YUKI

言語、言語で表現できることすべて

天元突破グレンラガン 最終話

2007-09-30 20:15:16 | Weblog
東京ローカルのアニメなんだが、ニコニコ+Stage 6のおかげで
ほぼリアル・タイムに全話を視聴できました。

しょこたんがOPを歌う…大丈夫かいな?
という好奇心と、ちょっと応援したい気持ちから、覗いてみた。
それが、すっかりハマッてしまい、
途中からは視聴率のこともアンチのことも気にならなくなりました。
見て楽しければ、いいではないか!

先行するアニメへのリスペクトというか
オマージュ的集大成らしいのですが、
私はアニメ・ヲタクではないのでよく分かりません。

この手法、実は西洋文学ではごくありふれた手法です。
日本のアニメ文化も、その堆積が分厚くなったということなのでしょう。

さて、最終話。第15話と同じく、しょこたんの空色デイズは
クライマックス・シーンで流れます。
彼女は十二分に大役を果たしたといえるでしょうね。
第15話に続き、泣けました。

10.5次元が仮想宇宙とはいえ、
何気に最終形態である「天元突破グレンラガン」が銀河並に巨大化してました。
認識が実体化する宇宙という仕様とはいえ、
ゲッター・エンペラーさえ超えてるんじゃぁなかろうか?
ついでに イデ さえ超えてます。
ドリルとドリルのガチンコ殴り合いは 漢 だねぇ~

エピローグ
語り部の声はロージェノムの中の人なんですが、
最後の最後に、実は老いた?シモンこそが語り部だったことが分かります。

どうして隠居しなければならないのかなぁ。
あまりにも絶対的存在だからかねぇ…

それに、いつも近くにいる存在だから ニア near なのに
アンチ・スパイラルを倒すこと=ニアの消滅
なんて悲しすぎる・。・゜゜・(≧◯≦)・゜゜・。・

ちなみに、ニコニコ動画のコメントで、ニアが結婚式で消滅したから
「シモンは一生○貞で魔法使いになった」というのがあって、ふいたw
その前に7年間「つきあって」たんだし、
結婚式の前にもそれくらいの時間はあったでしょうに…
現代は「つきあう」=「○○関係がある」という意味らしいですからねぇ。

まぁ結局、予想通り ブータだけが最期までシモンと一緒なんだね。
シモンは20年間、どうやって過ごしたんだろう。
墓守だったんだろうか?
あまりにも鮮やかすぎる引き際は、むしろ もたいな~い♪

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倒置と情報構造

2007-09-30 00:56:05 | Weblog
Not until we lose our health do we realize its value.

この文を基にした並べ替え問題に答えられる生徒はごく少数です。
まして、どのようにして、この文が産出されたかは説明できません。
問題集の解答にも説明がないくらいですから。

E-gate という辞書には次のような主旨の説明があります。

We do not realize the value of our health until we lose it.
この文で強調のためにnotを文頭に移動すると倒置が起こります。
Not do we realize the value of our health....
次にuntil以下を前方に移動します。
このような現象は口語で、よく起こることです…
Not until we lose our health do we realize its value.

この説明は、倒置が主節内で起こることの説明にもなっていますが
なぜ、until以下が前方に移動するのか、触れていません。

これは、分類文法としての学校文法内の概念装置では
説明が困難だからです。
情報構造という概念装置を使って説明してみましょう。

情報構造上、文には特別な場所が2つあります。
文頭と文末です。
①主語以外の要素が文頭に置かれると強調となり、
 倒置が起こることがある。
②情報の焦点は文末にある。
 これ故、原則として文末に最も近い内容語に強勢が置かれる。
相反する二つの原則…文頭と文末の間で「情報の重み」による
綱引きが行われることになります。

Not が文頭に出ることにより情報の重みが文頭に移り
until以下が前方に移動したのです。

Never did I dream that he won the game.
ここでは that節は名詞節で、文の要素・目的語になっています。
文中の位置が比較的自由な副詞節に比べて
名詞節は自由度が少ないために、前方移動しないのです。

Hardly had I worn the ring before it was lost.
hardly は準否定であるため、before以下が副詞節であっても
引きつけるだけの「重み」がないと考えます。

つまり、not という強い否定語が文頭に置かれると
副詞節は、その「重み」に引かれて前方移動すると考えるのです♪

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アクセント?イントネーション?

2007-09-29 13:19:41 | Weblog
イントネーション(intonation)

音声言語において文または発話全体につけられた
音の高低(ピッチ)のパターンを言う。
音調(おんちょう)・抑揚(よくよう)とも言われる。
イントネーションの違いによって
文法的機能や発話のニュアンスを表すことができる。
イントネーションのパターンは、
上昇調、下降調、自然下降調といった用語で表される。
*************************************************

アクセントやイントネーションという言葉は
日本人には非常に混乱を招くようです。
これは、日本語が「強弱」ではなく「高低アクセント」になっている
ためだと思われます。
つまり、アクセントとイントネーションを混同してしまい
英語の発音に、変なうねりが生じるのです。

そもそも、アクセント・イントネーションという用語が
ダメなんでしょうね。

研修?しすぎて、
「意味の変化を伴うので、アクセントよりもイントネーションが重要だ」
と全くナンセンスなことをのたまう英語教師までいるのです。

リズム、ピッチという言葉を使った方が発音指導に役立つでしょう。
英語はリズムが大切な言語で、ピッチも日本語より幅広い。

ちなみにイントネーションは日本語と英語で
共通する部分も多く直感的に理解できるはず。
上昇調は疑問、下降調は断定という風に。

強弱リズムを体得することが、英語の基本だと思っています。
しかし、指導の対象は生徒であって
教員ではないので、誇り高い反面教師の群れは
相手にしないことにしています。

犠牲となる生徒諸君、賢くあれ、そして反面教師から
学ぶ術を身に付けなさい。
簡単です。真逆のことをすればいいだけですから。

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English Pronunciation 英語の発音

2007-09-29 00:45:33 | Weblog
英語の発音について、先日のスピーチ・コンテストで
ジャッジをしていて、長年の疑問が解決したのです。

今までは、どうも次の違いが曖昧だった…

①英語っぽくて、実際、英語母語話者にも聞き取りやすい発音と
 いかにも英語っぽい部分もあるが、英語母語話者にも日本人にも
 聞き取りにくい意味不明な発音

②カタカナ発音っぽいけれど、英語母語話者にも日本人にも
 聞き取りやすい clear pronunciaiton と
 カタカナっぽくて、やはりカタカナ英語?というか日本語

確信を持って、違いを指摘できるようになっていたのです。

私にとって 不自然に聞こえるものは native にも不自然だし
聞き取りやすいものは、native にも そうだったのですよ♪

単純なことです。
私の英語聴覚像が正しかった、ということなのです。

英語の発音は多様で、いわゆるアメリカやイギリスの発音を
モデルとするのは時代錯誤だ!というのは、やはりねぇ~

「訛り」は結果であって、目標ではありません。

日本語は、口腔の浅い所、口先でさえずる言語であるのに対して
英語は、口腔の奥から、強い呼気で朗々と発する言語。

子音は、唇/歯/舌のいずれかで、呼気の通り道が狭められて
こすれながら出る音
母音は、呼気が妨げられずにでる音
こんな単純な原理原則が、実は大変、役に立つのですが
何故に、これを指導する指導者がほとんどいないのでしょうか?
不思議でなりませんねぇ…

英語は、子音が際立つ言語。しっかりと調音し
子音の持続時間を確保することが肝要。

まぁ、当たり前のことを当たり前にすることなのです。
表音文字であるアルファベットを一定の規則に従って
総て!発音してあげること♪

思うに、特に英語指導者が、自分の発音モデルをアメリカ、イギリスに
置くことになんの問題もありませんし
スピーチ・コンテストは native とって聴きやすくあることが
理想でしょう。

聴覚像を確立し、英語という言語の特徴を体得すれば
誰でも、英語を英語音で発音できるのですよ。

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仏教用語としての「諦め」

2007-09-26 23:26:26 | Weblog
漢字文化圏で「諦める」の「諦」を give up の意味で使っているのは
日本だけなのだそうです。

「諦」は「物事を正しく明らかに認識する」という意味なのです。

仏教用語としては、
自分の努力でどうにかなるものと、ならないものを
わきまえて、「どうにもならないもの」は「どうにもならない」と
認識すること!となりますねぇ。

どうにもならないもの=苦 なのです

人生は四苦八苦で、苦に満ちています。
なぜ、どうにもならないことを願いたがるのか?
それを知ることが自分を知ることであり
諦めの境地こそが、強靭な希望を抱かせてくれるのでしょう。

現在の私は、はっきり言って不遇です。
仕事すればするほど、敵が増えて、不遇になります。

でも、仕方ありません。自分にできることをするだけです。
これが私の現在における「諦念」です…

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