自民党の憲法改正推進本部が、改憲論議を再開した。きょうは朝日と読売
の社説が、このことをテーマに取りあげている。朝日の社説のタイトル
は、《憲法70年 まっとうな筋道に戻せ》というもの。憲法改正の議論
を「まっとうな筋道に戻せ」と主張する。今の安倍自民党の改憲論議は
「まっとうな筋道」から外れている、と見るからである。
しかしながら、では「まっとうな筋道」とはどういうものなのか。そのこ
とを考えてみたい。
憲法の改正作業は、内容と形式の二つの側面から考えることができる。内
容とは、改正論議が成立をめざす「かくあるべき」憲法の条文であり、形
式とは、その「かくあるべき」憲法を成立させるための手続きである。
成立が目ざされる憲法の条文が「まっとう」かどうかは、理性的な吟味に
よって見分けられる、と一応は言うことができるが、事は(「2+2=4」
といった)算数的思考で白黒の決着がつくほど単純ではないから、ああで
もない、こうでもない、と議論は百出し、収拾がつかなくなる。そこで判
定は票決に持ち込まれ、多数を制した方が「まっとうな内容だ」とされる
ことになる。
こうして、多数を制することが、内容の「まっとうであること」の証左で
あることになり、多数を制することが「まっとうな手続き」であることに
なる。
ということは、どういうことかーー。こういうことだ。どういう条文の憲
法が「まっとうな」形で成立するかは、多数派の見解に左右され、時々の
政治情勢や時々の権力の都合によって左右されることになる、ということ
である。憲法の内容は、永遠不変の「不磨の大典」などではなく、その時々
の状況によって変わりうる流動的なものだということである。
「機を見るに敏」という言葉があるが、「機を見るに敏」である多数派が
「もっともだ」と納得して受け入れる憲法の条文こそが「まっとう」なも
のだということになるだろう。
しかし、しかしである。それはあくまでも、多数派が「機を見るに敏」で
ある場合のこと。多数派が(しばしばそうであるように)「機を見られな
い愚」である場合には、一体どうなってしまうのだろうか。「多数者の専
制」(トクヴィル)という言葉もある。
の社説が、このことをテーマに取りあげている。朝日の社説のタイトル
は、《憲法70年 まっとうな筋道に戻せ》というもの。憲法改正の議論
を「まっとうな筋道に戻せ」と主張する。今の安倍自民党の改憲論議は
「まっとうな筋道」から外れている、と見るからである。
しかしながら、では「まっとうな筋道」とはどういうものなのか。そのこ
とを考えてみたい。
憲法の改正作業は、内容と形式の二つの側面から考えることができる。内
容とは、改正論議が成立をめざす「かくあるべき」憲法の条文であり、形
式とは、その「かくあるべき」憲法を成立させるための手続きである。
成立が目ざされる憲法の条文が「まっとう」かどうかは、理性的な吟味に
よって見分けられる、と一応は言うことができるが、事は(「2+2=4」
といった)算数的思考で白黒の決着がつくほど単純ではないから、ああで
もない、こうでもない、と議論は百出し、収拾がつかなくなる。そこで判
定は票決に持ち込まれ、多数を制した方が「まっとうな内容だ」とされる
ことになる。
こうして、多数を制することが、内容の「まっとうであること」の証左で
あることになり、多数を制することが「まっとうな手続き」であることに
なる。
ということは、どういうことかーー。こういうことだ。どういう条文の憲
法が「まっとうな」形で成立するかは、多数派の見解に左右され、時々の
政治情勢や時々の権力の都合によって左右されることになる、ということ
である。憲法の内容は、永遠不変の「不磨の大典」などではなく、その時々
の状況によって変わりうる流動的なものだということである。
「機を見るに敏」という言葉があるが、「機を見るに敏」である多数派が
「もっともだ」と納得して受け入れる憲法の条文こそが「まっとう」なも
のだということになるだろう。
しかし、しかしである。それはあくまでも、多数派が「機を見るに敏」で
ある場合のこと。多数派が(しばしばそうであるように)「機を見られな
い愚」である場合には、一体どうなってしまうのだろうか。「多数者の専
制」(トクヴィル)という言葉もある。