福島で、親からの虐待により、3歳の男の子が死亡するという事件があった。
被害に遭った子供は、死亡した時点の体重が8キロ足らず。
これは生後6ヶ月ほどの平均体重だという。
彼ら兄弟は空腹に耐え切れず、ドッグフードを口にして、飢えをしのいでいたこともあるというが.....。
日々流されるニュースの中で、この手の事件はあとを絶たない。
一番に自分を慈しみ、守り、愛してくれるはずの両親から、彼らが殴られ、時には熱湯をかけられ、食事を与えられず、罵声を浴びせられなければならないのは、いったいなぜなのだろう。
そして。
社会の中で一番の弱者である子供たちが、どうして救いの手を差し伸べられることもなく、死んでいかねばならないのか。
.....なぜ。
私たちは、これらのニュースを聞くたび
「可哀相」とか、「なんて親だ」なんて怒ったりする。
死んでいった子供の苦しみはいかばかりだったかと、想像しては涙したりする。
けれど.....。
親から虐待を受けている子供の本当の絶望を理解している大人は世にどれほどいるのだろう?
そして、虐待の根源となっているものを、理解している大人はどれぐらいいるのだろう?
この私も含めて。
今は亡き私の父は、アル中で頭のおかしい祖父(父にとっては父親)に虐待されて育った。
母親は父が6歳だか7歳の頃に亡くなり、父の姉によれば、亡くなる直前まで、まだ小さな息子(父)のことを心配していたという。
それというのも、きっと彼女は自分が死んでいった後に、父がどうなるかが予想できたのであろう。
不幸なことに、彼女の予想は的中し、父は祖父から、殴られ、食事を与えてもらえず、すぐ上の姉と、時には屋根裏で怯えながら、隠れるように暮らしたらしい。
一升瓶で頭を割られ、嫁いでいった2番目の姉の家まで歩いて助けを求めに行ったこともある。
空腹に耐えかねたときは、裏の家の犬の餌も口にした。
父が話してくれたことには、犬のほうも、父が餓えていたのがわかったのか、決して自分の餌をとられても怒らなかったという。
もちろん、犬が餓えては困るから、父は半分だけその餌をもらったそうだが、その犬がいなければ、私だってこうして生まれていなかったのかもしれないと思うと、本当にその犬に申し訳ないという気持ちと、感謝の気持ちでいっぱいになる。
その後。
父は食べるために盗みを繰り返し、矯正施設に入ることになるが.....。
そこで撮られた少年である父の写真は、友人に囲まれ、とても楽しそうだ。
もちろん、そんな場所で育って楽しいはずもないが、少なくとも少年にとっては、食べる心配もなく、暴力から逃げ回る心配もない生活は、家で過ごすものよりははるかにマシなものだったことだろう。
しかし。
やはり祖父が父にふるった暴力は、彼の人生において、引き続き暗い影を落としてゆくこととなる。
それは、おそらく、父自身にとっても抑えられない衝動。
我が子への暴力。
すなわち、私に対する暴力である。
しかし、誤解がないよう言っておくが、私は虐待された覚えはない。
父からの暴力を受けたのは兄弟の中で私だけだが、その反省からか、妹や弟にはその暴力の矛先が向かなくて良かったと思っている。
確かにとるに足らない理由で手をあげられ、泣き止むまで叩かれ続けた思い出は私にとっても軽いものではないし、もしかして自分が子供を持ったときに同じ事をしてしまうのではないかという恐怖も抱かないではないけれど、父の暴力が虐待だったかと聞かれれば、私は違うと答える。
なぜなら、機嫌のいいときだけではあっても、確かに私は父の愛情を感じることが出来たし、餓えるようなことも、怪我をさせられるようなこともなかったからだ。
そして。
だからこそ、私は、暴力を受けて育った者が、暴力を使わずにいられないのを知っている。
私自身も、若いときには感情のコントロールに困り、自分でどうにもならなかったことがあるから。
しかし、そこから抜け出さねば、それが負の遺産として受け継がれてゆくのかもしれないと思ったとき。
感情のコントロールがどれだけ大切なことなのかというのを、私は強く心に命じた。
もちろん、私は子供を持っていないから、実際に子供を持ったときに、それを維持出来るのかどうかわからないところもあるが、おそらく今の私なら、大丈夫だという気がする。
だからこそ、子供が親の暴力で死んでゆくことに、抑え切れない怒りを覚えるのである。
そして、もしかしたら、私も加害者になりえたのかもと思ったとき、その根源を断ち切るためには、子供を保護すると同時に、様々な角度から対応をすることが必要なのではないかとも思うのだ。
子供は。
社会的に一番の弱者である。
なのに.....。
大人がこれだけ世の中にはいるのに。
どうして一人の子供の命がこうして消えていかなければならないのか。
その子が暴力を受けているのを、周囲の大人は知っていたのに。
子供は。
助けてと言えない。
助けて欲しくとも、誰に、どうやって助けを求めていいか、わからない。
それどころか、彼らは親を信じているから、自分が助けを必要としていることすら、知らないでいる。
なぜなら、幼い彼らにとって、親は全世界で、どれだけ自分を殴ろうと、蹴ろうと、その鬼畜に対して、
「お父さん」「お母さん」
の呼び方しか知らないからだ。
児童相談所の強制力はこれで充分か?
差し伸べられる手は他にないのか?
子供を守る法律はこれで充分なのだろうか?
虐待を受けた子供を保護した場合。
その親を法的に罰するだけで充分か?
その親の心の闇に、精神医学的な見地から対応することも必要なのではないだろうか?
私たちは想像してみなければならない。
その子が.....
最後に思ったのはどんなことだろう。
最後に見たものはなんだったのだろう。
痛みと絶望と空腹と寒さと恐怖の中で。
死んでいったその子の人生はなんだったのかと。
生まれて3年の短い生涯で、何もいいものを見ることが出来なかったなんて、酷すぎる。
私には.....
私たちにはいったい何が出来るのだろう。
あまりの怒りに吐き気を覚えながら、私は、また自身の無力さにも反吐が出そうな思いでいる。
被害に遭った子供は、死亡した時点の体重が8キロ足らず。
これは生後6ヶ月ほどの平均体重だという。
彼ら兄弟は空腹に耐え切れず、ドッグフードを口にして、飢えをしのいでいたこともあるというが.....。
日々流されるニュースの中で、この手の事件はあとを絶たない。
一番に自分を慈しみ、守り、愛してくれるはずの両親から、彼らが殴られ、時には熱湯をかけられ、食事を与えられず、罵声を浴びせられなければならないのは、いったいなぜなのだろう。
そして。
社会の中で一番の弱者である子供たちが、どうして救いの手を差し伸べられることもなく、死んでいかねばならないのか。
.....なぜ。
私たちは、これらのニュースを聞くたび
「可哀相」とか、「なんて親だ」なんて怒ったりする。
死んでいった子供の苦しみはいかばかりだったかと、想像しては涙したりする。
けれど.....。
親から虐待を受けている子供の本当の絶望を理解している大人は世にどれほどいるのだろう?
そして、虐待の根源となっているものを、理解している大人はどれぐらいいるのだろう?
この私も含めて。
今は亡き私の父は、アル中で頭のおかしい祖父(父にとっては父親)に虐待されて育った。
母親は父が6歳だか7歳の頃に亡くなり、父の姉によれば、亡くなる直前まで、まだ小さな息子(父)のことを心配していたという。
それというのも、きっと彼女は自分が死んでいった後に、父がどうなるかが予想できたのであろう。
不幸なことに、彼女の予想は的中し、父は祖父から、殴られ、食事を与えてもらえず、すぐ上の姉と、時には屋根裏で怯えながら、隠れるように暮らしたらしい。
一升瓶で頭を割られ、嫁いでいった2番目の姉の家まで歩いて助けを求めに行ったこともある。
空腹に耐えかねたときは、裏の家の犬の餌も口にした。
父が話してくれたことには、犬のほうも、父が餓えていたのがわかったのか、決して自分の餌をとられても怒らなかったという。
もちろん、犬が餓えては困るから、父は半分だけその餌をもらったそうだが、その犬がいなければ、私だってこうして生まれていなかったのかもしれないと思うと、本当にその犬に申し訳ないという気持ちと、感謝の気持ちでいっぱいになる。
その後。
父は食べるために盗みを繰り返し、矯正施設に入ることになるが.....。
そこで撮られた少年である父の写真は、友人に囲まれ、とても楽しそうだ。
もちろん、そんな場所で育って楽しいはずもないが、少なくとも少年にとっては、食べる心配もなく、暴力から逃げ回る心配もない生活は、家で過ごすものよりははるかにマシなものだったことだろう。
しかし。
やはり祖父が父にふるった暴力は、彼の人生において、引き続き暗い影を落としてゆくこととなる。
それは、おそらく、父自身にとっても抑えられない衝動。
我が子への暴力。
すなわち、私に対する暴力である。
しかし、誤解がないよう言っておくが、私は虐待された覚えはない。
父からの暴力を受けたのは兄弟の中で私だけだが、その反省からか、妹や弟にはその暴力の矛先が向かなくて良かったと思っている。
確かにとるに足らない理由で手をあげられ、泣き止むまで叩かれ続けた思い出は私にとっても軽いものではないし、もしかして自分が子供を持ったときに同じ事をしてしまうのではないかという恐怖も抱かないではないけれど、父の暴力が虐待だったかと聞かれれば、私は違うと答える。
なぜなら、機嫌のいいときだけではあっても、確かに私は父の愛情を感じることが出来たし、餓えるようなことも、怪我をさせられるようなこともなかったからだ。
そして。
だからこそ、私は、暴力を受けて育った者が、暴力を使わずにいられないのを知っている。
私自身も、若いときには感情のコントロールに困り、自分でどうにもならなかったことがあるから。
しかし、そこから抜け出さねば、それが負の遺産として受け継がれてゆくのかもしれないと思ったとき。
感情のコントロールがどれだけ大切なことなのかというのを、私は強く心に命じた。
もちろん、私は子供を持っていないから、実際に子供を持ったときに、それを維持出来るのかどうかわからないところもあるが、おそらく今の私なら、大丈夫だという気がする。
だからこそ、子供が親の暴力で死んでゆくことに、抑え切れない怒りを覚えるのである。
そして、もしかしたら、私も加害者になりえたのかもと思ったとき、その根源を断ち切るためには、子供を保護すると同時に、様々な角度から対応をすることが必要なのではないかとも思うのだ。
子供は。
社会的に一番の弱者である。
なのに.....。
大人がこれだけ世の中にはいるのに。
どうして一人の子供の命がこうして消えていかなければならないのか。
その子が暴力を受けているのを、周囲の大人は知っていたのに。
子供は。
助けてと言えない。
助けて欲しくとも、誰に、どうやって助けを求めていいか、わからない。
それどころか、彼らは親を信じているから、自分が助けを必要としていることすら、知らないでいる。
なぜなら、幼い彼らにとって、親は全世界で、どれだけ自分を殴ろうと、蹴ろうと、その鬼畜に対して、
「お父さん」「お母さん」
の呼び方しか知らないからだ。
児童相談所の強制力はこれで充分か?
差し伸べられる手は他にないのか?
子供を守る法律はこれで充分なのだろうか?
虐待を受けた子供を保護した場合。
その親を法的に罰するだけで充分か?
その親の心の闇に、精神医学的な見地から対応することも必要なのではないだろうか?
私たちは想像してみなければならない。
その子が.....
最後に思ったのはどんなことだろう。
最後に見たものはなんだったのだろう。
痛みと絶望と空腹と寒さと恐怖の中で。
死んでいったその子の人生はなんだったのかと。
生まれて3年の短い生涯で、何もいいものを見ることが出来なかったなんて、酷すぎる。
私には.....
私たちにはいったい何が出来るのだろう。
あまりの怒りに吐き気を覚えながら、私は、また自身の無力さにも反吐が出そうな思いでいる。
これは「親子」でも「友人」でも、ひょっとすると「見ず知らずの他人」の間でも、暴力という名の病は、伝染するのではないだろうかと、いつも考えている。
ということは、その伝染をどこかで断ち切る必要がある。
そのためには、なまっちょろい根性論や精神論ででは不十分で、非常にシステマティックに、理論と方法を駆使して、この病を駆逐していかなければならないのではないだろうか。
となれば、erimaさんの言うように、子どもを守る手立てというのは、これまでの通り一辺倒のお仕着せ方法ではなくて、もっと多角的に考える必要があると思う。
と、同時に。
大人であれ子どもであれ、肝に銘じておかなければならないことは、「自分に身に起きたことは、自分で始末をつけなければならない」ということ。
「人は生まれながらに平等」なんていうのは嘘だ。
大金持ちの親を持ち、高級な羽根布団にくるまれて愛情いっぱいに育つような赤ん坊と、生れ落ちた瞬間から親に見捨てられ、駅前のコインロッカーに捨てられるような赤ん坊の、どこが「平等」というのか。
それでも、この世に生まれた以上は、自分自身でその境遇には落とし前をつけなくてはならない。
スターラインは違っても、自分の力で這い上がっていかなければ仕方ないんじゃないか。
もしかすると、その先には、大きな逆転が待っているかもしれない。
もちろん、そのような境遇にある人を、社会が救い上げる手段は必要だと思う。
ただ、私は言いたいのは、「心構え」の問題。
「自分の人生だから、(例えば)親の人生には振り回されたくない」という気概。
その点、erimaさんは、自分で自分の人生を勝ち取っていった側の人間で、心強く、頼もしい。
こういう腹積もりさえあれば、幼い子どもにやり場のないはけ口を求めることも減るのではないか。
生きるということに対する覚悟、これが今の大人たちには欠けているような気がする。
メディアなどでの情報では感じることのできない話でした。
お父上の壮絶な人生、そしてerimaさんの子供のときの体験にはただただ驚くことしかできず・・・こういうとき、自分の恵まれた環境に感謝できていなかったことが恥ずかしくなります。
暴力を受けて育った者が暴力をふるわずにはいられない。
これは、遺伝的なものだけではなく、子供の頃の環境が性格形成の上は大きく関わっているからなんでしょうね。
でも、それを断ち切るのはすごく難しいことだと思います。
虐待やそういったものとはかけ離れてちっぽけなことですが、私の場合も、親の教育・指導・価値観に関してものすごく反発する自分がいるにも関わらず、自分の子供に対して同じことをしてしまいそうで怖いです。
でももし子供が生まれたら、これだけは守りたいということはあります。
それは「親の夢を子供に見ない」ということ。
自分に実行できるかは分かりませんが、努力はしたいししないといけないなと思っています。
そして、私はやはり大人が子供たちをしっかりとサポートしなければ思っています。
もちろん、GONCYAさんのおっしゃるように「心構え」は絶対に必要。
でも、「心構え」すらできないような状況にいる子供をせめて「心構え」ができるような状況に持っていってあげることも社会の責任だと思うんです。
うちの相方の仕事上、ひどすぎる生活環境からどうしようもないところに進んで行ってしまう子供たちの話をよく聞きます。
まずは親がひどい。
そして周りの大人たちも。
「人間」は機械ではないので「こうしたらすべてうまくいく」というのがない。
だから、対策もそれぞれで時間も金もかかって難しいです。
でも、みんなが「自分自身はどうか?」と考えるようになれば、少しはマシな世の中になっていくのではないでしょうか。
甘い考えかもしれませんが。
erimaさんのような方、そしてGONCYAさんのような方が親であれば、子供たちの将来は明るいのに、と思わずにはいられません。
明らかにしつけを超えた暴力、育児放棄・・・
食べるものを与えないとしんでしまうことを虐待する親は知らないんでしょうか・・・
なくなった三歳のこのおにいちゃんが、小学校の入学式でのビデオの映像がテレビで流れてましたが本当に回りのこより明らかに小さかったです
親は子供がほしくて生んだはずなのに、こんなのってひどいですよね
ほしくないなら生まなければいいわけで。。。
子供は弱者、その通りだと思います
早く虐待なんてなくなればいいけど、それはやはり難しい話なのでしょうか・・・
世の中には虐待のほかにも無差別テロや戦争などイロイロなことがありますね
みんなに平和な世の中なんて来ないのでしょうか・・・
あ、この前は私のブログにとてもお優しいコメントありがとうございました☆
とても嬉しかったです♪
上の子たちも散々虐待していながら、またもや子供を作った、無責任な親。
いいえ、「作った」のではなく、ただ「避妊が面倒だった」のかもしれません。
子供を本当に欲しいと願う夫婦が子供に恵まれなかったりする一方で、目の前の快楽と、無責任と、無知だけのせいで親になる人間もいる。
子供が親を選べないのなら、親としての務めが果たせない人間からは、子供を取り上げ、その資格のある人間のもとで養育してもらったほうが良いと思います。
でも、それにも多くの審査と困難があって...。
運命にたいするもどかしさと、社会的な整備の立ち遅れには、ただ疑問と怒りだけがわいてきます。
運命に立ち向かえる子供になってゆくには。本当に本当に長い時間が必要だと思う。自分で自分の人生に始末をつける前に殺されちゃったら何にもならないし、何とか成長は出来たとしても、かなり大きくなるまではその意志を持つのも無理だろう。大人だって、暴力を受け続ければ心が折れて、抵抗する気力もいつしかなくなるくらいなんだから。
私が強い心を持てたのは、運が良かっただけ。搾取される人間を見、運命に抵抗する事もなく、流されて破滅する人間、自滅する人間を山ほど見たから、自分の人生のために、恐ろしいほどの冷酷さを持つことが出来たんだと思う。
捨てたものもたくさんあるし、人をたくさん利用することもした。良心の呵責なんて、持っていたら流されるしかないから、それも捨てた。ある意味でね。
もし、運がなかったら。私は今頃何をしていただろう。体を売ってその金で生きていたかもしれない。搾取されていたかもしれない。家を出てふらふらしている間に、殺されていたかもしれないし、もしかしたら犯罪を犯していたかもしれない。
確かに、何をしていても、何を見ても「私は絶対『普通』に生きてやる」と固い意志を持っていたけど、やっぱり私なんて、それが出来ているだけ幸せなほうなんだと思うんだよ。
だから、小さな、抵抗する方法も知らない子供が親に殺される事に、言葉にならない悲しみと怒りを覚える。
これだけ、TVなんかでは偉い学者先生が「これはこういう心理です」なんて解説して豪華な飯を食ってるっていうのに、その裏側では、何の手も差し伸べられず、たがのはずれた親の狂気にぶちのめされてる小さな子供がいるんだ。「お父さんごめんなさい」「お母さんごめんなさい」って、泣く気力もなく、ね。
この世はさ。大人の作った汚いものだらけだ。でも中には泣きたくなるくらい美しいものもある。
だから、それを見出すために。せめてそれを見出せるまで。生きていて欲しいんだよ。そういう子供に。
普通にいる大人の酷さに、鈍感すぎる世の中は。殺された子に一緒に手を下していたのと同じだ。
だから私は自分にも腹が立つんだよ。「何がお前に出来た?」って聞かれてもわからないけど、腹がたって腹がたって仕方がない。
でもね、感情的なもの、心理的なものに対抗するには、私のような怒りではダメなんだ、きっと。
子供を保護するだけじゃなく、大人をどうにかするシステムを作らないと、GONCYAさんが言うように連鎖は終わらない。
私は、「誰でも、自分の置かれた境遇を受け入れる覚悟が必要だ」って書いたけど、暴力や搾取に抵抗する術も知らない幼い子ども達にまで、同じことを要求しているわけではないよ。
そうではなくて、社会を作っている大人たちがそういう覚悟を示しながら力強く生きていくことで、不幸な境遇にある子どもたちにも、何らかの「生きる方法」というのを示せるのではないかと思うんだ。
実はつい最近、私の幼なじみが子どもを捨てた。
1歳にも満たない子を捨てて、男に走ったんだ。
その子はわずか0歳で人間不信に陥り、どろんとした目とうつろな表情を見せた状態で、祖父母に引き取られてきた。
でも、嘆く祖父母に私は言ったんだよ。
男との生活に溺れている母について行って虐待を受けるより、少なくとも、衣食住が与えられる祖父母のもとに来てよかった、って。
もちろん、この状況がいいとは思わない。
思わないけれども、少なくとも「最悪」ではない。
その子はこれから、何が何でも生き抜かないといけないのだから。
今私は、この子どもを可愛がっている。
でも、猫かわいがりというのではなくて、もちろん同情からの愛というのでもなくて、いつかその子が自分が置かれた状況を知ったときに、少しでも絶望してもらいたくなくて、可愛がっている。
そして、その子が自分の運命を嘆くようになったときに、「自分の運命は自分で切り開け」と言うつもりなんだ。
でも、このきつい言葉を受け入れさせるためには、祖父母や私のような、周囲の人間の「愛情」がベースとして必要だ。
親には愛されなかったが、少なくとも、別の誰かには愛されたという記憶が、その子のこれからの人生には絶対に必要だと思うから。
「愛」という土台があってこそ、人は強くなれると思うから。
うまくいえないけど、「大人が覚悟を持て」っていうのはそういうことだ。
言い換えれば、自分の子であろうと、他人の子であろうと、「愛」を示せってことになるのかもしれない。
erimaさんの言うように、「何もできなかったことは加害者と同じ」という感覚が少しでも身についた大人が増えれば、何かが変わるような気がする。
一人でも多くの、不幸な子ども達を救える世の中が来るような気がするよ。
矛盾しているようですけど、裕福に生まれて、親の愛情を受けたからといって、必ずしも幸せとは言えない。その中でも、「不幸で不幸で仕方がない」って言う人もいると思うんです。人はなかなか自分以外の人間の置かれている状況を想像出来ないから、自分の目の前にある事がらで精一杯になってしまうんでしょうね。
そして、それは、私も例外ではない。
事があってから悲劇に目を向けるのではなく、常にそこに目を向けていく事が、とても大切なことを忘れてしまいがちです。
暴力だけでなく、そこに繋がる日常の些細なことを見逃さないことも暴力の連鎖を断ち切るには必要なんですよね。その手伝いくらいなら、誰にでも出来るはずだから。
ANA様の相方さんがご覧になった状況のように。世の中には酷い大人がいっぱいです。でも普通に生きている人たちは、そんな人間がいるなんて想像した事もない。
酷い大人は酷い大人で固まり、同じ価値観で生きられる酷い集団を作り...その子供たちはそこに巻き込まれ、連鎖が始まる。
「子供だからわからないだろう」と、信じられない言葉を投げつけ、自分の中の汚い塊をぶつけるように子供を殴り、痛めつける。
一度たがのはずれた暴力は、ひたすらエスカレートしていき、子供は逃げ場さえ失う。
暴力だけではなく、負の連鎖はいつもなくなる事がないんです。
そこから。子供たちを救えるのは、負の連鎖の外にいる人間だけです。もしくは負から抜け出た人間か。
私たちは、目の前の普通のことがらにも暴力の下敷きがあるのだと、考えなければいけないと思います。
まずはそこから始めるだけでも、1ミリくらいは前進するのではないでしょうか。
これからお母さんになるリムハ様にとっては、とても心が重くなる記事でごめんなさいね。
でも世の中には酷い親がいっぱいいて、ご飯を与えなければ子供が死んでしまうことがわかっていても、それをする人がいるんです。
子供が欲しくなくても、「中絶する費用より、今目の前にあるギャンブルにお金を使いたいから」という理由で、後にどうにもならなくなって子供を生む人もいるし、妊娠そのものに無頓着な人もいる。
今がよければそれでいいという人が、こういう事件を引き起こす大きな要因になっていると思います。
もちろん、自分が受けた暴力のせいで、自分もそうなってしまった人もいますから、そういう人には治療という観点からの救済が必要なのだと思いますが。
一人一人は大きなことは出来ないかもしれないけれど、それらの事に目を向けることが、何かに繋がるかもしれない。
自分の家族を精一杯愛する過程で、周囲にも何かが生まれるかもしれない。
生まれてくるリムハ様の赤ちゃんが、少しでも良い世の中を見ながら成長していけるように。
私たち大人がもっともっと頑張らないといけないのかもしれませんね。
大丈夫。誤解はしてないよ。小さな子供にそれを求めてるなんて、思っていない。
ただね。私は力強く生きているつもりだけど、それを表現する事は苦手で出来ていないんだ。周囲には何も考えていない苦労知らずのお嬢様だと思われている。そして、そう見えるように振舞うことが、ある時期は私の意地でもあった。それが運を引き寄せてくれる事も知っていたしね。ウソをついてそう思わせたわけじゃないけど。
今は。誰が私をどう見ようと構わないけど、なかなかに一度ついたイメージってのはなくならなくってね。真剣な話をすると驚かれて、それがあまりに衝撃らしく、みんな引いちゃう(笑)
つまり、ブログは私の本質で、だからこそ色んなことがもどかしくなって文章に表れてしまうんだ。
さっきのコメントで嫌な思いをさせたならごめんよ。
その、置き去りにされた子。幸せになってほしいよ。
同じく置き去りにされた当事者だった私の立場からいうと、もしかすると「虐待されても親の元にいたほうがよかった」って、その子がいずれ思うかもって思いもあるけど、誰からでもいいから愛情をたくさん、溺れるほどに与えてもらうことが、そういう子を救うと思う。今の状況にいたって、「あの子は親に捨てられた」とか「男に走るような女の子供だから」とか、色んなことを、興味本位や、自分の子供の不始末を他人の子のせいにしたい大人たちから言われることになると思うが(悲しいことにね)、愛情をたくさん受けて、誇りを持つことで...乗り越えて欲しい。最後に自分を救ってくれるのは、強さをくれるのは誇りだから。運命を切り開くのも。
そして。親はその子を愛さなかったのではなくって、弱い人間だったから、他のことを選んだのだと。
願わくば、それがその子の強さの元となり、いつしか、赦しながら生きられる子になって欲しい。
でも一方では、親が泣きついてきたときに、跳ね除けられる強さもなければ、負の連鎖に巻き込まれることをその子は知らなきゃいけないんだよね。
運命を切り開いた行方に待っているものは。
素晴らしいものだと私も信じたいし、信じてるよ。
愛を示すというのは、溢れる愛の中で育った者が出来る大きな奇跡で魔法だ。
そして私も。そんな愛に救ってもらったのだと思ってる。
いつか、同じような誰かにその愛を返せたらいいな。