猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

行列の正体

2006年07月26日 02時42分32秒 | ぶ~すか言ってやる!
先日。
近くの食料品店へ行く途中で、行列を見た。

それは、我が家から最寄の銀行へと続く行列で、その構成のほとんどが、60歳以上と見受けられる女性で為されているのだが、まだシャッターの下りた銀行が開くのを、皆、今か今かと待ち受けている様子だった。

私はそれを横目で見ながら、
「みんな偉いなぁ.....早くから行動して」
なんて感心しつつ、しかし一方では
「銀行の開く時間はみんな知ってるし、客が多いからといって早くオープンする性質の商売でもないのに、なんで並ぶんだろ?」
なんて、疑問も抱いていた。

けれど、すぐにその場を通り過ぎてしまったのと、銀行の隣にある、目的の食料品店へ着いてしまったのとで、行列のことよりも目の前の商品を選ぶことに気をとられ、一瞬、そのことは忘れてしまった。
しかし、並べられた商品を眺めつつ、狭い店内を歩いているうちに、私は今しがた見た、銀行前の行列の正体を知ることになったのである。

それは。
買い物籠を抱えつつも、商品など始めから選ぶ気もなさそうな、その店のレジを社交場と勘違いしていそうな、60代も半ばかと思われるご婦人たちの会話が教えてくれたことなのだが......。

以下再現。

婦人A : 「よかったあ~。今月はちゃんとこの日に来れたみたいだわ」
婦人B : 「そうなのよ。あれはいつやるかわからないから、私はマメにその日がいつなのか聞きにくるの。ちょうど昨日も聞きに来て、だから今日来れたんだけど.....本当によかったわ」

と。
で、これだけでは何がなにやらわからないので、要約するが、彼女達の会話によれば、その日は月に一度ある、『○○の日』(○には銀行名が入る)だそうで、その日は先着何名かが、何がしかの粗品がもらえるらしい。
で。
その粗品が欲しいために、銀行前にはあの行列が出来ていたわけだが、その粗品というのは、今月は【かぼちゃ一個】だそうで.....

そこで私は深く深く考え込んでしまったのである。

「かぼちゃ一個をもらうために何十分も並ぶ.....?」

誤解がないように言っておくが、私は何も、かぼちゃを軽んじるものではない。
食べ物はなんであっても大切だし、無駄にすることなど、もってのほかだと考えている。

でも......
見れば、ご婦人たちの身なりは皆綺麗で、生活に困っている風でもない。
まあ、行列にかこつけたおしゃべりの時間が楽しいということもあるかもしれないが、しかし、私はそれを見て、なんとなく戦後はまだ続いているのかな、と考えてしまったのである。

60代半ばといえば、戦後の混乱の中で育った世代。
彼らが子供の頃。
日本は貧しく、食料は大変貴重だったはずだ。
私は配給というものが、戦中戦後のいつ行われていたのか、厳密には知らないが、そのころはきっと、並ばなければ食べ物は手に入れることが出来ず、家族のために、人々は我先にと必死で並び、わずかな食料を手にしたのかもしれない。
そして、豊かになった今も、その頃の記憶がどこかに残っていて......

と、そういうことなのかもしれないと。

そうだ。
そう考えると、一概に
「なんでかぼちゃ一個のために」
とは言えない。

しかし、一方で私はこうも考える。
そのかぼちゃ一個を、もっと年配の方に譲れないものかなぁと。
我先に争って並ぶのではなく、偶然来合わせた時に貰えて
「あら嬉しい♪」
じゃダメなのかなぁと。

銀行側だってそうだ。
まだまだ体の動く、粗品だけが目的のような人々ではなくて、体の動かないお年寄りのおうちに、地域で商売を営む者として、そのかぼちゃを届けられないものなのだろうか?

お前はきれいごとを言ってる、と言われればそれまでなのだけれど、なんだか、色々な意味で、深く深く考えてしまった、銀行前の行列の正体なのである。

そしてその後。
私が食料品店で買い物を終え、家路を辿っていると、目の前には、嬉しそうにかぼちゃの入った袋を抱えて
「よかったよかった間に合った」
と、喜び合う婦人方の立ち話。

やっぱり。
私も家を守る主婦の端くれなら、それぐらい出来なきゃダメなのかなぁ.....?
タダなら貰わなきゃ損、みたいな考え方って好きになれない、なんて言うのは、餓えたことのない者の驕り、なんだろうか。
コメント (8)
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