
左:紅はるか
右:金時
だそうです。
病院見学のために実家に帰ると、ダンボールいっぱいの大津産の唐芋(さつまいも)が…!
しかも、2種類も?これはなんとしても食べ比べてみねばだ。
熊本の薄口醤油も見つかりましたので
早速、いつものあれ、作りました。
小さめのさつまいもを輪切りにして鍋に並べ、ひたひたの水を注ぐ。
きび砂糖大さじ1とお醤油大さじ1/2を加え、ひと混ぜ。
蓋をして中火で煮て、グツグツしてきたら蓋をとって弱火に。
おいもが柔らかくなるまで煮たら出来上がり。
紅はるかの方がなめらか、金時の方がほくほくとした食感でした。
ジャガイモでいうところの、メークインと男爵でしょうか。
TEDでスタンフォードの医学部の先生の講演を聴いて、うるっとした。
診察は“儀式”だ、という一見新しいアイデアについて。
これは、私の「お医者さん」に対してもっていた最初のイメージに似ている。
辛かったはずなのに、先生に首を触られただけで治った気がしちゃうっていう、あの感覚。
処置などの意味で使われる「手当て」という言葉があるけれど
これ、もともとは患者さんの体に手を当て、異変を感じ取り、それに対して術を施すということなのだと
指圧か何かを調べている時に読んだ。
そのときは「原始的な医療ほど診察と治療が近い関係にあるのかなあ」とか思っただけだったけど
患者さんはそれ以上の何かを感じているはずなんだ。とくに、その“儀式”をなす部分が欠如したときに…
イエス様が手を当てただけで怪我が治ったとかそういうエピソードも、あながちでたらめとは言い切れないよな。
たとえば、診察されることによって
「今日もまた、あなたのことを診て、一生懸命治療を考えていますよ」
という医療者の心根が伝わってくる。
そういうことを繰り返すうちに
信頼関係が築き上げられていく。
そしてその先は…
リラックスした患者さんの自律神経がどうとか、
説明しようとすればする程まことしやかに聞こえる気がして
だからこそこういうテーマに言及することはふつう億劫なんだけども、
(TEDで話した先生はさすがでした。)
時代を隔てた多くの人々の実感として“儀式”が効くことは事実。
あら、これって私も臨床実習で患者さんからよく教わってきたことじゃないか。
まずは、触れなければ。