猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

最後に見たもの

2006年07月31日 23時30分56秒 | ルーツ
福島で、親からの虐待により、3歳の男の子が死亡するという事件があった。

被害に遭った子供は、死亡した時点の体重が8キロ足らず。
これは生後6ヶ月ほどの平均体重だという。
彼ら兄弟は空腹に耐え切れず、ドッグフードを口にして、飢えをしのいでいたこともあるというが.....。
日々流されるニュースの中で、この手の事件はあとを絶たない。

一番に自分を慈しみ、守り、愛してくれるはずの両親から、彼らが殴られ、時には熱湯をかけられ、食事を与えられず、罵声を浴びせられなければならないのは、いったいなぜなのだろう。

そして。
社会の中で一番の弱者である子供たちが、どうして救いの手を差し伸べられることもなく、死んでいかねばならないのか。

.....なぜ。

私たちは、これらのニュースを聞くたび
「可哀相」とか、「なんて親だ」なんて怒ったりする。
死んでいった子供の苦しみはいかばかりだったかと、想像しては涙したりする。
けれど.....。
親から虐待を受けている子供の本当の絶望を理解している大人は世にどれほどいるのだろう?
そして、虐待の根源となっているものを、理解している大人はどれぐらいいるのだろう?

この私も含めて。

今は亡き私の父は、アル中で頭のおかしい祖父(父にとっては父親)に虐待されて育った。
母親は父が6歳だか7歳の頃に亡くなり、父の姉によれば、亡くなる直前まで、まだ小さな息子(父)のことを心配していたという。
それというのも、きっと彼女は自分が死んでいった後に、父がどうなるかが予想できたのであろう。
不幸なことに、彼女の予想は的中し、父は祖父から、殴られ、食事を与えてもらえず、すぐ上の姉と、時には屋根裏で怯えながら、隠れるように暮らしたらしい。

一升瓶で頭を割られ、嫁いでいった2番目の姉の家まで歩いて助けを求めに行ったこともある。
空腹に耐えかねたときは、裏の家の犬の餌も口にした。

父が話してくれたことには、犬のほうも、父が餓えていたのがわかったのか、決して自分の餌をとられても怒らなかったという。
もちろん、犬が餓えては困るから、父は半分だけその餌をもらったそうだが、その犬がいなければ、私だってこうして生まれていなかったのかもしれないと思うと、本当にその犬に申し訳ないという気持ちと、感謝の気持ちでいっぱいになる。

その後。
父は食べるために盗みを繰り返し、矯正施設に入ることになるが.....。
そこで撮られた少年である父の写真は、友人に囲まれ、とても楽しそうだ。
もちろん、そんな場所で育って楽しいはずもないが、少なくとも少年にとっては、食べる心配もなく、暴力から逃げ回る心配もない生活は、家で過ごすものよりははるかにマシなものだったことだろう。

しかし。
やはり祖父が父にふるった暴力は、彼の人生において、引き続き暗い影を落としてゆくこととなる。
それは、おそらく、父自身にとっても抑えられない衝動。
我が子への暴力。
すなわち、私に対する暴力である。

しかし、誤解がないよう言っておくが、私は虐待された覚えはない。
父からの暴力を受けたのは兄弟の中で私だけだが、その反省からか、妹や弟にはその暴力の矛先が向かなくて良かったと思っている。
確かにとるに足らない理由で手をあげられ、泣き止むまで叩かれ続けた思い出は私にとっても軽いものではないし、もしかして自分が子供を持ったときに同じ事をしてしまうのではないかという恐怖も抱かないではないけれど、父の暴力が虐待だったかと聞かれれば、私は違うと答える。
なぜなら、機嫌のいいときだけではあっても、確かに私は父の愛情を感じることが出来たし、餓えるようなことも、怪我をさせられるようなこともなかったからだ。

そして。
だからこそ、私は、暴力を受けて育った者が、暴力を使わずにいられないのを知っている。
私自身も、若いときには感情のコントロールに困り、自分でどうにもならなかったことがあるから。

しかし、そこから抜け出さねば、それが負の遺産として受け継がれてゆくのかもしれないと思ったとき。
感情のコントロールがどれだけ大切なことなのかというのを、私は強く心に命じた。
もちろん、私は子供を持っていないから、実際に子供を持ったときに、それを維持出来るのかどうかわからないところもあるが、おそらく今の私なら、大丈夫だという気がする。
だからこそ、子供が親の暴力で死んでゆくことに、抑え切れない怒りを覚えるのである。

そして、もしかしたら、私も加害者になりえたのかもと思ったとき、その根源を断ち切るためには、子供を保護すると同時に、様々な角度から対応をすることが必要なのではないかとも思うのだ。

子供は。
社会的に一番の弱者である。

なのに.....。
大人がこれだけ世の中にはいるのに。
どうして一人の子供の命がこうして消えていかなければならないのか。
その子が暴力を受けているのを、周囲の大人は知っていたのに。

子供は。
助けてと言えない。
助けて欲しくとも、誰に、どうやって助けを求めていいか、わからない。
それどころか、彼らは親を信じているから、自分が助けを必要としていることすら、知らないでいる。
なぜなら、幼い彼らにとって、親は全世界で、どれだけ自分を殴ろうと、蹴ろうと、その鬼畜に対して、
「お父さん」「お母さん」
の呼び方しか知らないからだ。

児童相談所の強制力はこれで充分か?
差し伸べられる手は他にないのか?
子供を守る法律はこれで充分なのだろうか?
虐待を受けた子供を保護した場合。
その親を法的に罰するだけで充分か?
その親の心の闇に、精神医学的な見地から対応することも必要なのではないだろうか?

私たちは想像してみなければならない。
その子が.....
最後に思ったのはどんなことだろう。
最後に見たものはなんだったのだろう。

痛みと絶望と空腹と寒さと恐怖の中で。
死んでいったその子の人生はなんだったのかと。
生まれて3年の短い生涯で、何もいいものを見ることが出来なかったなんて、酷すぎる。

私には.....
私たちにはいったい何が出来るのだろう。

あまりの怒りに吐き気を覚えながら、私は、また自身の無力さにも反吐が出そうな思いでいる。