蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

初めてのレコード

2011年07月23日 | つれづれに

 久し振りのコンサートだった。ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」とベートーベンの「運命」に加え、父が好きだったラロの「スペイン交響曲」がプログラムにあったことがきっかけだった。命日の丁度1週間後である。楽しみにしていたマリア・ジョアオ・ピリスのピアノコンサートが、大震災と原発事故の騒擾の中で中止となって落胆していただけに、待ち望んでいたNHK交響楽団だった。
 「最高の演奏を聴きながら、ひそかにうたた寝する…そんな贅沢もいいよね」と家内と軽口を叩きながら座った。しかし、目が離せなくなった。雑念が飛んだ。ベルリン・フィルやロイヤル・コンセルトヘボウなど多くの有名オーケストラを指揮した経験を持つ女性指揮者スザンナ・マルッキの素晴らしさ!細身の引き締まった身体で、指揮棒を持たずに指と掌で踊るように音を引き出し、手繰り寄せ、紡ぎ、歌い上げていく。その小気味よいまでの歯切れのよさは圧巻だった。加えて、日本人二人目のベルリン・フィル第1コンサートマスターをつとめる樫本大進のヴァイオリンがいい。久々に陶酔し切ったコンサートだった。

 中学3年の時、我が家に始めての電蓄が来た。音楽の時間の歌唱テストで音程を外し、教師から「少しクラシックを聞いて耳を育てなさい」と叱られた直後だった。戦後9年目、まだステレオはもとより、電蓄もレコードも殆ど家庭にない時代である。何を聴いていいかも分からず、父に好きな曲を訊ねたときに返ってきた答えが「スペイン交響曲」だった。我が家で初めて買ったレコードである。
  以来、憑かれたようにクラシックを聴きあさった。交響曲からはいり、ピアノ協奏曲に走り、ヴァイオリン曲に移って、再びピアノ曲に戻り、室内楽にのめりこむ。高校から大学に掛けて、最もクラシックに浸りこんだ時期である。月並みだが、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は座右となった。高校3年、文芸部の部室の夕暮れに独りメンデルスゾーンを聴きながら、訳もなく涙を流したこともあった。多感な思春期は、クラシック音楽と、マラルメ、ボードレール、ヴェルレーヌなどのフランス詩と共にあった。

 「スペイン交響曲」の旋律に包み込まれながら、陶酔の中で父の幻を見ていた。家庭では無口で、若い頃の父とはゆっくり話した記憶がない。リタイアして後、テレビの前で水戸黄門を見ている姿や、庭いじりしている後ろ姿の方が鮮明に蘇る。
  前の日まで庭いじりしていたのに、早朝老人性喘息の発作が出て救急車を呼んだ。その日、新会社設立の為に組合との協議会を控えており、家内と母に託して出社した。午後、意識を失ったという報せがあり、組合の委員長の了解を得て病院に走った。しかし、そのまま意識が戻ることなく、日が変って間もなく父は彼岸に渡った。朝、救急車に乗せるとき、発作が苦しくて横になれず、蹲るように担架に座ったまま「きつい」とひと言漏らしたのが、私が聴いた父の最後の言葉となった。家族に看病の負担を掛けることもなく、あっけなく、そして潔い74歳の旅立ちではあったが、3ヶ月ほどは実感が湧かず、庭先からいつものように上がってくる父の姿を無意識に探していた。梅雨明けの豪雨が降りしきる中を、多くの人たちに送られて父は仏となった。

 今年は珍しい虫達との出会いが多い。コンサートの翌日が母の命日、そして次の日に気功で身体と心を解きほぐして公民館を出た時、玄関先に一匹のタマムシが舞い降りた。本当に数十年ぶりの再会だった。こんな綺麗な生き物を限りなく集め、その羽で「玉虫の厨子」を作った人間。そんな文化財なんて要らない!と、ひとり嘯きながら、しばらくカメラの前で遊ばせて空に帰した。そういえば父は、ゴマダラカミキリを見たら「庭木を駄目にする」と言って、容赦なく殺していた。それさえも、今は少しほろ苦い遠い日の記憶である。
                (2011年7月:写真:珍客タマムシ)

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