蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

浅葱色、林間に舞う

2012年08月07日 | 季節の便り・虫篇

 遠い遠い昔である。まだ純粋でひたむきに虫を追っかけ、虫を殺す標本作りに何の疑問も持たない中学生だった。「人間一人に、昆虫の個体数5億匹」と言われても、今では虫を殺すに躊躇いがある。
 一年間、殆ど欠かさず毎日学校近くの西公園という小さな山に通い詰めた。捕虫網、捕まえた蝶を納める三角紙と三角ケース、木の幹に押し付けて落下するカブトムシやクワガタを捕獲する半円形の網(これらは全て手作りだった)甲虫類を包み込むタオル(虫かごなどに何匹も一緒に入れるより、タオルの糸に絡ませて包む方が傷みが少ないことを、いつの間にか経験から学んでいた)などの装備に身を固め、公園内を隅から隅まで歩き回っていた。
 時間帯によって、いつも同じ場所で、同じ種類の蝶が、同じ方向に飛ぶ「蝶道」の存在も知った。木立の奥の目立たないところに立つクヌギの木を我が物と定め、早朝訪れてカブトムシ、クワガタ、カナブン、クロキマワリ、お気に入りのヨツボシケシキスイなどの甲虫類や、アオスジアゲハ、ルリタテハ、キマダラヒカゲ、クロヒカゲ、ゴマダラチョウ、ジャノメチョウなどの蝶類をほしいままに採集した。時には、キイロスズメバチを狙って不用意に網を押さえ込み、指を刺される痛い痛い失敗もあった。毎日の採集記を、いっぱしの大人ぶって東京の同人誌に投稿したりもしていた。

 この蝶を初めて捕虫網に吸い込ませたのも、そんな夏の日の午後だった。タテハチョウ科マダラチョウ亜科アサギマダラ。ためらいなく胸を押し潰して殺し、帰ってから展翅台に虫ピンとパラフィン紙のテープで留めて翅の形を整えて、やがて数日後、固まった標本をこれも秋田杉の薄板で手作りした標本箱に収めた。以来、私にとっては、めったにお目にかかれない貴重な蝶のひとつだった。褐色の翅の中を、浅葱色の鱗粉のない半透明な模様が覆う美しい蝶だった。

 お盆間近の九重・飯田高原・長者原。36度を超える暑熱から逃げて、すっかり生い茂った「タデ原湿原」の木道を抜けた。シモツケソウと盛りを過ぎたユウスゲを横目に、木立の中の自然探究路にはいった。梢を揺らす風音もなく、小さなせせらぎの音と、時折シジュウカラの声が降るだけの静寂の中を、それでも汗に濡れながら歩いた。1000メートルを越える高原でも、まだ25度の真夏である。
 探究路が過ぎるあたり、多分ヒヨドリソウと思われる白い花に舞い、蜜を吸う蝶の群れがいた。ここにも、かしこにも、曇り始めたやや薄暗い樹林のあちこちで、4~5匹ずつ群れている。「あっ、アサギマダラ!」初めて見る群舞だった。薄青色の透き通りそうな翅に、一瞬に60年近い歳月を飛び越え、歳を忘れてときめいた。

 虫マニアでなくとも、けっこうこの蝶のファンは多い。わざわざ庭にアサギマダラが好むフジバカマを植えて、渡りの途中立ち寄る姿を愛でる。
 その名前、その姿に似合わず、長距離移動を繰り返す実にタフな蝶である。気温の上昇と共に北に向かって飛び、秋になると気温の低下と共に暖かい南方へ移動を始め、遠く沖縄、さらに八重山諸島や台湾にまで海を越えていく。京都から海を渡って与那国島・久部良岳まで、実に 直線距離にして2246キロもの飛翔が確認されたこともある。

 懐かしい出会いだった。家内と二人、時を忘れ、延べにして20匹余りのアサギマダラと戯れていた。帰り路、牧の戸峠を越える頃、高原を雨が奔った。立ち寄った貸切家族露天風呂、雨の向こうに美しい湧蓋山の稜線が雲に見え隠れして、湯船の傍の梢の先に、秋の先触れの淡い彩りが忍び寄っていた。今日は、アメリカの娘の誕生日。そして、明日、暦の上の秋が立つ。
             (2012年8月:写真:飯田高原のアサギマダラ)