ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

「まっとうな」改憲とは?

2017-09-14 13:45:42 | 日記
自民党の憲法改正推進本部が、改憲論議を再開した。きょうは朝日と読売
の社説が、このことをテーマに取りあげている。朝日の社説のタイトル
は、《憲法70年 まっとうな筋道に戻せ》というもの。憲法改正の議論
を「まっとうな筋道に戻せ」と主張する。今の安倍自民党の改憲論議は
「まっとうな筋道」から外れている、と見るからである。

しかしながら、では「まっとうな筋道」とはどういうものなのか。そのこ
とを考えてみたい。

憲法の改正作業は、内容と形式の二つの側面から考えることができる。内
容とは、改正論議が成立をめざす「かくあるべき」憲法の条文であり、形
式とは、その「かくあるべき」憲法を成立させるための手続きである。

成立が目ざされる憲法の条文が「まっとう」かどうかは、理性的な吟味に
よって見分けられる、と一応は言うことができるが、事は(「2+2=4」
といった)算数的思考で白黒の決着がつくほど単純ではないから、ああで
もない、こうでもない、と議論は百出し、収拾がつかなくなる。そこで判
定は票決に持ち込まれ、多数を制した方が「まっとうな内容だ」とされる
ことになる。

こうして、多数を制することが、内容の「まっとうであること」の証左で
あることになり、多数を制することが「まっとうな手続き」であることに
なる。

ということは、どういうことかーー。こういうことだ。どういう条文の憲
法が「まっとうな」形で成立するかは、多数派の見解に左右され、時々の
政治情勢や時々の権力の都合によって左右されることになる、ということ
である。憲法の内容は、永遠不変の「不磨の大典」などではなく、その時々
の状況によって変わりうる流動的なものだということである。

「機を見るに敏」という言葉があるが、「機を見るに敏」である多数派が
「もっともだ」と納得して受け入れる憲法の条文こそが「まっとう」なも
のだということになるだろう。

しかし、しかしである。それはあくまでも、多数派が「機を見るに敏」で
ある場合のこと。多数派が(しばしばそうであるように)「機を見られな
い愚」である場合には、一体どうなってしまうのだろうか。「多数者の専
制」(トクヴィル)という言葉もある。
コメント
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