YUKI

言語、言語で表現できることすべて

松嶋初音の憂鬱

2008-09-27 15:48:03 | Weblog
松嶋初音は、しょこたんと「愉快な仲間」の一員である。
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愛称 はちゅ
生年月日 1987年11月13日
出身地 日本・東京都
血液型 A型

2004年:ミスマガジン2004審査員特別賞、グラビアデビュー。
2005年10月:『出動!ミニスカポリス 全国版』の13代目ポリスに抜擢。
2006年6月:初の連ドラレギュラー深夜ドラマ『アキハバラ@DEEP』
今までのイメージとは正反対のキャラクター・イズム役の演技で話題に。
2007年6月18日:渋谷O-crestのライブ『GIRLs-RockPop stadium vol.17』
    ダイブや逆立ち、裸になったヲタ達にキレ気味で注意する。

    グラビアアイドルから徐々にシフト。
    バラエティ番組を中心に女優としても活躍している。
    芸能人女子フットサルチーム「ミスマガジン」の元メンバー。 

解剖学の専門書を読み、個人で人体解剖模型を所有。

出会ったグラビアアイドルの胸を全て触ってきたというほど
乳に対して強い思いを持っている。

2008年:視界が真っ白になるほどの頭痛、失神などの脳の血行障害を訴える。
検査の結果、脳の血行障害であるが、モヤモヤ病ではなかった。
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松嶋初音は、2002年ミスマガジン中川翔子の後輩にあたる。
TVドラマのレギュラー獲得は中川よりも早く、
松嶋が正統派アイドルとすれば、中川は「色物」視されていた。

松嶋はゆっくり、ゆるやかにステップアップしているのに対して
2006年以降、ヲタクを前面に出したプロモーションが大成功した
アイドル中川とは、立場が逆転してしまった。

「溜池Now」で出会った二人は…
ビビル中川に松嶋が積極的に働きかけ、今では親友。

だが、ビッグバンの中にいる中川に対して、松嶋は不運続きだ。

「ゲーマガ」を卒業した中川のあとを継いで、
イラスト+エッセイを連載したものの、本人も知らぬ間に連載終了。

比べるのもなんなのだが、中川の大きなイベントには
ゲーマガからいまだに花輪が届いているのとは大違い…

ビッグになり過ぎた中川だが、ゲーマガ編集長「ウメ」さんは
機会があれば、中川にゲーマガ復活してほしいと願っているように見える。

松嶋は健康面でも、脳の血行障害が判明。
そして、芸能界引退の危機さえも訪れていた!

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2008-09-26 13:00:24 スタッフより

松嶋初音は、2008年9月21日より株式会社ハーモニープロモーションに
移籍する運びとなりましたことをここにお報せ致します。

長らく所属しておりました株式会社アンセムの皆様方や
応援していただいたファンの方々への感謝を忘れず、
気持ちを新たに頑張っていく所存でございます。

株式会社ハーモニープロモーション
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どうやら、アンセムは「消滅」し
「移籍」よりも「引退」を考えていたところに、
「安めぐみ」のいるハーモニープロダクションから声がかかったようだ。

松嶋は、まっすぐで豪快な性格。ものごとがよく見えていると思う。
グラビア系アイドルの移籍は、
危険がいっぱいであることを承知していたのだろう。

芸能用とAV用、2つの名刺を使いわけるようなところに
誰かみたいに取り込まれでもしたら、人生終了。

松嶋本人によるエントリーは…
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2008-09-27 12:23:22 ありがとう

移籍の事、実はお伝えするのがとても不安でした。
アンセムじゃ無くなる事によって仕事も変わってくるだろうし、
みんなを不安にさせてしまう気がしていました。

事務所の都合上、引き継げない仕事もありますが
これからも私は私として頑張っていくから応援してほしいです。

私すごく心配かけてるね
ごめんね

嫌な事も辛い事もみんなの事を考えて、喜ぶの想像して、頑張ろうと思える。
それはみんなにしか出来ない事なんだよ。

ハーモニープロモーションさんはアンセムの社長ともとても仲良しで、
この度アンセムがクローズする際、
ハーモニープロモーションの和田社長が声をかけてくださいました。

本当は、移籍するくらいなら辞めるつもりでした。

話し合ううちにハーモニープロモーションさんの仕事に対しての熱意を感じ、
ついていこうと思えました。

だから、まだこの世界に残る事にしました。
もうちょっと一緒にいて下さいね。

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明快な説明とお礼の言葉…爽やかですねぇ。

ハーモニープロモーション社長「和田薫」さんは、
「モーニング娘。」の初代マネージャーをしてた人。
ハーモニープロダクションは、不動産などもやっている企業グループ
アップフロント系列の事務所とされている。

系列、社長、所属タレント(安めぐみ)…どれをみてもアンセムより
上のような気がするんだが。

新番組「ツジツマ」「ショコリーナ」と、
老舗ナベプロの秘蔵っ子でガードが超カタイ しょこたんとの仕事も
立て続けに入っているから、これは…
ファンにも本人にも事務所にも幸福な、良い移籍ではなかろうか♪

閉鎖直前のアンセム所属タレントでは、松嶋さんがトップだったと思う。
1999年設立…新規参入の弱小事務所とはいえ、
TVレギュラーを持つタレントの所属事務所が閉鎖に追い込まれるほど
芸能界も、不況のあおりを受けているということなのだろう。

もともとグラビア出身とはいえ、松嶋さんに
安易な裸の仕事をさせなかったアンセムは、潔かったというべき♪

それにしても、事務所が変われば、「仕事も変わってくる」というのは名言だ。

仕事が変わるということは、自分の都合で
それまでのファンを切り捨てるということでもあるのだから。

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吉野公佳 虚々実々 その64 「石井隆について」

2008-09-27 09:24:54 | Weblog
石井隆さんの劇画・映画には、憑かれたように繰り返し繰り返し
奈落の底に堕ちていく女…「土屋名美」が現われる。

彼にとっての「ファムファタル(運命の女)」

吉野公佳が「リアル名美」に見えてくるんだが…
事情はどうあれ、この状況で吉野さんと出合った石井隆は
何を思い、どんな映画を撮るのだろう?

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石井 隆(いしい たかし、1946年7月11日 - )
宮城県仙台市出身。早稲田大学商学部卒業。

早稲田大学:「映画研究会」所属。
映画撮影所でアルバイト

持病の喘息のため映画界での仕事を断念。
学生運動に走り、挫折。
3年次:小学校時代の初恋の女性と結婚。
ライターとして生活を支える。
卒業後、劇画漫画家としてデビュー。主に「ヤングコミック」誌等で執筆。

1977年:『天使のはらわた』大ヒット
1978年:日活ロマンポルノにてシリーズ映画化
1979年:シリーズ第2作目『天使のはらわた 赤い教室』で脚本家デビュー
1988年:『天使のはらわた 赤い眩暈』で監督デビュー
1988年:「にっかつロマンポルノ」製作終了

1995年:『GONIN』
1966年:『GONIN2』

配給会社や制作側とのゴタゴタ?
1997年:制作プロダクション「ファム・ファタル」設立

2000年:最愛の人である妻、他界。

2004年:『花と蛇』
2005年:『花と蛇2 パリ / 静子』
2007年:『人が人を愛することのどうしようもなさ』
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石井隆は、マスコミが貼り付けた、早稲田卒の「三流エロ劇画家」という
興味本位のレッテルに悩まされてきた。
メジャー一般誌のオファーが一切、来なくなったという。

作家「吉本ばなな」は、石井隆をこう評する。
 「犯された向こう側にあるもの、女性からなくならないものを描き続け、
“名美”を通じて普遍の女性を見つめる石井氏の世界を信用している。」

そんな彼が、「AV女優」のレッテルを貼られた
吉野さんと「北都」の掌の上で仕事をするのも、因果なものだ…

☆   ☆   ☆

さて、石井隆本人の言葉は…

-Interviewz- 収録日2001/04/30 石井 隆(映画監督)
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僕の考え方だと、エロ劇画って女性蔑視なんです。
エロ劇画というジャンルを否定はしませんが、
でもそれで一括りにされたくなかったんですよ。

男尊女卑の壁を打ち破って自立していく女を描いて来たんで……。
名美ってそういう女なんだよ。
男の暴力がいかに女を傷つけるかを描いてきたのに、
原因としての男の性的暴力を描いたらエロ劇画としてしか見られなかった。

『エロ劇画』って蔑称としか僕には思えないんだ。

『ヤンコミ』(ヤングコミック)…そこで描いてたのが
『天使のはらわた』なんだけど、
そのときに、それ以前にやってた『事件劇画』とかの過去を引き合いに出して
今話題の石井隆は「三流エロ劇画家」って言ったヤツがいて、
マスコミがそのネーミングに飛びついたんだ。
早稲田出てエロ劇画描いてるって。
そのときメジャー誌から来ていた話が全部中止になった。
「レイプばかり描いてる」とか「SMばかり描いてる作家」だろうってことで、
全部キャンセル。
当時のメジャーコミック誌はエロもんは厳禁だったんだ。
僕がいくら「天使のはらわた」は(メロドラマであって)
エロ(ドラマ)じゃないって言っても、通じない。一度暴走しちゃうとね。

エロは当然嫌いじゃないですよ。SEXは描くに足る重たいテーマだし。
でもフツーの劇画家として、いろいろなジャンルを描きたかったわけですよ。
アクションとか青春モノや時代劇……そういう注文が全く来なくなった。
来るのは「もっと過激なエロを」っていうのばかり。

現場の人たちは応援してくれたしね。でも、人気がない。
現場の人たちだけで雑誌作ってるわけじゃないですから、
売れ行きが落ちたりするとまずいじゃないですか。
それで僕が申し訳無く思って徐々に断って行った。
自分で自分の居場所を狭めていったわけです。
でも、それが僕の礼儀なんですよ。

僕の作品が劇画的に見えるのは、
ダイナミックな映像作りが身についているからだと思うし、
子供の頃見ていた映画の影響とか、
どうしても自分で撮るときに出て来ますからね。
絵の好きな少年だったからね、力強い画が連続する手の映画に
見取れて行ったんですよ。映画監督になるんだって、ガキの頃から。

…マンガ家になろうとは思っていなかったもの。
大学3年のときに学生結婚して、生活費稼ぐためにたまたま描いたら描けた。
『事件劇画』っていう雑誌で「8ページ空きが出たんだけど描ける?」て
聞かれたから、お金欲しさについ「描ける」って。

…妻を幸せにってとにかく必死だったからね。
メジャーの「ヤンコミ」に拾われるまで三年かかってるんですよ。
最初は、監督になろうとしてノートに書き貯めていたストーリーを
片端から描いていったんです。

こんなに下手で俺は劇画描いてて恥ずかしいって、いつも妻に言ってたもん。
止めようか、どうせ何描いたって『三流エロ劇画家』だしね、って。
でも別の仕事するったってそう簡単には出来っこないって知ってたしね。

監督になったのはそれから20年後ですよね。
初めて映画撮ったのは41歳ですから。劇画家になったのは22で。

監督になって『GONIN』やるまでは二次使用料も貰えなかったし、
劇画の蓄えで食べてましたから。

…何描いてもエロ、エロって馬鹿にされるより、
描きたいものが描けるんだったら貧乏でも監督やろうって、
妻も応援してくれたし。

ロマンポルノから『天使のはらわた』の誘いが来たとき、
実は三日前に東映からも来てたんだ。
でも、東映は名前……タイトルと名美と村木を貸してくれ、
後はこっちでやるから、と。
でもにっかつは「原作を全く変えません」って言ってくれたんですね。
それでにっかつでお願いしますとなったんだ。
ギャラは全然東映の方がよかったのにね。
つまり映画に関しては、お金よりも何より自分の意志を尊重することに
先ず徹する事にしたんです。
でもこのお金に拘る事を潔しとしない性格が最愛のひとを
結果的に不幸にしてしまったんです。
カッコイイシィのオオバカもんですよ、俺は。
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