蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

逝く年に……

2014年12月29日 | つれづれに

 次第に黄金色を深める八朔の葉陰や、庭の隅の紅椿の繁みの中から「チチッ!」と声が降ってくる。例年、白梅の蕾が膨らむ頃、そして八朔の実が熟して落ちる頃に訪れることが恒例だったメジロが、師走の声を聞く前から庭の木立を飛び交い始めた。
 大自然の環境のなすがままに生きる小さな命は、気温や雨の変化や山の木の実の実り具合に敏感に反応して、その行動を変える。今年も異常気象が続いた。山の環境に、例年にない異変でも起きたのだろうか?(「例年」という言葉自体に、もう何が基準だか、納得できるものがない昨今ではあるが)
 ふと思いついて、ミカンを輪切りにしていつものように燈篭の上に置いた。待っていたかのように訪れたのは、2匹のメジロだった。柊の陰から、槇の枝から、ツンツンと飛び跳ねながら近づいてきて、甘いミカンを啄みはじめた。一口チョンとつついては、きょろきょろと辺りを見回し、また一口……野性の小鳥は常に警戒を怠らない。
 庭のガラス戸越しに望遠レンズを嚙ませたカメラを構え、瞬間を捉え続けた。慌ただしい年の瀬の心身の疲労感を、優しく癒してくれる寸景だった。

 毎年思うことながら……避けがたい加齢を思い知らされる身にとって、今年も激動の一年だった。しかし、指宿で救われた家内の命を見守りながら「もう全然心配ありません。アメリカでもどこでも行ってらっしゃい」と主治医の太鼓判をもらって、また余生を温める余裕が生まれた。その一方で、山登りに袂を別った切ない決断の年でもあった。
 しかし、もう多くは望まない。毎朝膝のリハビリ・ストレッチをしながら、近郊の山道を歩く不自由はないまでに回復した。九州国立博物館の裏の湿地帯の木道から、秘密基地「野うさぎの広場」に続く隠れ散策路。天神山を緩やかにアップダウンしながら曲折する小道。御笠川沿いに川風に散る満開の桜のトンネルを、都府楼政庁跡に辿る散歩道。観世音寺の緑に染まりながら参道を抜け、畑の脇を抜けて「春の森、秋の森」に辿る遊歩道……息喘がせて九重連山の峰々を極める喜びよりも、こんな小さな歩きを重ねることに、至福の満ち足りた思いを知ることが出来るようになったことに、むしろ年を経た境地を感じる。

 今が良ければ全て良し。

 先日の天ケ瀬温泉の足湯巡りの際に、珍しい「湯みくじ」を引いた。観光案内所の女性が「どうぞ」と差し出した箱から引いた「湯みくじ」は、開いても真っ白である。足湯の傍に柚子を浮かべた手湯がある。その湯に浸すと、真っ白だった御籤に神のお告げが浮き出してくるいう楽しいお御籤である。「小吉」と出た。そして、娘が引いたお御籤は「大吉」。……それでいい。「大吉は、持って帰ってもいいんですよね?」と確かめて、娘はバッグに大切にしまい込んだ。年が明ければ、この「大吉」はカリフォルニアの青空のもとに帰っていく。これからは若い者の時代、私たちは生きてきた七十有余年の思いを包みながら、じっとそれを見守るばかりである。

 9時過ぎ、ようやく石穴稲荷の杜の上から朝日が昇った。小さな谷間にあるこの団地の朝は遅い。また一つ、ミカンを輪切りにして燈篭の上に置こう。
 厳しい寒波を過ぎ越せば、再び「野うさぎの広場」には一面のハルリンドウが咲き誇る。落ち葉の上に寝転び、木漏れ日に包まれながら春の空を見上げて憩う日は、もうそこまで来ている。
 2014年大晦日まであと二日。逝く年に、何の悔いもない。
             (2014年12月:写真:訪れたメジロ)

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