蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

誕生劇、終章

2020年08月10日 | 季節の便り・虫篇

 台風5号が九州の西の海上を北上する午後、時折烈風と雨が剪定が終わった庭木を大きく揺する。この数時間のずれが、おそらく命の誕生に小さな奇跡を齎したのかもしれない。

 いつものように5時半に起床、ストレッチのあとのウォーキングをやめて、日差しが穏やかなうちに庭の手入れをしようと縁から降りた。その瞬間、紫陽花の繁みの中から一頭の蝶が舞い出た。薄い黄褐色の地に、やや濃い黄褐色の斑点を散らしたツマグロヒョウモンの雄だった。前翅の先端部表面が黒(黒紫)色地で白い帯が横断し、ほぼ全面に黒色の斑点を散らした雌に比べ、少々地味な雄である。せめてもと、後翅の外縁を黒く縁取っている。
 
 エイザンスミレのプランターで育った幼虫が、いつの間にか姿を消していく。垂直に下がって蛹になる場所を探して行方をくらますのだが、ここ数日狩り蜂が飛び回っているのが気になっていた。狩り蜂の穴が既に4か所、幾つかには狩られたキアゲハやツマグロヒョウモンウモンの幼虫が麻痺させられて眠っているかもしれない。これも厳しい大自然の摂理である。

 1時間半掛けて、生い茂り始めた雑草をねじれ鎌で根こそぎにこそげ取っていった。背中に照り始めた日差しにはまだ苛烈さはなく、汗にまみれながら家の周りを全て刈り尽くした。Tシャツの胸が汗で黒ずんでいく。眼鏡に汗が滴り落ちる。一気に掃き集めてごみ袋に詰め終わったら、既に8時だった。
 土を均しながらふと見やった先、プランターの淵に下がっていた蛹から、ツマグロヒョウモンがもう1頭羽化したばかりの姿が目に入った。まだ体液が十分届いていないのか、触覚も力なく垂れ下がったままだった。薄く開いた翅の間から黒い地色と白帯が見える。今度は雌だった。

 朝食を終えて再び庭に下り立つと、それを待ってくれていたようにピンと触覚を伸ばして羽搏き、近くのキブシの枝に飛び移った。卵を産み付けるところから見守った誕生劇の、まさに終章である。
 羽化の瞬間を見るのは難しい。一日中蛹の前に座っているわけにもいかないし、多分早朝の羽化だったのだろう。羽化直後の弱弱しい瞬間から見届けられただけでも、稀に見る僥倖なのである。
 数時間羽化が遅れていれば、この激しい雨風の中では危うかった。小さな奇跡という所以である。

 この春から夏にかけて、この蟋蟀庵でどれほどの命が誕生したことだろう。空蝉も、その後増えて65匹を数えた。今日、ツマグロヒョウモンの雄雌2頭、まだ縁の下にキアゲハの蛹が1頭、エイザンスミレの葉裏にはツマグロヒョウモンの蛹が2頭、さらに幼虫が2頭育っている。蛹の足場に、枯れ枝を数本プランターに立てた。
 目に見えないところでも、いろいろな小さな命が生まれていることだろう。軒下のアブラコウモリも、やがて子育てを始めるかもしれない。
  
 奔り過ぎた雨のあと、烈風だけが残った。月下美人の鉢も倒れるほどの風の中を、1頭のアオスジアゲハが飛ばされていった。
 「悪いな、蟋蟀庵にはお前さんの餌(クスノキ)は無いよ。天満宮迄飛ばされて行きなさい」

 気温33.5度の昼下がりである。
                         (2020年8月:写真;:ツマグロヒョウモン誕生!)