YUKI

言語、言語で表現できることすべて

英語の発想・英語の文体

2005-03-31 18:16:58 | Weblog
コミュニケーション活動と称した、専らoutputを行う活動が大流行だが、そこで産出される英語の質はあまり問題にされない。
タスク云々も大流行だが、肝心の英語の質はどこで磨くのだろうか?
派手な活動よりも、英語の発想や英語の文体を指導するべきではなかろうか?
英語らしい英語が、教えられずになんとなくできるものなのだろうか?
そもそも英語らしさというものを日本人がどの程度理解できているのだろう?
中学高校の検定教科書は原典の英語が恐ろしいくらいに改ざんされており、とても「英語」といえたしろものではない。まだ、大学入試問題の英文がましというものだ。
自己満足的「活動」よりも、「英語」とはどういう言語なのか、知る必要があるだろう。
もちろん、知る=できる、という意味で・・・

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前置詞4

2005-03-15 13:20:00 | Weblog
by→(空間的・時間的)~に近接して→知覚に寄って→何かによって
byは行為者を表す。
ある事態が起こって、その近くにいたものが犯人?だろうという展開である。

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太陽と鉄

2005-03-14 15:43:41 | 閑話休題
三島由紀夫初期作品『仮面の告白』に対応する晩年の作は『太陽と鉄』である。
『太陽と鉄』で三島は、
「胸囲1メートルを超える男の見る世界は・・・」
「胸囲1メートルを超える男は私だったのだ・・・」
などと書いている。
昭和の年数と年齢が一致する彼は昭和30年の第一次ボディビルブームにのり、
ベンチプレスでは80キロでセットをこなすまでになった。
なぜボディビルなのか?
いろいろ理屈はつくかもしれないが、やるかやらないか、それだけのことだ。
努力で世界を変える、という発想があるかないかだ・・・

しかし、ボディビルは劇的に身体を変えるものでもない。
徐々に徐々に変えていく・・・
胸囲110センチ(平常時)。
大腿部60センチ。
上腕屈曲囲42センチ(コールド)。
これは、かつての私の目標値だった。
すべてクリアした今、これらは単なる「日常」になってしまった。
あれ~?ってな感じ。

まあ、あとちょっとガンバレバ、身体が「非日常」の領域に達するのかな?
ぜひ、プレートをあと40キロほど揃えてもらおう・・・

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sutta-nipata

2005-03-14 15:33:22 | 閑話休題
パーリ語sutta-nipata:suttaは「お経」、nipataは「集まり」だから、「経集」くらいの意味。
パーリ語聖典の中で、最も古いものの一つがスッタニパータ。
*********************
見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>に執着している。
「これこそ真理である」と考えている。
或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。
なんとなれば、その(愚者の)考えは虚妄なのである[から]。
過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
有るものと言われる限りの、
<色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるもの>であって、
好ましく愛すべく意(こころ)に適うもの、―それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般には認められている。
またそれらが滅びる場合には、彼らはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。
他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。
解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。
生存の貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

人々は「わがものである」と執着したもののために苦しむ。
(自己の)所有しているものは常住ではないからである。
この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。

(『スッタニパータ』中村元訳)
***********************

『スッタニパータ』は仏陀その人の言葉に最も近いそうだが、
龍樹以降の理論武装した仏教に比べ、辻説法に近い感じを受ける。
また、出家が前提となっていたこともうかがい知れる。

釈尊は「空」の思想を理解できたかもしれないが、
実際のところ、「空」の思想は知らなかったのだし、
在家で経を唱えるだけでよい?とは想像すらしなかっただろう、
ちょうど、キリストが「三位一体」など知らなかったように。

とまれ、仏陀の言葉は世俗にまみれた心にも、よく響いてくるものばかりである・・・


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Dazein 世界内存在

2005-03-11 09:52:21 | 閑話休題
人間存在の在り方は「苦」であるというのは、ハイデガー的に言えば「人間が世界内存在であるということ」、
また、ウィトゲンシュタイン的に言えば「集合の要素でありながら集合全体を想う存在であるということ」を端的に言い表した言葉に他ならないであろう。
「苦」とは、人間という存在の有り様そのものなのだ。
この認識から仏教は始まる。
ウィトゲンシュタインと仏教思想の類似性を指摘する研究者もいるが、ウィトゲンシュタインの人間存在に関する態度は極めて仏教的である。

「苦」とは「思い通りにならないこと」が原義であり、
生物の根本の一つは「自己」と「他者」の区別である。
生物は、世界と自分を隔てた上で、世界を自己として取り入れていかなければ生存できない。
まさに「苦」である。
分別知を止揚した無分別知が、この「苦」を克服するというのは極めて論理的な思考であろう・・・

必ずしも幸福と思えるような人生をおくらなかったウィトゲンシュタインが、
自分の人生が素晴らしかったと伝えてほしいという言葉を残して死んで言ったとき、
彼は果たして無分別知を得ていたのだろうか?

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