場している。
ざっとしたあらましだが、この大杉栄に関するあらましを知っておいた方が作品を理解しやすい。

映画は現代社会で束帯栄子が成人している魔子へのインタビューから始まる。
「魔子さんですね?大正12年の関東大震災の混乱の中で無政府主義者大杉栄と共に虐殺されたその妻の伊藤野枝さんの、忘れ形見の魔子さんですね?」
困惑する魔子にかまわず束帯栄子は前述した伊藤野枝に関する経歴を確認するように話し続ける。
栄子のインタビューによってこの映画の背景を説明しているのだが、僕は束帯栄子は督吉田喜重の分身のようにも感じた。
ラストも現代のシーンで和田と栄子がスタジオから出ていく。
そこで和田は大きな鉄の扉を押しながら「こいつに挟まれて耳を落とした奴がいるんだ」と告げる。
栄子は「耳を? そしたら自分の泣く声が聞こえるかしら」と言う。
自我をなくした自己ということの表現なのだろうか。
凡人の僕は東大仏文学部卒の吉田喜重についていけないでいる。

エル・ドラド

2022-03-10 09:56:57 | 映画
「エル・ドラド」 1966年 アメリカ


監督 ハワード・ホークス
出演 ジョン・ウェイン
   ロバート・ミッチャム
   ジェームズ・カーン
   アーサー・ハニカット
   エドワード・アズナー
   ミシェル・ケリー

ストーリー
ガンファイターのコール(ジョン・ウェイン)はテキサスのエル・ドラドに久しぶりにやって来た。
迎えたのはシェリフになった旧友ハラー(ロバート・ミッチャム)のライフル銃と、昔の恋人、酒場の女主人モーディー(シャーリン・ホルト)のキスだった。
コールは牧場主ジェイスン(エドワード・アズナー)に頼まれ、水利権の争いの助太刀にやって来たのだ。
しかしハラーがシェリフになっているのを知ると、旧友のために手を引くことにした。
ジェイスンの牧場に助太刀を断わりに行った帰り、狙撃してきた男に応戦、重傷を負わせた。
男はジェイスンと水利権を争っているマクドナルド(R・G・アームストロング)の息子で、彼は苦痛にたえかねて自殺したので、コールは事情を説明しにマクドナルドの牧場へ行った。
だがその帰り、今度は仔細を知らないマクドナルドの娘ジョーイ(ミシェル・ケーリー)に撃たれ重傷を負った。
コールは傷がなおるとエル・ドラドを去ったが、マクロード(クリストファー・ジョージ)というガンマンがジェイスンにやとわれ、エル・ドラドへ行くことを知り、ハラーの身を案じて再びエル・ドラドへ戻った。
マクロードはマクドナルド一家にいやがらせをはじめ、町には銃弾が飛びかった。
結果は、ジェイスン側にマクドナルドの息子ソール(ロバート・ロスウェル)が捕らえられ、水利権の書類との引きかえを要求される破目になってしまい、情勢はマクドナルド一家に不利となった。
そこで最後の決戦が開始されることになった。
コールは古傷でまだ体の自由がきかなかったが、マクロードを撃ち倒した。
ハラーたちはソールを助けだし、ジョーイはコールを狙ったジェイスンを撃ち倒した。


寸評
ハワード・ホークスらしい超娯楽作。
牧場の水争いがあり、ガンマン対決があり、牢屋に入れられたボスを助け出すサスペンスあり、女性との色恋ありと、何でもござれの要素が詰め込まれている。
敵方に雇われたコールが友人の保安官ハラーの話を聞き、契約を破棄した帰りに味方すべきマクドナルド一家の息子を射殺してしまうという導入部でまずストーリー的に驚かす。
そしてコールはマクドナルドの娘ジョーイに撃たれ傷を負うが、この傷が後々の伏線となっている。

コールと保安官を演じるのがジョン・ウェインとロバート・ミッチャムでなかなか渋い。
時間経緯が示され、その間にロバート・ミッチャムはアル中になっていて、ジェームズ・カーンのミシシッピによって酒抜きをされるが完全復活とはいかない。
片や古傷を抱えたガンマン、片やアル中症状が抜けきっていない保安官とハンデを負った二人が悪徳ボス一味と対決するというのが醍醐味となっている。
コールは背中に入った弾丸を摘出しておらず、時々激痛が走り右手がしびれて使えなくなる。
ハラーはボロ布のようなシャツを着て時々胃のむかつきを覚えてうずくまるといった具合だ。

ジェームズ・カーンの若者もいいが、アーサー・ハニカットのブルという老人が面白い役回りをやっていて、さながら孫を見守る爺さんのような雰囲気だ。
ハラーに浴びせる憎まれ口が雰囲気を和らげる。
ミシシッピはナイフの使い手だが、それは復讐劇で示されるだけで、ジェイスン一味との戦いでは登場しない。
銃を取り上げられるが、背中に隠し持ったナイフでやっつけるような演出があっても良かった。
散弾銃のエピソードだけでは物足りなかったような気がする。

ジェイスン一家にはマクロードというスゴ腕のガンマンが雇われるが、それに匹敵するのがコールとハラーだ。
三者とも早打ちだが、コールとハラーがハンデを負っていることでその決闘は見られずじまい。
ちょっとあっけない幕切れのように感じる。
ガン・ファイトでは待ち伏せの場面が多かったように感じるが、上手い処理で楽しませてくれる。

結果的に銃撃戦は古い教会で行われたものが一番だったように思うので、最後の対決は物足りなさ感がある。
マクロードというガンマンの凄さが最後まで示されることはなく、コールとのプロ同士のやり取りだけだったが、雰囲気だけは出していて倒れた後のセリフも賞金稼ぎの末路らしい。
コールとシャーリーン・ホルトのモーディーとの結末、ミシシッピとジョーイのその後などが描かれておらず、消化不良感が残る内容なのだが、見終るとなぜか満足感が生じる作品だ。
中身は大したことのない映画なのに、なんとなく納得してしまういうのがハワード・ホークスの作品だ。
この映画も例外ではない。
コールはモーディと一緒になって町に残ることが暗示されて終わるが、ミシシッピはどうなったんだろうな。
オーソドックスな西部劇だが、ハワード・ホークスの職人芸で魅せる映画となっている。

エル・シド

2022-03-09 10:17:12 | 映画
「エル・シド」 1961年 アメリカ


監督 アンソニー・マン
出演 チャールトン・ヘストン
   ソフィア・ローレン
   ラフ・ヴァローネ
   ジュヌヴィエーヴ・パージュ
   ジョン・フレイザー
   ゲイリー・レイモンド

ストーリー
狂信的な回教徒ベン・ユーサフは、アフリカからヨーロッパ侵略の機会を窺っていた。
ある小競り合いの折、ムーア人の大公たちはカスティールの若き武将ロドリーゴに捕らえられたが、彼の思いやりから全員釈放され、感激した大公の1人は彼にエル・シドの称号を贈った。
だが、ムーア人を釈放したことから、彼は王をはじめ恋人シメンからさえ非難を受けた。
そのことでエル・シドと争ったシメンの父ゴルマスは、彼の剣にかかって死んだ。
息をひきとる父から復讐を頼まれたシメンは苦しんだが、父を殺された憎しみは愛を押し流すのだった。
それからのエル・シドは、戦うごとに勝利を勝ち取り勇名を馳せるのだったが、ことごとにシメンが自分をおとし入れようとするのを知り心が重かった。
だが、シメンを思いきれないエル・シドは、王に彼女との結婚を願い出た。
婚儀の日、心を閉ざしたままのシメンは夫にすべてを許さないことこそ復讐と、翌朝修道院へこもってしまった。
そのころ、王の急逝により王子サンチョとアルフォンソの間で王位継承の争いが起こった。
やがて王位に就いたアルフォンソは、事の真相を知るエル・シドを追放しようとはかった。
追われたエル・シドは寂しく城を旅立ったが、彼の偉大さを知ったシメンは後を追った。
それから数年、エル・シドは再び勇将として返り咲いた。
一方、バレンシアでは、ベン・ユーサフが侵略に余念がなくアルフォンソ王にも挑戦してきた。
エル・シドの働きでバレンシアは陥落し、エル・シドはバレンシアの大公から王冠を受けたのだが…。


寸評
僕はスペインの歴史に詳しくないし、ましてや救国の英雄とされるエル・シドことロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールという人物の存在など全く知らないでいた。
この映画はそのエル・シドの半生記を描いた歴史絵巻である。
カスティーリャ王国の若き武将であったロドリゴは、イベリア半島に攻め込んで来たムーア人との戦の末に捕らえた敵軍の首長ムータミンとカディアを、捕虜として王に引き渡さず生かして逃がす。
ムータミンはロドリゴの人物に惚れこみ彼に協力するようになるが、一方のカディアはムーア人の王ユサフに従うようになる。
カスティーリャ王国はキリスト教国家で、ムーア人は北西アフリカのイスラム教徒であるから、紛争は侵略戦争でもあり宗教戦争でもあったのだろう。
捕虜を逃がしたためにロドリゴは反逆者と見なされるのだが処刑されることはない。
カスティーリャ王国の最高戦士であるゴルマス伯爵がロドリゴの父親を公の場で侮辱したので、ロドリゴはゴルマス伯爵を殺害することになってしまうのだが、それでもロドリゴは捕らえられて処刑されない。
この辺の事情は分かったようで分からないもどかしさが僕には生じた。
ゴルマス伯爵がロドリゴの愛するシメンの父親であったことでロドリゴとシメンの関係がドランティックに描かれる。
しかし父親を殺されたことで、愛していたロドリゴを自分に気のあるオルドニェス伯爵を使って殺そうとまでする変節はストーリー的で伝わってくるものはない。
最終的にオルドニェスはロドリゴに協力するようになり、捕らえられてユサフによって処刑される運命をたどる。
たぶんオルドニェスはユサフと争って敗北し捕らえられ拷問を受けたと思われるのだが、これもストーリーを示すような描き方で、ロドリゴと和解したかと思うといきなり処刑される場面が出てきてフェードアウトしてしまう。
ムーア人がスペイン征服を目論んで攻め込んできているのだが、両軍が激突する場面は最後まで待たされる。
戦争スペクタクルとしては物足りない描き方となっている。

カスティーリャ王国のフェルナンド王が死ぬと後継者争いがおこり、弟のアルフォンソ王子が姉のウラカ王女と結託し、兄であるサンチョ王を暗殺して即位する事が描かれるが、この出来事は史実のようだ。
ウラカ王女がロドリゴに好意を持っていたように感じ取れるのだが、直接的に描かれているわけではない。
描けば物語としては面白くなっただろう。
大軍がぶつかり合う戦争場面は最後になってやっとバレンシアの攻防で描かれる。
浜辺での戦闘では陣形を組んだ弓隊の攻撃があるものの、あとは両軍分け入って入り乱れての乱闘となる。
当時の本当の闘いはこのようなものだったのかもしれない。
映画では死んだと思われたエル・シドが現れたことでムーア人は恐れおののき退却を始め、ユサフ王も馬に踏みつけられる形で絶命しカスティーリャ王国は侵略を免れる。
エル・シドは瀕死の状態で、辛うじて馬上の姿を器具によって保っているのだが、カスティーリャ兵士は彼の姿を見て志気を高め、ムーア人は恐れをなしてしまう。
海岸を走り抜けるラストシーンはエル・シド伝説を感じさせるものとなっていて感動的だ。
ロドリゴは王に意見もするし、慈悲深い人でもあったので人々の尊敬を受けたのだろうが、救国の英雄として彼のもとに人々が参集する過程はもう少し感動的であっても良かったような気がする。

エリザベス:ゴールデン・エイジ

2022-03-08 09:38:43 | 映画
「エリザベス:ゴールデン・エイジ」 2007年 イギリス / フランス


監督 シェカール・カプール
出演 ケイト・ブランシェット
   ジェフリー・ラッシュ
   クライヴ・オーウェン
   リス・エヴァンス
   ジョルディ・モリャ
   アビー・コーニッシュ

ストーリー
1585年。イングランド国王の娘として生まれたエリザベス(ケイト・ブランシェット)は女王の座を手にしたものの、宮中では依然陰謀が渦巻き、外からは世界列強が虎視眈々と侵攻を狙っていた。
さらにスコットランドからは宿敵のメアリー女王(サマンサ・モートン)が逃亡してきて王位継承権を主張するなど、側近のウォルシンガム(ジェフリー・ラッシュ)に守られながらも、心休まらない日々を送っていた。
そんな彼女の前にある日、新世界から帰還したばかりの航海士ウォルター・ローリー(クライヴ・オーウェン)が現われた。
次の探検の費用をエリザベスから引き出そうと考えた彼は、宮廷に入り込んで、新世界の可能性を熱心に語るが、それは国外へ出たことのないエリザベスにとって未知の世界だった。
やがてエリザベスは、知性と野性を兼ね備えたローリーに惹かれていく。
一方のローリーも、最初は資金目的の宮廷詣でだったが、だんだんエリザベスに特別な感情を抱くようになる。
しかし未婚のまま国家と添い遂げることを誓ったエリザベスにとって、これは禁じられた愛だった。
そこでエリザベスは、侍女のベス(アビー・コーニッシュ)を自分の代わりにローリーに近づけ、彼を宮廷に通わせる口実にする。
だがそのせいでローリーとベスは恋仲となり、やがて妊娠、結婚まで秘かに行っていた。
それを知り、孤独感に打ちのめされ理性を失ったエリザベスは、ベスを遠ざけ、ローリーを投獄してしまう。
そんな折、エリザベス暗殺を指示したかどによりメアリー女王が処刑されたことがきっかけで、スペインの無敵艦隊がイングランドに攻めてきた。
最初はイングランドの劣勢だったが、エリザベスは自ら兵士として戦場に赴き、イングランド軍を勝利に導くのだった。


寸評
本物の歴史建造物や華麗な衣装などで彩られた重厚な歴史劇の印象は前作同様だ。
ラブストーリー寄りの人間ドラマの色合いが濃いのも前作同様なのだが、前作以上にエリザベスが苦悩する姿が描かれている。
ローリーへの恋心、侍女ベスの美貌と若さへの嫉妬、メアリー女王への処罰に苦しむ姿など、エリザベス女王の女王としての姿と、一人の女性、一人の人間としての姿が描き分けられていく。
さらに政治ドラマとしての要素が加わって現代社会との共通項を探っているように見える。

エリザベスの側近ウォルシンガムが暗躍するが、彼はまるでCIA長官の様だ。
ウォルシンガムは弟も拷問にかけるし、エリザベスが寵愛する侍女ベスの従兄弟も処刑する。
エリザベスの忠臣ではあるが、その行動は非情で手段を選ばない。
敵側にスパイを送り込み情報を入手し、その情報による粛清は後を絶たない。
スペインのフェリペ2世はカトリック原理主義者である。
プロテスタントとカトリックの対立が背景にあるが、原理主義者はえてして暴走しがちである。
イングランドの自由を守ろうとするエリザベスと、カトリック原理主義によりイングランドを滅ぼそうとする姿は、まるで自由主義社会と、イスラム原理主義の戦いの様でもある。

政治的暗躍、宗教対立が硬派の物語なら、それに対するのがローリーをめぐり、エリザベスとベスが繰り広げる三角関係だ。
ローリーとエリザベスにはお互い特別な感情が湧いているが、ローリーはベスと関係を持ち子供が出来たことで秘密裏に結婚してしまう。
侍女の結婚は宮廷の許可を得なければならないしきたりだが、ベスはそれも無視してしまう。
一番寵愛するベスにローリーを取られて、裏切られた気分になるエリザベスの姿は権力を有している以外、もはやそこいらの女性と何ら変わらない。
エリザベスは中性的な人物で、この時はローリーに素直に愛されるベスのようでありたいと願う女性の一面だ。
男性的な一面はローリーのように新世界に飛び出したいと言う冒険心を持っていることであり、民と共に前線に立ち命を惜しまない振る舞いを見せることである。

政治問題に比べると恋愛問題は甘い。
甘さに慣れてきたところでスペインの無敵艦隊が攻めてくる。
CGスタッフの力量不足か、艦隊描写の緻密さと迫力は他作品と比較すると劣っているように思えた。
もっとスペクタクルとしての面白みは出せたはずだ。
兎に角イングランドはアルマダの海戦に勝利し、スペインの本土上陸を阻止する。
英国はその後1805年にもナポレオン戦争においてトラファルガーの海戦に勝利し、ナポレオン軍の本土上陸を阻止している。
トラファルガーにおいては名将ネルソン提督がいたが、アルマダの指揮官は誰だったのだろう。
まさかローリーではあるまい。

エリザベス

2022-03-07 10:18:40 | 映画
「エリザベス」 1998年 イギリス


監督 シェカール・カプール
出演 ケイト・ブランシェット
   ジョセフ・ファインズ
   ジェフリー・ラッシュ
   クリストファー・エクルストン
   リチャード・アッテンボロー
   ファニー・アルダン

ストーリー
16世紀のイングランド。国内では旧教・カトリックと新教・プロテスタントが争っていた。
ときの女王メアリー(キャシー・バーク)はプロテスタントを弾圧、新教派のエリザベス(ケイト・ブランジェット)もロンドン塔に投獄されてしまう。
しかし、ほどなくメアリー女王は他界。
1558年、エリザベスに王位が継承される。
新しい女王に、フランスのアンジュー公(ヴァンサン・カッセル)、スペイン王との結婚話が持ち上がるが、エリザベスは恋人のロバート(ジョセフ・ファインズ)と逢い引きを重ねていた。
国内の財政は苦しく、スコットランドとの戦争にも敗れたイングランド。
エリザベスは新教派のウォルシンガム(ジョフリー・ラッシュ)を味方につけ、国を新教に統一することを決定。
これを怒ったローマ法王は英国に密使を送る。
ウォルシンガムは不穏な動きを抑えるため、スコットランド女王メアリ・オブ・ギーズ(ファニー・アルダン)を暗殺。
臣下たちは結婚により身を守るようエリザベスに薦め、ロバートにはすでに妻がいることを告げる。
国内では旧教派のノーフォーク卿(クリストファー・エクルストン)が法王と結託し反撃に出ようとしていた。
意を決したエリザベスはローマからの密使を探し出し、ノーフォーク卿をはじめとする旧教派を一網打尽にする。
愛に破れ祖国と生きることを決意したエリザベスは、人々の前で「私は国家と結婚します」と宣言するのだった。


寸評
こういう宮殿を舞台にした映画では、大抵が登場人物のコスチュームと宮殿内部の豪華さに目を奪われるものだ。
本作も例外ではなく豪華絢爛である。
僕は英国史に詳しくないし、キリスト教に関してはチンプンカンプンである。
カトリックとプロテスタントの違いも分からない。
日本でも古くはキリスト教に対する禁教令が出されて信者が迫害された時期もあったが、現在では宗教に関してはおおむね鷹揚である。
大抵の日本人には宗教戦争の根底にあるものが理解できないのではないか。
そんな宗教対立がバックにあるので、僕は映画自体にある宗教的背景が十分に理解出来なかった。
感覚としてその背景を感じとれればもう少し楽しめたかもしれない。

歴史物語でもあるのだが、ラブロマンスでもあり、どちらかと言えばそちらの要因の方が重きをなしている。
その為に迫ってくるような迫力には欠けていたように思う。
エリザベスは異母姉の女王メアリーによってロンドン塔に幽閉されてしまうのだが、そこに至るまでの盛り上がりに欠けるし、幽閉されてからの苦難も描かれていない。
女王メアリーが他界すると、新女王としてエリザベスが迎えられるのだが、その劇的さも感じ取れなかった。
バチカンからの刺客が送られてきたり、暗殺未遂が発生するシーンでも、権謀術策が渦巻く権力争いという雰囲気は出ていなかったように思う。
もう少しエンタメ性に富んだ演出があれば、もっと楽しめた作品になっていたのではないか。
まあこれは好みの問題でもあるのだが。

何といってもケイト・ブランシェットである。
場面場面で見せるケイト・ブランシェットの表情に大女優の貫録を感じてしまう。
肖像画を見せられたとしても、エリザベス1世の名前を聞くと彼女の顔を思い浮かべてしまうのではないかと思うくらいに成り切っていた。

エリザベス1世はバージン・クイーン(処女王)とも呼ばれ、生涯結婚をしなかった女王であるが、結構愛人的な人はいたようで、ここでもロバートと逢瀬を重ねている。
そこに政略結婚の相手としてフランスやスペインが絡んできて、言い換えれば三角関係、四角関係が発生する。
スペインは当時のイングランドなら一ひねりで侵略できそうなものだが、やはり犠牲を払わないためには政略結婚が一番なのかもしれない。
実際、戦争を仕掛けたスコットランド戦でイングランドは大敗を喫していて、最悪の結果をもたらされている。
皆の意見に流されてしまった結果だが、やがてエリザベスは徐々に強くなっていく。
それを助ける忠臣がウォルシンガムである。
ウォルシンガムはエリザベスの王位を守るためには何でもする。
敵対者を幽閉したり、暗殺したり、証拠を力ずくで入手して処刑したりと闇の部分を淡々とこなしていく。
僕にはエリザベスが熱をあげるロバートなんかよりも、このウォルシンガムの方が魅力的な男に見えたけど…。

江分利満氏の優雅な生活

2022-03-06 08:49:13 | 映画
「江分利満氏の優雅な生活」 1963年 日本


監督 岡本喜八
出演 小林桂樹 新珠三千代 矢内茂 東野英治郎
   英百合子 横山道代 中丸忠雄 松村達雄
   天本英世 江原達怡 北あけみ 平田昭彦

ストーリー
宣伝マンの江分利満氏(小林桂樹)は今日もキャッチコピーをひねりだし、終業のベルでみんなが帰りだすと呑み相手を探すが、彼と呑むと荒れるのが目に見えているので誰も一緒に行きたがらない。
結局一人で何軒もはしごし、方々でクダを巻いて帰るのが彼の常だった。
彼は妻・夏子(新珠三千代)、息子・庄助(矢内茂)、年老いた父親・明治(東野英治郎)と一緒に暮らしている。
ある日、いつものように呑んでいると、男女の2人組に声を掛けられ、そのままの流れで一緒に飲み明かして帰路についた次の日、ポケットに覚えの無い名刺が入っているのが見つかり、一応連絡を取ってみると昨日一緒に飲み明かした二人が訪問してきた。
二人は雑誌社の編集者で、呑みがてら彼に原稿の依頼をしていたのだ。
江分利には全く記憶がなかったのだが、二人の情熱に根負けしてしぶしぶ原稿を引き受けた。
家に帰って原稿に向かっても一行に筆は進まなかったが、様子を見に来た妻といろいろと話しているうちにアイデアが浮かんだ。
原稿が載るのは婦人雑誌なので、女性が知らない平凡なサラリーマンの生き様を書くことにした。
江分利の小説は社内でも世間でも評判になり、一部の男性社員からは「酔って管を巻いているような小説」だと評され編集者の二人は大喜びする。
また3人で呑みにいくと、江分利は「もうこれ以上は書けない」と言いはるのだが、2軒3軒と回っているうちに「絶対に傑作を書いてみせるぞ!」となってしまう。
次の題材は主に自分の両親のことについて書いた。
書きたいままに淡々と書いていた江分利の小説「江分利満氏の優雅な生活」が直木賞を受賞した。
ささやかな祝賀会が終わり、2次会、3次会となったが一人二人と人数が減っていく。
次の日、普段通り出勤した江分利満氏の優雅な生活がまた始まるのだった。


寸評
後のサントリーとなる寿屋には社長の佐治敬三の元に、開高健、山口瞳、柳原良平、坂根進、酒井睦夫など、今から思えばそうそうたるメンバーが参集していた。
佐治敬三や開高健などの強烈な個性の持ち主がサントリーの社風を作ったと思うが、社長の佐治は宣伝部にいる彼らを遊ばせていたと言う話を聞いたことがある。
山口瞳の直木賞受賞作「江分利満氏の優雅な生活」を原作としている本作だが、ここで描かれている宣伝部の雰囲気は映画の世界だけのものではなかったのだろう。
主人公の江分利満は仕事をしているのか、大して役に立っていないのかよくわからないサラリーマンである。
仕事が終われば飲み歩いているようで、奥さんからは週に一度の御前様も許されているようだ。
題名通り優雅な生活を送っているようだが、父親の借金もあり暮らしは楽ではない。
しかし妻の新珠三千代はきわめておおらかな良妻賢母で、彼女を妻に持った江分利を羨ましく思う。
山口瞳の奥様をモデルとしているなら、彼が直木賞を受賞できた陰の功労者は奥様だろう。

江分利は飲み屋で懇意になった雑誌社の人と酔った勢いで執筆の約束してしまい、本人に記憶がない安請け合いが直木賞受賞に繋がっていく。
こういう場所で知り合った人脈とか、同僚との飲み屋談義から取引が出来たりアイデアが生まれたりする。
僕も社会人時代は飲み屋での本音トークに随分と助けられたり方針を決定したりしたものだ。
社内での杓子定規な会議では案外と核心を付いた議論が出来なかった経験もあるのだが、それは僕も江分利と同じ飲んべえだった為かもしれない。
描かれていく途中ではアニメーションや合成技術、ストップモーションやスローモーションの多用などが見られ、この作品にちょっと風変わりな雰囲気をもたらしている。
江分利は直木賞を祝ってくれた会社の同僚と飲み歩き、店が変わるたびに次々と同僚が去っていく中で、彼は構わずに持論を展開し続ける。
酔っぱらってクダを撒いているように見えるこのシーンはやたらと長い。
自己を吐露するこの長大な終盤の場面は、エンタテインメントに徹してきたそれまでの描き方っとまったく違い、僕は感心するより戸惑ってしまった。
それまでも時代背景を語るためにニュース映像が挟み込まれ、学徒動員など戦争に対する批判めいたものを感じさせていたのだが、この終盤は明らかに異質だ。
特殊なシーンとなっているだけに僕はここに岡本喜八の戦争を通じた思いを垣間見る。
江分利は高度成長期の真っただ中を生きており、苦しいながらも優雅な生活を送っている。
しかし今、江分利が優雅な生活を送っていられるのは戦争で死んでいった彼らの犠牲があってこそなのだ。
若者よ、気概を持て。
過ぎ去ったかつての時代の者たちが持っていたと思われる、”日本の為に、社会の為に”と言う精神を思い起こせと叫んでいるように思えた。
日本は経済成長を遂げて、砂利道はいつの間にか舗装道路に変わっていった。
物質面は比べようもないくらいに満たされていったが、目に見えない精神の部分はどこかに置き忘れて来てしまったのかもしれないなと思う今日この頃である。

エノケンのちゃっきり金太

2022-03-05 11:49:10 | 映画
「エノケンのちゃっきり金太」 1937年 日本


監督 山本嘉次郎
出演 榎本健一 中村是好 二村定一 如月寛多
   柳田貞一 市川圭子 花島喜世子 山懸直代

ストーリー
時は勤王佐幕の嵐が吹き荒れる頃、江戸の片隅の芝居小屋では、田舎言葉丸出しの横暴な侍達が舞台の娘踊りなどに浮かれていたが、一人、二人の侍達が懐中物がない事に気付き出す。
巾着切りの金太の仕業に違いないと睨んだ岡っ引きの倉吉は、金太馴染みの飯屋「上州屋」に乗り込むが、すでに盗んだ金をそっくり博打ですった金太に開き直られては、それ以上、追求する事ができない。
その頃、芝居小屋で金太にすられた巾着の中に、大切な密書を入れていた薩摩の侍とその仲間達は、何とか巾着切りを捕まえて、密書を取り戻そうと思案していた。
再び、芝居小屋で金太を見つけた薩摩侍達は上州屋に乗り込むが、店の主人と、その娘で金太に気のあるおつうに妨害され、まんまと金太に逃げられてしまう。
訳が分からないなりに、倉吉と薩摩侍たちに追われている事を知った金太は旅へ出る。
やがて、ひょんな事から二人旅になった金太と倉吉、長雨に祟られて大井川を渡る事ができないまま、彰義隊騒動でもぬけの殻になった江戸へ舞い戻る事に…。
金太に会いたい一心で、一旦、父親と江戸を抜け出したものの、また「上州屋」に一人戻って待っていたおつうは、薩摩侍達に拉致されてしまう。
一方、新政府軍に化けて江戸市中に戻ってきた金太と倉吉だったが、身動きが取れない。
そこに現れたのが、以前より、飴屋に身をやつして薩摩藩の動向を探っていた密偵の三次、長州藩の隊長に化けた彼は、二人を巧みに連れ出し、おつうピンチの報を知らせるのだった…。


寸評
僕が子供の頃にはコメディアンと称される人が数多くいたのだが、多分大衆演芸場が乱立していた時代背景があったのではないかと思う。
伴淳三郎はバンジュン、榎本健一はエノケンとコメディアンたちは短縮された呼び名で親しまれていた。
エノケンはその独特な風貌と声で人気があったように思う。
テレビが普及するようになった時には「渡辺のジュースの素」などのコマーシャルに出ていて、あのしわがれた声で唄う歌がなじみ深かった。
映画にもたくさん出ていて、この「エノケンのちゃっきり金太」は代表作の一本だと思う。
「エノケンのちゃっきり金太」はドタバタ喜劇で、ミュージカル風に話が進行するのはエノケン映画の特徴でもある。
エノケンこと榎本健一のワンマンショウ的なパフォーマンスが見ものとなっており、中村是好の岡っ引きとの掛け合いがメインとなっていて、今では笑える場面は少ないものの当時は大爆笑がきたんだろうと想像できるシーンが随所にある。
制作年度を思うと、冒頭のスタッフ・キャストのクレジットは洒落た演出だ。
壁の覗き穴から外を見ると映画のタイトルが現われ 「enoken」が横文字が表示される。
キャストの紹介もエノケンがアナウンスし、紹介字幕には横山隆一氏の漫画が使われている。
似顔絵と共に役名とキャスト名が次々と紹介される。
ちゃっきり金太のことは「スリのナンバーワンだよ」、中村是好の岡っ引きの倉吉は「金太を狙ってるジーメンの倉吉」などと紹介されていく。
唄われる歌はコミックソング的な物が多く、「うちの女房にゃヒゲがある」、「ああそれなのに」をはじめ、僕たちの年代のものなら何となく聞いたことがある曲や歌がふんだんに使われている。
「よさほい数え歌」などは学生時代に春歌としてコンパの席でよく歌ったものだ。
ストーリー的には単純なもので、ほとんどが追っかけっこをしているだけのものだ。
前後二編で撮られたが、今見られるのはそれを一本に編集しなおした総集編なので無理を感じる。
訳がありそうな武家の娘はどうなったのかさっぱり分からない。
同業の女スリも金太を助けて消えてしまうし、突然明治時代になって終わってしまう。
それでもエノケン映画のスピリットは十分出ているとは思う。

金太が官軍面をして江戸の庶民に嫌われている薩長の侍から財布を抜き取ったのが発端になり、金太は江戸を逃れ、それを岡っ引きの倉吉が追いかけ、東海道の宿場宿場で奇妙奇天烈な騒ぎを引き起こすというのが、おそらく前編のプロットなのだろう。
最後のところで金太と倉吉が官軍に化けて江戸に戻ってくるところが出てくるから、これは後編の場面を無理に付け足したのではないかと思われる。
金太を追いかける薩長の芋侍は嘲笑の対象となっている。
彼らは官軍となって江戸に入ってくるが、その官軍が誰彼かまわず江戸の庶民を見ると「おいこら」とどなる。
この描き方は、おそらく浅草を拠点に栄えたレビューの人気者だったエノケンの官憲に対する反骨精神だったのではないかと思う。
文化的遺産と言ってよい作品で、映画史の一端を飾る作品でもある。

エド・ウッド

2022-03-04 09:40:44 | 映画
「エド・ウッド」 1994年 アメリカ


監督 ティム・バートン
出演 ジョニー・デップ
   マーティン・ランドー
   サラ・ジェシカ・パーカー
   パトリシア・アークエット
   ジェフリー・ジョーンズ
   G・D・スプラドリン

ストーリー
30歳のエド・ウッドは、“オーソン・ウェルズは26歳で「市民ケーン」をとった"を座右の銘に、貧しいながらも映画製作の夢に燃えていた。
ある日、性転換した男の話を映画化する、と小耳にはさんだ彼は早速プロデューサーに売り込む。
「これは僕のための作品です。僕は女装が趣味だから、人に言えない辛さが分かる」と力説するが、バカ扱いされて追い返された。
その帰り道でエドは往年の怪奇スター、ベラ・ルゴシと運命的な出会いを果たす。
ベラの出演をエサに監督になった彼は友人のオカマ、バニーや恋人ドロレスらの協力を得て、監督・脚本・主演した性転換の話「グレンとグレンダ」を完成させた。
これを履歴書代わりにいろいろ売り込むがうまく行くはずもなく、自分で資金を集めることに。
次回作「原子の花嫁」がクランク・インするが、お気に入りのアンゴラのセーターを持ち出し女装に執着するエドにあきれたドロレスは怒り爆発し、彼の元を去った。
そんな中、麻薬中毒のベラ・ルゴシの病状は悪化する一方で、エドは彼を入院させた。
その病院で彼は心優しい女性キャシーと出会うが、彼女は彼の女装癖も受け入れてくれるのだった。
一方、エドは心からベラ・ルゴシの容体を心配していたが、保険が切れていた彼の入院費用が払えず、彼に嘘をついて退院させねばならなかった。
「原子の花嫁」が「怪物の花嫁」と改題されプレミア試写が行われたがブーイングの嵐・・・。


寸評
世に名作と評される作品は数多くある。
中には難解な映画もあるが、たいていは大いに楽しめる作品である。
数多あるそれらの映画よりももっとたくさんあるのが、いわゆるB級映画と評される作品群だ。
B級映画の存在は洋の東西を問わず存在し、当然日本映画においてもそのような映画が数多く撮られている。
中にはタイトルを見ただけで、つまらなさが分かってしまう作品もある。
小説などと違って、どしてこんなにも駄作が作られてしまうのかと不思議に思うのだが、たぶん映画作りは麻薬のようなもので、疑似家族のような仲間たちと作り上げる魅力にハマってしまうと抜けられないのかもしれない。

そのような映画ばかりを撮ったとされるエド・ウッドの作品を、当然の様に僕は見たことがないし、第一エド・ウドと言う人物の存在すら知らないでいた。
この映画はそんなエド・ウッドの伝記映画である。
彼のデビュー作である1953年の「グレンとグレンダ」の製作現場も描かれていて、女装趣味があったというエド・ウッドをジョニー・デップが生き生きと演じている。
エド・ウッドは幼少時代から母親の影響で女装をする性癖を持ってしまったらしい。
1956年制作でエドが監督・原案・脚本を務めたSF・ホラー映画の「怪物の花嫁」の製作現場も描かれており、峠が越えて過去の役者となり生存さえ疑われていたベラ・ルゴシを主演で使う。
エドは往年の名優であるベラ・ルゴシと気脈を通じるようになり、彼を使い続ける。
ベラ・ルゴシは余命いくばくもないのだが、役者としての自分にプライドを持っている。
彼もまた映画を愛する一人なのだ。

エドは早撮りで1カットを1回しか撮らず、撮り直しは存在しない。
プロレスラーのトー・ジョンソンがドアにぶつかり、セットを揺らそうが「彼の普段がそうなんだ」と片付けてしまう。
また安い制作費で仕上げるのも特徴で、セットがいい加減だろうと気にしない。
あるのは映画を作りたくて仕方がない情熱と、映画に対する愛情だ。
資金繰りには常に困っていてスポンサーの要求なら、平気でスポンサーの身内を出演させるし、自分の意にそぐわないことも妥協してしまう。
エドはオーソン・ウェルズが26歳で「市民ケーン」を撮ったのに、自分はまだ何も撮っていないと言っていて、どうやらオーソン・ウェルズを尊敬しているようだ。
難癖をつけられ場末のバーにヤケ酒をあおりに行ったエドは、そこで何とオーソン・ウェルズと出くわす。
そこでオーソン・ウェルズから「私は市民ケーンでは信念を貫き通し、プロデューサー連中には一コマたりとも手を触れさせなかった。夢のためなら戦え。他人の夢を撮ってどうなる」と励まされる。
実際にエド・ウッドがオーソン・ウェルズと会ったのかどうかは知らないが、その信念のもとに彼が信じる作品を撮り続けたのだろう。
それが評価されようがされまいが、彼には関係のないことだったのかもしれない。
彼も芸術家だったのだ。
芸術家は孤独で孤高の人たちなのだと思う。

映画 鈴木先生

2022-03-03 14:58:45 | 映画
「え」の1回目は2019年2月1日の「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」からでした。
2回目は2020年11月11日の「永遠と一日」からでした。
過去分はバックナンバーからご覧ください。

さて今回は3巡目になります。

「映画 鈴木先生」 2012年 日本


監督 河合勇人
出演 長谷川博己 臼田あさ美 土屋太鳳 北村匠海
   未来穂香 西井幸人 浜野謙太 風間俊介
   田畑智子 斉木しげる でんでん 富田靖子

ストーリー
緋桜山中学の国語教師・鈴木先生(長谷川博己)は黒縁メガネとループタイがトレードマーで、一見問題がない普通の生徒ほど内面が鬱屈していると考えており、独自の教育理論・鈴木メソッドを用いて理想的なクラスを築き上げようと日々奮闘している。
常識を打ち破る局面もあるため、他の教師と対立することもある。
また、理想の教室を築く上で欠かせないと考える女子生徒・小川蘇美(土屋太鳳)を重要視しているうちに、よからぬ妄想を抱いてしまうこともしばしばある。
そんな鈴木先生を妊娠中の妻・麻美(臼田あさ美)はよき相談相手となりそっと支える。
麻美には相手の考えていることを見抜き生霊を飛ばす特殊能力があり、鈴木先生は身重の麻美に気苦労させまいとより一層自らを律している。
やがて、2学期を迎えた学校では生徒会選挙と文化祭の準備が進む中、鈴木先生と教育論で激しくやりあった天敵の家庭科教師足子瞳先生(富田靖子)が、心の病から立ち直り復職復帰する。
また、人前に出たがるタイプでない出水正(北村匠海)が生徒会選挙に突然立候補し、友人の岬勇気(西井幸人)も応援に名乗り出るが、二人の一連の行動に何か企みを感じ、不吉な空気が立ち込める。
そんな中、ドロップアウトしてしまった卒業生・勝野ユウジ(風間俊介)が小川を人質に学校に立てこもるという最悪の事件が発生する。
「小川蘇美ちゃん、今から君をレイプします」 どうする、どうする鈴木先生!?


寸評
冒頭に「LESSON 11」の文字がでるのでテレビシリーズの第11話という位置づけで、テレビドラマを見ていなかった僕ははたして入り込めるのかと疑問に思ったがこの一話だけで十分な作品になっていた。
多分テレビドラマでは色々な出来事があって足子先生は休職していたのだろうが、その復職も要領よく描かれているので初見の僕でも抵抗なくスンナリとドラマに入っていけた。

学園ドラマの先生が主役となれば、ついつい熱血先生を連想してしまい、実際鈴木先生は熱血先生なのだが、パターン化された熱血先生ではない。
彼は自分の教育論を実験と称して現場で実践している。
したがって見ていると自己満足的で一人で舞い上がっているような所も見受けられる。
先生と名の付く職業の人に嫌悪感を抱くひねくれ者の僕は当初その姿に反感を抱いた。
作品中でも卒業生が訪ねてきた時の勘違いとか、卒業生に指摘される事などがその思いに追い打ちをかけた。
だが見ているうちに、自問自答しながら生徒たちを指導する言葉が、あざといものから心に響くものへと変化を遂げていった。
鈴木先生が言うように、それは演じられたものなのかも知れないが、演じているうちに本当にそう思っているようにも見えてくるのである。

ドラマは現実と非現実の間を行き来して進んでいく。
鈴木先生が小川蘇美に抱く妄想や、彼女を救出する場面などは現実離れしている。
と思いきや選挙の投票率問題などをストレートに投げかけてくる。
政府は選挙への関心を高め投票率アップを盛んに訴えるが、僕は投票率は低くて構わないと思っている。
むしろ無理やり投票率を上げた結果としてのポピュリズム選挙の方を危惧する。
一所懸命に考え真面目に投票する人達だけでいいではないか。
どうせ自分の一票などで世の中は変わらないと思っている人に投票を促すことはないと思うし、棄権は投票結果への白紙委任なのだと僕は思っている。
不満票として白紙投票すればいいという意見もあるが、ここではそれも否定して学校側が目指した選挙制度そのものを否定させている。
それを提案した富田靖子は怪演だったなあ。
意見を論破されても気にしない勘違いぶりに大笑いしてしまった。

この足子先生が学内のことにとどまらず、公園の喫煙所の撤去まで求めるのは、まさしく何かあったらというリスク回避に他ならない。
最近はどうもリスク回避という名を借りた事実上の責任回避が目に付く。
鈴木先生は手を焼く出来の悪い生徒に関心を取られ、平凡な生徒が犠牲になっていると思っている。
僕の友人も、先生にとって記憶に残るのは勉強が出来た子、美人だった子、そして悪かった奴と言っていた。
勝野は先生のいう通りの普通の子になったけど社会で受け入れられなかったと言うが社会のせいではない。
白々しくも聞こえるけれど、鈴木先生は世界を変えるのはお前たちだと今日も語り続ける。

ウンタマギルー

2022-03-02 07:48:35 | 映画
「ウンタマギルー」 1989年 日本


監督 高嶺剛
出演 小林薫 青山知可子 平良進 戸川純
   ジョン・セイルズ 照屋林助 エディ

ストーリー
1969年、米軍統治下の沖縄では多数の日本復帰派と少数の現状維持派、沖縄独立派に分かれていた。
いずれにも属さないギルーは西原製糖所で働きながら、西原親方の養女で美人のマレーに思いを寄せていた。
ある晩ギルーはマレーを毛遊びに誘い出し、運玉森で情交にふけるが、他人の夢を見破るウトゥーバーサンに知られてしまった。
マレーが豚の化身であることを知ったギルーは親方の怒りを買い、槍で命を狙われることになった。
製糖所の放火魔の濡れ衣を着たギルーは娼婦で動物占い師の妹・チルーの手引きで、豚の種付け屋のアンダクェーと運玉森へ逃げ込んだ。
ギルーは妖精キジムナーの手で眉間に聖なる石を埋め込む心霊手術を受けて超能力をもらい、義賊となってウンタマギルーと名乗った。
ウンタマギルーは金縛りの術や液体浮遊の術で米軍倉庫や悪徳日本動物商会を襲い、沖縄独立派の喝采を浴びた。
散髪屋のテルリンはウンタマギルーの活躍を芝居にしようと考えた。
ウンマタギルーは親方に度々槍を投げられたが、うまくかわしていた。
ウンタマギルーは沖縄のヒーローとなり芝居にも出演するが、上演中客席にいた親方の槍が命中した。
月日は流れ、安里製糖所ではギルーと瓜二つのサンラーが働いており、マレーの姿もあった。
そんなある日、安里親方は作業員たちに沖縄の日本復帰を告げると、マレーを道連れにダイナマイトで無理心中したのだった。


寸評
沖縄の映画と聞くと沖縄戦を描いた作品だったり、沖縄返還後の基地問題を扱った作品を想像するが、「ウンタマギルー」は戦争が終わり沖縄が本土復帰を果たす直前の沖縄を描いた作品である。
しかも社会性を追求したものではなく、むしろ土着の風俗を前面に出したファンタジー作品である。
内容以上に土着と言う印象を強くするのは、話される言葉が聞きなれない沖縄の方言であり、意味は字幕によって我々に知らされるという形式をとっていることによる。

話は奇想天外なものだ。
ギル―は憧れていた美人のマレーと関係を持つが、マレーは西原親方が大事にしている豚の化身であったことを知ってしまう。
秘密を知られた西原親方はギル―の命を狙うが、ギル―は運玉の森へ逃げ込み木の精の妹を助けたことから、木の精である男から空中浮遊など"神の技"を伝授され、動物を操る能力も身につける。
義賊となったギル―は住民から慕われ自分をモデルとした芝居に出演するが、西原親方の投げた槍を頭に受けてしまうという訳の分からないものである。

おまけに彼を取り巻く人々も訳の分からない人ばかりだ。
ギル―にはチルーという霊感力の強い娼婦の妹がいるのだが、このチルーは米軍の高等弁務官に差し出されたところ彼に恋をしてしまうという変な女性である。
過食症の母親はサイのステーキ、バクの金玉スープ、アルマジロの甘酢がけが食べたいなどと意味不明なものを要求している(間違っているかもしれないし、他にもあったと思うが、あまりにも変なものなので記憶は不正確)。
極めつけは豚の化身であるマレーである。
豚の化身だけあって豊満な肉体である。
豚に戻った時は本当の豚が赤い毛氈の上に寝そべっているのだが、その姿を見るとマレーは本当に豚の化身に見えてしまうのだから、人の持つイメージとはおかしなものである。
そして盲目の西原親方は、ブタの精霊であるマレーの純潔を守ろうとして自らは去勢しているという男である。
ファンタジーには想像を膨らませた登場人物や動物が出てくるが、それにしても「ウンタマギルー」の登場人物は滅茶苦茶である。
これらの人々を受け入れられなければこの作品を見続けることはできないだろう。

印象に残るのは銃撃戦となった時にギル―が「アメリカでも日本でもない。琉球が故郷だ!」と叫んだシーンだ。
何だか中国が喜びそうな叫びだが、実際本土復帰に際して琉球として独立する案もあったようである。
僕は車がまだ右側通行だった頃に沖縄を訪れたことがあったが、幹線道路を外れた村での老人との会話や、目にする異文化でもって、沖縄はやはり本土とは全く別の土地なのだと思ったものだ。
琉球国は薩摩に支配され、中国にも貢物をする二重外交をやっていた国だと実感したのだ。
最後にマレーが吹っ飛んでしまうのは、沖縄が琉球国であった歴史をふっ飛ばした瞬間でもあったように思う。
本土に翻弄される沖縄というイメージがどうしても湧いてしまうのである。