石井隆さんの劇画・映画には、憑かれたように繰り返し繰り返し
奈落の底に堕ちていく女…「土屋名美」が現われる。
彼にとっての「ファムファタル(運命の女)」
吉野公佳が「リアル名美」に見えてくるんだが…
事情はどうあれ、この状況で吉野さんと出合った石井隆は
何を思い、どんな映画を撮るのだろう?
**********************
石井 隆(いしい たかし、1946年7月11日 - )
宮城県仙台市出身。早稲田大学商学部卒業。
早稲田大学:「映画研究会」所属。
映画撮影所でアルバイト
↓
持病の喘息のため映画界での仕事を断念。
学生運動に走り、挫折。
3年次:小学校時代の初恋の女性と結婚。
ライターとして生活を支える。
卒業後、劇画漫画家としてデビュー。主に「ヤングコミック」誌等で執筆。
1977年:『天使のはらわた』大ヒット
1978年:日活ロマンポルノにてシリーズ映画化
1979年:シリーズ第2作目『天使のはらわた 赤い教室』で脚本家デビュー
1988年:『天使のはらわた 赤い眩暈』で監督デビュー
1988年:「にっかつロマンポルノ」製作終了
1995年:『GONIN』
1966年:『GONIN2』
…
配給会社や制作側とのゴタゴタ?
1997年:制作プロダクション「ファム・ファタル」設立
2000年:最愛の人である妻、他界。
2004年:『花と蛇』
2005年:『花と蛇2 パリ / 静子』
2007年:『人が人を愛することのどうしようもなさ』
********************************
石井隆は、マスコミが貼り付けた、早稲田卒の「三流エロ劇画家」という
興味本位のレッテルに悩まされてきた。
メジャー一般誌のオファーが一切、来なくなったという。
作家「吉本ばなな」は、石井隆をこう評する。
「犯された向こう側にあるもの、女性からなくならないものを描き続け、
“名美”を通じて普遍の女性を見つめる石井氏の世界を信用している。」
そんな彼が、「AV女優」のレッテルを貼られた
吉野さんと「北都」の掌の上で仕事をするのも、因果なものだ…
☆ ☆ ☆
さて、石井隆本人の言葉は…
-Interviewz- 収録日2001/04/30 石井 隆(映画監督)
************************
僕の考え方だと、エロ劇画って女性蔑視なんです。
エロ劇画というジャンルを否定はしませんが、
でもそれで一括りにされたくなかったんですよ。
男尊女卑の壁を打ち破って自立していく女を描いて来たんで……。
名美ってそういう女なんだよ。
男の暴力がいかに女を傷つけるかを描いてきたのに、
原因としての男の性的暴力を描いたらエロ劇画としてしか見られなかった。
『エロ劇画』って蔑称としか僕には思えないんだ。
『ヤンコミ』(ヤングコミック)…そこで描いてたのが
『天使のはらわた』なんだけど、
そのときに、それ以前にやってた『事件劇画』とかの過去を引き合いに出して
今話題の石井隆は「三流エロ劇画家」って言ったヤツがいて、
マスコミがそのネーミングに飛びついたんだ。
早稲田出てエロ劇画描いてるって。
そのときメジャー誌から来ていた話が全部中止になった。
「レイプばかり描いてる」とか「SMばかり描いてる作家」だろうってことで、
全部キャンセル。
当時のメジャーコミック誌はエロもんは厳禁だったんだ。
僕がいくら「天使のはらわた」は(メロドラマであって)
エロ(ドラマ)じゃないって言っても、通じない。一度暴走しちゃうとね。
エロは当然嫌いじゃないですよ。SEXは描くに足る重たいテーマだし。
でもフツーの劇画家として、いろいろなジャンルを描きたかったわけですよ。
アクションとか青春モノや時代劇……そういう注文が全く来なくなった。
来るのは「もっと過激なエロを」っていうのばかり。
現場の人たちは応援してくれたしね。でも、人気がない。
現場の人たちだけで雑誌作ってるわけじゃないですから、
売れ行きが落ちたりするとまずいじゃないですか。
それで僕が申し訳無く思って徐々に断って行った。
自分で自分の居場所を狭めていったわけです。
でも、それが僕の礼儀なんですよ。
僕の作品が劇画的に見えるのは、
ダイナミックな映像作りが身についているからだと思うし、
子供の頃見ていた映画の影響とか、
どうしても自分で撮るときに出て来ますからね。
絵の好きな少年だったからね、力強い画が連続する手の映画に
見取れて行ったんですよ。映画監督になるんだって、ガキの頃から。
…マンガ家になろうとは思っていなかったもの。
大学3年のときに学生結婚して、生活費稼ぐためにたまたま描いたら描けた。
『事件劇画』っていう雑誌で「8ページ空きが出たんだけど描ける?」て
聞かれたから、お金欲しさについ「描ける」って。
…妻を幸せにってとにかく必死だったからね。
メジャーの「ヤンコミ」に拾われるまで三年かかってるんですよ。
最初は、監督になろうとしてノートに書き貯めていたストーリーを
片端から描いていったんです。
こんなに下手で俺は劇画描いてて恥ずかしいって、いつも妻に言ってたもん。
止めようか、どうせ何描いたって『三流エロ劇画家』だしね、って。
でも別の仕事するったってそう簡単には出来っこないって知ってたしね。
監督になったのはそれから20年後ですよね。
初めて映画撮ったのは41歳ですから。劇画家になったのは22で。
監督になって『GONIN』やるまでは二次使用料も貰えなかったし、
劇画の蓄えで食べてましたから。
…何描いてもエロ、エロって馬鹿にされるより、
描きたいものが描けるんだったら貧乏でも監督やろうって、
妻も応援してくれたし。
ロマンポルノから『天使のはらわた』の誘いが来たとき、
実は三日前に東映からも来てたんだ。
でも、東映は名前……タイトルと名美と村木を貸してくれ、
後はこっちでやるから、と。
でもにっかつは「原作を全く変えません」って言ってくれたんですね。
それでにっかつでお願いしますとなったんだ。
ギャラは全然東映の方がよかったのにね。
つまり映画に関しては、お金よりも何より自分の意志を尊重することに
先ず徹する事にしたんです。
でもこのお金に拘る事を潔しとしない性格が最愛のひとを
結果的に不幸にしてしまったんです。
カッコイイシィのオオバカもんですよ、俺は。
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奈落の底に堕ちていく女…「土屋名美」が現われる。
彼にとっての「ファムファタル(運命の女)」
吉野公佳が「リアル名美」に見えてくるんだが…
事情はどうあれ、この状況で吉野さんと出合った石井隆は
何を思い、どんな映画を撮るのだろう?
**********************
石井 隆(いしい たかし、1946年7月11日 - )
宮城県仙台市出身。早稲田大学商学部卒業。
早稲田大学:「映画研究会」所属。
映画撮影所でアルバイト
↓
持病の喘息のため映画界での仕事を断念。
学生運動に走り、挫折。
3年次:小学校時代の初恋の女性と結婚。
ライターとして生活を支える。
卒業後、劇画漫画家としてデビュー。主に「ヤングコミック」誌等で執筆。
1977年:『天使のはらわた』大ヒット
1978年:日活ロマンポルノにてシリーズ映画化
1979年:シリーズ第2作目『天使のはらわた 赤い教室』で脚本家デビュー
1988年:『天使のはらわた 赤い眩暈』で監督デビュー
1988年:「にっかつロマンポルノ」製作終了
1995年:『GONIN』
1966年:『GONIN2』
…
配給会社や制作側とのゴタゴタ?
1997年:制作プロダクション「ファム・ファタル」設立
2000年:最愛の人である妻、他界。
2004年:『花と蛇』
2005年:『花と蛇2 パリ / 静子』
2007年:『人が人を愛することのどうしようもなさ』
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石井隆は、マスコミが貼り付けた、早稲田卒の「三流エロ劇画家」という
興味本位のレッテルに悩まされてきた。
メジャー一般誌のオファーが一切、来なくなったという。
作家「吉本ばなな」は、石井隆をこう評する。
「犯された向こう側にあるもの、女性からなくならないものを描き続け、
“名美”を通じて普遍の女性を見つめる石井氏の世界を信用している。」
そんな彼が、「AV女優」のレッテルを貼られた
吉野さんと「北都」の掌の上で仕事をするのも、因果なものだ…
☆ ☆ ☆
さて、石井隆本人の言葉は…
-Interviewz- 収録日2001/04/30 石井 隆(映画監督)
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僕の考え方だと、エロ劇画って女性蔑視なんです。
エロ劇画というジャンルを否定はしませんが、
でもそれで一括りにされたくなかったんですよ。
男尊女卑の壁を打ち破って自立していく女を描いて来たんで……。
名美ってそういう女なんだよ。
男の暴力がいかに女を傷つけるかを描いてきたのに、
原因としての男の性的暴力を描いたらエロ劇画としてしか見られなかった。
『エロ劇画』って蔑称としか僕には思えないんだ。
『ヤンコミ』(ヤングコミック)…そこで描いてたのが
『天使のはらわた』なんだけど、
そのときに、それ以前にやってた『事件劇画』とかの過去を引き合いに出して
今話題の石井隆は「三流エロ劇画家」って言ったヤツがいて、
マスコミがそのネーミングに飛びついたんだ。
早稲田出てエロ劇画描いてるって。
そのときメジャー誌から来ていた話が全部中止になった。
「レイプばかり描いてる」とか「SMばかり描いてる作家」だろうってことで、
全部キャンセル。
当時のメジャーコミック誌はエロもんは厳禁だったんだ。
僕がいくら「天使のはらわた」は(メロドラマであって)
エロ(ドラマ)じゃないって言っても、通じない。一度暴走しちゃうとね。
エロは当然嫌いじゃないですよ。SEXは描くに足る重たいテーマだし。
でもフツーの劇画家として、いろいろなジャンルを描きたかったわけですよ。
アクションとか青春モノや時代劇……そういう注文が全く来なくなった。
来るのは「もっと過激なエロを」っていうのばかり。
現場の人たちは応援してくれたしね。でも、人気がない。
現場の人たちだけで雑誌作ってるわけじゃないですから、
売れ行きが落ちたりするとまずいじゃないですか。
それで僕が申し訳無く思って徐々に断って行った。
自分で自分の居場所を狭めていったわけです。
でも、それが僕の礼儀なんですよ。
僕の作品が劇画的に見えるのは、
ダイナミックな映像作りが身についているからだと思うし、
子供の頃見ていた映画の影響とか、
どうしても自分で撮るときに出て来ますからね。
絵の好きな少年だったからね、力強い画が連続する手の映画に
見取れて行ったんですよ。映画監督になるんだって、ガキの頃から。
…マンガ家になろうとは思っていなかったもの。
大学3年のときに学生結婚して、生活費稼ぐためにたまたま描いたら描けた。
『事件劇画』っていう雑誌で「8ページ空きが出たんだけど描ける?」て
聞かれたから、お金欲しさについ「描ける」って。
…妻を幸せにってとにかく必死だったからね。
メジャーの「ヤンコミ」に拾われるまで三年かかってるんですよ。
最初は、監督になろうとしてノートに書き貯めていたストーリーを
片端から描いていったんです。
こんなに下手で俺は劇画描いてて恥ずかしいって、いつも妻に言ってたもん。
止めようか、どうせ何描いたって『三流エロ劇画家』だしね、って。
でも別の仕事するったってそう簡単には出来っこないって知ってたしね。
監督になったのはそれから20年後ですよね。
初めて映画撮ったのは41歳ですから。劇画家になったのは22で。
監督になって『GONIN』やるまでは二次使用料も貰えなかったし、
劇画の蓄えで食べてましたから。
…何描いてもエロ、エロって馬鹿にされるより、
描きたいものが描けるんだったら貧乏でも監督やろうって、
妻も応援してくれたし。
ロマンポルノから『天使のはらわた』の誘いが来たとき、
実は三日前に東映からも来てたんだ。
でも、東映は名前……タイトルと名美と村木を貸してくれ、
後はこっちでやるから、と。
でもにっかつは「原作を全く変えません」って言ってくれたんですね。
それでにっかつでお願いしますとなったんだ。
ギャラは全然東映の方がよかったのにね。
つまり映画に関しては、お金よりも何より自分の意志を尊重することに
先ず徹する事にしたんです。
でもこのお金に拘る事を潔しとしない性格が最愛のひとを
結果的に不幸にしてしまったんです。
カッコイイシィのオオバカもんですよ、俺は。
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