NHKラジオ、高校講座「現代文」で、長谷川眞理子の
ヒトはなぜヒトになったか
が題材として取り上げられていた。
ヒトの脳は過酷な環境に適応するため、
二度、飛躍的に大きくなったという。
特に前頭前野。
これは、社会性・共同性・好奇心を司る部位らしく
自己を客観的にみつめる能力の座なんだとか。
長谷川は、これを「ヒトの心」と読んでいるが…
「ヒトの心」は言葉とは別系統で管理されているそうだ。
人の気持ちが分からないサイコパスや、
社会性のない引きこもりにも饒舌なタイプは多い。
「ヒトの心」を獲得できないでいる人を
なんでもかんでも○○障害と呼ぶご時世だが、
確かに相手を無視して饒舌である。
感情の高まりを言葉で表現できないから
異常行動に出るのかなぁ…
と思っていたが、そうでもないかも。
サイコパスを除いて、非社会的異常行動をとる人って…
アドラー的に言えば、「勇気を挫かれた人」かもしらん。
この流れで云うと、勇気=好奇心
不安と不安定、予測不能でしかない
未知の世界=未来
に向かう心を駆り立てるものこそ、好奇心。
不思議に耐え、知る喜び。
確かに、狭い特定分野に異常な関心を寄せる場合もあるが
それは、自己の安定を図ろうとする作業であろう。
全方位の好奇心とは別物である。
実は、日本のゆとり教育の最大の罪は
子どもの好奇心を殺したことだと思う。
好奇心というエネルギーを
大多数のシモジモの民の子らから抜き、
少数のエリートが、その他大勢の流動的労働力を搾取する
グローバル社会のための教育…
それがゆとり教育の本質だと思う。
歪んだエリート教育、中央集権教育に他ならぬ。
この一端は、三浦朱門という人が云った
「ゆとり教育はエリート教育だ。
差し障りがあるからゆとりと云っているだけ」
という言説にも伺える。
ゆとり以降の「普通」の高校生は苦難を迎えている。
○○障害という抽象名詞を金科玉条に
配慮・配慮に明け暮れているのが、現状だ。
disciplineなど受けることもなく
過酷さを増し続ける社会に放り出されるのである、
流動的労働力として…
2004年の某テレビ番組で、あるニートが発した
「働いたら負けかなと思っている」
という言葉が現実味を増すなか、
なぜか、今の高校生は、よく○く。
「○く子と○○には勝てぬ」という諺がある日本。
○くことによって、勝とうとしているとしても、
一体、何に勝とうとしているのか。
未知への恐怖を回避することが、勝ち、なのか?
確かにそうだろう。
○けば、より一層「配慮」してもらえるのだから。
ただし、これって「学校」限定ねw