蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

慌て者の夏日

2019年04月20日 | つれづれに

 アゲハチョウが、八朔の新芽に卵を産んでいった。
 ベニシジミが、スミレの葉に暫く羽を休めて、小さな炎のように飛び去った。
 我が家の住人ハンミョウが、早くも目覚めて庭先で飛び遊び始めた。
 モンシロチョウが、あてもなく木漏れ日の下を彷徨い、塀を越えて行った。
 プランターに10株並べたパセリに、キアゲハまだやって来ない。
 20株ほど集めたスミレのプランターにも、まだツマグロヒョウモンの訪れはない。

 5ヶ月振りに、月下美人の3つの鉢を広縁から出し、梅の木の蔭に並べた。
 白梅の実は今年は乏しく、20個余りを数えるばかりである。
 あまりにも日差しが強いので、12余りの花の鉢をラカンマキの陰に移した。
 夏が来たら、今度は八朔の木陰に移し、苛烈な日差しを避ける。

 昨夜、玲瓏と雲間に漂う平成最後の満月を観た。

 春と秋ばかりでなく、今年は冬までも短くなり、夏がどんどん長く暑くなっていく。
 亜熱帯化が進む日本列島、つい先週まで冬の下着だったのに、こう夏日が続くとやってられない。クローゼットやタンスの中から、一気に冬物を片付けた。一度も袖を通さなかった服がある。氷やツララを見ることもなく、呆気なく冬将軍は尻尾を巻いて逃げて行った。桜の開花も早く、束の間の戻り寒波で長く満開を見せてくれたが、散り始めるとたちまち葉桜に姿を変えた。
 オオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ、スミレ、ハナニラ、キンポウゲ、スズメノエンドウ、タンポポ、ハルリンドウ……早春から春の草花を追いかけているうちにキブシも散り、もうシャガが咲き、石穴稲荷の境内にはシャクナゲが満開である。

 急ぎ足で、初夏が来た。
 季節の移ろいは穏やかな方がいい。躊躇うように行きつ戻りつしながら、気付いたらいつの間にか季節が変わっていた……そんな情緒は、昨今望むべくもない。乱高下する気温に振り回され、必死に追いかける我が身の背中に、容赦なく老いがのしかかってくる。

 修猷館高校年次学年総会の実行委員長と、案内状の原稿の依頼が来た。卒業30周年の昭和63年、卒業以来初めての総会を開いた。我が高校には修学旅行がなかった。自主性を重んじ、「ベからず」は唯一、「学校の廊下を下駄で走るな」という1項目だけだった。旅行も行きたければ自分で行ってこい……「先生、何故修学旅行がないんですか?」「君たちを連れて行ったら、帰りには半分いなくなってるだろう」……そんな冗談が、なかば本気で交わされるような、自主性第1の学校だった。だから、生徒会も文化祭も運動会も、教師は一切口を挟まないし、ましてPTAがしゃしゃり出てくる隙もない。その分、生徒たちの責任感も強かった。

 30周年を期して豪華展望列車「サザンクロス(南十字星)号」を貸切り、博多駅から由布院にひた走る「朝霧への旅」で、修学旅行を実現させた。
 昭和33年卒業に因んで、私たちの同窓会は「さんざん会」という。この時の列車の所要時間が、なんと3時間33分!偶然並んだ3のぞろ目に手を叩いたのも、もう31年前……遥か昔の想い出である。
 以来、5年毎の周年総会の実行委員長と、案内状の原稿を担当してきた。今年、令和元年の秋、61周年の記念総会で同窓会の歴史を閉じる。
 館友……我が高校では、「学友」と言わず「館友」と言い、校歌も「館歌」という。(因みに、校章は六光星である。)その館友も、多分3割以上が既に鬼籍に入り、生き残った我々も、今年すでに傘寿に届き、あるいは傘寿を迎えようとしている。それぞれに想いが溢れるこの年、懐旧と惜別の情に包まれる最期の同窓会である。
 「会っておけばよかった……そんな悔いを残さないように、多数の皆様のご参加を、心よりお願い申し上げます。」……そんな言葉で案内状の草案を閉じた。

 31年前の案内状には、こんな一節を書いた。
 「ひとりひとり、懸命に幾山河を越えてきました。そして、歩き疲れて振り返ると、いつもそこには六光星があたたかく瞬いていました。その小さな温もりに励まされて、また歩き出したことだって数知れません。私たちにとっての修猷館は、まさしく母港であり母星だったのです。」

 今年の案内状の書き出しは、こうである。

 「ふと館歌を口ずさみたくなる朝がある……
     彼岸に渡った館友の笑顔が、瞼に浮かぶ夜がある……」

 多感だった青春の日々に想いを馳せながら、慌て者の夏日の日差しを浴びていた。
                   (2019年4月:写真:ベニシジミ)